2010年10月31日

曇りのち雨

 今日はヘリコプターの音で目が覚めた。フトンの中で半分寝ぼけながら「福岡シティーマラソン」の日だったことを思い出す。

 マラソンといっても、どうもフルマラソンではなく、ハーフと5kmコースの二つを走るらしい。そうはいってもハーフで21km。おいそれと素人が走れる距離ではない。歩くったって、かなり疲れる距離だ。

 今日の福岡は朝からどんよりと曇り、昼にかけて天気が崩れるという予報だが、マラソンの方はきっぱりと「雨天決行」。気合の入り方が違うんだろうなぁ。お蔭で朝っぱらからヘリが飛ぶわけだ。

 それに比べて志の低い私としては、雨の日に散歩は嫌だなと朝から様子見を決め込む。しかし、いつまでたっても雨は降らない。雨雲の動きをネットでチェックすると、午後はやはり雨雲がかかる予報だ。

 散々迷ったが、買い物の用もあったので、西新までミニ散歩に出かける。雨が降り出せば地下鉄で帰ろうという作戦である。

 普通に行ってもつまらないので、裏道を通って行くことにする。表通りが街の玄関とすれば、裏道は街の勝手口みたいなものだ。家並みを見ているだけでも楽しいし、車が通れないような路地で珍しいものを発見することもある。更に、見ず知らずの新しい道を通っていると、だれることなく歩き続けられるというメリットもある。この辺りはウォーキングを楽しむ上での自分なりの秘訣である。

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 柿の実が赤く色づき、イチョウの葉が黄色くなり始めたのを見やりながら、狭い路地を歩く。古いお寺の向こうにヤフードームが見えたりして、新旧入り混じった不思議な光景にも出会う。

 途中、住宅地の中で元寇防塁跡の案内板を発見したが、案内板の立つ囲いの中を見てもどこにも石垣が見えない。柵で囲われた向こう側は一般の民家なので、あんまりジロジロ見るのもどうかと思って諦めたが、あれはいったい何だったのだろう。もしかして「ここに元寇防塁が埋まっています」という印だろうか。こんな謎めいた発見も、裏道散歩の楽しみだ。

 あちこち観察しながらやがて西新に着き、買い物ついでに方々を見て回る。本屋に寄って新刊本をチェックし、少々立ち読み。最近の新書本には、おっと人目を引くような題名を付けておいて、中身はさして見るべきものがないというケースがある。昔の新書は、題名は地味だが中身はギッシリだったような気がする。「新書の週刊誌化」ということだろうか。ちょっとした専門雑誌の特集を引き伸ばして本にしたような新書が増えた。

 さて次はどこを見るかと外に出ると、額にポツリと雨粒が…。これはいかんとばかりに帰り始める。曇天の散歩というのは、毎度こういう結末をたどる。もっと早く家を出ていれば雨に遭うこともなかったろうにと、いつも悔やむことになるのだ。

 そうはいっても、一応折畳み傘を持って来ているので、心に余裕はある。まだ本降りには時間があるだろうと、明治通り沿いの寺社を覗きがてら帰ることにする。最初は「浄満寺(じょうまんじ)」である。

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 浄満寺は浄土真宗本願寺派の寺で、住所で言えば地行2丁目にある。何でここに立ち寄ったかというと、昨日のブログに書いた、「漢委奴国王」の金印が奉行によって鋳潰されるのを救った福岡藩西学問所「甘棠館」館長「亀井南冥(かめいなんめい)」の墓があるからである。不遇のうちに亡くなった南冥だが、彼が鑑定した金印は、国宝として福岡市博物館に展示されている。彼の偉業を偲び合掌。

 ついでに斜め前にある「鳥飼八幡宮(とりかいはちまんぐう)」にも立ち寄る。縁結びを全面に出して売り出している今風の神社に見えるが、驚くなかれ、ここも昨日ブログに記した神功皇后の三韓征伐に関係するスポットの一つである。

 神社の縁起に寄れば、神功皇后が三韓征伐から凱旋し「姪浜(めいのはま)」に上陸した日の夜、「鳥飼村平山」という地で宿泊した。この時、地元の鳥飼一族が夕べの宴を催したところ、懐妊中の皇后はたいそう喜び、お腹の子供(後の応神天皇)の将来を祝って重臣たちにも酒を勧めたという。これを記念して鳥飼一族が建てたのが鳥飼八幡宮というわけである。鳥飼というのは、このすぐ南側の地名でもある。

 しかしこうして見ると、神功皇后にまつわる伝説って、福岡周辺にたくさんある。ネットで調べてみると、神功皇后の残した足跡というのは、福岡周辺に限らず九州一円にあるらしい。しかも、三韓征伐前後の話としてはストーリーがうまく合っている。

 神功皇后は宮内庁でも実在の人物と認めており、陵墓は奈良市にある「五社神古墳(ごさしこふん)」と発表しているが、夫の仲哀天皇が神話上の英雄「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の子供だというのだから、仲哀天皇と神功皇后って、本当に実在したのかを疑問視する説もある。だが、これだけたくさんの神功皇后関連の伝承が九州各地に残っているということは、少なくともそのモデルになった女性が誰かいたのだろう。戦前には、同年代の魏志倭人伝の卑弥呼が神功皇后だという説があったが、ホントはどんな人物だったのだろう。

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 ところで面白いことに、この鳥飼八幡宮にも「不老水」がある。神社の説明書きを読むと、本家本元の不老水を擁した武内宿禰を祀る「黒殿神社(こくでんじんじゃ)」が、鳥飼八幡宮の末社に当たるからという繋がりらしいが、ホントの不老水は昨日行った香椎にある。地下で水脈がつながっているわけでもあるまいし、何でこっちにも不老水が湧くのか不思議である。水そのものは地下水らしいが、ここの水では武内宿禰のように300年も生きられんだろうなぁ(笑)。

 そうこうしているうちに、雨は霧雨状ながら間断なく降り始めた。空も暗くなってきたので、本降りも近いだろう。家路を急ぐのが吉と見て早々に退散することにする。

 ちょっと歩き足りないが、土砂降りの中の散歩は勘弁願いたいので、今日のところは我慢しよう。
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2010年10月30日

志賀島と三社巡り

 今日は休日だが、朝から職場の行事があって福岡市郊外まで出掛けた。目的地は香椎方面なのだが、交通の便が悪いところなので、自前の足があるわけではない私は職場の同僚の車に同乗させてもらった。

「香椎(かしい)」といっても、福岡以外の方には馴染みが薄いかもしれない。福岡市の東北方向にあり、歴史的には古い地区だが、今では福岡市のベッドタウンみたいな場所だ。埋め立てが進み、街並みも新しく、一見するだけでは歴史のある町には見えない。ここ出身の有名人としては、チューリップのリーダーの財津和夫がいる。

 さて、昼過ぎに行事は終わり、せっかくこの辺りまで来たのだからと、ドライブを兼ねて「志賀島(しかのしま)」まで遅めの昼食に出掛ける。目指すは「サザエ丼」である。いや、漫画のサザエさんじゃなくて、本物のサザエである。

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 志賀島は島と称しているが、実は微妙に九州側とつながっている。1km程度の長さの細い砂州で結ばれており、これを「海の中道」と言う。志賀島に行くには、他に福岡市内の博多埠頭から出る渡船で海路をたどる方法もあるが、島内には交通手段がないためみんな車で行くようだ。車を持っていない私としては、海の中道経由で志賀島に渡るのは、これが最初で最後になる気がするなぁ。

 今の志賀島は漁村の町である。夏の海水浴や魚釣りを別にすれば福岡の人がわざわざ出掛けることはないと思う。そんな鄙びたところにわざわざ出かけたのは、上に書いたようにサザエ丼を食べるためだ。

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 志賀島の集落は2、3箇所あるようだが、海の中道を渡ってすぐのところにある集落の、これまた路地裏にある「中西食堂」を訪ねる。「こんな目立たない店よく知っているなぁ」と案内してくれた同僚に言ったら、「ここは有名な店ですよ」と言われた。店内は町中の小さな大衆食堂といった感じだが、壁には有名人の色紙が一杯貼られている。なるほどと思ったが、こんな店、初めて来た人はとても見つけられないよ。

 サザエ丼は卵丼ベースに具がサザエという感じでおいしい。つぼ焼きも頼んで合わせて千円也。うん、安い。

 せっかく志賀島まで来たのだからと、有名な「漢委奴国王」の金印が発見されたところを見に行った。

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 漢委奴国王印は、日本史の教科書に写真入りでよく出ているので、歴史が苦手な人でも知っていると思う。記録によれば、1784年に志賀島の南端で地元の百姓が土地を耕していたところ巨石に突き当たり、その石をどけたら、その下に石に囲まれた空間があり、金印があったと伝えられている。驚いた百姓は奉行所に届け出て奉行預かりになったが、一旦は鋳潰して金として保有されかかったという。そのとき鋳潰されていたら、この国宝は闇に葬り去られていたわけだ。

 ところが、その話を聞いて待ったをかけたのが、福岡藩の西学問所「甘棠館」館長だった亀井南冥である。「それは貴重なものだから譲り渡せ」と奉行に掛け合い、南冥が引渡しのために提示した額が巨額だったのに驚いて、しぶっていた奉行が金印引渡しを許可したという逸話が残っている。南冥は、話を聞いて「後漢書東夷伝」に出て来る「後漢の光武帝が奴国から来た使者に金印を授けた」という記述を思い起こしたわけである。そして、金印を鑑定し「金印弁」という鑑定書を書いたのも南冥である。

 しかし南冥のその後は不遇である。江戸後期になって「寛政異学の禁」が発せられ朱子学以外の学問が禁じられた辺りから甘棠館は衰退し、やがて南冥は館長を罷免される。挙句の果てに学問所が火事となり焼失してしまったという。失意のうちに生涯を閉じた南冥だが、金印を守ったというその一点だけでも、充分歴史に貢献したと言えるのではないか。

 さて、腹も一杯になったところでそろそろ帰るかというムードもあったが、「せっかくこっちの方まで来たんだから三社巡りでもどうですか」と誘われた。香椎近辺の人が初詣に訪れる有名どころの三つの神社を周ろうという趣向だ。面白そうなので話に乗った。

 香椎方面で観光拠点と呼べるものはあまりない気がするが、神社は古くて立派なのがある。まずは「香椎宮(かしいぐう)」だ。

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 香椎宮は正確には神社ではないかもしれない。古くは「香椎廟」と呼ばれており、「仲哀天皇」を祀る墓所、つまり天皇陵である。

 西暦200年頃に仲哀天皇は九州平定のために遠征してきて、この地に「橿日宮(かしひのみや)」を建て、妻の神功皇后と住んだ。ところがある日「海の向こうにある朝鮮半島を与えよう」という神のお告げにそむいて、「そんな土地は山に登っても見えない」と仲哀天皇が答えたものだから、神罰により死んでしまう。悲しんだ妻の神功皇后が、橿日宮に祠を建て天皇を祀ったのが、この宮の起源とされる。

 このとき神功皇后はお腹に仲哀天皇の子を宿しており、これが後の応神天皇である。そして神功皇后は、さきの神託に従い懐妊したまま軍団を従えて朝鮮半島に渡り、新羅、高句麗、百済を平定する。これが日本書紀に書かれた有名な「三韓征伐」である。この三韓征伐の話はつとに有名で、後に豊臣秀吉が文禄・慶長の役で朝鮮に出兵する際の大義名分にも使われている。

 さて、この香椎宮には面白いものが二つある。まずは、香椎の名前の由来になった椎の木である。「官掛椎」というのだが、下の写真がそれだ。

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 縁起によれば、神功皇后は、夫である仲哀天皇の遺骸を棺に納めてこの椎の木に立て掛け、その前で御前会議を開いた。そうしたら、椎の木から芳しい香りが漂ってきたと伝えられる。その故事から、この地が香椎と呼ばれるようになったらしい。

 ちなみに、この椎の木の更に奥には、仲哀天皇の大本営跡があり、「古宮」と呼ばれている。

 さてもう一つの見所というか、味わいどころは、ズバリ「不老水」である。これは香椎宮のというより、「武内宿禰(たけうちのすくね)」の所有物ということになろう。

 武内宿禰は、「古事記」や「日本書紀」に出て来る有名な重臣で、大和朝廷において初期の5人の天皇に使えた。後の有力豪族の祖先とされるが、記録上は300年近く生きたことになっており、いわば伝説中の人物ということになろうか。その武内宿禰は、仲哀天皇・神功皇后に付き添ってこの地まで来ており、皇居であった橿日宮の近くに邸宅を構えていた。そして、彼が何百年も長生きできた秘密というのが、邸宅内に湧き出ていた長寿の水を飲んでいたからと伝えられている。これが不老水である。

 その邸宅跡も不老水も今でも残っているというから驚きだ。で、邸宅跡はこの際省略して不老水だけ紹介しよう。下の写真がそれだ。

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 香椎宮から10分程歩いたところにあり、入り口には鳥居が立ち、祠の中にこの井戸が鎮座ましましている。「日本名水百選」にも選ばれているようで、今でもこんこんと水が湧いている。

 古くから皇室に献上されている神水だが、勝手に汲んで飲んでいいらしく、水を汲みに来る人がたくさんいる。せっかくだからと一杯コップに受けて飲んでみた。地下水にしてはそれほど冷たくない。水を汲みに来た人に訊いてみたら、1年中こんな温度だという。何はともあれ、これで私の寿命も百年ほど延びました(笑)。

 さて、香椎宮を離れて、今度は三社巡りの二番手「宗像大社」へ行く。宗像大社は香椎宮から数十キロ離れていて、車で行ってもそれなりに遠い。

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 宗像大社は「宗像三神」を祀っている。三神とは「田心姫神(たごりひめのかみ)」「湍津姫神(たぎつひめのかみ)」「市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)」であるが、いずれも女神で「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の子供である。

「そんな神様聞いたことがない」という人が多いと思うが、広島にある日本三景の一つ「厳島神社(いつくしまじんじゃ)」も同じ神様を祀っている。ちなみに広島の厳島神社は、全国に500あると言われる厳島神社の総本社だが、その厳島神社でさえ、この宗像大社の下に位置している。つまり宗像大社は、全国に散らばる宗像、厳島の総本山に当たる神社なのである。

 この宗像大社は、実に面白い構成となっている。三人の女神を祀っていると書いたが、その三人が全てこの社屋に祀られているわけではなく、上の写真の神社には市杵島姫神だけが祀られている。で、残りの二人の神様は、それぞれ沖合いの島に祀られている。

 宗像の沖合いにある「沖ノ島」の「沖津宮」には田心姫神が、「大島」の「中津宮」には湍津姫神がそれぞれ祀られ、この三宮を総称して宗像大社と言っているのである。だが、残りの二人の神にお参りするのは大変なので、神社の奥に沖津宮、中津宮の分霊を祀る「第二宮」と「第三宮」がある。

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 上の写真は第二宮を撮ったものだが、隣にある第三宮も同じような造りである。実はこれ、伊勢神宮の式年遷宮で使われなくなった別宮の「伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)」と「伊佐奈弥宮(いざなみのみや)」を使って作られている。伊勢神宮はご存知のように天照大神を祀っているが、こちらの宗像大社はその娘の三神を祀っており、お互い親密な関係にある神社のようだ。

 ちなみに、田心姫神を祀る沖津宮は、玄界灘に浮かぶ周囲4kmの孤島「沖ノ島」にあるが、ここは島自体が神域とされ、祭礼以外の上陸は許可されていないばかりか、今でも女人禁制である。またこの島からは、石器時代以降の十万点に及ぶ刀剣、銅鏡、土師器、陶器、馬具類のほか、各種装飾品が出土しており、中には遠くペルシャの品もあるという。これらは全て国宝・重要文化財に指定されていて、島自体「海の正倉院」と呼ばれている。

 さて、この宗像大社の裏山にはなかなか興味深い領域がある。「高宮祭場」という名がつけられた空間だが、こんな場所である。

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 神社の説明では、宗像三神がここに降臨したと伝えられているが、本来はそういうものではなく、遠い古代の神事を執り行った聖域であろう。現に案内板にも、社殿が建つはるか以前からここで祈祷が行われていたとあるし、周辺からは祭祀関連の遺物が発掘されているという。

 太古の昔に神職が神に祈りを捧げ、依代(よりしろ)に神を憑依させて宣託を聞くという祭祀が執り行われていたが、そうした依代は当時、巨木や巨石を使っていたらしい。これを「神籬(ひもろぎ)」「磐境(いわさか)」というが、この古式にのっとった祭祀がここに伝えられており、今でも当時と同じ方式で儀式が執り行われると聞く。要するにここは、起源すら定かでない古代祭場なのである。

 そもそも宗像地方は、645年の大化の改新により国郡里制が敷かれた際、「神郡(しんぐん)」という特別な郡として指定されている。この地方を支配していた宗像一族が神社を管理することとなったが、その中心に位置していた神社が宗像大社である。従って、遠い昔からこの神社領域は、大いなるいわく因縁のある神事の中心だったはずである。

 さて、そんなふうに古代に思いを馳せているうちに時間はドンドン過ぎていくので、三社参りの最後の神社「宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)」へと急ぐ。宗像大社からは30分くらいだったかな。

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 宮地嶽神社は、先ほど香椎宮の謂れで出てきた神功皇后を祀っている。古事記や日本書紀によれば、神功皇后が三韓征伐の前に宮地嶽という山の頂上に祭壇を設け、海に向かって祈願をしてから船出をしたとある。その山の中腹に建っているのが宮地嶽神社で、創建は約1600年前にさかのぼるという。

 確かに、この神社からは海が望め、神社への参道も海から始まっている。本殿から見ると参道が海に向かって一直線に伸びる眺めがなかなか美しい。

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 この神社は、神功皇后を祀る1600年の歴史を持つ由緒正しい神社なのに、変な趣味があるのか、「日本一大きい○○」が好きらしい。境内に、この日本一大きいものを3つも飾っている。

 まずは注連縄。一見して驚くほど大きい。直径2.5m、長さ13.5m、重さ5トンという。3年に1度掛け替えられ、そのために約2反の神田に昔ながらの稲を植えていると説明がある。そのために奉仕する人延べ1,500人。何もそこまでしなくとも、十分名のある神社なのにと思ってしまう。

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 ついでに他の2つも紹介しておくと、二つ目の日本一は、太鼓である。直径2.2メートルあり、すべて国産材を使っているのが自慢らしい。ついでに言えば、鼓面には和牛の皮を使っているが、この大きさのものは現在の国産和牛では入手困難という。破れたらどうするのだろうか(笑)。新年を迎えた瞬間に打ち鳴らすようだ。

 最後の日本一は、どういうわけだか鈴である。注連縄、太鼓というのは分かるとしても、どうして神社に鈴なのか、そこが謎であった。やっぱり「三大何とか」というから、二つでは寂しくて、三つ目を無理に考えたのかな。

 ところで、この神社は本宮から山頂に向かって幾つもの神社が並び、山頂には古宮もあると案内されている。更に言えば、古墳もあって国宝級の出土品も出ているらしい。でも、さすがにこの時間から山の上まで登るのは無理と諦める。そのかわり、神社の裏手にある古い民家群を見学した。

 いずれの民家も地方の特徴的な造りの民家を移築してきたもので、富山の「合掌造り」や、熊本の「二棟造り」、佐賀の「くど造り」、福岡の「鉤屋造り」、対馬の「高床式平柱小屋」など、個性的なものが並ぶ。九州で合掌造りを見るのはやや違和感があるが、他のものはこの地方の古民家なので並べてある姿は興味深い。

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 いやはや、駆け足で巡った三社だが、いずれも初詣は大混雑らしく、とても三社一遍に周るのは無理だろう。そういう意味ではこんな機会に周れたのはラッキーだったかもしれない。今日は不老水も飲んで寿命も延びたことだし(笑)、大変いい一日だった。
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2010年10月24日

Rain Rain

 今日の福岡は朝から雨。しかもけっこうな雨量である。このところ雨がほとんど降らなかったから、久しぶりのまとまった雨ということになろうか。午後になって空が明るくなったが、ネットで雨雲の動きを見ると再び雨雲がかかる予想だったので、安全を見て散歩はお休みにする。昨日の大阪行きがかなりハードなスケジュールだったから、休養にはちょうどいい。来週もスケジュールぎっしりだし…。

 昨日は朝7時の新幹線で大阪に行った。博多駅から新幹線で3時間弱の旅。用を済ませて福岡に帰ってきたら午後10時前。あたふたと駆け回ったつもりもないのだが、けっこう疲れた。乗り物というのは不思議なもので、乗っているだけで疲れる。どうしてだろうか。

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 毎度のことながら往復の車内は退屈するので文庫本を持って行く。この前ブログに書いたR・D・ウィングフィールドのフロスト・シリーズは全て読んでしまったから、今度は思いっきり土俗風味の三津田信三でも読む。

 この人は、国内のミステリー小説年間ランキングに何度も登場している作家だが、作風は横溝正史を思わせる、土俗的色彩を持ったホラー系推理小説って感じだろうか。元々、ミステリー、ホラー関係の雑誌編集者をしていたようなので、その傾向はだいたい想像がつく。

 横溝正史の推理小説は高校生のときにたくさん読んだが、ああいう傾向の推理小説は最近少なくなっている気がする。もっとも、私自身国内の推理小説のトレンドを解説できるほど熱烈な推理小説ファンというわけではないので、間違っていたらお許し願いたい。

 横溝正史というのは変わった人で、元銀行員にして薬剤師の資格を持っている。実家が薬屋だったからである。でも、薬屋にも銀行マンにもならずに推理作家となった。そして書いた推理小説が土俗趣味のホラー系。「本陣殺人事件」に始まって、「獄門島」「八つ墓村」「犬神家の一族」「悪魔が来りて笛を吹く」「悪魔の手毬唄」「病院坂の首縊りの家」など、題名からして十分おどろおどろしい。こういう題名の本って、現在ではあまりはやらないのかもしれないなぁ。

 元々、日本の推理小説作家の草分け的存在であった江戸川乱歩が、やや猟奇的な作風であり、横溝正史はこの江戸川乱歩と親交があった。娯楽を全面に押し出して読者開拓を図った初期の推理小説にとって、そうしたスタイルで売り出していくしかなかったということだろうか。

 しかし、推理小説の地位が確固たるものになっていくにつれ、謎解きメインの本格派推理小説や、松本清張に代表される社会派推理小説が台頭し、江戸川乱歩や横溝正史の影は薄くなってしまった。土俗系ホラーストーリーと推理って、本来は相性があまり良くないのだろう。だって、ホラーストーリーって、背後に呪いだの伝説だの幽霊だの不条理があるからあの雰囲気が出るのであって、すっぱり論理で謎解きする推理小説とは別世界のはずだ。

 そういえば、松本清張は福岡県の人である。その生い立ちは必ずしもよく分からない部分があるが、物心ついた頃から小倉に住んでいる。貧しい家庭に生まれ育った清張は、小学校卒業と同時に働き始め、職を転々とした苦労人だ。彼が世に出た芥川賞作品「或る『小倉日記』伝」は、そんな彼の半生が何となく反映されているような内容である。

 清張は最初から推理作家ではなく、途中から推理小説を書き出した。その作風は社会派の本格推理というジャンルを確立することになる。この分野における彼の出世作にして代表作として名高い「点と線」は、この福岡周辺を舞台にしている。

 私はこの作品を高校生の頃に読んだのだが、有名な東京駅のシーン以外は舞台がどこであるのか忘れてしまっていた。こちらに来てから地元の人に言われて、福岡近辺で事件が展開する内容だったと気付いた次第である。

 そろそろ福岡周辺にも土地勘が出来たことだし、古本屋でも探して再読してみるかな。小説の舞台となった場所を探して散歩してみるなんてのも、趣向として面白いのではないかと思う。

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2010年10月17日

しらふの中洲を歩く

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 今日の福岡は朝からカラッと晴れて、如何にも散歩日和。一瞬遠出をしようかと思ったが、また来週から出張続きなので、セーブすることにする。

 このところ毎週泊まりの出張に行っていて、来週は長崎県まで行かねばならない。体力勝負のサラリーマンは健康第一だから、週末に無理をし過ぎるのはよくない。

 そんなわけで福岡市の中心部にある中洲の川沿いでもブラブラ散歩しようかという趣向である。まぁ酒飲みの人には何とも元気の出ない計画だ。何といっても中洲は福岡のというより、九州最大の歓楽街で、西日本エリアでは大阪のキタ、ミナミと張り合う規模らしい。夜になると3000軒以上ある店のネオンがともり、多数の屋台も路上で店を開く。福岡市民のみならず観光客も繰り出して大変な賑わいとなる。そんな場所に昼間から出かけるというのは、何とも無粋な話だ。

 さて、まずは地下鉄空港線中洲川端駅からスタート。ちょうど中洲のど真ん中辺りだ。ここから福岡川沿いを南下する。

 中洲は、福岡川と那珂川に挟まれた、文字通りの川の中州である。普通、川の中州というのは砂が堆積して出来ているはずなのに、こんな場所に高層ビルが建っているということ自体何とも奇妙だ。だが、地元の人に聞いたところによると、昔はこの辺りは海だったらしく、中洲は砂の堆積場所ではなく、むしろ島だという。なるほどそれなら地盤がしっかりしているから高層ビルも建てられるだろうと納得。

 如何にも都会の歓楽街という感じの中洲であるが、五差路になって博多側と接している水車橋の辺りでこんなものを発見。

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 これは「飢人地蔵(うえにんじぞう)」といって、江戸時代に起こった享保の大飢饉時の犠牲者を弔う地蔵らしい。ここだけでなく、福岡市内に幾つか立てられている。

 享保というと徳川吉宗の時代だが、西日本一帯でイナゴが大発生して穀物を食い尽くし、加えて干害、疫病なども相次いで発生し、生き地獄のようなさまになった大飢饉である。この時、福岡の人口の1/3が飢え死にしたと伝えられる。

 ここに地蔵があるのは、路上で死んだ餓死者を集めてこの地に弔ったかららしい。飢えた人々は、今の西公園付近の浜辺で藩が炊き出しをしているという噂を聞いて、数珠つなぎになって海に向かって歩き、途中で息絶えたという。何とも悲惨な話である。

 今でも地蔵盆になると地元主催で盛大な施餓鬼供養が行われると案内板に書いてあったが、そんな悲惨な地に今や九州最大の歓楽街が出来て、夜毎に大騒ぎが行われているのを、餓死者の魂はどう見ているのかなぁ。

 さて、そんなことを考えながら歩いているうちに、中洲の南端にたどり着いた。ここには「清流公園」という広場があって石灯籠が立つ。なかなか風情のある眺めだ。

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 この石灯籠の由来を書いた案内板が脇に立っているが、これがなかなか興味深い内容だ。明治時代に漬物屋を営んでいた「八尋利兵衛(やひろりへい)」という人物が中洲から住吉にかけての那珂川沿いを整備して「向島(むこうじま)」という遊園地を開いたらしい。その開園記念に立てられたのがこの灯籠だということである。以前川向こうにあったものを、戦後すぐにここに移築したらしい。今の周辺の様子を見るにつけ、遊園地があったなんて信じられないなぁ。

 あっ、でもよく見たら、対岸に遊園地があった。

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 いやいや、これはこのまえ通った「キャナルシティ」だ(笑)。

 ここからは那珂川沿いに北上していく。中洲の北端と南端の距離は約1km。往復で2kmということになる。途中に幾つもの橋が架かっているが、昔は橋は一つしか架かっていなかったらしい。

 以前福岡城址に行った際のブログに書いたが、黒田長政が福岡に入ったときに城の位置を今の福岡城に決め、那珂川の西側を、城を中心とした武家の町とした。東側は商人の町博多である。

 福岡側は敵が攻め入った時に備えて厳重に警備され、道の作り方もわざと敵方に分かりにくいようにT字型の交差を多用し、直進できないように工夫したらしい。那珂川沿いも石垣で固められ、橋はたった一つだけ渡した。博多との間には中洲があったため、中洲経由の二つの橋となった。これが今の「西中島橋」と「東中島橋」である。

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 当時、橋を渡ったところに「枡形門(ますがたもん)」という周囲を石垣に囲まれた門があり、ここから浜側(北)に伸びる道と内陸側(南)に伸びる道があったという。町人や旅人が通行できるのは浜側に伸びる道で、これがいわゆる「唐津街道」である。この街道沿いには町人も住んでいたらしい。

 内陸側に伸びる道が武士の住むエリアであり、城に通じているのだが、こちら側に年に一度だけ博多の町人も招かれた。正月の15日に行われた「松囃子(まつばやし)」の行事である。小早川家の時代からあったものの一時中断されていたこの行事を、2代目藩主の黒田忠之が復活させた。簡単に言えば博多の町衆による藩主への年賀表敬訪問だが、城から戻ったあと博多地区でもお祭りをやったらしい。これが今の「博多どんたく」の始まりと言われている。

 ちなみに、松囃子の一行の後を、様々な趣向を凝らした出し物が続いたが、これが「通りもん」である。今では福岡のお菓子として有名だが、祭りの出し物だったわけである。

 さて、中洲の北端は、中島橋からすぐである。南端には灯籠が立っていたが、こちらにも面白いものがある。

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 これは「七代目市川團十郎博多来演之碑」であるが、七代目と言われてもピンと来ないかもしれない。江戸時代に活躍した歌舞伎役者で、いわゆる「歌舞伎十八番 」を確立した人物だ。何故この人の来演の碑が中洲にあるかという理由をたどると、中洲が昔の畑中心の荒地から歓楽街になるきっかけを作った歴史的出来事と大いに関係があることが分かる。

 江戸時代の天保年間に、黒田藩は財政窮乏状態に陥っていた。藩は悩んだ末に財政改革の処方箋を広く一般に求める。そこで景気刺激策を申し出たのが眼医者の白水養禎だった。

 養禎のやったことは、今流に言えば通貨の大量供給による消費刺激策である。カッコ良く言えば、金融政策における金融緩和策だな。

 大量の銀札を発行して領民に貸付け、返済は米でいいとした。そしてこの銀札を使わせるために藩は芝居小屋や料理屋を作り、領民に芝居、相撲、富くじなどの娯楽を提供した。これが大受けに受けて領民は遊興にふけった。その間に次々に銀札が刷られて、いわば通貨の膨張を招いた。このときに歌舞伎を演じるため福岡に来たのが七代目市川團十郎というわけである。

 しかし、経済学の教科書が教えるように、こういう政策の末路は悲惨である。通貨とモノとの交換バランスが崩れて、一気にインフレが起き藩の経済は破綻した。責任を取って養禎は島流し。しかし、某国のように公開銃殺刑にならなかっただけましと思わねばなるまい(笑)。うかうか乗った黒田藩も責任を感じてのことだろう。「武士の○○」なんて揶揄されるくらいだから、とにかく武士は経済に弱い。

 それはともかくとして、こうした遊興施設が作られたのが中洲周辺であり、それが今の隆盛につながっているわけだ。藩がここで遊ぶように誘導した、いわば官営の歓楽街だったことになる。そうして見ると、中洲も由緒は正しいわけだ(笑)。

 さて、そろそろ中洲を離れて一旦博多側に渡り、北上してから須崎橋を通って福岡側に移る。途中、須崎橋から見た中洲の北端が下の写真である。

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 写真右側が那珂川でその向こう岸が福岡側になる。この福岡側は天神と呼ばれる九州最大の商業地域につながっている。歓楽街の向こう岸が繁華街というわけである。一方、左側が博多川で、博多側に行って暫くしたところにJR博多駅がある。

 さて、須崎橋を渡ると北側に「須崎公園」がある。県立美術館のある静かな公園だが、昔ここは黒田藩が築いたお台場だったらしい。

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 今でも一部に石垣が残っていると聞くが、幕末に外国船が襲撃して来た時に備えて、ここに砲台が幾つも作られた。生麦事件の後イギリス艦隊が薩摩に来襲し薩摩藩は惨敗。長州藩も下関沖航行中のアメリカ船に発砲し、報復に英米仏蘭の連合艦隊に砲撃された。そんな中で福岡藩も守りを固めるために西洋の近代的な軍事技術を取り入れ始める。

 軍艦を買って海軍力の増強を図り、海岸線に砲台を築いた。昔は元寇に備えて防塁を築いたが、幕末には海岸線を砲台で固めたわけである。もっとも、幸いなことにこの砲台が使われることはなかったらしいが…。

 須崎公園から福岡側の川沿いを南下し西中島橋まで戻る。ここには「福岡市文学館(赤煉瓦文化館)」がある。明治時代に建った旧日本生命九州支店の建物で、設計は、東京駅舎を設計した辰野金吾である。そう言われてみれば、何となく面影が…。現在では国の重要文化財に指定されている。

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 中洲や天神というと、この建物がよく写真に出て来るが、歓楽街やショッピングとはあまり関係がない。今では福岡市に譲渡され、文学関係の様々な情報を収集・提供する場になっていると聞く。有名な建物だが、中に入ったことのある人は少ないのではないか。

 この辺りはもう天神地区だが、今日は天神をぶらぶらするつもりはない。だが、この一筋南に天神の謂れになった場所があるので、そこに立ち寄って行こうと思う。

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 上の写真がそれで「水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)」という。たくさんある天満宮の一つだが、その謂れからして天満宮グループの中でも特異な位置付けにある。

 この天満宮は、菅原道真が京より大宰府に左遷された際、博多に入って四十川の水面に自分のやつれた姿を映して見たという故事を元に、その川のほとりに当初建てられたものである。当時は「水鏡天神(すいきょうてんじん)」とか「容見天神(すがたみてんじん)」と呼ばれていて、場所も現在よりもう少し南にあったようだ。

 ところが、初代の福岡藩主黒田長政が、福岡城の鬼門にあたる現在の地に神社の移転を命じた。要するに天神様の霊験で福岡城を守ってもらおうとしたわけである。この天満宮があったからこの地区が「天神」と呼ばれることになった。そういう意味では、天神地区名づけ親の神社である。だが、天神を闊歩する今の若者には、どうでもいいことかもしれない(笑)。

 さて、このちょっと先に「旧福岡県公会堂貴賓館」があるので、そこを今日の散歩のゴールとしよう。

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 この貴賓館は、明治43年の九州沖縄八県連合共進会の来賓接待所として建設されたもので、その後幾多の変遷を経て、現在は国の重要文化財として保存されている。明治期のフレンチルネッサンスを基調とした木造建造物というのは珍しい存在らしい。たしかに優雅な建物である。大正時代には、当時皇太子だった昭和天皇がお泊りになったとか…。

 さて、今日の散歩はいつもよりもちと距離が短かったが、ここは体力温存が肝要である。今日はゆっくりと寝て、また来週の出張に備えることにしよう。

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2010年10月16日

対馬と壱岐

 今日は所用があって出掛けていたので散歩はお休み。しかし、いつまで経っても夏の名残が漂う気候で、背広もいまだに夏用のものを着ている。さすがにワイシャツは長袖だが、時として日中戸外にいると暑く感じることがある。秋も本番のはずなのだが一体どうなっているんだろう。

 コートは東京から持って来ていなくて、福岡の冬に合わせてこちらで買おうと思っていたが、この調子だと、もしかしてコートなんかいらないのかも、なんて甘い考えが芽生えつつある。「福岡は日本海側なので冬は風が冷たくて寒いですよ」と地元の人には言われているが、そんな気配は微塵も感じさせない今日この頃ではある。

 さて、せっかくだから、昨週出張で行っていた対馬・壱岐のことでも少しばかり書こうと思う。

■対馬

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 仕事で行っていたので観光名所には立ち寄る機会はなかった。上の写真は、途中で休憩のため車を止めた浜の写真。対馬まで来ると、海がきれいだ。

 対馬の人に話を聞いたのだが、イノシシの被害がかなりあるらしい。クマはいないと言っていたが、鹿はいると聞く。ついでに山猫もいる。「ツシマヤマネコ」というヤツで、絶滅危惧種に指定されている。夜食事に行った先で野生の姿を撮った写真が飾ってあったが、山猫と言われて湧くイメージよりもかわいい感じがした。

 食事といえば、昼はそばを食べた。九州に来て以来、ラーメンやチャンポンは食べるのだが、そばは食べていない。福岡の人はそばをあまり食べないようだ。ただ、そばの発祥の地は実は福岡で、市内にある「承天寺」境内に「饂飩蕎麦発祥之地」の石碑が建っていると聞く。

 承天寺は臨済宗の寺で、宋から帰国した僧「円爾」により鎌倉時代に建てられた。円爾は臼を使って粉を挽く技術を日本に伝え、これによってうどんやそばのほか、まんじゅうなども作られるようになった。そんなわけで、ここがそばやうどん発祥の地と言われている。

 さて、では今回どうして対馬でそばなんか食べることになったかというと、日本そばの原型が対馬にあるからである。というより、中国から日本に伝えられた当時のそばは対馬でしか味わえないと聞く。

 そばという植物は、縄文時代に中国大陸から朝鮮半島を経由して日本に伝わったとされているが、当時日本にものが伝わるルートは「朝鮮半島→対馬→壱岐→佐賀県東松浦半島」という順番で、これは「魏志倭人伝」にも記されているルートである。つまり最初にそばという植物が大陸から持ち込まれたのは対馬なのだが、本土に渡って以降、日本国内で品種改良が加えられ、最初に日本に伝わったのと同じそばが今でも栽培されているのは対馬しかないらしい。このそばの実を使って作られるそばを「対州そば」といい、そば愛好家の間では「幻のそば」と呼ばれていると聞く。

 島内を車で走っていると、この時期、至るところでそばの白い花が咲いている。これがなかなかきれいだが、今花が咲いているということは、当然収穫はこれからということになる。対馬で新そばが味わえるのは11月中旬頃と聞いた。まぁこの辺りは本州とそう変わらない。

 「東京にはそばの名店がたくさんあるらしいが、本家本元のそばを食べられるのは対馬だけですよ」と地元の人に言われて、昼ご飯はそばを食べることにする。ここがうまいと地元の人が口をそろえて言う店に入る。メニューには色々なそばがあったが、ここは一番そばの味の分かる盛りそばを頼む。

 一口食べて思ったが、ズバリ、そばは絶品だ。しかし、たれがなぁ…。だいたい九州は醤油が甘口で、それをベースにしたつゆも甘い。福岡でそばを食べたことがなかったので、それに気付かなかったのがうかつだった。もう少し辛口のつゆが好きな私としては、そこが残念だった。しかし、そばそのものは実にうまかったので、十分合格点とする。

 先ほど魏志倭人伝の話を書いたが、大陸から日本列島に渡るために最初に来る場所が対馬(魏志倭人伝では「對馬國」)だったので、その歴史は福岡より古い。空気が澄んでいれば、対馬から朝鮮半島が見える。そして、対馬から壱岐も見えるし、壱岐から佐賀県の東松浦半島も見える。つまり船で漕ぎ出して、お互い行き先が見える距離なのである。だからこそ人や物が大陸からやってきたということだろう。逆に、遣唐使や遣隋使も同じルートを通って大陸に行っている。

 そんな歴史があるため、ここにある寺社も年季の入ったものばかりである。

 おそらく一番有名なのは、日本神話に出て来る「山幸彦と海幸彦」の話の元になった「和多都美神社(わたつみじんじゃ)」だろう。例によって例の如く、創建年代不明。「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)=山幸彦」と「豊玉姫命(とよたまひめのみこと)」を祭る海宮で、広島にある厳島神社の原型になったとも言われている。本殿に続く5つの鳥居のうち2つは海中に建てられており、潮が満潮になると神社近くまで海水が押し寄せると聞く。神社の縁起では、海神である「豊玉彦尊(とよたまひこのみこと)=豊玉姫命の父親」が「海宮(わたづみのみや)」という宮殿を造ったのが始まりで、つまりこの神社はもともとは竜宮城だったことになる(!)。

 寺の古さでも対馬は負けていなくて、日本で最古の寺がある。「えっ、最古の寺は奈良県明日香村にある飛鳥寺(法興寺)じゃないの?」という声が聞こえて来そうだが、それは日本が仏教を正式に受け入れようと決定してから最初に建てられた寺という意味だ。そもそも日本に仏教が伝来したのは欽明天皇の時代で、西暦552年に百済の聖明王が仏教の教えを書いた聖典や仏像を欽明天皇の元に送って来た。いわゆる布教活動だ。これを受け入れるか否かを巡って、物部氏と蘇我氏の争いが起き、聖徳太子も参戦して壮大な政争となるわけだ。

 ところで、聖明王の使者のたどったルートは、昔ながらの対馬から入るルートだったのだが、対馬にたどり着いた時点で、持って来た仏像を荷物と一緒に転がしておくわけにはいかなかった。かくして仏像を仮安置するためのお堂が対馬に建てられたのだが、それが文字通り最初のお寺となったわけである。

■壱岐

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 壱岐は対馬に比べれば小さな島だが、歴史は対馬に匹敵する古さだ。魏志倭人伝では「一大國」とされているが、他の中国の史書では「一支國(いきこく)」と記されている。

 実は、魏志倭人伝に記されている倭国(日本)の小さな王国のうち、唯一王都の場所が特定されているのが壱岐である。

 上に掲げた写真が、その王都のあったとされる場所付近を「一支国博物館」から撮ったものだ。フェリーの出発時間まで余裕があったので、帰り間際に博物館にちょっとだけ立ち寄った。無料の展望台があって、王都のあった場所を一望できる。

 この王都跡の遺跡は「原の辻遺跡(はるのつじいせき)」と呼ばれており、集落は紀元前200年頃には存在していたようだ。右に見える川は暫く行くと海につながっているのだが、ここからは、当時としては技術的に優れた船着場が発掘されており、海の向こうからやって来たときの玄関口になっていたらしい。既にかなりの規模の集落跡が発掘されており、当時の人々の生活ぶりも徐々に明らかにされているようだ。この写真では見えないが、集落跡に当時の建物を一部復元して見学できるようにしてある。

 発掘現場からは、遠くシルクロードに起源を持つと思われる珍しい装飾品が出土しており、おそらく朝鮮半島経由で大陸から持ち込まれたものだろうと推測されている。

 壱岐は、この原の辻遺跡のほか、たくさんの遺跡があり、考古学者にとっては興味尽きない場所らしい。たまたま車の窓から「鬼の窟古墳(おにのいわやこふん)」の入り口を見たが、ここは江戸時代から有名な古墳でたくさんの見学者で賑わったらしい。周囲を木で覆われた垂直な岩の壁にぽっかりと穴が開いて石室に通じており、たしかに鬼が棲む洞窟にピッタリのイメージだと思った。他にもたくさんの古墳が見学できるようだが、中には漢字が日本に伝わる以前の神代文字を刻んだ古墳もあると聞く。

 歴史の古い島ゆえ、寺社も対馬同様、おそろしく古い。

 たまたま車で前を通り過ぎた神社の中に「月読神社(つきよみじんじゃ)」というのがあった。おそらく、壱岐を代表する有名神社だが、古色蒼然とした鳥居の向こうに、山の斜面に沿って古い石段が続くさまが神秘的だった。

 月読神社は全国にあり、京都の西区にある月読神社が比較的有名だが、実は壱岐の月読神社が本社である。この神社は「月読命(つくよみのみこと)」を祀っているのだが、これはズバリ、月を神格化したものである。

 日本神話の最初に出て来る国産み・神産みの話は、以前このブログにも書いた。男神「イザナギ(伊弉諾)」とその妻「イザナミ(伊弉冉)」が日本の国土や森羅万象を産む話である。妻のイザナミは火の神を産んでやけどを負って亡くなり、夫のイザナギは禁を犯して黄泉の国までイザナミに逢いに行く。やがてイザナギはこの世に逃げ帰り、黄泉の国の穢れを祓う禊を、福岡の住吉神社がある場所で行う。このとき、イザナギが左目を洗うと太陽を司る神「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」が産まれ、右目を洗うと月を司る神「月読命」が産まれたと古事記には書いてある。ついでに言うと、鼻を洗ったときに産まれたのが、のちにヤマタノオロチを退治することになる「素戔男尊(スサノオノミコト)」である。つまり、天照大御神と月読命と素戔男尊は兄弟神ということになる。

 天照大御神を祀る本家本元の神社は、ご存知三重県の「伊勢神宮」であるが、その兄弟神月読命を祀る本家本元が壱岐にあるというのは、何とも不思議な組み合わせである。また、太陽を象徴する天照大御神が女神なのに対して、月を象徴する月読命が男神なのも妙だ。何となく、太陽が男で月が女のイメージだがなぁ。

 境内を訪れていない月読神社の話を延々としても仕方ないので、ちょっと壱岐のお寺の話でも書いておこう。

 壱岐には、既になくなっているのに注目を集めている寺がある。島の中央にある国分寺跡がそれである。現場に行っていないのでよくは知らないが、巨石古墳が集まる辺りにあるらしい。寺そのものは元寇の際に破壊され失われてしまったらしいが、この寺についても発掘が行われており、出土した瓦が、奈良の平城京の宮殿に使われているのと同じ鋳型で出来ていることが確認されている。

 この時代に島を治めていたのは壱岐一族だが、中央の大和朝廷と密接な関係にあったことが推測される。周囲にある巨石を使った古墳群も、壱岐一族が大和朝廷の影響下で作ったものと分析されているようだ。ちなみに、同じ時代の九州北部の建物の瓦は、別様式のものが使われている。別系統の勢力だったということだろうか。

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 仕事で行ったので島内の名所を見学する時間はなかったが、対馬にせよ壱岐にせよ、プライベートに訪れてじっくりと見て回るとなかなか興味深いと思う。しかし、ここに行くための「ジェットフォイル(水中翼船)」の料金が高い。福岡から対馬まで片道7700円、壱岐までが片道4900円。気楽にちょっと行こうかとはならない。もう少し安かったら、休みの日に行って散策してみてもいいのだがなぁ。まことに残念だ。

 そういえば、一つお知らせ。このブログを運営しているレンタルサーバーの方で、メインテナンス作業があるらしく、10月20日(水)の14:00から21日(金)4:00までは、ブログの閲覧が出来なくなる。接続出来なくなったからといって、ブログがつぶれたわけではないのでご留意を。

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2010年10月11日

櫛田神社と住吉神社

 今日も天気は良好で、昨日に引き続き散歩日和。だが、朝から掃除とフトン干しが待っている。トホホ・・・。

 ベランダにフトンを干したあと、昨日やり切れなかった部屋の掃除をする。平日は家にいないのに、どういうわけだかほこりは溜まる。めったに掃除はしないが、全くしないわけにはいかない。掃除機をかけて、廊下をモップで拭き、粘着式のローラーで絨毯のゴミを取る。これだけやっておけば、当分もつだろう。さて、次に掃除するのはいつのことか(笑)。

 早めに昼ご飯を食べて出掛ける。今日は、あまり行かない博多駅西側の地区を歩くことにする。まず目指すは、福岡の人にはお馴染みの神社「櫛田神社」である。

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 櫛田神社のある場所は今ではビジネス街で、鳥居のある大博通りには大きなビルが立ち並ぶ。鳥居はその間にひっそりと立っている。ただ、この辺りは古くから商人の町として栄えた博多地区で、お寺も多い。新旧が微妙に入り混じった街と言えるかもしれない。

 鳥居をくぐっても、何の変哲もない裏通りが続き、およそ参道らしくない。ただ、神社近くになると、こんな情緒ある街並みも見られる。

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 実はこれ「博多町家ふるさと館」といって、昔の博多の街並みを再現するために、明治20年代前半に博多織元の住居兼織り場だった町家を移築復元したもので、福岡市の指定文化財になっている。200円の入場料で中を見学できるが、一度も入ったことはない。前回通りかかった時には、次回来た時に見ようと思ったのだが、今回も結局見学せずに通り過ぎることに・・・。次回こそは見学しよう(笑)。

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 さて、話を櫛田神社に戻そう。櫛田神社は奈良時代に建てられた博多の氏神であり、博多総鎮守の役割を担っている。ただ、みんなに親しまれているのは、それよりもむしろ博多の祭りの総本山だからではないかと思う。

 この神社の祭りとしては、毎年7月に行われ国の重要無形民俗文化財に指定されている「博多祇園山笠(はかたぎおんやまがさ)」や、長崎、唐津と並んで「三大くんち」の一つと称される「博多おくんち」(例年10月に開催)があるが、例年5月に行われ、総動員数国内最大級と言われる「博多どんたく」も、この櫛田神社を中心に催される。博多っ子からは「お櫛田さん」と呼ばれていると観光ガイドマップなどには書いてあるが、今までのところ地元の人がそう呼ぶのを聞いたことがない(笑)。

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 それだけ有名な神社なのだが、境内は「えっ」と思うほど狭い。本殿の周りをくるりと回るとおしまいみたいな大きさである。最初来た時に、ホントは見てない場所が奥の方にあるのではないかと探したが、まさにくるりでおしまいである。ただ、見所はある。

 まずは博多祇園山笠で使われる「飾り山笠」がドーンとそびえ立っている。通常は祭りのシーズンしか見られないが、ここでは常設展示している。

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 この飾り山笠の大きさは、事前の知識なしに見ると驚愕する。高さは10メートル程度ある。山笠の表と裏は別々の飾りになっており、一定のテーマに沿って博多人形師による豪華絢爛な人形が飾られる。一般には武者物がテーマに選ばれることが多いと聞く。

 実際の祭りを見たことがないので分からないが、この飾り山笠のほかに「舁き山笠(かきやまがさ)」という山車もあるらしい。これは飾り山笠の背が高すぎて、空中を電線がのたくる現代では市中を引き回せないので、低めの山笠を編み出したという知恵の賜物らしい。ちなみに「舁く(かく)」というのは、山笠を担ぐことを言い、その担い手は「舁き手(かきて)」と呼ばれる。

 で驚くのは、こうした山笠は全て、櫛田神社の氏子たちが運営しているということだ。氏子衆はほぼ博多全域にまたがっているが、7つの地区に仕切られており、それぞれを「流(ながれ)」と呼ぶ。要するに、長崎くんちと同じく、これは町内会主催のお祭りなのである。従って、町内会ごとに意匠を凝らした山笠を用意し、当日はそれを町衆が担ぐわけだ。しかも、クライマックスの「追い山」の日には、午前4時59分から山笠を担いで市内を走る(!)。いや〜、町内会活動も大変だ。東京じゃあ絶対成り立たん祭りだな(笑)。

 さて、櫛田神社の次の見物は「力石(ちからいし)」である。昔から奉納相撲が行なわれていたらしく、それにちなんで境内には、双葉山、曙、貴乃花、若乃花、朝青龍など有名力士が力自慢に持ち上げた石が多数奉納されている。実際のところは石に、持ち上げた力士の名前が彫られて、まとめてごろんと転がっているのだが、有名な横綱ばかりなので相撲ファンには見逃せないかも。

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 せっかくなので、相撲ファンのために有名どころの力石の写真を掲げておく。

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 見れば分かると思うが、左上が貴乃花、右上が若乃花。但し、若乃花は初代の方で、いわゆる若貴兄弟ではない。続いて、中段左が朝青龍。そして中段右が不世出の大横綱と言われた双葉山である。ちなみに下段左の石は、真似したがる観光客用に置いてあった「試し石」。腕に覚えある方なら誰でも持ち上げられるように砂地に置いてあるが、これを無理に持ち上げて足腰を痛めると散歩に差し障るのでやめておいた。

 さて、見るべきものは見たので、次は住吉神社に異動する。このまま南下してもいいのだが、櫛田神社脇に「キャナルシティ」への入り口があるので、キャナルシティを縦断して住吉神社に向かうことにする。

 キャナルシティも、何の予備知識もなく初めて行くと驚く。かなり奇抜なデザインである。

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 ここは博多川にそそぐ運河(キャナル)に沿って開発された複合商業施設群で、ホテル、映画館、劇場、オフィス、ショップ、レストランなど無数のテナントで構成されている。

 ただ、一番驚くのはそのデザインだろう。くねくねと曲がる運河に沿うように建物が建てられているので、建物自体も全て湾曲した形状になっている。まるで近未来の都市を見るような奇抜さがある。デザイナーはアメリカの建築家「ジョン・ジャーディ(Jon Jerde)」で、彼は小倉の「リバーウォーク北九州」の設計も担当している。

 ここは見始めると色々あってきりがないのだが、際もの的な見所を一つ紹介しておこう。全国の有名ラーメンショップがしのぎを削る「ラーメンスタジアム」である。

 単に有名ラーメン店が集まっているだけではなくて、ここは客の人気度による店舗入替え制となっている。従って、人気店は残り不人気店は撤退する厳しい仕組み。場所柄から国内はもちろん、海外からのお客さんも来るので競争は熾烈だが、比較的豚骨系が有利と聞く。まぁ福岡なんだから仕方ないでしょ。

 ちなみに、このキャナルシティも櫛田神社の氏子であり、博多祇園山笠のときには中央の運河沿いにあるサンプラザステージに飾り山が立つという。この近未来風都市のど真ん中に武者物の飾り山笠が立つ姿は壮観だろうなぁ。

 さて、キャナルシティはそれくらいにして、南端から細い道を抜けて住吉神社へ行く。

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 ここは櫛田神社と違って、市の中心部にしては広い敷地を持っている。奥行きはそれほどないが、横に広がる構成になっていて、能楽堂もあるようだ。現在本殿は改装中で、あまり雰囲気は良くないが、工事が終わればなかなか美しい神社だと思う。

 福岡に歴史のある神社は多いが、古さではこの住吉神社も負けていない。創建年代は不詳。神社の縁起では少なくとも1800年の歴史はある。

 日本神話の最初に国産み・神産みの話が出て来る。男神「イザナギ(伊弉諾)」とその妻「イザナミ(伊弉冉)」の話である。イザナミはイザナギとの間に多数の子供をもうけるが、それが日本の国土や、水・風などの自然を構成するものになっていく。最初に産んだのは淡路島で、その後本州、四国、九州にその他諸々の島、更には海、山、木、加えて水や風も産んだ。まぁ、そういうものをつかさどる神を産んだということだ。そして最後に火の神「カグツチ」を産んでやけどを負ったイザナミは亡くなってしまう。このときイザナミは夫のイザナギに、死んだ後の自分の姿は決して見ないでくれと頼む。

 妻を失った夫のイザナギは嘆き悲しみ、禁を犯して黄泉の国までイザナミに逢いに行くが、そこで見たのは腐敗してウジがわいたイザナミの姿だった。禁を破った夫に対して、死者となったイザナミは怒り狂い夫を追いかけるが、すんでのところでイザナギは黄泉の国を脱出し逃げ切る。黄泉のケガレを落とすためにイザナギは「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」で禊を行うのだが、実はその禊の場所が、この住吉神社のある場所と言い伝えられている。

 禊の最中に産まれたのが、「底筒男神(そこつつのおのかみ)」、「中筒男神(なかつつのおのかみ)」、「表筒男神(うわつつのおのかみ)」の三神で、これを「住吉三神」と呼ぶ。この三神が住吉神社のメインの祭神である。しかし、国が出来た頃っていったいどんだけ古い起源なんだ。

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 そんなわけで神話時代も神話時代、一等最初の頃の謂れが神社の元になっているだけに、全国に2,129社ある住吉神社の中でも、最も古いのが福岡の住吉神社である。いわば「元祖住吉神社」だな。

 住吉神社の総本山は大阪の「住吉大社」だが、最初に出来た福岡の住吉神社はやや別格扱いで「住吉本社」とか「日本第一住吉宮」といった別称を持っている。ちなみに総本山である大阪の住吉大社とこの福岡の住吉神社、そして下関の住吉神社を合わせた三社が「日本三大住吉」と言われている。愛宕神社もそうだが、福岡は「三大何とか」が多い。

 しかし、奈良時代の櫛田神社に始まり、近未来都市のキャナルシティを通って、神話時代の住吉神社へと巡る今日の散歩は、まるでタイムマシンのようだ(笑)。このままだと現代がないので、福岡の今の姿を物語る「柳橋連合市場」から「薬院」まで行って、本日の散歩を締めくくることとする。

 住吉神社脇の住吉通りを西に向かうと、武士の町であった福岡地区と、商人の町であった博多地区の境目にある那珂川に出る。ここに浮かぶ中洲が、有名な福岡の歓楽街の「中洲」である。架かる橋が「柳橋」。

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 上の写真は柳橋から那珂川下流(北側)を見たところ。左のカラフルな建物が、先ほどまでいたキャナルシティの一部。左側の森のような部分が歓楽街中州の南端である。歓楽街を取り囲む那珂川の水は意外にきれいだ。普通、歓楽街脇の川はドブ川と決まっているような気がするが(笑)、これも浄化運動のお蔭だろう。

 福岡市民の台所である柳橋連合市場は、この橋を渡ってすぐのところにある。

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 柳橋連合市場はアーケード付きの小売店の集合体であり、鮮魚店中心に50近くの店が並ぶ。プロの方も買出しに来ると聞くが、一般人向けの小売が主体である。今日は祝日なのでお店はお休み。閑散とした雰囲気だが、細い路地のような通路にごちゃごちゃと店が並ぶ。どこか懐かしい感じのする商店街である。

 昨日行った長浜の鮮魚卸売市場周辺にあまり一般人向けの魚屋がないと書いたが、そこで仕入れた魚を売る店は、ここに集結しているわけだ。戦後の一時期は闇市が立ったというが、如何にもそれらしい作りが感じられる昭和の商店街である。

 惜しむらくはここへのアクセスが不便ということで、薬院まで来れば歩いていける距離だが、薬院自体がやや辺鄙な場所だからなぁ。

 この後は薬院まで歩き、北上して天神で買い物。あっ、東京本宅ご所望の「めんたいごま」も買いました(笑)。次回帰京のときにでもおみやげに持って帰ろう。たっぷり歩いて、本日も良い散歩だった。

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2010年10月10日

西公園から長浜へ

 今日は朝から快晴。気温は高めだが風があって湿度も低い。絶好の散歩日和だが、まずは洗濯である。次いで、お風呂の掃除もやる。夏場からここに至るまでずっとシャワーのみだったので、バスタブを全く使っていなかった。でもさすがにそろそろ湯船が恋しくなる季節だろうと思い、バスタブを洗う。と言いつつ、気温は高いので今日も半袖。いったいどうなってんだか、この気候・・・。

 その後トイレの掃除までして買い物に行っていたら昼となる。毎度この調子で休日一日目の午前中は終わる。この休みは三連休だが、昨日は長崎まで行っていたので、諸々の雑用は連休二日目の本日に持ち越されたわけだ。

 ようやく雑用から解放されて、午後に散歩に出掛ける。昨日は強行軍だったので、今日はおとなしく短めの散歩とする。まず攻めるは「西公園」である。

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 以前このブログに、福岡で方角にまつわる名前の付いた公園として、東、西、南の三つがあるが北公園はない、何故なら福岡の北方向は海だからだ、という話を書いたが、この西公園はほぼ海に面した位置にある。ちなみに、東公園は筥崎宮のある東地区、県庁の近くにあるし、南公園は桜坂から上がる小高い丘の上にある。いずれも海のすぐ近くではない。

 西公園は「荒津山」という海に面した小高い山の上にある。そして、山の上には「光雲神社(てるもじんじゃ)」があるので、正面の登り道には鳥居が立っている。山の中には縦横に散策路と道路が走っていて、展望台も備わっている。いわば市民憩いの場所である。

 普通福岡の人に西公園と言うと「桜の名所ですよ」という答えが返って来る。光雲神社の話はまず出ない。たしかに至るところ桜の木だらけで、これは満開になるとさぞかしきれいだろうと思わせるものがある。

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 上の写真で分かるように、この公園は「(財)日本さくらの会」が選んだ「さくら名所百選」の一つである。他に福岡県で選ばれているのは、有名な秋月にある「秋月杉の馬場通り・甘木公園」と、「英彦山(ひこさん)」の麓の添田町にある「添田公園」の二つだけ。ということは、県内三指に入る桜の名所ということになろうか。

 まぁ咲いているわけでもないので桜の話題はそれくらいにして光雲神社の話を少しばかり。この神社は歴史は古くない。古くないといっても、神代からある神社が散在している福岡の基準で言っての話である。

 祀られているのは、戦国時代竹中半兵衛と並ぶ軍師とされた黒田官兵衛(出家後は如水)と、その子で福岡藩初代藩主の黒田長政である。如水の戒名が「龍光院殿」、長政の戒名が「興雲院殿」で、それぞれから一字ずつ取って神社の名前になっている。

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 神社の前に掲げられている解説で、面白い話がある。関が原の戦いで敗れて捕らえられた石田三成は、捕縛されたまま城内で晒し者にされていた。そのとき、家康側について戦った黒田長政がやって来て、石田三成にいたわりの言葉をかけ、陣羽織を縄目にかけた。三成は長政に、家康から恩賞を与えられることになれば筑前を所望しろ、あそこを押さえれば天下取りの芽がある、といった趣旨のことを述べる。三成は豊臣秀吉の下で働き諸国の情報に通じており、その経験から長政に助言を与えたとされる。

 さて、この神社の境内には、黒田家家臣「母里太兵衛(もりたへい)」の像がある。槍の名手にして豪傑の武将だったと伝えられている。太兵衛は、以前紹介した黒田節にうたわれる主人公としても有名である。

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 有名な戦国武将福島正則のもとに、黒田長政の使者として出掛けた太兵衛に対し、正則は屋敷で酒を無理強いする。正式の使者として来ている手前断ると、長政は黒田藩の侍は酒に弱いだの、大盃を飲み干せたら何でもやるだのと、盛んに太兵衛をけしかける。これ以上断ると家名に傷が付くと思った太兵衛は、大盃になみなみと注がれた酒を数杯にわたり一気呑みする。

 慌てたのは福島正則で、太兵衛は褒美として、正則が秀吉から拝領した名槍「日本号」を所望する。しかしここで前言を翻すと面目が丸つぶれになると思った正則は、渋々日本号を差し出す。このやり取りを唄にしたのが黒田節である。ちなみに太兵衛が奪い取った日本号は、今でも福岡のお宝として市立博物館に飾られている。

 なお、福島正則は酒の上での失敗が多い人物として知られており、泥酔したあげく家臣に切腹を命じ、翌朝酔いが覚めて間違いに気付いたというとんでもない失敗まである。このときは、切腹した家臣の首に向かって泣いて詫びたらしい。典型的なへべれけ酔っ払いおじさんだったということだろう。

 光雲神社の話はそれくらいにして、今度は展望台に向かう。展望台までは車で上れて立派な駐車場もついている。休憩所やホットドックを売る売店もあって、家族連れが何組も遊びに来ていた。

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 ここから見えるのは博多漁港。一見すると工業地帯みたいだが、漁船基地があり、鮮魚の卸市場もある。写真の右側に見える白い塔のようなものは、荒津大橋の一部。真ん中に見える赤い塔は博多港のポートタワー。けっこう眺めのいい展望台がタワーの上にあって、しかも無料で上れる。すぐ近くに外国客船が乗り入れる国際線の埠頭があるせいか、展望台にいるのは中国や韓国の団体客が多いと聞く。

 さて、ここからの展開だが、この上の写真で見えている漁港側に降りて、波止場を散歩することにした。ちょうど西公園のすぐ脇に「かもめ広場」という公園があって、のんびりと波止場を散策出来るようになっている。

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 以前に来たときも、この公園はあまり人がいなくて、天気のいい日には実に気持ちのいい散歩道となる。漁のある平日だと雰囲気が違うのだろうが、休日は漁業関係者もいなくて、たまに釣り糸を垂れている釣り人や、散歩やジョギングをする人に出会うくらいのものである。海を眺めながらゆっくり歩く。散歩というのはこうでなくちゃと思わせる良コースである。

 そのまま波止場沿いに歩いて博多漁港から長浜まで足を伸ばす。ここも波止場だが、長浜にはもう一つの顔がある。そう、福岡の豚骨ラーメンの本場である。

 どうしてこんなところに豚骨ラーメンの集積地が出来たかというと、漁業関係者相手に手早く腹ごしらえできるラーメンを売り始めたのが始まりらしい。みんな忙しい人だから、すぐに調理できるように麺は細麺。これが長浜流である。お蔭で替え玉もすぐに出来る。こうでなくちゃ、ここでは商売にならないらしい。

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 この一見何の変哲もない殺風景な路地は、夕方から一大ラーメン街に変わる。歩道にびっしりとラーメンの屋台が並ぶのである。その時間帯に来るとなかなか壮観である。おまけに暗闇の中で路地の小汚さも隠れるし(笑)。長浜というと、この屋台が一つのシンボルだろうか。それ目当てに観光客がドッと押し寄せる。

 で、屋台のラーメンはおいしいのかというと、地元の人は好んでは食べないらしい。味はまぁまぁという感想で、「ものは試しに食べるならここがおいしいですよ」とお勧めの屋台を教えてもらったが、私もまず屋台では食べないだろうという気がする。

 そういう場合には、きちんと店舗になっているラーメン街もある。

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 この辺りには複数の店舗があるが、ここでもまた「どの店がおいしいか」という話になる。結論から言えば、それは各人の好みによるということだろう(笑)。でも話題作りのためにどこか一つに入るということなら、「元祖長浜屋」ですかね。ホントはどれが元祖の店なのかはよく知らないのだが、地元の方に聞くと「ズバリこれですね」ということだった。

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 但し、この店は有名店なので、たいていメシ時には順番待ちの人が外にあふれて並んでいる。この写真を撮ったのは3時半という中途半端な時間だったから並ぶ人はいなかったが、それでも店内はギッシリ状態だった。ちなみにここはメニューにラーメンしかない。ワンタン麺やチャーシュー麺などの派生商品はなく、純粋に普通の豚骨ラーメンだけである。しかも400円ポッキリ。足りなきゃ替え玉が100円。そのシンプルさがいい。如何にも忙しい魚市場の人たちを相手に商売している感じがする。

 福岡の人は子供の頃からラーメンを食べているから、好みが色々あって注文時にあれこれ指定する。東京だと、せいぜい「麺硬め」程度の指定だが、こちらは硬さに色々あって、普通の次は「硬め」、その次は「バリ硬」、そして更に「針金」、究極は「粉落とし」。地元の中年サラリーマンに聞くと、高校時代は硬いの食べるのがカッコ良かったらしく、いつもラーメンは針金で頼んでいたとのこと。それって殆ど生でしょ?「いや〜今考えると、ラーメン食ってる状態じゃなかったですね」。まぁ高校生っていつの時代もアホなもんなんですねぇ。

 最後に、せっかくここまで来たので鮮魚を扱う卸売市場まで足を伸ばすことにした。いわば、長浜ラーメンを育てたお得意さんたちの仕事場だ。

 卸売市場の中は業者の人しか入れないし、今日はそもそも休日で市場はお休みなので閑散としている。ただ、一般人も入れる施設があって、ここには魚料理の店も何軒か入っている。

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 このホテルと見まごうばかりの立派なビルがそれで、「市場会館」という。魚に関する色々な展示が見られるうえ、魚料理の店や海産物を売る店もある。ただ、築地の場外市場に比べると、まるで規模は異なり、あまり期待していくとガッカリするのではないか。

 ただ、ここにある店で食べた海鮮丼は実にうまかった記憶がある。これまた地元の人に、ズバリこの店指定という感じで連れて行ってもらって食べたが、刺身の鮮度はもちろんとして、かける醤油ベースのたれが絶品だった。今まで食べた海鮮丼の中で白眉の出来だったと思う。

 福岡は魚がおいしいわりには、一般人向けの店が魚の卸売市場の近くにあまりなく、観光地としてはもったいないことをしていると思う。市民にとっての魚屋の集積地としては「柳橋連合市場」があるが、あそこは交通の便が良くなくて、観光客がアクセスするのは不自由だと思う。金沢の近江町市場みたいに、観光客を意識して再開発すれば、かなり人が集まる気がするがどうだろうか。

 さて、そんなことを言っているうちに日も傾いてきたので、そろそろ帰ることにしよう。今日も良い散歩であった。

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2010年10月09日

長崎は今日も雨、でもなかった

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 強行軍の日程で長崎に行ってきた。昨週はきつい泊出張が後半にあったのだが、金曜の午後遅めに雨の中を福岡に到着。溜まった仕事をこなした後、夜、家にたどり着くと、その足で駅まで行き、午後9時過ぎ博多発の特急で長崎に向かった。雨の長崎に着いたのが午後11時過ぎ。これもひとえに、「長崎くんち」を見んがためである。

 長崎くんちは、長崎市にある諏訪神社の祭礼で、国の重要無形文化財である。毎年10月7日から9日までの3日間催される。7-9日という日は決まっているので、その全てが平日であっても日程変更はない。たまたま今年は最終日が土曜になっており、おまけに「来ませんか」というお誘いがあったものだから、これを逃せば一生見ることはなかろうという思いに駆られて、天気予報は雨と言っているが行くことにした。思わず、クール・ファイブの「長崎は今日も雨だった」が頭に浮かんだ。

 さて、長崎くんちがどういうお祭りかということになると、これがなかなか面白い。諏訪神社の氏子にあたる市内の各町が町ごとにまとまって、奉納のための出し物をするというのが主な内容だ。但し、町の数が多いので、全てが一度に出ることはなく、7年一巡制が取られている。つまり、今年奉納の出し物をやった町は、7年後にしか順番が来ない。この当番に当たった町のことを「踊町」と呼ぶらしい。

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 町ごとの出し物のパターンは概ね決まっていて、最初に「傘鉾(かさぼこ)」が入場する。上の写真がそれだが、これは一見して傘とは分からない。ただよく見ると、傘の上に飾りを付けて、周囲を布で囲った形になっているのが分かる。中に担ぎ手が入っていて、これは町の名誉職らしい。そうは言っても、傘鉾の重さは平均で150kgあるらしいから(!)、誰でも出来るというわけではない。「お父さんも有名な担ぎ手だった」なんて解説が入っていたから、長い間練習を重ねてなるもんなんだろう。

 この傘鉾がただ進んで来るだけじゃなくて、くるくる回る。これがなかなかすごい。すかさず「よいやー」という声が観客からかかる。これが褒め言葉である。「うまい担ぎ手だ」なんて話も出る。廻し方にも巧拙があるらしい。

 この後、日本舞踊がある場合があり、これは「本踊」と呼ばれている。有名な流派の指導の下で舞う立派な踊りである。

 そして、最後に船が登場する。これが見ものである。

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 船の形をした屋台だが、中にお囃子をかなでる子供たちが乗り込んでいる。土台は船の形をしているが、車輪が付いていて、沢山の引き手が引く。重量は5トンもあるらしいが、こいつが激しく前進・後退を繰り返したり、くるくる回ったりする。このさまはかなりの圧巻。すかさず「よいやー」の掛け声と拍手が湧く。

 話を聞いているだけで疲れそうだが、現に見ていると、引き手は相当バテる様子。一通りの演技が終わると船は帰ろうとするが、それを観客が引き止める。その時の掛け声が「もってこーい」で、両手で「戻って来い」というしぐさをしながらみんなで叫ぶ。いわばアンコールである。で、これをやると、さすがに一度は戻って来る(笑)。そしてもう一度、船を引き回してくれる。やんやの喝采である。

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 こうした出し物の内容や飾り付けは、各町で決まっており、その町にまつわる内容になっているようだ。従って、ある特定の出し物を見ようと思ったら、その出し物をする町が踊町として選ばれている年の長崎くんちに行かないと見られないわけで、こういう演出は祭り好きの人の心をくすぐるものがあるかもしれない。また、見に行く方も、少なくとも向こう7年間は違う演目を見られるわけで、また来ようという気になりやすい。そうは言っても、おいそれとは来れないものだが・・・。

 ただ、逆の見方をすれば、これだけの出し物を一つの町内会でやるのは大変な労力であり、今日のように人の出入りが激しい時代にあっては、出し物を維持するだけで一苦労だろう。「先月引っ越して来ました」なんて人に傘鉾の担ぎ手を頼むわけにはいかないし、子供のお囃子の練習も、塾やら習い事やら多いご時勢に、大変なことだと思う。そう考えると、7年に1回くらいでないと、町内会として持たないのではなかろうか(笑)。

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 さて、全てのルールに例外があるように、長崎くんちの7年一巡ルールにも例外がある。人気の出し物については「どうしても見たい」という強い要求が湧く。それが「龍踊」である。

 そういえば、大河ドラマの「龍馬伝」にも、長崎に龍馬が来たときのシーンで、龍踊が出てきたような気がする。たしかに、これを見るといかにも長崎という気がするし、龍自体が大きいので、中華街で見る龍踊とは迫力が違う。

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 今回は籠町という町が特別出演で龍踊を演じてくれた。激しく爆竹が鳴る中を、たくさんの担ぎ手が舞うように龍を操る。龍はかなりの長さがあり、動きもダイナミックだ。ただ、これもまた相当疲れるらしく、何組もの担ぎ手が場面々々で入れ替わりながら龍を操作する。

 これはどう見ても日本の祭りというより中国の祭りだという雰囲気である。そういえば、この長崎くんち全体が、あまり日本の祭りっぽくない。まず、子供たちの奏でるお囃子が、日本の祭りとはちと趣を異にする。船が激しく動くせいか、アップテンポで、響きがどこか中国風である。

 さて、そうこうしているうちに踊町の出し物も終わり、次の見物は諏訪神社の神輿が神社に帰る際に坂道を駆け上がる「お上り」である。しかし、それまではかなり時間があるものだから、昼ご飯を食べに中華街に出掛けた。

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 まぁ長崎に来たらチャンポンでしょう。福岡でもチャンポン屋はたくさんあるが、長崎出身の人に言わせると「そりゃ長崎のチャンポンとは全然違いますよ」と声を大にする。そこまで言うならと、その自慢のチャンポンを食することにした。

 しかし、これが豚骨ラーメンと同じで、人によってどこがうまいという基準が違う。最も声を大にして長崎のチャンポンのうまさを喧伝していた知り合いの長崎県人は「何でもない小さな店のチャンポンに名品がある」なんて言っていたが、そんなものを探すのは骨が折れるので、中華街でどこがお勧めかと訊いて、「まぁ江山楼ですかね」という答えが返って来たので、江山楼へ行く。

 長崎の中華街は横浜中華街と比べるとはるかに小さく、ちょっと回るともう終わりかという感じだが、実はここの中華街が日本で一番古いと聞く。お蔭で、横浜、神戸とともに「日本三大中華街」と称されるらしい。どの店もチャンポンと皿うどんを全面に出して宣伝しているところが、ここの特色だろうか。

 で、江山楼に着いてみると、時間を外したにもかかわらず30分待ち。あぁ、やっぱり人気店なんだと実感。「隠れた人気店」ならもっとスッと入れたろうに、誰でも知っている人気店だったのが敗因だ。そうは言っても、ここで諦めて帰れないから、中華街をブラブラして待つことに。

 ようやく順番が回ってきて、期待を胸に「特上チャンポン」を頼む。そいつがこれだ。

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 何が違うのかと訊かれるとうまく答えられないが、まずスープの味が微妙に違う。福岡で食べるチャンポンよりも味がマイルドで若干甘みがある。但し、この甘みというヤツは、時として長崎のチャンポンの悪評にもつながる。スープがベタベタしていると不満を言う人がいるのである。しかし、この程度なら問題ないと私は思った。

 さて腹が一杯になったところで、先ほど書いた「お上り」へ向かう。

 諏訪神社は元々、諏訪神社・森崎神社・住吉神社の三社が一つになって出来た神社で、神輿が三台ある。長崎くんちの間は、これらの神様は一旦神社を出て、「お旅所」と呼ばれる仮宮に出掛けることになっている。この時、三台の神輿をお旅所まで運ぶのを「お下り」と言っている。反対に最後の日にお旅所から諏訪神社の本宮へ神輿が戻るのが「お上り」である。

 これがどうして見せ場かというと、まさに神輿が坂を駆け上がるシーンがあるからである。一つは県庁前の坂道、もう一つは諏訪神社の石段である。これが長崎くんちのフィナーレとなるわけで、一目見ようと沿道は大変な人だかり。これのために40分前から場所取りしました。

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 これは相当しんどそうだった。担ぐのすら重いお神輿を、坂道で走り上がるってのは尋常じゃない。踊町の傘鉾も150kgを担ぐし、船は5トンを引き回す。長崎くんちって、万事が体力勝負だ。これじゃあ高齢化社会がやってくると続けるのは無理な気がするなぁ(笑)。

 さて、これでめでたくお祭り見物も終わったが、ここで帰るにはちと早いので、全く見もしていない肝心要の諏訪神社でも見に行こうかと思い立つ。たしかに、奉納の出し物だけ見てお参りせずに帰るのは気が引ける。ついでに言うと、諏訪神社まで歩いてウォーキングの距離を稼ごうという下心もあった。

 県庁坂通りを上がり中央橋辺りから中島川沿いを歩く。中島川には幾つもの橋が架かっているが、有名な「眼鏡橋」よりも上流の橋はいずれも立派な石橋で趣があるし、川の表情も鄙びた感じで絵になる。眼鏡橋は冒頭の写真で紹介したから、もう少し上流の橋を紹介しよう。たくさんあったので、悪いが名前は忘れた(笑)。

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 さて、そうこうしているうちに諏訪神社に着いた。ここまで片道2km程度だろうか。諏訪神社に渡る地下道に、各町の傘鉾と船の絵が掲げられている。こうして見ていると、全部実物を見てみたくなるが、これは長崎に住んでいないと無理なんだろうなぁ。

 諏訪神社の階段はかなり急で長い。本当に、ここに神輿が上がってくるのだろうか。何だか信じられないが、既にその一瞬を見ようと沢山の人が集まっている。ただ、これは一歩間違えば死人が出る高さだよ、ホントに・・・。

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 諏訪神社は、これまで福岡で紹介した幾つかの神社のように神代からあるなんてシロモノではない。ただ、由来はかなり面白い。

 元々長崎には諏訪神社・森崎神社・住吉神社の三社があった。ところが、戦国時代に長崎がキリスト教徒の支配下に入ると、領地内の社寺は全て破壊された。キリシタン弾圧がむごいように書かれた書物がたくさんあるが、なかなかどうしてキリシタンだってひどいことしているじゃないか。やがて、キリスト教が禁教となった江戸時代に、長崎奉行や長崎代官の指示で三社が再興されて、今の諏訪神社となっている。

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 この後また中央橋まで戻って、これで往復4kmとなった。けれどまだ余力があるので、今度はオランダ坂まで歩くことにする。中華街まで戻り、脇から山の裾野を回ってオランダ坂へ。距離にして1km。まぁたいしたことはない。

 オランダ坂は、名前は有名だが、何があるわけでもなく、ただ景色を楽しむという類か。昔、居留地に住む外国人が日曜毎に教会に通うのに使っていた坂道らしいが、今では地元の女子大があるだけ。もう少ししゃれた店が幾つかあれば見ごたえがあるのに惜しい。

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 で、更にもう一つくらい立ち寄るかと、ここから近い「孔子廟」まで足を伸ばす。この類の建物は、ホントは中華街にあった方が観光客向けにはいい気がするが、1893年に清国と在日華僑が協力して孔子廟を作った場所が元々ここだったので、今更悔やんでもどうしようもなかろう。まぁ観光目的で作ったわけではないから仕方ないか。

 ただ、これで入場料600円は高い気がする。博物館は立派だが、1階にあるみやげ物屋は閑古鳥が鳴いていたよ。むしろ、入場料金をもっと下げて、訪問者にみやげ物屋で何か買わせることを考えてはどうだろうか。

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 さて、これでもう充分歩いた気がするので、電車道まで出て市電で帰る。さすがにここから駅までは遠い。それにしても、降水確率50%で雨と言われていたのに、全く雨が降らないどころか、午後には日が射して青空となった。これも諏訪神社の神様のご利益だろうか。何だか得した気分である。

 かくして午後6時過ぎの特急で福岡に帰る。何とも強行軍の長崎見物だった。足に自信ある人にしか進められないスケジュールだ。

 まぁそれでも長崎くんちも見られたし、おいしいチャンポンも食べられた。ホントに良い休日であった。

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2010年10月03日

再び晴耕雨読

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 今朝は雷の音で目が覚めた。そういえば、昨夜の天気予報では「九州北部は雷を伴うまとまった雨になる」と言っていた。天気予報というのは、悪い方向に向かっては当たる確率が高い気がする。

 午前中はかなり土砂降りの雨。夕方辺りには上がると言っていたが、これじゃあ本日も遠出は無理だと諦める。ちょうど秋の長雨シーズンだろうから仕方ないが・・・。

 今日は読書にいそしもうと決めて、ソファに座って読みかけの推理小説を広げた。R・D・ウィングフィールドのフロスト・シリーズの長編4作目「フロスト気質」である。

 フロスト・シリーズとはここ最近の付き合いで、毎作ミステリー・ランキング上位に顔を出しているので、以前からその名前は知っていた。しかし、フロスト・シリーズが収録されている創元推理文庫は昔から、小さい字でびっしり活字を組む体裁なので、どうも読みにくく敬遠気味の文庫本だった。お蔭で本シリーズは、長らく食わず嫌いの状態となっていた。

 そんな中で突然読み始めたのは、たまたま読む本が枯渇したからだ。私は、出張のお供に持って出掛けて、飛行機や電車、あるいはホテルの部屋でミステリーや推理小説を読むのが好きなのだが、出張が続きそうな時期に手元の未読本の在庫がなくなった。手ぶらで出張に行くと道中退屈しそうなので本屋に出掛けて、食わず嫌いだったフロスト・シリーズを手に取った。そしたら、さすがにランキング常連のシリーズらしく、滅法面白かったので全シリーズを読むことになったわけである。

 イギリスの架空の町デントン市にある警察署に勤務するフロスト警部が活躍するこのシリーズは、主人公のキャラがなかなか面白いうえ、いくつもの事件が平行して進展していく「モジュラー型推理小説」という形態をとって書かれている。

 捜査に当たるフロスト警部は、ちっともカッコ良くなく風采も上がらず、署長からは役立たずの厄介者と思われている。まぁたしかに行き当たりばったりでハチャメチャな仕事ぶりだが、時々独特のカンを発揮して事件を解決していく。でもそのカンがよく外れるところが名探偵らしくない。あっち行ったりこっち行ったりして捜査が迷走するし、署長につく悪態や、所かまわず連発する下品なジョークや皮肉が、従来の推理小説の主人公像と大きく異なる個性を発揮している。同僚には愛されるダメ社員的なキャラと、寝食を忘れて仕事に没頭する使命感みたいなところが、疲れ切った日本のサラリーマンの共感を得ているような気がする(笑)。

 でもまぁ誠に残念なことながら、フロストの長編ものはこの「フロスト気質」でストップしている。肝心の作者ウィングフィールドが亡くなってしまい、残りの長編が未訳のまま2作あるのだが、2008年に翻訳された本作以降、新しい邦訳の情報は聞かない。そろそろ、次に読む作品の選定に当たらないといけないようだ。

 私は、本を読むというと仕事絡みの本を読んでいるように誤解されることがしばしばあって、それは誠に光栄の至りだが、まずプライベートな時間に仕事関係の本を読むことはない。もっぱらミステリーやら推理やらの娯楽小説ばかりだ。そう言うと意外な顔をされるから、世の中のサラリーマンは一般に、休みの日にも仕事の本を読んで自己啓発にいそしんでいるというのが世間の常識らしい。でもホントかね?

 日頃十分仕事をしていると、休みの日にまで仕事にかかわろうという気力は湧いてこない。これは私だけのことだろうか。それとも世の中、よっぽど仕事好きな人が多いんだろうか。ならば仕事の後で酒場でストレス解消する必要もなかろうに。あるいは、休みにまで勉強しないと追いつけないくらい仕事が高度な人が多いのだろうか。そうだとすればご同慶の至りである。何とならば、それだけの知識を要する仕事についている頭脳系サラリーマンなら高給取りであることは間違いないからだ。まぁ、こんな皮肉交じりの感想を言うのは、先ほどまで読んでいたフロスト警部の皮肉がうつったのかもしれない(笑)。

 さて、来週からは仕事が一層忙しくなる予定で、泊まりの出張も増える。フロスト警部みたいに不眠不休というわけではないが、本格的な仕事の秋ということだろう。出張に備えて次なる推理小説でも物色するかな。

posted by OhBoy at 22:15| 日記

2010年10月02日

百道浜でサザエさんを思う

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 今日は起きたときこそ晴れていたものの、すぐ空一面に雲が広がって昼前には雨が降り出した。気温はそう高くないが湿度は高めで、やや蒸し暑い。前線が近付いているせいだろう。お蔭でいつまでたっても半袖と縁が切れない。

 昼過ぎにはすっかり雨になってしまい、散歩を計画している場合ではなくなった。福岡在住の散歩好きに言わせると、こういうときには天神まで出掛けて地下街をウロウロしていればそれなりに距離が稼げるという。なるほど・・・。

 天神は福岡一の繁華街で、3つのデパートのほか、様々なショッピング系ビルがひしめいている。ここには立派な地下商店街がかなりの長さにわたって展開しており、ほとんどのビルには地下からアクセスできる。ウィンドウ・ショッピングを兼ねてウロウロしているだけでかなり歩けるし、雨の心配は全くいらない。なるほどいいアイデアだが、さすがにそこまでする気力は湧かない。

 天神と言えば、昨夜は職場の同僚に誘われて、渡辺通りにある「博多だるま」本店に豚骨ラーメンを食べに行った。豚骨ラーメンに関心ある方なら誰でも知っている名店らしい。天神の南側でメインストリートから外れた場所にあるので、観光客だとちと迷うと思う。

 ちょっと変わった造りの店舗で、店内はここにラーメンを食べに来た有名人の色紙で壁一面が埋まっている。すごい人気だということは、それを見れば十分分かる。

 普通のラーメンに一口ギョーザを半人前食べる。一口に豚骨ラーメンといっても、九州には様々な形態のものがあるが、ここのはこってり系スープに細麺の組み合わせ。こってり度はかなり高いが美味。ほとんど最後までスープを飲みそうになる。ラーメン食べるたびに豚骨スープを飲み干していると、とんでもないカロリー過多になりそうだ。

 九州の豚骨ラーメン発祥の地は久留米と言われており、久留米のラーメンのスープはまさにこってり系。それに比べて博多はもう少しあっさりしているらしい。但し麺は、福岡が細麺なのに対して、久留米は普通の太さ。だから替え玉がないと聞く。ちなみに細麺発祥の地は、福岡市内の長浜地区。ここも豚骨ラーメンで有名なところだ。

 ところで、この博多だるま本店のすぐ近くに、福岡市立春吉小学校というのがある。それがどうしたと訊かれそうだが、ここは「サザエさん」で有名な長谷川町子が卒業した小学校だ。サザエさんも漫画の中では福岡出身ということになっている。

 ついでに言うと、サザエさんとマスオさんがお見合いをした場所は、福岡の天神にある老舗デパート「岩田屋」の大食堂ということになっている。岩田屋には何度か入ったことがあるが、食堂には行ったことがない。いやそもそも、既に大食堂の類はなくなっているんじゃなかろうか。東京のデパートもそうだが、昔ながらの、洋食から和食まで何でも置いてある大食堂は、デパートから姿を消しつつある。

 そんなことをあれこれ考えているうちに、空が明るくなって来た。どうやら天は我を見放していなかったらしい。遅い出発ながら、散歩に出掛けることにする。何といっても健康管理第一だからね。

 実は、朝から晴れていたら、女房から教えてもらっていた日本画家「千住博」の作品展示会に行こうと思っていたのだ。場所は、ホテル「ヒルトン福岡シーホーク」にある「AGA・T(アガティ)」という画廊。

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 このシーホーク・ホテルは、Yahooドームの隣にあり、事実上つながったような形になっている。遠い昔、仕事で福岡に来たときに、新装開店のシーホーク・ホテルに泊まったことがあるので、何となく馴染みがある。もっともその頃は、ここいら一帯の施設はダイエーが運営していたし、ドームも「福岡ドーム」でホームグラウンドにしていた球団は「福岡ダイエーホークス」だったが・・・。

 当時は周囲が再開発される前で、「アジア太平洋博覧会(よかトピア)」の会場跡地として、工事現場そのものといった感じだった。「夜は暴走族の溜まり場なので出歩かないで下さい」と地元の人に言われて、仕方ないので暇つぶしにと隣のドームに野球を見に行った。イチローがまだ日本にいた頃で、ちょうど彼がホームランを打つところを見た記憶がある。福岡を代表する高級住宅地として再開発された今の街並みを見ると、隔世の感がある。

 さて千住博の作品展示会だが、小さな画廊に値段が表示された小品がいくつも展示されており、「気軽に見て下さい」というより、この周辺の富裕層向けの作品販売会の様相を見せていた。画廊内では商談が進んでいる様子だったので、奥まで立ち入らずに外側に向けて展示されている作品を鑑賞させてもらった。

 千住博は有名な千住三兄弟の長兄で、ニューヨークに在住しながら日本画を描いている。弟の千住明は作曲家として幅広く活躍しているし、妹の千住真理子は有名なバイオリニストである。「ウォーターフォール」という滝を題材にしたシリーズが有名だが、私はもっと前から彼の作品を知っていて、当時日本の有望な若手日本画家の筆頭格だったと思う。その頃は百万円程度で肉筆の作品が買えて、投資としてもいいなんて推奨されていたが、その通りになった。もっとも私は一枚も作品を持っていないわけだが・・・(笑)。

 画廊を出ると、もう天気は大丈夫な様子で、きれいに青空が広がっていた。ここまで来たので、もう少し先まで足を伸ばすことにした。シーホーク・ホテルから樋井川を渡って南西方向の「西新(にしじん)」に向かう。

 昨夜の春吉小学校の続きで、サザエさんの聖地にでも立ち寄ろうかという趣向である。そいつがこれだ。

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 何となく笑ってしまうが、サザエさんファンにとっては重要なチェックポイントである。

 サザエさんの作者の長谷川町子は佐賀県の出身だが、小さい頃に父親の仕事の都合で福岡市に引っ越して来た。当時住んでいたのは、昨夜ラーメンを食べに行った辺りである。ところが父親が亡くなり、一家は叔父を頼って一旦東京に移り住む。ここで長谷川町子は高校生ながら、「のらくろ」で有名な漫画家の「田河水泡」に弟子入りしている。だが戦時中のことゆえ生活が困難になり、昭和19年に再び一家は福岡市に戻ってくる。そして福岡での新しい家はここ西新にあり、家の裏が「百道(ももち)」の砂浜だった。

 彼女は妹と浜辺を散歩しながらサザエさんの構想を練る。そして昭和21年に福岡の地元紙「夕刊フクニチ」に連載を開始したのが漫画「サザエさん」である。登場人物が全て海にちなんだ名前になっているのは、この百道の浜辺を散歩しながら構想を練っていたがゆえである。以前「サザエさんうちあけ話」という長谷川町子の自伝エッセイを読んだときにその話が出ていたのを覚えているが、まさかその地に来る機会があるとは思わなんだ。人生って不思議なもんだ。

 今は埋め立てが進み、彼女が歩いていた砂浜は「よかトピア通り」という大きな道路になってしまい、現在の百道浜はずっと沖合いに移動してしまった。それでも、彼女が構想を練った場所には、記念に浜辺のモニュメントが残されている。

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 「長谷川町子美術館」は東京の世田谷にあるから、サザエさんといえばすっかり東京のイメージが強いが、実は生誕の地はこんなところにあったわけである。サザエさんの熱烈なファンでも、この聖地に立ったことのある人はまずいないだろうなぁ(笑)。

 さて、せっかくここまで来たのだから、今の百道浜でも散歩して帰るかと思い、今度は浜辺目指して北上することにする。まぁそうはいいつつ、このまま真っ直ぐ北に行ったのでは面白くないので、長谷川町子が歩いた浜辺、すなわち今の「よかトピア通り」を西へとたどることにした。

 サザエさんの構想を練った砂浜が、こんなにビュンビュン車が通る大通りに姿を変えるとは、長谷川町子も思ってもみなかったに違いない。おまけに当時見ていた海は再開発で高級感あふれる住宅地に変身しているし・・・。

 先ほどのサザエさんの聖地から少し行ったところに、堂々たる「福岡市博物館」が鎮座ましましている。

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 ここは長谷川町子が散歩していたときには海だったわけで、建物はアジア太平洋博覧会(よかトピア)開催の際に建設されたものである。

 この博物館の売りは私見では二つあって、一つは有名な「漢倭奴国王」の金印。これは国宝であるが、実物は意外と小さい。一時は郡の奉行所で鋳潰されそうになったのを「百両で買い取るから引き渡せ」と掛け合ったのは、福岡藩の西の藩校「甘棠館」館長の「亀井南冥」である。金印の鑑定も彼が行っている。そんな立役者なのに、彼の末路は哀れだ。墓は西新と唐人町の中間辺りにあるから、一度お参りでもしてあげるかな(笑)。

 もう一つの売りは、今イチ有名ではないが、名槍の聞こえ高い「日本号」。これは「黒田節」の中に出て来る「酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真(まこと)の黒田武士」の槍である。ものすごく立派な堂々たる槍で、これを持って舞うなんて無理だろと思わせる重量感がある。

 ところで、この博物館の周辺には高級住宅街が広がっているわけだが、ちょっと景観が変わっている。こういう不思議な建築物が並んでいる姿は、東京でも見掛けないと思う。

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 どうしてこうもユニークなデザインの建物がそろっているかというと、ここを再開発する際、世界の著名建築家7人に建物のデザインを頼んだからだと聞く。各人が自分なりのコンセプトで建物の設計をしたものだから、不思議な形の建物が集まったという次第である。お蔭で、これらの建物が並ぶ通りは「世界の建築家通り」と呼ばれている。福岡って、探せば面白いところが一杯あるもんだ。

 さてここから北上して「福岡タワー」の裏から百道浜に降りることにする。

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「福岡タワーって何じゃらホイ」ということになるが、これはアジア太平洋博覧会(よかトピア)に合わせて作られた塔で、実際の役割は電波塔である。もちろん展望台もあるし、ちょっとした観光案内もしている。そういう意味では東京タワーと似ている。高さは234mで、東京タワーに次ぐ高さの塔らしい。ホントは、この塔の建設に合わせて、福岡にあるテレビ局やラジオ局をこの場所に誘致したかったらしいが、うまくいかなかったという話を地元の人に聞いた。

 この塔の裏手はもう海である。

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 浜辺は公園化されており、けっこうな人で賑わう。夏場は海水浴も出来るし、水上バイクなどのマリンスポーツも可能である。今は季節はずれとなってそれほどでもないが、昼過ぎまで天気が悪かったにもかかわらず、今日もそれなりに人が遊びに来ている。浜辺に降り立ち、のんびり散歩する。これが今の百道浜である。

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 長谷川町子が歩いた当時の百道浜はどんな感じの海岸だったんだろうか。もう昔のことなので記憶が曖昧だが、長谷川町子は砂浜に転がっていたサザエの殻を見て主人公の名前を思い付いたんじゃあなかったかなぁ?

 実を言うと、百道浜にはこんなド派手なショップ&レストランもあるわけだが(笑)、これじゃあサザエさんののどかな世界は思い浮かばなかったろうなぁ。

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 さて、ここからは浜辺の遊歩道をそぞろ歩きながら、元来たところまで戻ることにした。距離にして2kmくらいのものだろうか。

 夕暮れの砂浜を延々と歩くなんて何年ぶりのことだろう。夏はもう過ぎ去ったが、浜辺には家族連れが楽しそうに遊び、突堤の先ではたくさんの釣り人が釣竿を構えている。波の音を聞きながらゆっくりと歩く。早足で歩くのがもったいない道である。海から吹く風が心地よく、実に心落ち着くひとときだ。これなら何キロでも歩けるような気分になる。

 東京では、どんなに頑張ってもいくら金を費やしても、日常生活でこんな優雅な時間は過ごせないだろう。福岡は東京に比べれば小さな地方都市だが、気楽にこんな時間を過ごしていると、東京以上に贅沢な場所かもしれないなと思う。「幸せの物差し」が違うんだろう。

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 この辺りの砂浜から海に伸びる突堤では、けっこう釣果があると聞く。福岡は海が近いので釣りを趣味にする人も多く、たいして金も時間もかけずに楽しく獲物を狙うことが出来る。これもまた贅沢な話だ。「これからはドンドン魚がおいしくなりますから楽しみにして下さいよ」と先日地元の人から言われた。魚好きの私にはうれしい限りだ。

 今晩のおかずはさばの刺身とする。さばは他の土地では刺身で食えないが、ここでは新鮮なので刺身で食べる習慣がある。さばも冬に向けておいしくなるらしい。2-3人前で298円。ここじゃあお金の価値が高い。他にも、太刀魚やらトビウオやら、東京では食べられない刺身が安価で楽しめる。

 福岡が住みやすい街の筆頭格に挙げられる理由が、ここに住んでいて少しずつ分かってきた気がするなぁ。豊かな暮らしっていうのも色々あることに気付かされる。東京に長く暮らす身としては、目を見開かれる思いだ。
posted by OhBoy at 22:47| 日記