2010年09月26日

室見川沿いの散策から愛宕神社へ

 天気は明日に向かって下り坂らしく、朝から雲の多い空模様だ。午前中はそれでも陽が射していたが、昼前には完全な曇り空となる。本来は今日も晴天のはずだったのに、あてが外れた。午後には雨がパラつくなんて言っているから、遠出はやめておいた方が良さそうだ。

 本日の散歩は地下鉄空港線「室見駅」からスタート。駅名は、すぐそばを流れる室見川に由来する。室見川沿いをそぞろ歩き、雨が降ってきたら地下鉄で引き返そうという腹積もりだ。

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 福岡の人に室見川と言うと、たいていシロウオの話になる。産卵のためシロウオが早春に海からこの川に上ってくるらしく、それを食べさせてくれる店もあると聞く。とはいえ、私としては関心が薄い。

 以前、別の場所でシロウオを食べたことがあるが、それほどおいしいとは思わなかった。だいいち、生きているものをそのまま口に入れて食べるというのは、あまり気持ちのいいものではない。口の中で暴れられると何だかとても残酷なことをしている気分になる。とても食べれないという人もいるが、その気持ちは経験上よく分かる。

 「シロウオは精がつく」とありがたがられているが、その分生命力が強いので、ポン酢につけたぐらいでは死なず、かえって暴れてその辺りに飛び跳ねる。私が食べたときは、飛び跳ねた一匹が横に置いてあったお茶の中に入ってしまったが、覗いてみるとお茶の中で元気に泳いでいた(笑)。すばしっこいものだから、それを箸でつまむのが一騒動で、仕方ないのでお茶ごと飲んだ(爆)。

 まぁシロウオの話は横に置いておいて、話を室見川に移そう。川沿いの歩道から見ると、下流だというのに水はかなり澄んでいて、思いのほかきれいである。小魚が群になって泳いでいるのが見える。その魚を狙ってのことか、魚釣りをしている人を何人も見掛ける。

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 地下鉄の駅のある室見橋はかなり海よりのところなので、上流に向かって歩く。筑肥橋を越え、室見新橋まで行く。このまま遡っていくと、景色がどんどんいい感じになっていくが、天気は下り坂で、時折ポツリと雨が落ちて来る。更に先まで室見川を遡るのはまたの機会にするかと、そろそろ室見橋に向けて戻り始める。

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 この川は野鳥が集まる場所だと聞いた。川は概ね浅くて、水が澄んでいることもあり、両岸辺りでは川底がはっきり見える。また、川岸が砂地になっている部分もあるし、所々中州も見える。野鳥が餌をあさるには格好の場所かもしれない。川の至る所で鳥を見掛けるし、上空には盛んにカモメが舞う。海に近い証拠だ。

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 さて、野鳥観察も終わったところで、室見橋に着いた。この往復でだいたい2kmくらいか。そうこうしているうちに天気が持ち直して来たようで、パラついていた雨も収まり、時折空が明るくなる。この調子だと雨の方は暫く大丈夫だろうと思い、近いので愛宕山に登っていこうと考えた。もし雨が降り出したらそのまま室見駅から地下鉄で戻る予定だったが、ちょっと得した気になる。

 室見橋を渡って「姪浜(めいのはま)」側に行き、橋のすぐ先を浜側に折れたところに登り口がある。愛宕山は福岡の人には人気のスポットらしく、車で登れて景色が良いので有名だ。車で夜景を見に来る人も多いと聞く。標高は60mだが、登り口の最初の部分だけ多少急で、あとはゆるやかになる。

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 福岡市の小高い地域にはだいたい桜が植わっていて花見の名所になっているようだが、ここも例外ではなく、桜の季節は見事らしい。でもそんな時期に来たら、騒がしくてノンビリ散歩というわけにもいくまい。ウォーキングというのは常に山場の時期を外して行かねばならないというのが私の基本姿勢だ。花見に来るなら花見だけ。それがあるべき姿だ。

 さて、くねくねと坂道を上り詰めると駐車場があり、車はここまでしか来られない。この先に神社の階段があり、頂上には愛宕神社がある。神社境内がそのまま展望台みたいになっていて、ここからの眺望が素晴らしい。天気のいい休日は、けっこう人が来ている。

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 神社そのものは小さなもので、たいていの人は神社よりもここからの眺めの方に関心があるわけだが、この古くて小さな神社、実は只者ではない。毎度福岡によくある話だが、歴史が古すぎて分からないという神社なのだ。普通、神社の解説では創建が「鎌倉時代」とか「江戸時代」とか書かれているが、この神社は「神代」となっている(笑)。

 正式名称は「鷲尾愛宕神社」というらしいが、愛宕神社の方はあとから付いてきたもので、元は「鷲尾神社」である。この神社の縁起では「景行天皇」の時代に建てられたらしい。そう言ってもピンと来ないかもしれないが、景行天皇は神話上の人物で、この人の息子が、日本神話で英雄として登場する「日本武尊(やまとたけるのみこと)」だ。いったい、どれだけ古いんだ。

 愛宕神社の方は、1634年に福岡藩主黒田忠之が京都から愛宕権現を迎えたことで、鷲尾神社に愛宕神社が合体することになった。それまで鷲尾山と呼ばれていた山も、このときから愛宕山という名前に変わる。

 ただ、この後からやってきた愛宕神社の方も有名らしく、京都郊外にある総本山の愛宕神社と、徳川家康の命により建てられた東京都港区の愛宕神社と並んで、三大愛宕神社と呼ばれているらしい。私は東京の愛宕神社は行ったことがあるから、これで三大愛宕神社のうち二つは行ったことになる。もっとも東京の愛宕神社に行ったのは花見のためなのだが・・・。

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 愛宕山から東方向にある百地浜を見る。そびえるタワーは「福岡タワー」である。ここに見える地域は全て埋め立てで、以前は海だった。周辺に見えるマンションはいずれも高級マンションらしい。実は地下鉄の駅からは遠いのだが、まぁ海が見えるというロケーションがいいんだろうねぇ。

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 次は東側。正面の島は「能古島(のこのしま)」。右が「志賀島(しかのしま)」で、「漢委奴國王」の金印が堀り出された島である。この写真だと見えにくいが、志賀島の右側は極めて細い道で福岡側とつながっている。この道が「海の中道(うみのなかみち)」だ。また、写真左手の観覧車のあるところが、「マリノアシティー福岡」というアウトレットモールである。

 愛宕山のちょうど北側は姪浜の高級住宅地である。これらは全て埋立て地で、百地浜と同じくかつては海だった。遠くからだと分かりにくいが、この辺りの街の雰囲気は開放的で感じが良い。何となくアメリカ西海岸風である(笑)。それもあって高級感漂うのかなぁ。

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 姪浜というのは不思議な名前だが、ずっと昔は「衵ノ浜(あこめのはま)」と呼ばれていたらしい。そのうち「あこ」の部分が取れて、今の名前になったと伝えられている。

 では衵ノ浜というのはいったい何かということになるが、これがまた神話時代に遡る(笑)。福岡の話をしていると、簡単に神話時代の話が出てくるところが尋常ではない。

 神話と現実の境界線辺りの時代に、有名な「神功皇后」という人物がいる。彼女は朝鮮半島に出兵して新羅、百済、高句麗を支配下に置いた。この「三韓征伐」の話は、以前、筥崎宮の方生会へ行った際ブログに書いた。朝鮮半島からの帰りに福岡で産気づき、この地で後の応神天皇を生んだという話である。

 実は現在の姪浜は、神功皇后が三韓征伐のために旅立った場所であり、朝鮮半島での戦いの後、凱旋して来た地でもある。そのとき、海水で着物が濡れたので干したという浜が、この辺りらしい。「衵」というのは当時の着物の一種であり、それを干したので衵ノ浜ということだ。普通の人がどんな洗濯物を干しても話題にもならんが、皇后が干すと土地の名前に残る。さすがだ(笑)。

 この種の土地や寺社の謂れを聞いていると、本当に身重の皇后が軍団を指揮して朝鮮半島に攻め入ったのかとか、出陣先で子供を生んだりするのかとか、色々疑問に思う点はあるが、きっと人々の記憶に長く残るような何かが、その時代にこの土地であったのだろう。それが現天皇家の祖先のことではなかったにせよ・・・。だから神話時代に建った神社がこの地にあるわけだ。ちなみに、神話時代からある神社は、この姪浜だけでも幾つかある。何より、ここは「魏志倭人伝」にも出て来る「倭の奴国(わのなこく)」なんだから。

 そうこうしているうちに再び雲が厚くなって来たので、そろそろ山を下りることにする。そのまま室見川の方に下りるのではなくて、南西側に下りる。ここにちょっと面白いものがある。

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 この鳥居の下の岩は通称「蛇岩」と呼ばれている。この岩には伝説があるらしく、対立した村の若者同士が夫婦になったため、村人たちから海に投げ込まれ、死して後に蛇となったという話である。まぁ蛇に見えなくはないかな(笑)。ただ、面白いのはその伝説ではなく、この岩の侵食である。これは波に洗われたため出来たとされており、遠い昔、愛宕山の周りは海だったことの証拠というわけである。

 さて、愛宕山を降りたところから山の裾野を回り込むようにして、山の北側にある「マリナタウン」というショッピングモールに立ち寄る。買い物をして帰るためだ。

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 マリナタウンはダイエーが母体となって運営しており、ワンフロアーに様々な売り場が集まっている。お蔭で階を上下することなく、クルリと回れば一通り買い物が済むという便利な巨大店舗だ。アメリカのモールにちょっと似た雰囲気で、フードコートも大きい。

 さて、ここからは歩いて帰れる距離ではないので、珍しくバスを使うことにする。福岡市内のバスの路線図は相当複雑で、よそ者にはわけが分からん。いや、福岡の人にも分からないかもしれない(笑)。でも、バス路線を研究すれば、それこそ車なしでどこにでも行くことが出来るだろう。まぁマスターする頃には福岡を去ることになるかもしれんが・・・。

 今日は連休最終日でもっとタップリ歩こうと思ったのだが、天気が良くなくて残念だ。家に帰って読書といくか。

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2010年09月25日

南公園へ

 本日も秋晴れの気持ちのいい一日となった。風は強く雲も多めながら、雨の心配はないらしい。さっそく散歩といきたいところだが、おっとどっこい洗濯をしないといけない。東京本宅より色々言われたのでフトンも干す(笑)。けっこうな手間だ。「専業主夫」は絶対無理だと毎度確信する。

 そうこうしているうちに昼が近付き、夕食のおかずの物色も兼ねた買い物に出掛ける。一応自炊を旨としているので、今日の昼食はざるうどんにする。天ぷらを買って来たうえ、更に頑張ってほうれん草のゴマ和えを作る。といっても、茹でたほうれん草にゴマ和えの素をチューブから搾り出して混ぜるだけ。この程度なら私にだって出来るが、逆に言えば、まぁこれが限界だろうなぁ(笑)。

 かくして散歩は午後の部となる。そうなるとあまり遠出も出来ない。仕方ないので福岡市内の「南公園」にでも行くことにする。ここはまだ行ったことのないエリアである。

 地下鉄七隈線の桜坂駅で降りる。七隈線に乗ること自体、初めてだ。駅の名前の通り、この辺りには南に向けて登る形の坂が多く、南公園というのは坂を登った丘陵地帯の上にある。景色も良いと聞いたので、公園目指してゆるりゆるりと坂を登り始める。かなり曲がりくねった道で、次々に景色が変化していく。

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 南公園というのは単なる公園ではなく、福岡の動物園や植物園が併設されている。公園の北側に本来の公園、南側に動物園、植物園がある。その中を自動車道と散策路が縫うように走っている。

 この前、筥崎宮の方生会へ行った際、県庁近くの「東公園」に行った話を書いた。今回は南公園だが、方角にまつわる公園としては他に「西公園」というのがある。西公園のことは、また散歩で行った際に書こうと思う。では「北公園」というのはないのかということになるが、これはない。どうしてかというと、福岡市の北は海だからである(笑)。

 南公園は丘の上にあるので眺めがいい。福岡市の南北を高い位置から眺望できる。ちなみに、この公園を取り囲む地域は高級住宅地らしい。確かに落ち着いたたたずまいで、並ぶ家には高級感がある。しゃれたケーキ屋、和菓子屋、喫茶、レストランなども道沿いにたくさんあって、如何にも絵になる光景だ。福岡の山の手エリアといったところか。

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 これは展望台から北西側を眺めたところ。中央の背後に見える山は実は島で「能古島(のこのしま)」。右にある山も島で「志賀島(しかのしま)」。これが有名な「漢委奴國王」の金印が堀り出された島だ。両方の島に挟まれて、手前に見えるドームがヤフードームである。

 今度はなかなか見られない南側の景色を遠望しよう。他の場所から市の南側を見ようとしても眺望がきかないのは、おそらくこの南公園があるせいかと思う。

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 中央にデンとそびえるのが、名前だけは聞いたことのある「油山(あぶらやま)」である。標高597mで、山そのものが公園化され、キャンプ場やアスレチック、ハイキングなど、様々なアウトドアの施設が整備されていると聞く。ただ、車がないと行くのは無理なので、当面休日の訪問計画には入っていない。

 さすがにこの歳で動物園に一人で行くのもおかしいので、森の中の散策道をたどりながら麓に向けて下りる。ただ、このまま帰るのも味気ないので、公園の東側に下りて、「野村望東尼」の山荘跡まで足を伸ばすことにした。

 場所は住宅地の中にあるので分かりにくい。幸い、交差点に標識が出ているので、それに沿って歩く。通りの名前も「山荘通り」と付いているところを見ると、望東尼は地元では知られた存在なのだろう。普通の人は知らんと思うが(笑)。

 ゆったりとした高級感のある道を歩いていくと、道路の右側に公園があり、そこが目指す目的地らしい。すぐ奥に藁葺きの民家が見え、これが望東尼の山荘だ。

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 野村望東尼というのはどういう人かというと、1806年生まれの幕末の女流歌人である。元々は福岡藩士の娘で、結婚後夫が亡くなり、仏門に入った。それだけならあまり有名にならなかったかもしれないが、尼になってから幕末の志士たちを支援するようになる。特に長州藩の高杉晋作とは懇意だったとされる。

 自分の山荘に志士たちをかくまったり、密会の場所として提供したりした。やがてそれが福岡藩に知られるところとなり、島流しにされた。彼女を助けたのは高杉晋作で、彼の手引きで島を脱出したあと、福岡には戻らず長州で生涯を閉じたという。

 幕末の志士たちが集まった望東尼の山荘が上に掲げた藁葺きの家で、家の中に上がって室内を見ることが出来る。この家の隣も公園になっており、そこには彼女の胸像もある。

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 さて、ここからは南公園に戻らず、南公園のある丘陵の裾を回りこむようにして桜坂の駅に向かう。南公園を降りた辺りには「浄水」という名前のつく地名が多い。通りの名前にも「浄水通り」がある。これは以前に、南公園の南方に浄水場があったかららしい。

 このまま桜坂駅から地下鉄で帰るというのが素直だが、少々歩き足りないので、桜坂駅を通り過ぎ、次の「六本松」(六本木と間違えやすい名前だ)の駅まで歩く。そして、六本松の交差点をV字型に曲がって「別府橋通り」に入り「護国神社」まで散歩する。これだけで、地下鉄の駅2つ分以上は歩いたことになる。

 さて、護国神社である。これまで見てきた通り、福岡には歴史すらはっきりしないほど古い寺社がいっぱいあるが、この護国神社はそれに比べれば出来立てホヤホヤくらい新しい。創建は明治元年で、もとは別のところにあったと伝えられている。

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 戊辰戦争で亡くなった藩士を祀るために福岡藩が建てたのが始まりらしいが、いわば靖国神社のように、その後戦争で亡くなった兵士が全てここに祀られるようになった。そう言われてみれば、造りがそれらしい(笑)。

 社殿を森が取り囲み、おごそかな雰囲気がある。英霊が眠るにはふさわしい場所だろう。住所も「六本松1-1-1」と最大級の敬意が感じられる(笑)。そして、ここを北側に抜けると福岡城址となる。

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 上の写真は福岡城址側にある護国神社の鳥居だが、見た通り巨大で立派だ。そのうえ木製で、近寄ると圧巻の一言に尽きる。

 あとの道のりは、福岡城址隣の大濠公園を突き切り、地下鉄空港線の唐人町駅に向かう。さすがに相当の距離を歩いたので、大濠公園でベンチに座って一休み。持って来たお茶を飲む。それにしても今日は風が強い。お濠の水面もかなり波立っている。

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 さて、本日の散歩はこれにておしまい。今日も良い散歩だった。
posted by OhBoy at 22:30| 日記

2010年09月24日

秋の風に誘われ太宰府へ

 今日は昨日の風雨が嘘のように、爽やかな秋晴れが広がった。ちょうど祝日と土日にはさまれた中日ということで、有給休暇を取って4連休とした。

 昨日は外出もままならなかったから、今日は出掛けようと考え、行き先はあっさりと太宰府方面に決めた。昨日、本で読んだことが記憶から薄れぬうちに行った方が、臨場感があって良かろうという判断である。

 まずは政庁のあった大宰府の方から攻めることとし、西鉄大牟田線の二日市で降りる。特急なら天神の西鉄駅からわずか12分である。この駅から太宰府天満宮まで行く太宰府線が出ているが、今日は、色々見学しながら大宰府線終点まで歩き通そうという目論見である。

 大宰府政庁跡の最寄り駅は一つ手前の都府楼前駅だが、大宰府政庁の中心道路だった朱雀大路を南側から上がって政庁に行ってみようという趣向である。まずは二日市駅を降りて、線路沿いに北上する。

 二日市自体は名前の通り、古く市場が立ったところで農業地帯であった。万葉集に山上憶良の「貧窮問答歌」があるが、憶良は筑前守で、ほとんどの名歌はこの地で生み出されている。当時大宰府にいたのが、同じく万葉歌人の大伴旅人で、憶良は旅人の館に招かれて歌を詠んだりしている。貧窮問答歌にある農民たちがどの辺りの人々だったのかは知らないが、もしかしたら大宰府政庁近くの情景だったのかもしれない。

 今ではすっかり住宅地で、福岡市内へも通勤距離範囲である。憶良が見たらビックリするだろうなぁと思いながら、線路沿いをのんびりと歩く。

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 政庁跡へ南側から行こうとするのにはもう一つ理由があって、菅原道真が幽閉されていた「大宰府南館跡」を見ようと思ってのことである。その場所は、現在の住所で言うと太宰府市朱雀六丁目にあり、「榎社」という神社になっている。ここはかなり分かりにくく、観光ガイドマップなどではお勧めの場所として紹介されていない。こういうところを探し当てていくのが、気ままな散歩の醍醐味である。

 この地が神社になっているのは、道真の祟りに恐れをなして大宰大弐だった藤原惟憲(ふじわらこれのり)が「浄妙院」を建てたためだ。現在は太宰府天満宮がこの社を管理しているらしい。ちなみに今の名前は、境内に大きな榎の木があったので付いたニックネームのようなものと伝えられている。

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 この境内には、道真を刺客からかくまった近隣の農家の老婆もあわせて祀られている。「浄妙尼」というのがその人で、「もろ尼御前」とも呼ばれていたらしい。だが、農家の婆さんがどういう経緯で尼になったのかは不明。下がその祠で「浄妙尼社」という額が掛かっている。

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 榎社から更に北上して御笠川を渡る。その手前の交差点の名前がズバリ「朱雀大路」。ここから一直線に大宰府政庁跡まで大通りが伸びる。如何にも「西都」の名前にふさわしい造りである。

 現在の朱雀大路は御笠川の南で大きく西に蛇行して国道505号線となっているが、昔の都市計画上は、先ほど降りた西鉄二日市駅辺りまで大宰府の碁盤の目状道路が続いていたはずである。ただ、道真が幽閉されていた南館(現在の榎社)辺りは周囲が農家だったので、政庁といえども施設はほとんどなかったのが実態だったろう。

 下の写真は、朱雀大路交差点から大宰府政庁跡方向を撮ったもの。朱塗りの橋が「朱雀大橋」で、下を流れる川が「御笠川」である。

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 朱雀大路を通って大宰府政庁跡に到着である。といっても、ここには何もない。碑と礎石があるくらいだが、礎石は長い時代の流れの中で、随分と掘り起こして持ち出されたと伝えられている。

 何もなくて観光地として味気ないと言えばそれまでだが、見通しのよい広大な野原なので、私はのんびり一周散歩しているだけで十分気持ち良かった。

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 建物跡のやや後方に碑が3つ立つ。記された文面は異なり、中央の碑には「都督府古址」と刻まれている。両横の碑は読みづらいが、共に「大宰府」の表記になっている。

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 大宰府政庁は、941年の「藤原純友の乱」で焼亡したことが確認されている。藤原純友は元々朝廷側の人間で瀬戸内海の海賊討伐に当たっていたが、ミイラ取りがミイラになったようなもので、気が付けば伊予の日振島を根城にする海賊の頭となっていた。純友の襲撃範囲はかなり広く、大宰府と追捕使の兵が、純友軍と戦い敗れたのは同年10月のことである。

 その後再建されたものの、戦国時代に再び消失したはずだ。何より戦乱の地となったはずだから。現在残っている礎石は、再建時のものという。更にその下には古い遺構があるはずだが、そこまでの発掘は行われていないと聞く。

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 大宰府政庁周辺には沢山の役所の建物が建っていた。「政所」「蔵司」など18の施設が記録にあるが、一部の遺構は今も残って保存されている。

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 下の写真は、大宰府学校院跡。学校院は、九州における官僚養成機関で、博士を教官として政治、算術、文章、医術などを学ぶ場だったようだ。教科書には中国の「五経」「三史」が用いられ、記録では約200人の学生がいたという。所定期間内に必要科目を履修し、試験に合格すれば役人として採用された。

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 さて、ここらあたりで大宰府政庁と関連機関の遺構を離れて、東へと歩く。ガイドブックのお勧めで、大通りから外れて山沿いの裏道を歩く。実にのんびりとした光景が広がる。

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 近くに観世音寺があるので立ち寄る。なかなか興味深い寺である。解説書の類では、天平時代に天智天皇が母の斉明天皇の冥福を祈って建てた勅願時で、1200年以上の歴史があるとされている。ただ、これは「続日本紀」にそう書かれているだけで、寺の縁起そのものは伝わっていない。調査では、それよりもはるかに古いという説もある。

 どうしてこんなところにそんな趣旨の寺社があるかというと、斉明天皇は、唐・新羅連合軍に滅ぼされそうになった百済を助けるために、女帝ながら筑紫の朝倉宮(福岡市の南東約40km)に出陣して来ていたのである。だが、その朝倉宮で亡くなる。ちなみにその後の日本国・百済連合軍と唐・新羅連合軍の戦いが昨日ブログに書いた「白村江の戦い」で、我が国は完敗した挙句、唐・新羅連合軍の猛追を恐れて、政庁を現在の福岡市沿岸部から先ほどの大宰府政庁跡まで移したわけだ。

 そういう経緯で、息子の天智天皇(=大化の改新の中大兄皇子)がここに寺を建てて母の冥福を祈ったのだが、福岡辺りの寺社を見ていると、天皇家にまつわるものがかなり多い。それに何回も天皇や皇族がこの近辺に来ているが、古代の日本でそんな簡単に来られたのかね。どうも不思議だ。

 古代史家の中には、それは畿内の天皇家の話ではなく、本来中国から正統な王朝として認められていた九州の王家の歴史を、大和朝廷が自分たちの正史を作る際に勝手に書き換えたという人もいる。こっちで色々見て回っていると、「あるいはそうかも」と思うときがある。

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 この寺には、かつて五重塔が東西に二基建っていたことが確認されている。現在では礎石に当たる部分が残るだけで、下の写真がそれである。さすがに天皇家の肝煎りだけあって、創建当時は相当大規模なお寺だったわけだ。

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 この寺には、他にも見るべき歴史的遺産がある。一つは、日本最古の梵鐘である。正確な鋳造年は不明だが、京都にある妙心寺の鐘と同じ工房で鋳造された兄弟鐘と推定されている。妙心寺が出来たのは1342年なので、観世音寺の方がはるかに古い。そして、鐘の銘文から、工房があったのはこの観世音寺の近くということも分かっている。どうしてそこで作られた古い鐘が、何百年も後に建てられた妙心寺にあるのかは謎だ。妙心寺の言い伝えでは、売られていた鐘を買ったということらしいが、じゃあその鐘は元々どこにあったのだろうか。

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 境内にパラパラといた見学者は、この古臭い鐘をちらりと見ただけで行ってしまったが、一応「国宝」です(爆)。

 さて、もう一つの歴史的遺産は、この寺に設けられた戒壇院である。戒壇院というのは、出家した者が正式に僧侶や尼になるために戒律を授ける場所で、この施設がないと誰も僧侶になれない。そのためには建物を建てただけではダメで、戒律を授ける戒律師が必要となる。

 仏教が伝来した奈良時代に、日本から唐に留学した僧たちは、日本に来て戒律を授けてくれる僧を求め、高名な戒律師に来日を頼む。それに応じて苦難の末に来日し、九州にたどり着いたその足でこの戒律院で初めて戒律を施したのが、あの有名な鑑真である(!)。つまり、この戒律院の開祖は鑑真であり、鑑真の戒律を国内で初めて受けたのは、この戒壇院に集まった出家者たちだった。鑑真はその後平城京に向かい、東大寺に戒壇院を設ける。

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 観世音寺の戒壇院は「日本三戒壇」の一つとされ、「中央戒壇(東大寺)」、「東戒壇(下野薬師寺)」に対し「西戒壇」と呼ばれた。いずれも鑑真が開いたものだが、設置された順番では観世音寺の戒壇院が一番古いことになる。但し、今では戒壇院だけ観世音寺から独立した宗教法人になっており、福岡市の聖福寺の末寺となっている。

 なお、この境内には鑑真が中国より持ち込んだ菩提樹が植えられている。下の写真がそれである。

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 さて、観世音寺も戒壇院も見たので、ここから太宰府天満宮に向かうことにする。観世音寺から東に少し行くと、西鉄大宰府線の五条駅がある。太宰府天満宮はここから一駅だが、あえて歩いていくことにする。

 五条の交差点を北に折れると、あとは道に沿って歩けば、それが太宰府天満宮参道につながる。一駅分といってもそう骨の折れる距離ではない。気候も良いし気温も低めで気持ちいい。やがて太宰府天満宮参道に至る。

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 今日は平日とあってあまり参拝客もいないが、天満宮に近付くと次第に人は増える。ところが、人々の近くに行くと誰も日本語を喋っていないことに気付いた。どうも語感から、韓国語や中国語のようだ。こんなところにまでアジアからの観光客が来ていることに驚く。そういわれてみれば、参道のみやげ物屋や食べ物屋にハングル語表示の案内がある。日本も着々と国際都市になりつつあるらしい。

 一気に天満宮には行かず、参道突き当たりの「延寿王院」を見る。ここはかつて天満宮の宿坊であったが、残念ながら、今は天満宮を司る西高辻家の住まいなので中には入れない。しかしわざわざ覗いたのは、この建物が幕末の動乱の一つの舞台になっているからだ。

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 尊王攘夷運動の中で、1863年に公武合体派による宮中政変があり、尊王攘夷派だった公卿の三条実美ら7人の公家が失脚し、京都を追放され長州藩へと落ち延びた。世に言う「七卿落ち」である。彼らが流れ流れて最後に滞在したのが、この延寿王院である。途中、7人のうち一人は死亡、もう一人は行方不明になり、ここに来たときには5人になっていた。彼らは1865年から3年間、つまり明治維新までこの屋敷に住んだ。

 その間、三条実美には、西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬、中岡慎太郎のほか、伊藤博文、江藤新平らも会いに来ている。また変わったところでは、福岡の女流歌人で幕末の志士を助けた野村望東尼も訪ねて来たらしい。

 さて、最後の締めくくりに、太宰府天満宮に参って今日の散歩はおしまい。

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 太宰府天満宮のシンボルの一つ「飛梅」が下の写真。菅原道真が大宰府へ左遷されたおり、京の館の庭で「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」の句を詠むと、道真を慕って京の梅が一夜にして太宰府に飛来したという伝説がもとになっている。

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 もう一つ忘れてはいけないシンボルの牛。昨日のブログに記したように、この埋葬の地を教えてくれたのは牛である。

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 今日は気候が良かったのでスイスイと歩けた。寄り道しながら西鉄太宰府線の最初から最後までを歩き通したので、けっこう距離はかせいだはずだ。本日も良い散歩だった。
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2010年09月23日

晴耕雨読

 今日は秋分の日。「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるが、ちょうど太平洋高気圧と大陸の高気圧が日本列島辺りでぶつかりあったらしく、昨夜から風雨が激しく、風の音に何度か夜中に目が覚めた。「秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」は、三十六歌仙の一人藤原敏行の歌だが、全くその通りの天気である。

 こんな空模様の日にはのんびり散歩というわけにはいかないから、家にこもって読書でもする。「晴耕雨読」である。

 今日読んでいたのは太宰府にまつわる書物何冊かである。できればこの週末辺りにでも太宰府周辺に散策に行きたいなと考えていたので、観光ガイド代わりにパラパラと目を通してみた。だが、この地域は歴史上の謎も含めて様々なエピソードがあり、消化し切れないほどだ。散策に行った折にこのブログに書いてもよいのだが、あまりの分量なので、前書き的に概略だけ記しておこう。予告編みたいなものだ(笑)。

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■ 太宰府、大宰府、都督府

 まず地図で見ると、太宰府には二通りの字があることに気付く。「太宰府」と「大宰府」である。間違い探しみたいだが、先頭の漢字が違う。「太」と「大」と書き分けられている。

 太宰府という字が当てられているのは、市の名前である「太宰府市」と学問の神様菅原道真で有名な「太宰府天満宮」、いわゆる天神さん本社(笑)である。他方、大宰府の字が当てられているのは、かつて「西都」とも「大君遠朝廷(おおきみのとおのみかど)」とも呼ばれた古代の政庁「大宰府政庁跡」と附設する学問所「大宰府学校院跡」である。二つはどう違って、どういうふうに使い分けられているのだろうか。

 実はその答えはあまり定かではない(笑)。時代によって変わったという説もあるし、役所関係の呼称は「大」の方の「大宰府」を使うという解説もある。後者の説は、古代の日本の官職名に「大宰」(広域を管轄する地方長官)があり、その人がいる官公庁ということで「大宰府」を使ったという説明である。だが、日本の古代の文献でも両方の字が混ざり合っていて時代の変遷云々は当たっていないし、「太宰」の字も古代中国の周の時代にあった最高位の官職名ということで、古代史家の間で色々議論があるようだ。

 もう一つ、「大宰府政庁跡」に行く最寄り駅の名前は「都府楼前駅」である。この「都府楼」というのはいったい何で、「大宰府」とは何が違うのか。都府楼という言葉は、菅原道真がこの太宰府で作った詩の中にも出て来るのだが、「都督府の建物」という意味らしい。では「都督府」とは何かということになるが、これは日本書紀や古代中国の記録に表れる大宰府政庁の名前である。けれど、この「都督」という言葉の使い方にも古代史家の間で議論があるようだ。

■ 邪馬台国論争

 上に記した論争は、邪馬台国がどこにあったかを巡る例の「邪馬台国論争」や、天皇家や大和朝廷の出自に関する古代史論争とも微妙に結びついている。

 邪馬台国論争は言うまでもなく、古代中国の正史である「三国志」の「魏志倭人伝」にある邪馬台国は九州にあったのか、近畿にあったのかという論争である。これがどう大和朝廷や天皇家に関連してくるかというと、邪馬台国の女王「卑弥呼」は、日本書紀では「神功皇后」だと解釈されているからだ。

 日本書紀というのは、日本における最古の正史であるが、皇室を中心とした大和朝廷の歴史上の正統性を示すという、政治的国家事業として編纂されたものであり、支配者にとって都合よく歴史の書き換えが行われていると見るのが素直だろう。その立場から言えば、皇室を中心とする大和朝廷は古代から日本の統一的支配者でなければならないわけで、他に正統な国王がいては都合が悪い。

 魏志倭人伝によれば、卑弥呼は中国魏王朝に倭王として認められている。神功皇后は3世紀頃の人で、魏志倭人伝も3世紀頃の書なのである。仮に、神功皇后以外に卑弥呼がいたなら、日本書紀の政治的前提が崩れてしまうわけだ。

 日本書紀における神功皇后は、妊娠したまま朝鮮半島に出兵して新羅、高句麗、百済を征伐したという「三韓征伐」の立役者である。帰国して九州の地で出産し、それが後の応神天皇だという話は、以前このブログに書いた。出産の際、膜や胎盤などの胞衣(えな)を「筥」に入れてこの地に埋めたのが、福岡市にある「筥崎宮」だという話である。

 あまりこの種の論争に深く立ち入るつもりはないが、大宰府政庁に関してちょっと書いておくと、大宰府政庁を表すもう一つの名称「都督府」の「都督」とは、古代中国の正史に登場する官位の名前である。

 古代中国の正史では「倭の五王」と記される王が5代にわたって古代の日本を治めていたことになっている。このうちの二人は、中国側から官位を授かっているが、これが都督なのである。ではこの官位はいったい何かというと、軍を統括する司令官を指していた。こう書くと役人の官位みたいだが、同じ称号は、高句麗、百済など朝鮮半島諸国の王に対しても与えられている。つまり倭の王と中国が認めた者に与えられたのが都督の称号なのである。

 もう一つ書いておくと、魏志倭人伝に記されている邪馬台国までの道のりで、「末廬国(まつらこく)」や「伊都国(いとこく)」「奴国(なこく)」というのが出て来るが、これらは全て福岡近辺というのが定説となっている。そこまで詳しく書かれている以上、邪馬台国もその近隣だったろうという推理が成り立つ。邪馬台国九州説の一つの論拠である。

 末廬国は日本に来る際に最初に上陸する地とされているが、これは、この前イカを食べに行った呼子のある東松浦半島辺りらしい。そう言われてみれば、あそこにあった田島神社の歴史が、奈良時代以前まで遡るのもうなずける。また、伊都国はその東側にある糸島半島辺りで、ここに大陸からの訪問者を受け入れる古代の外交施設があったとされている。そして奴国はこの福岡市である。倭の奴国の王が後漢の光武帝に朝貢したことは記録に残っており、光武帝より送られた「漢委奴國王」の金印は志賀島で発見され、国宝として福岡市博物館に展示されている。

 つまり、邪馬台国は太宰府辺りにあって、倭の五王もそこにいた。卑弥呼はその末裔であり、だから太宰府に都督の名前が残っているというのが、一部の古代史家の唱えている説である。ちなみに都督の名が残る土地は、日本の中ではここしかない。この中国から認められていた正統派の王家は、やがて別の出自である大和朝廷に滅ぼされたというストーリーになる。

■ 大宰府政庁

 大宰府政庁にまつわる古代史論争は横に置いておいて、定説としてほぼ確定している大宝律令以降の大宰府の話をしよう。大宰府政庁はアジア諸国との玄関口として大和朝廷が重要視した役所であり、一つの建物というより小規模な都として威容を誇っていたということが分かっている。

 大宰府政庁から南に伸びる道は「朱雀大路」と呼ばれていた。これは今でも交差点の名前に残っているようだ。そして、平安京と同じように碁盤の目状の町が形成されていた。その規模は東西方向に約2.6km、南北方向に約2.4kmで、その中に寺社、学校、各種の役所の建物があったとされる。つまり一つの官公庁というより、京の都の縮尺版なのである。

 役割としては、九州地方の統括のほか、アジア諸国との玄関口として、大和朝廷の外交、貿易、軍事拠点といったいくつもの役割を担っており、単なる地方統治のための出先機関といったものではなかったと伝えられている。「西都」や「遠の朝廷」と呼ばれるゆえんである。

 定説では、大宰府の機能は元々、福岡市の海岸沿いにあった「那津(なのつ)」に作られた施設が担っていたが、朝鮮半島の「白村江の戦い」で、倭国・百済連合軍が唐・新羅連合軍に完敗したため、慌てて施設を今の位置に移したらしい。勝った勢いで唐・新羅連合軍が海を渡ってやって来たら、海岸線の施設ではひとたまりもないと恐れたからだ。それだけでは足りなくて、現在の大宰府政庁の手前に1km以上にわたる巨大な防塁を築いた。幅は100m弱、高さ10mというから、防塁というよりも丘である。そして、その海岸側に、これまた巨大な堀を作った。この施設の名が「水城(みずき)」で、今でもその一部が残っているし、地名にもなっている。

 ちなみに、以前の海岸線の施設は「鴻臚館(こうろかん)」としてその後も残り、出入国管理事務所のような役割を果たした。一旦海外からの訪問者を鴻臚館で迎え入れてから、安全を確認して大宰府政庁に移したという話は、前回のブログで書いた。

■ 菅原道真大宰府左遷

 菅原道真の左遷は有名な話で、たいていの人が知っている。道真が右大臣から大宰権帥に飛ばされたのは、西暦901年のことで、「昌泰の変」と呼ばれている。命じたのは醍醐天皇で、その背後には藤原氏のドン藤原時平がいたというのが定説だ。

 道真の出た菅原家は学者の系譜である。藤原家の一族が権勢を振るう時代にあって、元々高位を得られる見込みのなかった出自である。ところが光孝天皇から宇多天皇に代わる際に藤原氏と天皇家の間で揉め事が起きた。この問題解決に一役買ったのが、時の讃岐の守であった道真である。

 この時の功績を高く買ったのが宇多天皇で、地方官として一生を終えると思われていた道真は、蔵人頭として京に戻る。その後も異例の出世を重ね、宇多天皇の右腕とも言える活躍をする。それを快く思わなかったのは藤原氏で、道真が学問の出来る人材を登用しようという動きを見せたものだから、血縁関係重視の藤原氏は警戒感を高めた。

 宇多天皇が上皇に退いて醍醐天皇が皇位につくと、時の藤原氏の中心人物である時平は、道真排斥に動く。道真の娘が斉世親王に嫁いでいることをネタに「道真は醍醐天皇を皇位から引きずり下ろして斉世親王を皇位に就けようとしている」というストーリーをでっち上げ、醍醐天皇に吹き込む。その種の謀略は藤原家の得意とするところなので(笑)、リアリティーはある。

 この左遷により、道真はおろか親族全員が左遷させる。京の要職に就いていた子供たちも地方に流され、おまけに、道真の娘が嫁いでいた斉世親王までが出家させられている。これで菅原家の一族はおろか、出自にかかわらず学問により身を立てるという新しい官吏登用の流れも断ち切られる。藤原家恐るべしである。さすがに謀略家の血筋は伊達ではない。

■ 大宰府の道真

 左遷というが、道真の境遇はそれ以下で、罪人同様であったと伝えられている。大宰権帥は右大臣からすれば格下だが、地方長官代行であり、しかも大宰府は並みの地方庁ではない。京に戻る前に道真が就いていた讃岐の守よりも、官位は大宰権帥の方が上である。

 しかし、藤原氏は道真を徹底的に潰すために、大宰権帥は形だけの位とし、仕事はさせずにギリギリ生きられるくらいに遇しておけという指示を出していた。お蔭で道真は、大宰府政庁ではなく大宰府の南部にあった南館という廃屋に事実上幽閉される。南館は雨漏りがし隙間風の吹くあばら家状態で、周囲は貧しい農村である。食べることは出来たものの、贅沢とは程遠い生活をしていたと伝えられる。

 そんな生きる屍のような道真のところに、藤原時平は刺客を放つ。ホントに性根の腐った家柄だよ、藤原家ってヤツは。命を狙われていると気付いた道真は、近くの農家に助けを求める。道真をかくまってくれたのは老婆で、臼の中に道真を隠して刺客を退けたという。この老婆とはそれを機に親しくなり、老婆が時々届けてくれる自家製の餅を食べるのを、道真は楽しみにしていたという。

 道真はいつか濡れぎぬが晴れて京へ帰ることを願っていたが、願いはかなわず、幽閉状態のまま大宰府南館で病のため死去する。道真の死を知って、老婆は道真好物の餅を作り、梅の枝を添えて供えたという。これが太宰府天満宮参道にある梅が枝餅の謂れである。

■ 太宰府天満宮の成り立ち

 亡くなった道真の遺骸は、大宰府の鬼門方向にある宝満山近辺の寺社に送られる予定だった。これは珍しいことで、地方で亡くなった高官は京に送られて埋葬されるのが慣わしであったようだ。だが、道真は自分が死んだらこの地に埋葬してくれという遺言を残していたらしい。あれ程京に戻ることを願っていたのに、何とも不思議な話である。

 道真と共に大宰府に下ってきたわずかの供人が、遺骸を牛車に乗せて進んでいたところ、途中の四堂という地で牛が止まる。従者が牛を動かそうとするがどうにも動かない。途方に暮れた供人だが、これは道真自身が「ここに葬ってくれ」と言っているのではないかと解釈し、その地に埋葬したあと小さな墓を建てる。

 現在の太宰府天満宮は、この道真の墓の上に建っている。そして、この埋葬の地を知らせた牛が、太宰府天満宮のシンボルになっているわけだ。あぁ、だから天神さんには牛の像があるんだと納得。

■ 道真の祟り

 道真と言えば祟りで有名である。ここまでの話を読めば、そりゃあ祟るよなぁと思う。ただ、道真の祟り方は超弩級で、道真を大宰府に追いやった関係者はことごとく死んでいる。

 道真が亡くなった903年から、京の都では様々な災厄が起きている。旱魃、水害、更には疫病と、あらゆる災厄が次々と襲う。しかもそれが長く続く。長くというのは、1年や2年のことではない。何と30年以上も続いている。

 道真を陥れた張本人の藤原の時平も、道真左遷を取り消そうという動きを邪魔をした藤原菅根も、道真の死後すぐに亡くなった。時平はわずか39歳の若死にだった。道真左遷の詔書を出した醍醐天皇も病気がちとなり、追い討ちをかけるように、醍醐天皇と藤原時平の妹の間に生まれた皇太子保明親王も21歳で亡くなる。一連の祟りの中でも最も有名なのは、内裏の清涼殿で開かれた旱魃対策の話し合いの場に雷が落ち、出席した公卿にたくさんの死傷者が出た事件だ。醍醐天皇は直後に病に臥し、ほどなく退位し1週間後に亡くなった。

 道真の怒りを静めようと、北野天満宮が造営され、左遷の詔書は破棄されて死後に昇進までさせた。かくして道真は天神様として畏れられ、かつ学問の神様として敬われもするようになった。

 大宰府は先に書いたように、京の都の縮小版のような町だが、それは町の造りだけではなく習俗においてもそうである。京都の宮中行事のいくつかは、大宰府においても執り行われた。正月に天皇の前で詩文を作り詠ずる内宴や、庭園の流水に杯を流しながら歌人が歌を読む曲水の宴、七夕の夜に行われる乞巧奠、秋の菊をめでる残菊の宴などが催された。

 しかし、それらの行事は政庁としての大宰府で行われたのではなく、太宰府天満宮の行事として執り行われた。天皇がいないところでの宮中行事の中心は、官僚である大宰府の役人ではなく、神である菅原道真であった。

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 こうして見てくると、太宰府という土地は色々と因縁めいた場所だ。仮に、大和朝廷に滅ぼされた本当の日本の古代王朝がここにあったとすれば、正統派の王族の血脈が封じられた場所ということになる。菅原道真もまた同じで、血縁やコネではなく己が実力で右大臣まで登り詰めたのを、陰謀によってここに閉じ込められ不遇のうちに孤独死した。

 まぁそんな暗い歴史を背負った場所と心得て、近辺を歩いてみることにするか。

posted by OhBoy at 23:21| 日記

2010年09月21日

大濠公園と福岡城址

 またもや日付変更線を越えて投稿したものだから日付が狂ってしまったが、20日(月)は、福岡北部に雷注意報が出ていて、朝から空はどんより曇っていたものだから、遠出はやめて市内をウロウロ散歩することにした。

 まずは散歩のメッカ(笑)「大濠公園(おおほりこうえん)」に行く。まぁお城の濠と言えばそれまでなのだが、その大きさは濠という言葉からイメージするのとは異なり、一周2kmもある。湖といった方がいいかもしれない。

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 上の写真の対岸に見えているのは、濠のふちではなく、濠の中を斜めに横切る散策路である。本当の対岸はその更に向こうにあるので、濠の大きさはこの写真で見るのの二倍近くになる。

 この散策路には松が植わっており、そぞろ歩きするにはピッタリの静かな遊歩道である。両側が橋で結ばれているので、実際には細長い島ということだろうか。

 歩いていて、この感覚はどこかで以前に経験があるなぁと思ったが、はたと思い出した。京都の宮津にある天橋立そっくりだ。あれをぐっと小さくすると、ここの散策路になるという感じか。

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 お城の濠にしてはあまりに巨大だが、なんでこんなに大きいかというと、元は入り江だったからである。この濠を作ったのは、福岡城を築いた黒田長政で、当時「草ヶ江」と言われた、西に湾曲していた入り江を塞いで濠にして、お城の防衛を図った。当時の濠は、城を取り囲み、東側は細長く突き出て中州近辺まで続いていたらしい。

 今のような公園として整備され始めたのは、昭和2年に「東亜勧業博覧会」が開かれたときで、濠の西側を埋め立てて会場を作ったと記録されている。ということは、オリジナルの濠はもっと大きかったわけだ。

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 濠の周囲には、散策用とジョギング用、そして自転車用と、三本の歩道が整備されており、車は入って来れない。お蔭でのんびりと散歩を楽しむことが出来る。

 上の写真の歩道は散策用で、その左側に水路が走っているが、これは堀の水を循環させるためのものだ。この水路の水を見ると驚くほどきれいで、たくさんの魚が泳いでいる。ちなみに、お濠の方で目立つのは亀と鯉か。亀は至るところで見掛けるし、鯉は驚くほど大きなのが泳いでいる。

 濠の周辺には能楽堂や美術館、日本庭園がある。ちょっと福岡市美術館に立ち寄ると、どこかで見たことのあるオブジェが・・・。

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 さて、大濠公園に来たのだから、隣の福岡城址にも立ち寄ろう。登り坂もあって適度な運動になる。大濠公園の南側から出て、福岡城南丸の多聞櫓下から城内に入る。

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 福岡城は黒田長政が建てた。1600年の関が原の戦いで活躍した黒田長政は、徳川家康から褒美に筑前国50万石を与えられる。それまでこの地は、毛利元就の三男である小早川隆景が治めていた。隆景は海に近い名島(福岡市の東北部の海岸線)に城を築いていたが、これは水軍による戦いを得意とした隆景なりの選択だったのだろう。しかし、黒田長政はこの城の位置に不安を覚え、現在の福岡城址の位置に新たな城の建設を始める。

 同時に長政は、「福浜」と呼ばれていたこの地を、祖先の領地備前国福岡にちなんで福岡と名前を変えた。これが今の市の名前につながっているのだが、当時の福岡はあくまでも城の辺りの地名であり、中洲より西側の町は博多と呼ばれていた。

 福岡城に天守閣があったかどうかは議論の分かれるところらしい。今は本丸跡だけが残っていて、城らしいのは石垣とわずかに残る櫓くらいだ。

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 上の写真は、現存する「多聞櫓」で重要文化財となっている。本来は50近くの櫓があったらしいが、今に残るのはわずかである。お城の石垣自体は立派で、巨木も多く見ごたえがあるが、どうもここをもっと整備して櫓などを再建しようという動きはないらしい。お蔭でいつ行っても静かで、ほとんど観光客を見ない。せっかくの観光ポイントなのに惜しい気がする。

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 さて、ここまで来たからには天守台に登ろう。天守台は今では石垣が残るのみだが、見学用の展望デッキが石垣の上に作られており、高い位置から周囲を眺めることが出来る。

 天守台入り口は実に狭くものものしい感じだ。実際にはこの上に建物が建っていたのではなかろうか。

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 普通、天守台の上に展望スペースを作ると見学の人で賑わうものだが、ここはほとんど人がいない。前に来たときも1-2組のお客さんがある程度で、静かなものである。眺めはなかなか良く、概ね福岡市の市街地を見渡せる。

 下の写真は、先ほどの大濠公園側を眺めたもので、左側に見える水面が大濠公園、真ん中よりやや右のタワーが百地浜の福岡タワー、右端のドームがヤフードームである。

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 天守台を降りた後、今度は東側の二の丸へと下っていく。どこの城でも怪談話は付き物だが、この福岡城にも呪われた場所がある。既に門自体が取り壊されているので場所については諸説あるらしいが、二の丸に俗称「お綱門」と言われていた門があり、その門に触った者は高熱を発したり、夜中にうなされたりしたという。その謂れはこんな話である。

 黒田家二代目の黒田忠之が参勤交代の際に大阪で采女(うねめ)という芸者に入れあげ、福岡まで連れ帰ったものの、家老にいさめられお側用人の浅野四郎佐衛門に預けることになった。ところが今度は、四郎佐衛門が采女に入れあげ、妻のお綱と子供を下屋敷に別居させ、仕送りもろくにしなかった。貧乏暮らしに困ったお綱が下男を夫の元にやり「せめて娘の雛祭りの支度だけでも工面してくれ」と頼むが、下男は采女にけんもほろろに追い返され、このままおめおめと帰れないと自害。それを知ったお綱は狂乱し、四郎佐衛門の子供2人を刺し殺して、なぎなたを持って夫を襲おうとしたが、屋敷にいた浪人に切りつけられる。夫は登城していると知り、血まみれになりながらなぎなたを持って城に乱入しようとするが、門に手をかけたまま息絶える。

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 上の写真は扇坂門跡で、お綱門の有力候補の一つである(笑)。この前も散歩の折に通ったが、熱も出なかったし、夜中にうなされもしなかった。でもまぁ、こんな怪談話は一つくらいあった方がお城らしくていい。

 さて、ここから城の下に下りると、広大な円形の草地がある。これが昔の「平和台球場」の跡地である。

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 福岡城は、明治になって西南戦争の際に士族の反乱があって戦場となったほか、その後は陸軍の歩兵部隊が長らく駐留していた。戦後、1948年に国民体育大会が福岡で開催された際、この場所に「平和台総合運動場」が整備される。戦いに縁の深かった地ゆえに平和を願って命名されたのだろうか。

 そしてこの場所に平和台球場が出来たのが翌49年。地元の鉄道会社西鉄がスポンサーになっていた西鉄ライオンズのホームグラウンドとして市民に親しまれたが、その後チームは西武に買収されて撤退。暫く主なき球場となったが、やがてダイエーホークスがここをホームグラウンドとすることになって再び活気が戻ったようだ。

 そのホークスも、「アジア太平洋博覧会(よかトピア)」の会場跡地に建設された福岡ドームに本拠を移し、平和台球場は1997年に幕を閉じる。ただ、この球場が廃止されたのは、ホークスが拠点を移したからだけではない。実は、古代の外交施設であった「鴻臚館(こうろかん)」の遺跡が、球場改修工事中に発見されたからだった。

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 鴻臚館は、中国や朝鮮半島から来た外交使節団や商人を一旦迎え入れるための迎賓施設であるが、国内治安維持のため国内に入れてもいいかどうかを確認するための入国管理所でもあったらしい。

 いつ頃からあったのかは定かではないが、卑弥呼の時代に既にそうした施設があったことは記録に残されている。飛鳥、奈良時代には大陸との交流の拠点であり、奈良や京の都にのぼる外交使節団は、全てこの鴻臚館から国内に入った。

 機能的には、ここで外国要人を迎え入れ、入国させて良いことが確認された後に政庁のあった大宰府に移すことになっていた。国交といっても、今と違ってリアルタイムで世界情勢を知ることは出来なかったから、いきなり行政の中心である大宰府に外国人を通すのは怖かったのである。そして、都に行く場合はそこから更に西を目指す。まぁ文字通りの日本の玄関口ですな。

 この種の外交施設は記録上、この福岡のほか、京都と大阪にあったことが分かっているが、現実に遺跡が確認されたのは、この福岡だけである。よく考えると、古代史上かなり重要な遺跡なんだな。

 上の写真は鴻臚館の東門跡。このすぐ隣に平和台球場跡地がある。ちなみに、発掘調査は今でも続いているが、実際の発掘現場を見せてくれる施設がこのちょっと先にある。

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 上の写真が施設内にある発掘現場だが、実におおらかな施設で、入場は無料、写真撮影は特に制限されていない。「おいおいホントに撮影していいのか」と思ったが、現場の人に特に制止されなかったので色々撮った。屋内施設になっていて、様々な出土品や解説資料が展示されており、ガイドの人が丁寧に説明までしてくれる。これでホントに無料かと驚いた。東京でこの種の施設があったら入場料1000円で音声ガイド500円と見た(笑)。いいところだよ、福岡は。

 発掘現場のすぐそばまで降りられるのだが、そこに立つと何やら感慨深かった。かつて日本史の授業に出て来た遣唐使の一行は、この鴻臚館に滞在した後に大陸に渡っている。留学僧も同じだ。出入国用の施設だから当たり前だろう。ということは、山上憶良や阿倍仲麻呂、吉備真備も一旦は鴻臚館に逗留したはずだから、千数百年前にこの辺りにいたことになる。その同じ場所に今こうして立っていることの不思議さを何と表現すればいいのだろう。

 こんなすごい施設なのに、あまり人はいない(笑)。福岡の観光ガイドマップでもほとんど触れられていない。長浜の豚骨ラーメンもいいけれど、せっかく来たのなら、ここで飛鳥・奈良時代のロマンにひたってみるのもいいんじゃないか。

 今日は歩いた距離よりも、感じたロマンの方が価値があった。かくして本日も良き散歩であった。

posted by OhBoy at 00:14| 日記

2010年09月20日

呼子にイカを食べに行く

 どうも夜中に記事をアップするものだから、日付がずれてしまっている。筥崎宮に行ったのは9/18(土)で、この記事の本来の日付は9/19(日)だ。ブログのプログラムは投稿時間に厳格で、午前0時を回って記事を投稿すると自動的に翌日付になってしまう。正確ならいいってもんじゃないことの見本みたいなものだ。

 まぁそんな話は横に置いておいて、今日は散歩ではなく、ドライブである。福岡市から海岸線を西にずっと行くと、やがて佐賀県に入る。その先に唐津市があるが、そこから玄界灘に向かって伸びる東松浦半島の先端に「呼子(よぶこ)」という小さな町がある。これが今日の目的地である。

 呼子は漁業が盛んで海の幸の新鮮さが売りだが、九州の人たちからすれば、お目当てはズバリ、イカである。「呼子のイカ」というのはかなり有名らしい。それを食べに行かないかと職場の同僚から誘われて、ドライブとあいなったわけである。ここには車でないと行けないので、ちょうどいい機会と話に乗ったわけである。

 福岡を朝出発して、呼子で昼ご飯を食べる段取りで一路西へ。ちょうど佐賀県に入った辺りに浜玉町というのがあるが、ここから唐津に向かって5kmほど砂浜沿いの松林が続く。これは「虹の松原」と呼ばれていて、「日本三大松原」の一つとして国の特別名勝に指定されている。せっかく来たんだから、ちょっと寄り道をする。

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 海岸まで出ると実にのどかで、ずっとここを散歩していたい気分にさせられる。この写真は虹の松原の途中から浜玉町方向を見たところだが、海岸線がゆるく弧を描いて美しい。

 この松林が立派なのは、その厚みである。元々唐津藩が大事に管理していたものなので、海岸線から内陸に向かって1kmくらい松林が続く。松林の中を歩くと、幾つも遊歩道が設けられていて、散策する人、ジョギングする人がたくさんいる。とくかく、ひたすら松が続くさまは見事である。

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 さて、いつまでも散歩しているわけにはいかないので、再び車に乗り込み唐津に向かう。この松林の中の道路は実に気持ちのいい道だ。両側にびっしりと松が並び、道路の上におおいかぶさる松の枝越しに太陽光が路面にこぼれ落ちる。

 そうこうしているうちに松林は終わって唐津に着き、車はここから204号線に沿って北上して呼子を目指す。半島の海岸沿いを走る道にありがちな片側一車線の道路で、車は数珠つなぎになりやすい。今でこそ道路があるからいいが、昔は船で行くしかなかったんじゃないかと思う。

 いいかげん走ったところで呼子に到着。静かな漁業の町で、何ゆえみんながここを目指すのか一見分からないが、イカを料理して出す店だけで、この周辺に20-30軒はあるらしい。海のものなら何でも新鮮でおいしい呼子で、イカだけにスポットが当たるようになったそもそもの理由が良く分からない。

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 取りあえず、イカはどの店で食べてもおいしいらしいが、海中に食事するスペースのある「萬坊」に行くことにした。こんな感じでレストランが海に突き出ている。

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 ここは店の中央に巨大な生簀を持っていて、階下(つまり海の中)の席で食べると、生簀の中を泳ぐ無数の魚や、レストランの外を囲む海の中を見ることが出来るという趣向で、水族館の中で食事をしているようなイメージである。こういう趣向があるものだから、とにかくこむ。着いたのが11時半頃だったのだが、駐車場に車を入れるのに待ち、席が空くのをまた待つ。ただ、水槽の中を優雅に泳ぐ巨大な鯛やら、いさきの群なんか見ているうちに時間が過ぎるので、それほど待つのは苦痛ではない。

 さて、メニューを見て考えるほどのことはなくて、とにかくイカである。他のものを頼む人なんているのだろうか。お蔭であの水槽にいるたくさんの鯛の平均寿命は、福岡市内の料理店の生簀で泳ぐ鯛より、はるかに長い気がする(笑)。

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 呼子でイカを頼むとこういうスタイルで出てくる。もちろん生きていて、足なんか動いている。身は透明で、普通にスーパーで買うイカの刺身のように白くはない。

 呼子の人が他の町に行って、食堂に入ってイカの刺身定食を頼んだら、出てきたイカの刺身が白かったので驚いたという話を唐津の人がしていたが、作り話だとしても面白い。

 ちなみに、刺身を食べた後に残ったゲソは、更に刺身で食べるか、てんぷらにするか、塩焼きにするか、はたまた煮付けにするかなど選べる。

 この「萬坊」という店は、初めてイカシュウーマイを作って売り出した店としても有名らしく、東京でもデパ地下でここのイカシューマイを買えると聞いた。食べてみたが、あっさりとしておいしい。豚肉を使ったシューマイ特有の後味や匂いが一切なくさっぱりとしていた。

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 さて、腹も一杯になったところで周辺をドライブする。呼子のすぐ先に加部島というのがある。以前は船で渡らないといけなかったのだが、呼子大橋という立派な橋が平成元年に建てられ、今では車で渡れる。バブルの頃だから出来たんだろうなぁ。今じゃあ絶対無理と見た。

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 加部島には「風の見える丘公園」という山の上の展望台があり、景色がいいので上がってみた。山と海岸線ばかりだと思っていたが、玄界灘方向に向かっては平地があり、畑も広がっている。

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 この島は他にはこれといって何もないのだが、車を走らせていると釣り人が多い。あとは呼子名物のイカ料理か。けれど、平成元年までは船で渡るしかなかったこの鄙びた島の歴史は驚くほど古い。

 島にある田島神社に立ち寄った。参拝客とていない古ぼけた神社だが、おっとどっこい、その古ぼけ方が尋常ではない。何とこの神社、記録によれば奈良時代には既にあったらしい。江戸時代といわれても驚かんが、一気に飛んで奈良時代となると唖然とするなぁ。だって、その頃ここに人が住んで神社に参っていたわけでしょ。

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 驚きついでにもう一つ言うと、この朽ちかけた石の鳥居は源頼光が寄進したものだ。源頼光って、平安時代に活躍した源氏三代目で、大江山で酒呑童子を退治したり、京の洛北で大蜘蛛を退治した武士だが、そのご寄進ってどんだけ古いんだ。

 この神社には、もう一つ歴史上の有名人が絡んでいる。実はこの神社の裏山に「太閤石」という巨石が祀られている。この岩は、豊臣秀吉が朝鮮出兵に際して必勝祈願した岩で、秀吉自ら槍を突き立てると、山に地鳴りが走って割れたという伝説の岩だ。

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 でもどうしてこんなところに豊臣秀吉が来るんだと不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれない。実は、それは呼子のもう一つの顔と関係がある。呼子は昔からイカだけで有名だったわけじゃなく、歴史的には豊臣秀吉が朝鮮出兵した場所として有名なのである。

 豊臣秀吉は天下統一を果たした後、海外にも支配権を及ぼそうと周辺国に年貢を納めるよう求めた。当時の李氏朝鮮はこれを拒否。怒った秀吉は諸国大名に命じて朝鮮半島に攻め入る。歴史の教科書で「文禄・慶長の役」と呼ばれるのがそれで、1592年から6年間に及ぶ壮絶な戦闘が朝鮮半島で繰り広げられた。

 まず秀吉は、朝鮮に派兵するに当たりこの呼子に「名護屋城」という壮大な城を建設する。出兵のための前線基地みたいなものである。今では石垣しか残っていないが、これがなかなか立派なものである。

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 上の写真は本丸や二の丸、三の丸が建っていた辺りで、城の総面積は17万平方メートルに及ぶ。立派な天守閣もあったようだし、秀吉らしく茶室まで設けられていた。

 こんなところ、この先来ることもなかろうと、本丸までえっちらおっちらと登ることにした。石垣も石段もえらく立派で、地方都市に残る小さなお城など目じゃないという規模である。

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 かくして本丸にたどり着いてビックリ。180度の展望が利くすばらしい風景である。今では碑が立つだけで礎石が方々にあるくらいだが、こりゃ展望台としてだけでも十分な価値がある。秀吉はここから海の向こうの朝鮮半島を睨んでいたんだろうなぁ。実際、空気が澄んでいれば、対馬くらいは見えるらしい。

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 だが、驚くのはまだ早く、実は当時、この城を取り囲むように諸大名の陣地が無数に城の周囲を囲んでいた。確認されているだけで、城を囲む半径3km以内に130の大名陣があったという。

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 上の扇型の図の上に並ぶのは、主要な大名の陣地の場所解説である。この呼子から朝鮮半島に出兵した日本の武士団は、文禄の役、慶長の役でそれぞれ15万人程度。お蔭で、この周辺は巨大な城下町が出来て、十数万人の人間が暮らしていたという。

 本丸跡から朝鮮半島方向を眺めてみた。今日は気温が高いせいで対馬すら見えないが、あの頃の秀吉と同じ視点で見ているだなぁと感じ入った。

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 朝鮮出兵は当初日本軍の圧勝で、あっけなく首都を陥落させ、一旦は朝鮮全土を制圧する。しかし、明軍の加勢や朝鮮水軍の活躍で、日本軍の敗戦は濃厚になる。一部の軍が撤収を始めた1598年8月、秀吉は病死する。天下統一の後に、師であった信長が夢見た海外への雄飛を目論んだ秀吉だが、はかなくも夢に終わったわけである。

「つゆとおち、つゆときえにし、わがみかな、難波のことも、ゆめの又ゆめ」(秀吉時世の句)

 この句は、名護屋城址にもしみじみと響く。

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2010年09月19日

方生会の筥崎宮へ行く

 残暑厳しい中ではあるが、今日もさすらいの散歩に出掛ける。今回は福岡中心部から北北西にある「筥崎宮(はこざきぐう)」へ行くことにした。

 筥崎宮は筥崎八幡宮とも呼ばれ、宇佐神宮(大分県)、石清水八幡宮(京都府)と並ぶ日本の三大八幡宮の一つである。元々の創建がいつなのか不明なくらい古いが、この地には醍醐天皇の勅命で移ってきたらしい。その前はもっと内陸にあったようだ。

 八幡の神は武神であり、源氏をはじめ全国の武士から崇められていたことで有名である。平安後期の武家台頭の旗頭となった源義家も、俗称は「八幡太郎」である。だが、この八幡の神っていうのはそもそも何者かというと、応神天皇のことだとされている。

 日本の天皇家の系譜は神武天皇から始まるが、そこから暫くは神話上の天皇でホントにいたのかどうかは良く分からない。どうやらホントにいたのではないかと言われているのが、この応神天皇辺りからだ。応神天皇は神武天皇から数えて15代目だが、祖父は「日本武尊(やまとたけるのみこと)」だから、その実在性はギリギリセーフの部類だと思う。

 さて、筥崎宮である。こんなところにどうして三大八幡宮の一つがあるかというと、これがなかなか面白い。

 応神天皇の母親は神功皇后だが、彼女は朝鮮半島の新羅に出兵して降伏させ、百済、高句麗も支配下に置いた。日本書紀に出てくる「三韓征伐」だ。その帰りに、福岡で産気づき、この地で男の子を生む。これが後の応神天皇である。この出産の際、膜や胎盤などの胞衣(えな)を円筒状の箱(これが「筥」)に入れてこの地に埋め、目印として松を植えた。で、その松がこれである。

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 その頃植えた松が今この大きさということはなかろうから、真剣に信じては駄目だが(笑)、これが筥崎宮の神木「筥松」である。ただ、皇子を産んだときの胞衣を埋めてその上に木を植えるという風習そのものは、古代の天皇家の下で実際にあったらしいから、まるで作り物の話ではなかろう。

 筥崎宮の参道はとんでもなく長く約1kmある。で、その起点は言うと海なのである。下の写真がそれで、鳥居の前は砂浜である。しかし、これはそんじょそこらの砂浜とは違って、聖なる砂浜とされている。昔の人はここの砂を取って竹かごに詰めておき、家の玄関に置いておく。これを「お潮井取り」と言うらしい。そして出入りのたびに身体に砂を振りかけて身を清めたという。でも、こうして見ている限りは、ただの砂だがなぁ(笑)。

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 今日やって来たのは、筥崎宮の秋の大祭「放生会(ほうじょうや)」の見学を兼ねてのことである。放生会は福岡の三大祭の一つと言われているが、ものすごい見所があるわけでもないらしい。ただ歴史は古く、かれこれ千年以上続いているという。元々武神である八幡大神のお告げがあって、合戦で多くの殺生をしたのだから命を慈しむお祭りをしろと告げられたことが由来と、神社内に説明があった。

 まぁそれにしてもすごい人である。延々と続く参道の両側に700以上とも言われる屋台が軒を連ねる。そこに子供連れも含めて沢山の人が押しかけるから、ゆっくりとしか歩けない。こういうダラダラとした散歩は疲れるんだ。

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 参道が長いものだから、途中で何本かの道路が参道を横切っている。上の写真は海側から数えて2本目の鳥居である。ここから三本目の鳥居である「一の鳥居」までのこみ具合が半端じゃない。屋台の出る祭りの規模としては九州最大とも聞く。その店舗の数を見るとなる程なぁと頷ける。

 「一の鳥居」は1609年に藩主の黒田長政が建立したもので、国の重要文化財になっている。まぁこの鳥居に限らず、古い神社のことゆえ、歴史上の有名人にまつわるものがこの神社にはたくさんある。

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 神社内には奉納された燈篭がいくつも建っているが、そのうちの一本は千利休により奉納されたものである。何故この場所に千利休かというと、豊臣秀吉が九州を平定した際、この神社に滞在しており、それに千利休も同行していたからである。ついでにこの地で茶会まで開いており、利休は砂浜の松に鎖をかけて釜を吊るし、松葉でお湯を沸かしたと伝えられている。今でも九州大学医学部内にその茶会の場所が残っている。

 筥崎宮というと、小早川隆景が建立した堂々たる楼門が有名である。「敵国降伏」の扁額を掲げており「伏敵門」とも呼ばれるが、この敵国降伏の四文字にこの神社の持つ位置づけが如実に表れている気がする。

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 この楼門にある「敵国降伏」の扁額は小早川隆景の書だが、この神社が神宝として保有するオリジナルの「敵国降伏」は、醍醐天皇の直筆である。地理的にも歴史的にも朝鮮半島や大陸の玄関口であり、大宰府を置いて守りを固めていたこの地に、縁故ある武神である応神天皇=八幡大神を祀り、「敵国降伏」の額を掲げる。もう日本の防衛ラインそのものだ。

 現に元寇の際には、この辺りは合戦場となり一旦筥崎宮も焼け落ちている。だが、八幡大神も黙ってやられたわけではなく、このとき嵐を呼んで元の軍船を沈めたのは、この筥崎宮に祀られている八幡大神だと信じられたようだ。お蔭で、武士・軍人から篤い信仰を集め、「一の鳥居」の横にある巨大な石碑は、東郷平八郎の揮毫だったりする。

 さて、お祭りの人だかりに疲れてきたので、筥崎宮を離れて、1kmほど南にある「東公園」を散策する。福岡県庁の向かい側にあり、その更に向こう側は、千利休の茶会の開かれた九州大学医学部というロケーションである。

 東公園というと、この方の像がドーンと中央にあって有名だが、これは亀山上皇である。

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 亀山上皇は何をしたかというと、これまた元寇と関係がある。亀山上皇は院政中に二度の元寇を経験している。この際、伊勢神宮に参拝し敵国降伏を祈願したと伝えられている。ここまで元寇一色となると、もう福岡のトラウマという気がしてきたなぁ。

 ついでに言えば、東公園には元寇を予言したという日蓮上人の巨大な銅像もある。何故ここまでと思うが、東公園一帯は元寇時の古戦場であることは間違いないようだ。

 そろそろ歩き疲れたので家路にとも思ったが、せっかくここまで来たからと、更に足を伸ばして西側の御笠川まで行く。ここに面白いものがある。そいつがこれである。

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 この碑にまつわる風土記の話はこういうものだ。

 聖武天皇の時代に筑前の国司として京からやって来た佐野近世は、帯同した妻がこの地で死に、娘一人を抱えることになった。やがて現地で後妻をもらうが、後妻は前妻の娘が疎ましくなり、地元の漁師を抱き込んで謀議を企てる。漁師は、前妻の娘が漁衣を盗みに来るとして国司に訴え出る。父親である国司が夜、寝屋を見に行くと、濡れた漁師の衣をかぶって前妻の娘が寝ている。怒った父親はその場で娘を殺してしまう。やがて死んだ娘が夢に現れ、国司は全て後妻の陰謀だったことを知る。

 この逸話が「濡れぎぬを着せる」の語源だと貝原益軒は述べているが、当の国司は後妻と離縁し、自らは出家したと風土記に書かれている。今に残る「濡衣塚(ぬれぎぬづか)」の巨大な石碑が、その国司が建てたものかどうかは検証されていないが、南北朝以前の作らしく、福岡県の指定有形文化財になっている。

 さて、今日の散歩は距離的には5km程度だろうが、方生会の人ごみの中を歩いたせいか、思いのほか疲れた。やはり散歩は静かなところを歩くに限る。でも、色々見て、良い散歩ではあった。

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2010年09月16日

長崎-亀山社中まで朝散歩

 出張で長崎まで来て昨夜は長崎泊。今どきNHK大河ドラマの「龍馬伝」のお蔭で観光客が殺到していて宿が取りにくいらしい。現地の人にお任せで取ってもらったら、山の上の観光ホテルとなった。修学旅行生が泊まる昔ながらの宿で、昨日も某小学校と同宿だった。

 この種のホテルは建物の造りも部屋の造りも如何にも団体向けで、割り当てられた部屋に入ってビックリ。何と三人部屋である。「ハ〜イ、6年2組のC班の三人はこの部屋!」みたいな使い方がされているのだろうか。荷物がたっぷり置けるように部屋の中が妙に広い。こんな造りの部屋に一人で泊まるのは初めてだ。

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 廊下を歩くと小学生とすれ違う。そういえば、私の高校時代の修学旅行は九州で、長崎にも来た。原爆記念館とグラバー邸に行ったのは覚えている。長崎に泊まったかについてはやや記憶が怪しいが、島原にも行ったから泊まりは長崎ではなかったかもしれない。いずれにしても、何十年もたってから仕事で長崎に来るとは思ってもみなかった。

 長崎は平地が少なく、急な斜面にへばりつくように家が建っている。自転車が全く役に立たない町で、徒歩ですらつらいと思う。今回泊まった旅館も山のかなり上の方にあり、ホテルのマイクロバスでやって来た祭には、こんな道をホントにバスが上がるのかと驚異の連続だった。お蔭で部屋の窓からの眺めはすこぶるいい。

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 だが、この宿に泊まって、夜にちょっと街まで出ようかという気分には決してならないだろう。出たら最後、歩いては到底戻って来られないし、タクシーの運転手がホテルの場所を知らなかったら、万事休すである。

 現地の人に話を聞くと、長崎ではビジネスホテルは後発組らしい。最近になって有名チェーン系のビジネスホテルが駅周辺に出来てきたようだが、昔はもっぱら観光旅館風のホテルが主流で、しかもほとんどが団体、ことに修学旅行生を受け入れるように作られているらしい。

 そんなわけで、今回の朝食も大きなホールのようなところで、ホテルの宿泊客全員がバイキングで食べるという、どこか懐かしいシステムになっている。和洋食なんでもありだが、ちょっとさえない感じのメニューである。これもまた妙に懐かしい感じだ。

 私は以前、地方に出張に行くと、朝はホテルで食べずに7時過ぎ頃から散歩方々外に出て、歩いていった先で適当に朝ご飯を食べるというやり方を取ってきた。これは出張時に乗り物ばかり乗って運動不足になるのを解消するのと、早朝の散歩が脳の目覚めにいいからだ。

 だが、このホテルのロケーションでは、食事が出来るところ(下界)まで降りると再び歩いて登って戻れないことが確実なので、朝食付の早朝散歩は無理だと判断。その代わり、チェック・イン後、長崎出発までの時間を使って朝の散歩をすることにした。目指すは「亀山社中」である。

 長崎の観光名所は色々あるだろうが、「龍馬伝」の現在のストーリー展開から言えば、グラバー邸と亀山社中が旬だろう。このうち亀山社中は、観光客が行くにはなかなかしんどい場所にある。山の途中にあって、かつ車でのアクセスが出来ない。足の不自由な人はもちろん、歩きに自身のない方、肥満で階段を2-3階分登ると息切れがする人、高齢の方、いずれも無理そうである。

 「休日ウォーキング・マニア」としては、上記のいずれにも当てはまらないと判断し、何の迷いもなく挑んだ。チンチン電車の新大工町側から登り始める。最初はゆるく登り、すれ違うのがやっとの狭い路地に入ってからが階段と坂道の連続。休みなく一気に登る。よくもまぁこれだけ細い路地と階段の両側に家を建てたものだと感心する。工事車両が一切入れない中、いったいどうやって家を建てるんだろうか。

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 途中の開けたところから、登ってきた方角を携帯電話で写真に撮る。かなり眺めがいいが、亀山社中までにはまだ先がある。道の途中で「あと○メートル」なんて手書きの表示があって、へばった観光客を鼓舞しようとする地元の人の温かい気持ちが伝わってくるようだ。ここに住んでいる人から見れば、この坂道や階段は日常生活で使う当たり前の道だ。それを思うと、ここで息切れしている運動不足の観光客は長崎には住めまい・・・。

 こんなところに亀山社中があるということは、既に江戸時代から山の斜面に家があったということになるが、いったいどうやって建てたんだろうかと思う。それに、龍馬たちはこんな場所にある家をよく探してきたもんだと驚く。長崎の街の中に潜んでいた浪士たちを長崎奉行所はなぜ簡単に見つけられないのかとドラマを見て思ったが、ここに来て分かった。探しに上がってくるのが大変なのだ(笑)。

 そんなアホなことを考えつつひたすら階段を登る。さすがに休みなしの一気登りはしんどいわいと思っているところで亀山社中に着く。

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 平日だし午前9時の開館とほぼ同時なので、誰もいないだろうとたかをくくっていたら、どっこいけっこうな数の人が来ている。これも大河ドラマ効果だろうか。門をくぐって記念館に入る。昔ながらの建物に長崎市が修復をほどこして内部を公開している。

 部屋といっても見渡す限りしかない。ドラマで見ているともう少し広いところかと思ったが、意外に狭い。こんなところに何人もの脱藩浪士たちが起居を共にしていたのかと驚く。

 しかし、龍馬伝が放映されるまでは、ここを訪れる人は一部のマニアにとどまっていたのではないかと思う。いや今でも、ここに団体旅行の観光客が大挙して押し寄せることはあるまい。だいたい、バスを止められるところからここまで余りにアクセスが悪い。あの狭い坂や階段の途中でへばった人が出たら、観光ガイドは困ってしまうだろう。

 ここまでの道中を考えると、この先二度と来ることがないような気もしたが、いずれにせよ良い散歩だった。

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2010年09月12日

旧唐津街道を歩く

 今日は午後から天気が崩れると言っていたので、出掛けるなら午前中しかないため、遠出はやめて比較的近場を歩くことにする。といっても、ただ近所を歩くのはつまらないので、旧唐津街道をたどってみることにした。

 唐津街道は、江戸時代に参勤交代にも使われた道で、起点は今の北九州市らしい。終点は名前のとおり佐賀県唐津市。毎年11月に行われる「唐津くんち」というお祭りで有名な城下町である。

 今回の散歩の起点は「黒門」である。地下鉄空港線が地下を走る明治通りと、大濠公園にそそぐ黒門川の上を通る黒門川通りの交差点辺りということになる。

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 旧唐津街道は、今のメインの幹線とは必ずしも重なっていない。ちょっと見ると脇道みたいなところが多く、そこが散策にはうってつけな点である。まず驚くのは、この辺りの唐津街道は、アーケード付の商店街になっている。唐人町商店街というのがそれで、どう見ても街道っぽくない。

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 今日は日曜の上、時間が早いのでほとんどの店のシャッターは降りていて、静かなものである。この商店街の中に、黒田藩御用達の和菓子屋「加美屋」もある。創業は二百数十年前というから、やはりここは唐津街道だったんだなと思わせる。

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 商店街が終わったところで、唐津街道は90度曲がり南側に下りていく。分岐点の先にはお寺の山門が見えるが、これは善龍寺の門。掲げられている「瑞雲」の扁額は、江戸時代の西学問所「甘棠館(かんとうかん)」の館長「亀井南冥」が書いたとされている。

 ちなみにこの西学問所は、この商店街のすぐ近くにあったようで、今でも跡地に碑が立っている。

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 私は藩校については詳しくないが、博物館かどこかで見たビデオによれば、福岡には東西二つの藩校があったらしく、こういう形態は珍しいと解説されていた。東西の藩校は競い合ったが、西学問所の方が自由の気風あふれる藩校だったと伝えられている。ところが、江戸後期になって「寛政異学の禁」が発せられ朱子学以外の学問が禁じられた辺りから衰退し、やがて館長の南冥は罷免される。挙句の果てに学問所が火事となり焼失してしまったという。

 さて、話を唐津街道に戻し、先を急ごう。南に進路をとった唐津街道は、明治通りを過ぎた辺りで再びゆるやかに90度曲がり、明治通りの裏道のように並行して西に向かう。日曜の朝ということもあり、ほとんど人通りのない静かな道を歩く。散歩というのはこういう道こそがふさわしい。

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 この辺りは今川という住所表示だが、旧町名を西町というようだ。道沿いの公園にもその名が残っている。そして、更にこの西側に新しく出来た町が「西新(にしじん)」である。

 唐津街道は西新に入ると再び商店街になる。

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 西新の商店街は活気があるだけでなく、農家からリヤカーで野菜などを売りにくる人々が通りに店を広げ、多くの人で賑わうことでも知られている。今日は日曜だからか誰もいないが、それでもシャッター通りとなっている地方の商店街とは大違いだ。

 唐津街道はこの先、商店街の中を通って藤崎で明治通りと交わる。交差するところが変則4差路となっており、交通渋滞する地点とも聞く。

 さて、ちょっと歩き足りないので西新まで戻り、今度は昨日の続きで、防塁を見に行くことにする。西新の防塁は西南学院大学のキャンパス内にある。ここに行く交差点の名前がズバリ「防塁」だが、知らない人が見たらどういう命名なのか首を傾げるかもしれない。

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 西新の防塁は二つの点で興味深い。

 まず第一は、防塁というのは今では地中に埋まっているということが分かる。高いものでは3メートルの高さがあったという防塁が埋まっているということは、鎌倉時代から現在までに、それだけ地面が盛り上がったということだろう。

 もう一つは、鎌倉時代までここは海だったということだ。元軍の上陸を阻止するため海岸線に築かれたはずだが、埋め立てがドンドン進み、今ではここから海まで1kmはある。ここから北側の街並みが全て海だったというのも、なかなか想像しがたい話だ。

 西新はいわゆる学生街で、明治通りに面してもう一つ、県立修猷館高校がある。

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 先ほどの藩校の話に出てきた東学問所の名前が修猷館で、学問所自体はここ西新ではなくお堀端にあったと伝えられている。ただ、血筋としては今の修猷館高校は学問所の系譜に属するらしい。

 そうこうしているうちに雨がポツポツと降ってきたので、家路を急ぐこととする。かくして2時間半程度の散策。距離にして4-5kmくらいは歩いたろうか。

 家に帰ると自炊で昼食。今日は、海鮮スパゲティーとする。

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 ゆでたスパゲティーにピエトロの「スパドレごま醤油ガーリック」をからませて、トッピングに冷凍シーフードミックスを乗せただけ。あとはサラダとコーンスープ。実にヘルシーだ。

 夜のおかずは西新のダイエーで買ってきた鯛の刺身を食べる予定。いつも思うのだが、単身者には買って来るおかず、特に魚は量が多い。これも398円だが2−3人前はあるだろう。

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 刺身好きの私は週末ごとに色々な刺身を買って来て食べているが、こちらでは最小単位のパック入り刺身が、たいてい398円である。だが、量としては少なくとも2人前、多いときには5-6人前だろうというすごいボリュームとなる。どう考えてもご飯と刺身のバランスが取れない。でも398円より安いパックなんて作っても商売にならないから、望んでも仕方ないと諦めている。

 さて、夕食までは読書と行くか。

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2010年09月11日

生の松原-元寇防塁跡

 突然、何の前触れもなく、ブログでも始めようかと思い立ち、深夜にともかくも立ち上げてみた。単身赴任の夜の暇つぶしみたいなもので、毎日更新なんてことにはならんだろうと最初から諦めている。まぁ自分自身の生活記録のつもりだ。

 8月の上旬に東京から一人でやって来て、前任者の住まいを引き継ぐ形で生活がスタートしたが、当初の2-3週間は買い物やら街の様子見やらであっという間に過ぎ去った。さて生活が落ち着くと、独り身のことゆえ休日にある程度自由時間ができ、せっかく福岡に住んでいるのだから、健康管理かたがた戸外に出掛けて色々見てみるかということになる。

 単身赴任仲間に聞くと「趣味は街歩き」という人が多いが、運動不足解消とプチ物見遊山、更に言えば金のかからない時間つぶしと、三つの要素がうまく組み合わさった趣味だからだろう。

 私の場合は東京にいたときから休みの日の午前中に散歩に出掛けていたから、歩くのは苦にならない。おまけに炎天下に強い。他の方々と違って、真夏に帽子も被らずにカンカン照りの中を歩いても、ちっとも熱中症にならないという特異体質である。

 そんなわけで、猛暑の中にもかかわらず、新しいコース開拓にと休みの日ごとに歩いて周り、少しずつルートを増やしている。概ね歩いていける範囲は見たので、今日は電車に乗って少々遠くまで出掛けてみるかと思い立った。

 本日の目標は、「生の松原(いきのまつばら)」の散策。砂浜に延々と松林が続く「白砂青松」の景勝地である。地下鉄空港線の終点である「姪浜」からJR筑肥線で一駅のところにある。

 JR筑肥線は、地下鉄と違って本数が少ないので、あと一駅なのに姪浜駅で10分以上待つことになる。ホントは時刻表をきちんと調べてくれば、JR筑肥線に乗り入れている地下鉄に最初から乗って来れるのだが、敢えてそんな計画的なことはしないことにしている。

 私の散策はいつも気まぐれなところがあり、計画表に沿ってきちんと行くというのが嫌いなのである。足の向くまま気の向くまま、やや行き当たりばったりで行く。ちょっと迷子になったりもするが、それもまた楽しいと思っている。だから、そうそう事前に下調べはしない。だってそんなことしてたら、行く前に疲れちゃうでしょ?

 さて、ようやくやって来た電車に乗り下山門駅で降りる。思ったより小さな駅で、踏切りを渡ると、もう駅がどこにあるのか分からない。生の松原は駅から歩いてすぐだ。ちょっと歩いただけで、辺りは松が至るところに生えている。

 松林を抜けて海に出る。海沿いには石畳の遊歩道があって、歩きやすい。目指すは元寇防塁跡である。

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 福岡は、鎌倉時代にモンゴル帝国の尖兵隊が侵攻してきた時の主戦場である。戦いは大きく二つあり、当初のものは1274年のいわゆる「文永の役」。このとき日本の武士と元軍との戦い方は大きく異なり、緒戦では日本軍は元軍に圧倒された。というより、日本の流儀で戦おうとした日本の作戦負けである。それでも上陸を許したあとは、今の福岡市内で猛烈な地上戦が行われ、けっこう日本は勝っていたようだ。で、最後は神風が吹いて、元軍は諦めて帰る。この辺りは有名な話だ。

 次の戦いは1281年の「弘安の役」だが、前回の教訓を元に日本側は策を練っていた。その一つが元寇防塁である。海岸線に20kmに及ぶ石垣を作り、元軍の上陸を阻止しようとしたのである。

 当時の防塁は、おおかた失われてしまっているが、福岡市内の何箇所かに部分的に残っているものを見ることが出来る。ただ、今では埋め立てが進んでいるので、海岸線ではなく町中にあるものも多いのだが、生の松原にあるのはまさに海岸線に沿っており、如何にも当時の風情をしのぶことが出来る。そいつがこれである。

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 こんな石垣を延々20kmも築いたというのは、今では考えられない壮大な事業だが、きっと元軍が怖かったんだろうなぁ。1回目の文永の役の時には、非戦闘員の住民が極めて残虐な方法で無数に殺されている。福岡市内も火をつけられて全焼し、相当な被害だったという記録が残っている。

 さて、元寇防塁を見た後は、海岸線をのんびりと散策。東の方まで歩くと石畳の遊歩道は途切れ、砂浜となる。砂浜を歩くなんて実に久しぶりだが、ほとんど人もいなくていい雰囲気だ。海にはヨットがたくさん出ていて、昔ここで激しい戦闘があったなんて想像も出来ない。

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 砂浜で一枚写真を撮った。向こうに見える島は能古島(のこのしま)。元寇の際には、この海は無数の元の軍船によって埋め尽くされていたはずである。

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 砂浜の一角に突然鳥居が立っている。これは生の松原にある壱岐神社の鳥居。海側から入り松林の参道を行くと本殿に行き着く。なかなかしゃれたロケーションである。せっかくなので、ちょっと遠回りになるが「生の松原海岸森林公園」の中の遊歩道を歩く。季節は既に秋に向かっており、夏の終わりを告げるつくつくぼうしの大合唱だった。

 ここまで歩いて約4km。今日も良い散歩であった。

posted by OhBoy at 23:14| 日記