2010年11月23日

赤坂・桜坂の裏道を行く

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 朝起き上がった瞬間に腰の辺りがズキリと痛んだ。安静にはしているつもりだが、まだ腰は本調子ではなく、特に午前中は不調だ。朝は身体が硬いからだろうか。動くと痛むのでヨタヨタと起きて、苦労しつつ着替える。人が見たら何してんだろと思うだろうが、幸い一人暮らしなので誰も見ていない。

 このところの傾向として、午後から徐々に楽になり、夕方にはかなり大丈夫な状態となる。右側にかがまなければ、生活に支障はない。だから午前中は安静にしていようと、掃除はずっとさぼったままだ。

 今日の福岡は曇りがちで、風が強い。海や川では風が吹いて寒そうなので、腰の調子が楽になり始めた午後から、街中を歩くことにした。距離も短めに取る。

 だいたいメイン・ストリート沿いは制覇したように思うので、そろそろ散歩の王道である裏道探索に取り掛かることにする。表通りは平坦だが中に入ると起伏があって面白いと聞いた赤坂と桜坂を攻めることにする。

 たいてい行き当たりばったりで散歩する私だが、裏道となると話は別で、入り組んだ細道で迷うと方向感覚まで失ってとんでもないところまで行ってしまう惧れがある。東京だと住み慣れているので力技で何とかなりそうだが、ここ福岡は住み始めて4ヶ月程度なので、迷子にならないよう慎重に下調べをする。

 今回の起点は赤坂の端にある「護国神社(ごこくじんじゃ)」である。

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 紅葉がきれいなんだろうかと少しは期待して行ったが、常緑樹が多くてそんなことはなかった。上の写真は隅の方で見つけた色付いた木だが、本殿周辺は鬱蒼たる緑である。

 神社の創建は明治元年で、戊辰戦争で亡くなった藩士を祀るために福岡藩が建てたのが始まりだが、その後戦争で亡くなった兵士が全てここに祀られるようになった。幾多の英霊が眠る場所が、冬になると枯れ木の山になるのは寂しいので、常緑樹が選ばれたんだろうか。

 護国神社の南側に出て、けやき通りの途中から赤坂三丁目辺りに分け入る。進入経路は慎重に地図とにらめっこして決めた。表通りと違って、中に分け入ると小道がかなり複雑に交差しており、一箇所でも曲がるところを間違うと、全然違う方向に出てしまう。

 けやき通りはこの前ブログで紹介したが、ミニ表参道みたいなしゃれた道で、都会的な印象だ。しかし、そこから一歩中に入ると風景はガラリと変わり、緑の濃い住宅地が現れる。

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 ほとんど人通りはなく、実に静かな住宅地で、どのくらいの敷地面積なのかハッキリしないような広大やお屋敷も何軒か見掛けた。けやき通りとは別世界の趣で、どこか懐かしい昭和の匂いがする。和風家屋も洋風建築もあるが、今どきの新しいデザインの家という感じではない。古いお金持ちの邸宅街といった印象だ。

 地図がなければ確実に迷うような小道を行く。道は整然と並んでおらず、右や左に曲がりながら、時々他の小道に枝分かれする。坂を登りながら奥に進んでいく感じだ。その間、誰ともすれ違わなかった。

 小道の両側に建つ家を見ていると、もの凄く古くからありそうな門構えの大邸宅もある。高低差があるせいか、門の向こうは森の中に続く階段が見えるだけで、家自体はどこにあるのか分からない。坂を上がってようやく、塀越しに家の屋根らしきものが垣間見えるといった具合だ。

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 福岡に来て4ヶ月になるが、ここには実にたくさんのお金持ちが住んでいるという印象を受ける。以前にも何度か紹介した百道浜辺りにも新興の高級住宅地があるが、市の中心部にある豪邸は、歴史的にも敷地的にもそれを圧倒する観がある。

 福岡は古代より、博多の商人たちが貿易で財を成した地だから、昔ながらの金持ちがごまんといるのだろう。だからあれだけの商業集積が天神にあって栄えている。九州全域から買い物に来たり、中国や韓国から観光旅行に来る分も大きいが、そもそも地元の消費力が強くなければ、核となる商業施設は育たない。それだけ豊かな経済的素地があってのことだろう。

 せっかくの機会なので、一直線に桜坂側に出ずに、くねくねと脇道に分け入って歩く。住宅地を歩いているんだか、自然公園沿いを歩いているだか分からないような散歩を進めているうちに、次第に坂は下っていき、桜坂が近いことを教えてくれる。

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 以前、赤坂という地名は赤坂山という城山に由来するという話を書いた。関が原の戦い後に入ってきた黒田長政が、赤坂山をならして今の福岡城を建てたため、山そのものはなくなってしまったが、こうして一歩表通りから分け入ると、この辺りが今でも丘陵地帯であることが分かる。城の南側に位置するこの地区は、昔なら上級武士が住んでいたはずだ。

 さて、何とか迷わずに城南線に出ると、今度は桜坂を目指す。抜け出たところからすぐのところに、地下鉄七隈線の桜坂駅がある。今度はここから裏道を通って、南公園の山道を散策しようという趣向だ。

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 桜坂のシンボル的存在の「セント・マルティーヌ教会」の脇から小道に入る。毎度思うのだが、ここの素晴らしい景観を電信柱と電線が台無しにしている。誰か注意しないのかと思うくらい、ひどい光景である。一番ロケーションのいいところに、これでもかというくらいにたくさんの電線を集中させており、美的センスを疑う。まぁ実用一点張りの電力会社に美的センスを求めても仕方ないかもしれないが…。

 南公園に上がるバス通りは、この教会前で90度以上の弧をかいて坂を上がっていくのだが、本日の目的は裏通り散策。人も通らない裏街道を行くのが散歩の王道というわけだ。

 教会の左脇の道を入るが、すぐに車両進入禁止の柵があり、そこから先は枯れ葉が敷き詰められた山道になる。こんなところ、相当訳知りの人でないと通らないんじゃないか。他に誰も見掛けないし…。

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 南公園には以前にも来たことがあってブログでも紹介したが、あのときは交通量の多いメイン・ストリートを上がって、展望台から福岡市街を一望した。これは最もポピュラーなコースで、地元の人なら車であの道を行くだろう。

 しかし今回は、古い南公園を歩こうという趣向で、歩くのは全て、車が入れない山道となる。このコースは、福岡の人といえどもあまり馴染みがないかもしれない。ただ、ここにまだ浄水場があった頃には、この古い山道が公園に登るメイン・ストリートだったのではないかと思う。

 南公園は、「大休山(おおやすみやま)」という山の上に作られている。不思議な名前の山だが、江戸時代には、福岡の城下を抜けて南に行くときに通過する場所だったと聞く。峠の頂上でみんなが一休みしたので、この名前が付いているともいう。

 以前、天神を散策した際、あそこにある「飢人地蔵(うえにんじぞう)」について紹介した。江戸時代に起こった享保の大飢饉時の犠牲者を弔う地蔵だが、実はこの南公園にも飢人地蔵がある。今日は立ち寄る予定はないが、当時食料の尽きた南部の村々から福岡城下での炊き出しを求めてやって来た人々が、峠を越える辺りで力尽きて次々に餓死したという。そうした人々を弔う地蔵や供養墓が、今でも南公園内に残っているらしい。

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 さて、南公園の旧道の出発点は相当分かりにくいところにあり、最初はここだと思わずに前を通り過ぎてしまった。行き過ぎに気付いたところで、あの場所だったかと引き返したが、予め地図やガイドブックで、そこに道があると知っていなければ、決してそれが山頂に続く入り口だとは思わないだろう。

 枯れ葉で覆われた朽ちた石段を登っていくと、さすがにここは山なんだと実感する。たいした高さはないが、休まずに登るとちと疲れる。腰を痛めているんだからセーブしなきゃと気付いたが、そのときにはもうメインの山道がすぐそこだった。

 以前にここに来たときには展望台に登ったが、旧道の方にも展望台がある。しかし、ここは展望できるものが何もない(笑)。昔は見晴らしのいい場所だったようだが、周囲の木々が育つに任せているうちに、木に覆われて何も見えなくなってしまったようだ。

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 案の定、展望台には誰もいない。苦労して登って来ても何も見えないのだから、当たり前といえば当たり前だ。わざわざここまで上がってくる価値がない。つまり、今私が来た山道は、歩くことだけが目的の人以外、まず通らないということだろう。確かに誰にもすれ違わなかったし、人のいる気配すらなかった。今日はそんな無人のところばかり歩いている(笑)。

 ではこの展望台、何も見るものはないかというと、実はある。「中山紀念碑(ちゅうざんきねんひ)」というのが建っているのである。

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 「中山って何」という疑問が湧くと思うが、「辛亥革命(しんがいかくめい)」を指導した中国清朝末期の政治家「孫文(そんぶん)」のことである。中山は苗字ではなく、彼の号である。中国では「孫中山」というらしく、中国の重点大学の一つである中山大学も、孫文の号を冠している。

 孫文は何度か来日しているが、福岡にも身を寄せたことがある。日本の右翼運動の源流とも言われる福岡の政治結社「玄洋社(げんようしゃ)」や、筑豊地方の炭鉱経営者たちが、孫文を経済的に支援したと伝えられ、福岡との縁は深い。

 辛亥革命の後に「中華民国臨時大総統」に就任した孫文は、来日時に福岡にも立ち寄り、支援してくれた玄洋社を訪問し、玄洋社員の墓参りも行っている。

 福岡にいた頃の孫文は、何度かこの大休山の展望台に上がって来て、ここから福岡市内を見ていたというが、この碑の向いている方向が中国とのことである。

 さて、ここからは「御所ヶ谷(ごしょがたに)」方向に山道をたどって降りることにする。

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 江戸時代の大休山の麓には、下級武士の居留区が広がっていたという。周辺にはたくさんの谷があり、それぞれに名前がついていたようだが、今では「谷」と「御所ヶ谷」の二つの地名に統合されている。

 先ほど通ったセント・マルティーヌ教会から西側が「谷」という地区になるが、ここも裏道を分け入るとなかなか面白いらしい。でも、それなりに地図を調べてから臨む必要があるから、また次回の楽しみに取っておこう。

 今回抜けようとしているのは東側だが、この山道の麓辺りに「金比羅神社(こんぴらじんじゃ)」がひっそりと建っている。

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 私が境内の案内板を見て驚いたのは、この神社、香川県にある金刀比羅宮の分社なのだが、福岡市唯一のこんぴらさんなのである。しかも、こんぴらさんって、海上交通の守り神として信仰されており、漁師さんなど海の関係者がお参りするところなのに、たった一つしかないこんぴらさんが何故山の麓にあるのかと疑問が湧く。

 この神社が出来たのは江戸時代の初期なのだが、どうもその頃は、この辺りは海に面していたらしい。確かに、大濠公園自体が海の入り江だったわけで、当時はかなり巨大だったようだから、この辺りまで入り江がせり出して来ていたのかもしれない。

 さて、大休山を降りきって、浄水通りまで出ると今度は北に進路を取り、一旦城南線まで戻る。そこから地下鉄桜坂駅へ行き、横の道から北上してけやき通りに戻った。この前来たときはそうでもなかったが、けやき通りの並木がすっかり色付いていて、如何にも晩秋の風情がある。

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 これでほぼスタート地点に戻ったわけだが、せっかくの晩秋の休日、福岡城址を暫し散歩することにした。今日は坂道や山道を何度か登ったので、腰を思って城山には上がらず、石垣沿いの遊歩道を歩く。

 冷え込みが弱い分、紅葉の鮮やかさが少し足りない気がするが、まぁ良しとしよう。この前行った秋月と比べるのが、どだい無理なのだ。

 それでも、紅葉を求めて散策する人たちが何組かあり、三脚を立てて写真を撮っている人もいる。そういえば、秋月では露出のおかしかったこのカメラだが、色々調整して何とかまともに写せる設定を見つけた。でももうかなり古いカメラだから、そろそろ引退が近いのかもしれない。この設定でも写りが悪くなったら、買い換えようと思う。

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 実は、この城の石垣の脇を南北に通る道は、一度も歩いたことがなかった。たいてい大濠公園を抜けるか、城側に来たときには天守閣跡の方に上がってしまう。今までここは、広大な公園地区を車が通り抜けるための道という認識しかなかったから、歩いても面白くなかろうと思い込んでいた。

 実際歩いてみると、道沿いに公園が設けられており、散歩にも遊ぶにもいいところだと思う。城跡一帯が「舞鶴公園(まいづるこうえん)」として整備されており、平和台陸上競技場もこの中にある。

 戦後、第3回国民体育大会が福岡で開催された際、この辺りが「平和台総合運動場」として整備された。それまでここは城であったり、旧陸軍歩兵連隊居留地だったりして、ずっと戦さにかかわった場所だったので、平和な時代への願いをこめてこの名前が付いたと聞く。確かに今では平和を象徴するような場所になった。

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 何だかんだと言いつつ、今日もそれなりの距離を歩いたが、腰の方は特に問題はない。毎度の事ながら、夕方になると調子が良くなる。やはり、身体を動かしているうちに筋肉がほぐれるのだろうか。問題は明日の朝で、果たしてどの程度改善しているのやら…。

 来週末には所要で東京に帰るが、それまでに腰の状態が元に戻っているかが問題だ。9月初めに帰って以来の帰京で、身体はすっかり福岡モードになっているから、東京のあの人ごみにはうんざりしそうだ。器用に人をかき分けながらそれなりのスピードで歩くには、軽快なフットワークと腰のひねりが要求されるが、果たして大丈夫だろうか(笑)。

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2010年11月21日

晩秋の秋月を歩く

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 福岡は海に面しているせいか、朝夕の冷え込みがそう厳しくない。「日本海側だから冬は寒いですよ」と地元の人に脅されたが、秋も終わりだというのに、朝夕の寒さが予想したほどではない。

 ここに住む身にとっては大変結構なことではあるのだが、そうなると紅葉の鮮やかさが今イチということになる。

 普通、植物というのは、葉に含まれる葉緑素が光合成を行うことにより、糖類(炭水化物)が作られ、それが成長の源となる。紅葉というのは、この光合成の機能が阻害されて起きる。朝夕の冷え込みや日照時間の短縮が起きると、葉の栄養分伝播機能が損なわれて葉に糖分が溜まる。同時に、葉緑素自体も分解される。葉緑素の分解によりて葉の緑色が失われ、葉自体の持つ黄色や、糖分の持つ赤色が表に出て来て色が変わる。

 朝夕の冷え込みがきついと、こういうメカニズムがよく働き、紅葉も鮮やかになるという。逆に冷え込みがゆるいと、色はくすむらしい。

 さて、そんなわけで、福岡にはあまり紅葉の名所はないなぁなんてうそぶいていたら、地元の方から「それなら秋月にでも行きましょうか」と誘われた。

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 「秋月(あきづき)」というのは、福岡市の南東にある地域で、正確には福岡県朝倉市秋月という地名になる。しかし、この辺りの人には、秋月といっただけで通じる。古い城下町の風情を今に残し、桜や紅葉の季節には、その古風な街並みと周囲の自然の美しさを見に、たくさんの観光客が訪れる。「筑前の小京都」なんて呼ばれることもあるらしい。

 で、その秋月だが、交通の便はあまり良くない。公共の交通機関で行こうと思ったら、甘木鉄道か西鉄で甘木駅まで行き、そこからバスに揺られて20-30分みたいな道行きだろうか。バスの本数が一日どのくらいかも分からないし、かなりの覚悟を決めて行くしかないと思う。

 本日はそんな心配はせずに、職場の同僚の車で秋月めざしてレッツ・ゴーである。しかし、絶好の行楽日和ということに加え、高速道路の一部区間で工事をしているために大渋滞に遭う。お蔭で9時半に出発して到着が11時。そのうえ秋月のメインストリートは、駐車場目指して延々と車の列が続くという大賑わいで、寂れた感じの城下町というイメージとはちょっと違っていた。いったいどこからこんなに人が来たんだという感じである。おまけに観光バスもたくさんいるし・・・。

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 さて、「昨日言っていた腰痛はどうなったんだ」という疑問もあるかと思う。その点については、「車の助手席に座ってじっとしてれば、安静にしているのと同じになるのではないか」という私独自の見解に基づき、これも治療の一環と信じて車に乗ることにした。まぁ要するに、まだ完治していないということだ(笑)。

 やっとのことで車を駐車場に入れて、まずは「秋月城址」を目指す。城址へと続く道は「杉の馬場」と呼ばれる桜並木で、昔は乗馬や流鏑馬が行われていたらしい。もうたいへんな人の波だが、杉の馬場と言いつつ、よく見ると杉がない。もらった解説書を読むと、依然植わっていたのを切って、桜を植え直したらしい。桜の季節も、すごい人なんだろうなぁ。

 秋月城址に行く途中にあった「秋月郷土館」に入り、秋月の歴史を勉強する。郷土館は、秋月藩の上級武士だった「戸波家」の屋敷と藩校「稽古館」跡地を利用したもので、何だか新旧取り混ぜて色々なものが展示してあった。

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 秋月の地名は、昔この地を治めていた「秋月氏」に由来する。秋月氏の先祖は、瀬戸内の海賊「藤原純友」の討伐で活躍し、九州に所領を与えられた土着の豪族である。しかし、その後九州で勢力を伸ばした大友、島津、大内などの有力大名には全く太刀打ち出来ず、その傘下に甘んじ家来として大内や大友に仕えるという経緯をたどる。

 そんな秋月氏に転機が訪れるのは戦国時代で、安芸を治めていた毛利氏が北九州に進出して大内氏を滅ぼすと、秋月氏は毛利と手を結び大友氏を敵に回す。これが裏目に出て大友氏に攻め立てられ、当主は討ち死にし秋月氏は滅びる。

 だが、一度滅びた秋月氏は再び息を吹き返す。毛利氏の元に落ち延びていた息子が再興を図り、島津氏と組んで大友氏に対抗する。その後家は栄え、多くの所領を手にするが、好事魔多しの譬え通り、豊臣秀吉の九州征伐の際に島津氏と共に豊臣勢と戦って破れ、領土を没収され、南九州に封印される。これが、この地における秋月氏の最後である

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 今の秋月城址は、関が原の後に福岡に入城して来た黒田長政が、三男の長興をこの地に遣わして秋月藩とし、福岡藩の支藩となって以降に建てられたものである。城といっても、天守閣のない平城で「秋月陣屋」とも呼ばれたらしい。秋月氏の館跡に建てられ江戸時代を通じて使われていたが、明治になって廃城となり取り壊された。

 今では建物といっても何もなく、石垣と門が残っている程度だろうか。敷地内には秋月中学校が建っているが、これが木造の校舎で、懐かしい感じのする学校である。何か映画にでも出てきそうだなと思いながら眺めたが、みんなそう思うらしく、他の観光客もカメラを向けていた。

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 城らしい建造物としては、門が二つある。一つは上の写真に掲げたもので「長屋門」と呼ばれる。これは江戸時代に黒田氏によって建てられたものだ。

 もう一つが「黒門」であるが、これは黒田氏の建てたものではなく、秋月氏が戦国時代に自分の城の搦手門として建てたものを、江戸時代に移築してきたらしい。秋月氏のいた痕跡は、今の秋月にはあまり残っていないが、これがまぁ目立つ中では最大のものだろうか。

 ちなみに。秋月氏自身の城は、城下町の後方にそびえる「古処山」にあった山城らしい。今では登山道もあって山頂まで登れるようだが、標高860mと聞くと「ちょっと見に行ってみるか」というわけにはいかない。

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 ちょうどこの黒門辺りが紅葉の一つの見所で、もう大変な賑わいである。早朝に来て誰もいないところを見たら、さぞかし趣があるなぁと思ったが、行楽シーズンの休日というのはこういうものだ。

 そろそろ人ごみにうんざりしてきたので、メインストリートを離れて、「秋月八幡宮」に足を伸ばす。ここは、先ほどの黒門からちょっと先に行ったところにあるのだが、ほとんど観光客はおらず、実に静かな場所である。

 元々は、平安時代中期からあった神社らしいが、鎌倉時代に秋月氏が本宮を造営し、以後400年間、秋月家の氏神として大切にされていたようだ。

 境内は如何にも古く、趣のある景観だが、秋月氏由来の神社として見てみると「兵どもが夢のあと」という気がしてくる。

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 次は城下町に出て、武家屋敷を訪ねることにした。

 秋月そのものは、黒田長興が藩主として治めるようになって以降、秋月藩の城下町として栄え「秋月千軒の賑わい」と称される町並みに発展したようだ。当時の戸数は1000戸、人口は約5000人いたというから、山間ながら立派な城下町だったのだろう。

 街をそぞろ歩くとよく分かるが、今でも当時の町割がよく保存されている。武家屋敷や町家、寺社なども残っており、城下町の面影が今に伝えられている。このため全国で唯一、町全体が「秋月伝統的建造物群保存地区」として、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されていると聞く。

 そんな味わいある街並みを歩きながら移動し、まずは久野邸に入る。

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 久野家は、代々続いた直参の上級武士で、屋敷内も他の武家屋敷に比べて広いという。苔に覆われた庭が立派で、離れの間なんかあって、趣のある家の造りだ。蔵を改造した資料室を見ていると、昭和初期まで一族により現役で使われていたようだ。

 久野家からは、サロンパスで有名な久光製薬の中富社長が出ているのだが、その縁で、現在は久光製薬がこの家を所有し、修理・保存をしている。

 その次に見たのは、期間限定で公開していた田代邸。この家は、初代秋月藩家老「田代外記」の家で、当主は代々家老職を仰せつかっていたらしい。

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 どうもカメラの調子が悪くて、あまりうまく撮れていない。腰痛の私もロートルだが、愛用のデジカメもロートルで、既に一部壊れているが、露出まで狂い出したらしい。そろそろ買い換えないとダメかな。

 さて、ここからは町の入り口まで逆戻りして、秋月の顔にもなっている「眼鏡橋」を見る。

 目鏡橋は、江戸時代に秋月藩が、長崎の目鏡橋の架設を行った石工を招いて築造したもので、野鳥川に架かっている。 秋月氏の山城があった古処山から切り出した硬い花崗岩で造られている珍しい橋と聞く。

 元は木造の橋が架かっていたようだが、洪水のつど流されて、藩としては頭を痛めていたようだ。そこで考え出されたのが石造りの橋で、長崎を視察した当時の藩主のアイデアらしい。建造以来かれこれ200年以上もたつわけだが、往時の姿を今にとどめている。

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 この辺りで遅めの昼食をとり、そろそろ撤収に取り掛かる。あまり遅くまでいると、帰りのラッシュに引っかかるからだ。

 残された時間で、まずは「腹切岩(はらきりいわ)」を見に行く。この岩の由来はなかなか哀しいものだ。

 秋月氏がこの地を治めていた時代に、秀吉が九州征伐に乗り込んで来た話は上に書いた。秋月氏がこの地を去る結末になる話である。

 このとき、秋月家家臣の「恵利暢堯(えりのぶたか)」は、主君に秀吉と和議を結ぶように進言した。暢堯は、敵前視察で秀吉軍の優秀さを見抜き、勝ち目のないことを悟ったのだ。しかし、当主を含めて家臣一同、暢堯の弱腰を責めて笑いものにした。

 面目を失った暢堯は、この岩の上で城に向かって一礼した後、妻と二人の娘を刺し、自分も割腹して命を絶った。

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 秀吉軍との戦いに敗れて後、400年続いた先祖伝来の地を追われた秋月氏は、この岩の前で涙を流しながら自らの過ちを悔いたという。戦国時代には各地で幾多の悲劇が繰り広げられたわけだが、こんな果ての地にも、哀しい歴史があるんだなと思う。

 ただ、追われた秋月氏は、日向の国にある財部(たからべ)という地に移封され、高鍋藩として再出発する。江戸時代になり、藩主の次男が、母方の祖母の実家である上杉氏へ養子に出される。この子が、領地返上寸前だった米沢藩の再生を図り屈指の名君とうたわれた「上杉鷹山(うえすぎようざん)」である。

 秋月家の盛衰を思いながら、観光客の途切れた鄙びた道を歩く。こういう静かな場所を散策していると、秋月の魅力が分かる気がする。

 往時の面影を残す街並みと四季折々の自然の美しさが実にうまくマッチしている。京都や奈良も美しいが、鄙びた感じがある分、秋月の奏でるしっとりとした風情が心に染みる。400年にわたりこの地を支配した秋月氏の悲劇の歴史も、そうした古風な情景に色を添える。

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 さて、そろそろ日が傾き始めた。紅葉も、鄙びた味わいも満喫したことだし、秋月に別れを告げよう。今日は空気のいいところをたっぷり歩いたので、心も洗われて心身ともにリフレッシュした。いい休日だったなぁ。
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2010年11月20日

腰痛を抱えて百道浜へ

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 間抜けなことに腰痛になった。これが初めてではない。そして今回も原因は不明である。

 確か1-2年ほど前にも同じような目に遭った。その時は朝から何となく腰が痛くて、出勤途上で益々痛くなって、そのうち腰を曲げるような動作が出来なくなった。ちょっとでも腰に負担を掛けると、電流が流れたように痛むのである。

 たいていのことでは医者に行かない私も、さすがに参って外科医に診てもらった。先生曰く「腰痛は誰でもなりますからたいしたことではありませんよ。人間は二足歩行を始めて以来、この病と闘い続けているんですから。」慰められたのかバカにされたのか分からないようなご宣託だった。

 こちらとしては一刻でも早く痛みを和らげたいので治療法を訊くと「日にち薬しかありませんね。湿布を出しますが、これは痛み止め以上の効果はありませんから、湿布で痛みが引いたからといって無理しないで下さい。唯一の治療法は安静にしていることです。腰に一番負担が掛からない姿勢は横になることですから、出来るだけ寝ていて下さい。」

 実に堂々とした立派な外科医だった。先生の指導の下、腰にコルセットを付けて生活していたら、暫くして痛みは引き、元の身体に戻った。もう二度とこんな目に遭うのはご免だと思い、腰を無理に曲げたり、負担をかけたりする動作は慎もうと、そのときは誓った。だがそんなことは、遠い過去の出来事として記憶のかなたに消え去っていた。

 今回も、朝起きてから暫くして異変に気付いた。右足を上げたり、右側にかがんだりといった動作をすると、腰にズキリと鈍痛が走る。何だか嫌な予感がした。そのうち段々痛くなって来て、靴下やズボンを履くのにも苦労するような事態になった。

 まぁそうはいっても、前回ほどのことはない。歩くことも座ることも出来る。おまけに左にかがんだりする分には何ともない。ただ、一定の姿勢を長く続けた後に動くと腰が痛む。あの外科医の先生の言葉を思い出し、なるべく安静にしているしかないかと諦める。

 本当は、そろそろ部屋の掃除をしないといけないと思っていて、今日の午前中をそれに当てていたのだが、大事をとって掃除を取りやめる。昔から、ホコリで死んだ人間はいない。腰を直す方が先決だ。人間というのは、実に都合よく物事を解釈する動物だ。

 そんなわけで、今日は一日家でおとなしくソファーに寝そべっているかとも思ったのだが、あまりに天気がいいので、午後からちょっと散歩に出掛ける。掃除は出来ないが散歩は出来るというのはどういうことかと追及されると弱いのだが、まぁそれが人間というものだ(笑)。のんびり海沿いでも歩くかと思い、「百道浜(ももちはま)」に行くことにした。

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 東から西に向けて歩くことにし、まずは「Yahooドーム」裏手から始まる「地行浜(ちぎょうはま)」の遊歩道に向かう。今日は風はあるが、天気は上々で気温も比較的高め。砂浜を歩いていても寒いということはない。歩いていても腰の方は何ともない。立ったままの姿勢で、腰を折り曲げないからだろう

 ここから百道浜の西端までは1.5km程度。砂浜に沿って舗装された散策道が続いている。いつも歩く距離からすれば少々短めだが、あの外科医のお言葉など思い出し、あまり疲れるようなことはやめる。

 さすがに季節はずれとあって、浜辺にはあまり人はいないが、散歩する人、釣りをする人、小さな子供をつれて遊びに来た人、みな三々五々に歩いている。平和な休日の風景である。

 海の向こうには、「志賀島(しかのしま)」や「能古島(のこのしま)」が見える。気温が高めなせいか、少し煙ったように霞んでいる。江戸時代に「倭奴国王印」の金印が出土した志賀島には、この前ドライブかたがた行ったが、能古島には行ったことがない。志賀島は「海の中道(うみのなかみち)」という砂州でつながっているが、能古島は完全な島で、船で渡らないといけない。

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 能古島の歴史は古く、遠い昔には「防人(さきもり)」が置かれていたという。家族を故郷に残してこんな果ての地に赴任した防人のことを考えると、ちょっと切ない思いも湧く。万葉集の中にも、この島をうたったものがあると聞くから、それなりに有名な島なんだろう。

 今では、菜の花やコスモスが美しい島として知られており、季節になるとかなりの人が観光で島を訪れるらしい。島を縦断する散策路もあるらしく、一度行ってみてもいいかなと思っている。

 ちなみに「最後の無頼派作家」と呼ばれた放浪の小説家「檀一雄(だんかずお)」が、様々な場所を転々とした挙句、終の棲家を構えたのが、この能古島である。檀一雄といっても今やあまり有名ではないかもしれないが、女優の檀ふみのお父さんといったら分かるだろうか。島には辞世の句を刻んだ文学碑があるという。

 さて、そうこうしているうちに「マリゾン」まで着く。ここまで来ると、浜辺の2/3は歩いたことになるが、それほどとは感じない。毎度思うが、浜辺の散歩というのはあまり距離を感じさせないものだ。

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 マリゾンはウォーターフロントの複合施設で、ショップやレストランのほか、結婚式場もある。更には、海の中道に行く観光船も出ている。如何にも南国系のリゾートといった趣で、若者に人気がある場所だと聞く。この陸地側には「福岡タワー」が立っていて、一帯がなかなかしゃれた雰囲気になっている。

 マリゾンの西側では、砂浜でビーチバレーやフットサルの試合が行われていて、大勢の人で賑わっていた。スポーツの秋というにはやや遅いが、今日の陽気だと戸外のスポーツにはいい日和と言えるだろう。

 その向こうの海では水上バイクに興じる人たちもいて、こちらも季節は少々外れているが、マリンスポーツのメッカという謳い文句にふさわしい光景だ。

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 ここまで来るともう西の端はすぐそこで、あっという間に「室見川(むろみがわ)」に着く。向こう岸は「姪浜(めいのはま)」で、一旦南下して「愛宕大橋(あたごおおはし)」を渡らないと向こうに行けないが、腰を思ってこの辺りでやめておく。

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 室見川は以前、地下鉄の「室見駅」で下りて上流に向かって散策したことがある。川沿いに魚釣りをする人が多く、水鳥もあちこちで見られるきれいな川で、春になるとシロウオが獲れるので有名だ。その季節になると、シロウオを食べさせる小屋も川沿いに出来ると聞いたことがある。

 今日のところは、室見川を南に下って「よかトピア通り」沿いにYahooドームまで戻ることにする。川沿いの道は車が入ってこない静かなたたずまいで、散歩には絶好のポイントだ。道の向こう側は新興の高級住宅街で、静かで趣のある街並みが広がっている。

 この辺りでもたくさんの人が釣り糸を垂れている。さすがにここだと海水なのだろう。みんな海の魚を狙っているようだが、釣果がどの程度のものかは分からない。川面にはたくさんの水鳥が波間に漂って羽を休めている。

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 よかトピア通りは以前にもこのブログで書いたが、昔の百道浜である。この通りの北側は全て埋立地で、今では高級住宅地となっている。

 埋立地の常で、通りはゆったりと幅広く造ってあり、その分交通量も多い。だが、歩道も広くとってあるので、散策にはなかなかいい。街並みは整っていて、街路樹も植わっている。

 前にブログで取り上げた「世界の建築家通り」や、「倭奴国王印」の金印を展示している「福岡市立博物館」、そしてサザエさんの聖地「磯野広場」といった見所も、この通り沿いに点在している。

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 上の写真は世界の建築家通り入り口付近の今の様子で、街路樹が色付き、なかなか趣のある場所になっている。この通りに限らず、よかトピア通りから見える建物には、不思議なデザインのものが多い。「類は友を呼ぶ」ではないが、奇抜な建物が次々に建ったということだろうか。

 今までこのブログで紹介したことのない、よかトピア通り沿いのチェック・ポイントをお見せすると、まずは中国領事館がある。この前上流の「友泉亭」まで散策した「樋井川(ひいかわ)」の下流域に建っている。

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 先般来、世情を賑わしている尖閣問題に関して、9月末にはこの辺りは騒然とした状態になったようで、領事館内には発炎筒まで投げ込まれたらしい。今でも警官が警備しているが、この警備のお巡りさん達は実に礼儀正しく、道行く人に「こんにちは」と挨拶してくれる。偉いなぁと感心した。

 続いて、この中国領事館のちょっと先に韓国の領事館がある。写真は建物の前で撮ったので全景が収まっていないが、中国領事館に比べてこちらの方がデザインが優れている。韓国らしい優雅な趣があって、塀も含めて品がいい。領事館といえども一国を代表する建物なんだから、伝統的なデザインを取り入れて国をアピールしている韓国領事館の方に軍配が上がるなぁ。

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 韓国領事館を通り過ぎるとYahooドーム前に到着。本日の出発地点に戻って来た。腰の調子が良ければ、もう少し遠出できたのにと、ちと悔しい気分だ。

 それにしても、毎週けっこう歩いている気がするが、歩くだけでは腰の筋肉は強化されないのだろうか。この前、何かの番組を見ていたら、足と腰の筋肉を同時に強化するためにはスクワットが一番なんて紹介されていた。腰の調子が戻ったら、私もスクワットでもやるかなぁ。こんな腰痛に何度も悩まされたらたまったものじゃないから。

 でも「喉元過ぎれば熱さ忘れる」なんて言うから、あてにはならないわけだが・・・。
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2010年11月14日

天神までひたすら歩く

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 昨日は所要で大阪まで出掛けていて、行き帰りの新幹線の中で綾辻行人の「十角館の殺人」を読んだ。随分以前に刊行された作品で、綾辻が世に出るきっかけとなった推理小説である。アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」を髣髴とさせる内容で、孤島に渡ったサークル仲間の大学生たちが、一人、また一人と殺されていくというストーリーである。

 綾辻をはじめ、当時続々と推理小説界に登場した法月綸太郎、有栖川有栖などの若手作家は「新本格派」などと呼ばれ、社会派推理に押されて衰退気味だった本格推理小説の分野に新しい流れを作った。中心となったのは京都大学ミステリ研究会で、そこの出身の作家が多かった。

 綾辻も京大ミステリ研出身なのだが、私とは1歳違いで、もしかしたら大学時代にキャンパスですれ違っていたのかもしれないななんて思う。彼は教育学部で、私は法学部だが、今から思い出すと両学部の建物は近かった気がする。当時、ミステリ研といったか推理小説研といったか記憶が定かではないが、その種のクラブの立て看板も見た気がするし、もしかして部室も近かったんじゃなかろうか。有名人って意外に身近にいるもんなんだねぇ(笑)。

 まぁそんな青春話は横に置いといて、本日も健康管理のため散歩にいそしもう。

 昨日は、ほとんど座って過ごしていたから、今日は二日分歩こうと、一気に距離を稼ぎに出ることにした。そもそも買い物の用があったから繁華街まで歩くことにしていたのだが、いっそのこと天神まで徒歩で往復しようと思い立った。しかも、直線状に往復してもつまらないから、大回りしながら楕円形のコースを歩くことにした。

 まずは定番の大濠公園スタート。今日も天気が良くて気持ちいい。秋の日を浴びて、子供連れやら友人同士やらがそこここでのんびりと散策している。

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 福岡は海に面しているせいか、朝夕の厳しい冷え込みというのは今のところ感じない。その分紅葉の鮮やかさは今ひとつで、お堀端の広葉樹も色付いてはいるが、ちょっと物足りない感じだ。

 今日は暖かく、ちょうどイベント日和だと思っていたら、大濠公園でも何やら催し物をやっていた。あいにく見ている余裕はなかったので通り過ぎてしまったが、みんなが賑やかに集まっている様子を見ると、平和な秋の日という感じがする。

 さて、本日のコースだが、まず大濠公園を南まで行って、「国体道路(こくたいどうろ)」まで出る。国体道路というのは変な名前だが、国民体育大会に合わせて整備された道路のようで、全国にこの名前の道路があるらしい。公共事業が元気な頃の産物だろう(笑)。

 福岡の人たちはこの道を国体道路とは呼ばずに「けやき通り」と呼んでいる。道の両側にけやきが植わっているからだが、大きなけやきの木が道路を覆っているさまはなかなか感じが良く、どこか高級感がある。東京で言えば、道路の大きさこそ違うが、雰囲気が表参道に似ている。

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 福岡に住んでいて思うが、けっこうお金持ちの人の多い街のような気がする。この辺りに建っている店も高級そうな構えが多いし、通っている車も外車が目立つ。東京ほどではないが、フェラーリもたまに見かける。

 この辺りの地名は「赤坂(あかさか)」というのだが、名前の由来となる坂が見当たらない(笑)。どうしてこういう地名なのかと調べると、元々「赤坂山」という山があったらしい。ではその山はどこにいったかというと、関が原の戦いの後にこの地に入ってきた黒田長政が、赤坂山をならして今の福岡城を建てたため、なくなってしまったようだ。今の城のあるところが山の跡というわけだ。

 けやき通りを気持ちよく歩いて、「大正通り(たいしょうとおり)」まで来たところで、ちょっと脇道にそれる。

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 実はこんな街の片隅に、自由党総裁だった「緒方竹虎(おがたたけとら)」の屋敷跡がある。

 緒方竹虎は新聞記者から政界に進出し、戦後の混乱期に政界激動の時代を乗り切った。吉田茂の後任として自由党総裁に就任し、鳩山一郎や岸信介のいた日本民主党との合併を積極的に進め、自由民主党を作った原動力の一人である。しかし、その翌年の総裁選の遊説で風邪をこじらせて急逝。自ら結成した自民党総裁になることなくこの世を去った悲劇の政治家である。

 さて、けやき通りと大正通りの交差点を北側に折れて、大正通りから小道に入る。

 この辺りは「大名(だいみょう)」という地名で、昔は武家町だったところだ。名前の通り、上級武士の住まいがあったところらしいが、今では福岡の先端スポットとして有名だ。

 福岡の人に聞くと、以前は住宅街だったらしいが、天神地区の西に接しているという地の利から、ちょっと個性的な店が進出しだして、若者に注目されたということのようだ。裏通りの面白さというか、複雑に交差する小道の両側に、ポツポツと面白い店があるのを見ながら歩く。東京で言えば、渋谷や原宿の周辺にある裏通りという感じだろうか。

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 実は大名地区には、色々な歴史的遺物が残っていると聞くのだが、これが路地のあちこちにあるため、地元の事情通でないと分からない。じっくりまわれば面白い場所なのだろうが、そのためには周到な下調べが必要なようだ。これはまた別の機会にトライしようと思う。

 田舎者のように大名地区をウロウロ、キョロキョロして、天神の南端に出る。ここには「警固神社(けごじんじゃ)」という神社があるので立ち寄る。変わった名前だが、警固は周辺の地区の名前にもなっている。

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 入り口にあった神社の説明では、ここもまた三韓征伐で有名な神功皇后ゆかりの神社らしい。もう福岡周辺はどこに行ってもこの皇后様の伝説で彩られている。韓国の人には聞かせられないよなぁ。

 で、どういう謂れかというと、神功皇后が三韓征伐に出掛ける際に、「神直毘神(かんなのびのかみ)」、「大直毘神(おおなおびのかみ)」、「八十禍津日神(やそまがつひのかみ)」という三体の神が浜辺に現れ、皇后の船団を守ったため、凱旋して後に皇后がこの三神を「警固大神」と名付けて祀ったのが始まりという。この三神は、日本神話の国産み・神産みで有名な「イザナギ(伊弉諾)」が黄泉の国から帰って来た際に行った禊で生まれたと伝えられる古い神である。

 警固神社は最初からこの場所にあったのではなく、元は古代の外交施設である福岡の「鴻臚館(こうろかん)」に祀られていたようだ。ところが、関が原の合戦後に入ってきた黒田長政が、神社のあった場所に福岡城を築こうとしたものだから、動かす必要が生じ、今の場所に移ったと伝えられている。

 さて、こうしてようやく天神に到着。

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 上の写真は、「渡辺通り(わたなべとおり)」沿いに天神の繁華街を撮ったものだが、この渡辺通りは、呉服商「渡辺與八郎(わたなべよはちろう)」の名前がそのまま通りの名になっている。明治時代に活躍した経済人で、福岡の発展に寄与し、この通りの周辺も自分の土地を提供したという話を福岡の人から聞いたことがある。

 以前にも書いたかもしれないが、天神は百貨店やファッションビルなどの商業施設の集積度では、東京の繁華街にも充分対抗し得るだけの規模だと思う。少なくとも九州で最大規模なのは間違いないだろう。この通りの背後にも商業ビルや様々な店舗があり、一日あってもこの地区の全ての店を見るのは難しいのではないか。

「そういうわりには、上の写真ではあまり人を見ないが」というご意見もあろうが、実はこの地下にかなり大規模な地下街が広がっており、渡辺通り沿いのデパートや商業施設はもちろん、ちょっと離れたところにでも自由に地下からアクセスできる。そういう意味では、天気を気にせず買い物が出来る便利な場所である。

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 天神には、週末になると九州北部を中心に多くの人が集まると言われている。電車はもちろん、天神の南に大きなバス・センターがあり、九州の様々な場所と結ばれている。私鉄も西鉄の駅があり、福岡県を南北に縦断する路線が延びている。

 このため、週末のこの周辺のホテルは泊りがけで天神に来る人で結構こむという話を地元の人から聞いたことがある。九州北部では福岡の一人勝ちという状況になっているが、来年3月に新幹線が全線開通すると、鹿児島まで1時間20分で結ばれるから、商業拠点としては九州を制覇するという予測もある。

 そのうえ、福岡は韓国とフェリーで結ばれているほか、中国の沿岸部とも距離的に近く、最近では船で旅行客がやって来るようになったので、天神辺りでも韓国語や中国語の案内を出している量販店を見掛ける。今後中国の団体客が増えれば、内需が冷え込んだ日本でも、それなりの売り上げを期待できるようになるのではないか。

 さて、ショッピングの話はそれくらいにして、天神地区にはこんな店もある。

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 チューリップや井上陽水、甲斐バンド、海援隊、長渕剛などを生んだ伝説のライブ喫茶「照和(しょうわ)」である。

 今でも営業していて、土曜日にライブをやっている。それ以外の日は、普通の喫茶として営業。いまだ入ったことはないが、私にとってはある種の感慨が湧く店であることは間違いない。ただ、もうあの時代のような状況ではなかろうとも思う。今の若者たちにとってこの店はどういう存在なのか分からないが、きっとここより、先ほど通った大名界隈の方が魅力があるのではないか。

 天神で買い物を済ませた私は、そのまま渡辺通りを北上して、「那の津口」の交差点を西に折れ「那の津通り(なのつとおり)」に入る。ここまで来ると、海はすぐそばだ。

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「那の津」は博多港の旧名である。旧名と言ってもどれくらい古いかというと、5世紀頃に中国で編纂された「後漢書」まで遡る(笑)。有名な「後漢書東夷伝」で、「倭奴国(わのなこく)」の王が、後漢の都「洛陽」まで「大夫」の肩書きを持った使者を遣わし、後漢の「光武帝」から「倭奴国王印」の金印を授けられたという記述があるが、この「奴(な)」が「那の津」の「那(な)」である。

 「日本書紀」では、外交と軍事の拠点を築くため、536年に「那津官家(なのつのみやけ)」が博多に置かれたという記述があり、この時点で「那津(なのつ)」という名前が朝廷に認知されていたことが分かる

 まぁそんな立派な名前を付けられた那の津通りだが、けやき通りや渡辺通りと違って、至って殺風景で味のない道だ(笑)。歩いていても、目を楽しませるようなものは何もない。それもそのはず、この辺りは埋め立てて作られた比較的新しい土地で、さしたる歴史もない。

 暫く歩いたが、延々と同じような風景が続くものだから少々嫌気が差して、長浜の交差点で北に折れ、ラーメン街を通って海沿いに出る。寄り道になるが、ここの方がはるかに気持ちがいい。

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 休みの日の港はほとんど人がおらず、車もあまり通らないので、実に静かな散歩道となる。ノロノロと歩きながら今日歩いた距離を頭でざっくりと計算する。寄り道分も数えると10kmは歩いたと思う。

 これでは二日分に少々足りないが、今日もぐっすり眠れる程度には運動したことになる。そろそろ秋も終わりに近づき、紅葉も見頃が過ぎようとしている。冷え込みの少ない福岡では、鮮やかな紅葉はなかなか望めないが、次の週末辺りにでも、紅葉のよすがを探しに出掛けてもいいかなと思う。いや、もう遅いのかもしれないが・・・。

 今日もたっぷりと歩き、良い散歩であった。

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2010年11月07日

樋井川散策

 今日も昨日に引き続き秋晴れの一日。もうパソコン調整にはうんざりしたので、適当なところであきらめて散策に出かけることにする。

 昨日は博多の歴史を巡る散歩だったが、今日は何の趣向もなく、ただ健康管理のために歩くことにする。従って、距離重視で行程を長めにとる。大濠公園を散歩した後、南に下り、樋井川沿いに歩く予定だ。総距離で10kmは超えると思う。

 まずは毎度おなじみの大濠公園を歩く。いつ来ても気持ちのいい公園だが、季節が進み益々歩くのにはいい環境になって来た。この公園のいい点は、車が入ってこないことだろう。お蔭で排気ガスとも騒音とも無縁の世界である。

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 海に近いせいか、時々ここでカモメを見かける。今日は何羽かが群になって波間を漂ったり、飛んだりしていた。どうも、子供連れが鯉のために投げ入れている餌を横取りするべく狙っているらしい。カモメが餌をすばやくキャッチすると、見ている人から歓声が上がる。平和な休日の風景である。

 大濠池に架かる皐月橋の手前で西側に出て、鳥飼の辺りから「樋井川(ひいかわ)」沿いに出ようとする。ところが、この辺りは多少道が複雑に交差しているため、間違えて別方向に進んでしまった。すぐに気付いたので、草香江地区の住宅街の中を通って樋井川方向を目指す。表通りから一歩中に入ると閑静な高級住宅街で、落ち着いた雰囲気の街並みである。

 樋井川は、福岡市の南にある「油山(あぶらやま)」に源流があり、福岡市を南北に縦断して百道浜で海に注ぐ。川と平行して東側に「油山観光道路」というのが通っており、こちらが主要幹線になるので、川沿いは比較的静かな道だろうと思って、散策に選んだ。

 川沿いの散歩のスタートは「塩屋橋(しおやばし)」からだ。福岡市のど真ん中を流れる川にしては砂地があり、護岸も完全にはコンクリートで埋められていないため、どこか田舎風ののどかな川という印象である。

 川べりの砂地では、たくさんのカラスが集まって水浴びをしていた。見ているとなかなか気持ち良さそうだ。「カラスの行水」なんて悪口に使われるが、どうして結構しっかりと体を洗う鳥のようだ。

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 この川は、こうして見るとおだやかな感じだが、昨年7月の「中国・九州北部豪雨」の際には、川が氾濫して鳥飼地区から田島地区にかけて住宅などが浸水する被害が出たという。このため福岡県では、護岸補強や掘削、橋梁補強などを行うこととしており、少し川の表情が変わるのかもしれない。

 塩谷橋付近の道路沿いには、当時の名残りか、ずっと土嚢が並べられているが、川沿いの道路からさらに一段低くなっている路地の入り口にも、厳重に土嚢が積まれていた。この辺りが氾濫地域なのだろうか。

 川沿いの道は思ったほど快適ではなく、歩道がある場所とない場所がつぎはぎのようになっていて、しかも岸の右と左にバラバラに現れる。仕方がないので、あっちの岸に行ったり、こっちの岸に戻ったりと忙しい。しかも、歩道のない箇所ほど車が多いという矛盾した設定になっている。

 しかし、川の雰囲気はなかなかいい。水は驚くほどきれいに澄んでいるし、至る所に魚が泳いでいて、岸辺からもハッキリ見える。小さな魚もいれば大きな鯉もいて、見ているだけで楽しい。そのわりには魚釣りをしている人はいない。川魚だと釣っても食べられないからだろうか。

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 人間様が釣りをしなければ魚の天国かというとそういうわけではなく、しっかりと獲物を狙って水鳥が集まる。先ほど大濠公園で鯉の餌を狙っていたカモメも、こっちに遠征してくることがあるのだろうか。この魚影からすれば、幾らでも餌をついばめると思う。

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 サギのような、魚を餌にする鳥だけではなく、水鳥や小鳥も含めてたくさんの野鳥を川岸に見ることが出来る。かなり自然が残っているのだと思う。川岸に降りられるところも少しはあるが、大部分の箇所は人間が降りていけないようになっている点が、野鳥の天国になっている理由かもしれない。

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 魚と野鳥を見ながらゆるゆる歩き、「別府橋(べふばし)」までたどり着く。このすぐ東側が「六本松(ろっぽんまつ)」という地域で、九州大学の旧キャンパスがある。

 九州大学は旧帝大の一つで、九州を代表する名門大学だが、キャンパスが散らばっていて分かりにくい。現在は、医学部・歯学部・薬学部と付属病院を除いて残り全学を、福岡市西部の糸島半島に移転させようとしている。2005年10月には新キャンパスへの移転が始まっており、工学部を中心にかなりの部分が稼動していると聞く。

 お蔭でこの六本松のキャンパスは今では閉鎖されているが、ここは旧制福岡高等学校の跡地でもあり、何もなくなってしまうのはちょっと惜しい気がする。大学というのは土地に宿っている部分があり、広けりゃどこに行ってもいいというわけじゃあないと思うがなぁ。卒業生諸氏は寂しい思いをしているのではあるまいか。まぁよその大学のことをとやかく言っても始まらんが…。

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 さて、別府橋から暫く南下したところに「梅光園橋(ばいこうえんばし)」があるが、そのちょっと南側に汐止めの堰が設けられている。ここは海から4kmくらい上流に位置していると思うが、満潮の時にはこの辺りまで海水が上がってくるようだ。今では市街地だが、昔、周辺が農地だった頃には塩害対策が大変だったのではないかと思う。

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 この堰のところは流れる水が狭まり、しかも底が浅いため、絶好の魚の狩り場となるようで、サギが数羽水辺に立って獲物を狙っていた。これだけそこかしこに野鳥が集まっていると、魚もおちおち泳いでいられないだろうなぁ(笑)。

 さて、どんどんと先へ進もう。汐止めの堰から1kmほど南下したところに「金桜橋(きんおうばし)」というのがある。この橋は構造が面白い。ちょっと見た目には普通の橋なのだが、驚くなかれ、基礎部分には空き缶がそのまま使われている。

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 橋のたもとにある説明版によると、空き缶25個を束ねて一組とし、4-5段に積み重ね、発砲ウレタンを充填したものの上に鉄板が乗っているらしい。空き缶は、近隣の小学生が集めた約14万個分を使ったとあるが、工法そのものは九州大学工学部が開発したようだ。恐る恐る渡ってみたが、当たり前のことながらしっかりしている。自動車もバンバン通っているから、強度の点では何の問題もないのだろう。平成10年に架けられた日本で最初の空き缶利用の橋らしい。こんな住宅街の中の目立たない場所に、面白いものがあるものだ。

 さて、この少し南に、一応本日の散歩の目標地点がある。福岡市が管理する「友泉亭(ゆうせんてい)」である。

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 友泉亭は、江戸時代中期に福岡藩六代目藩主「黒田継高(くろだつぐたか)」が別荘として建てたもので、「池泉廻遊式純日本式庭園」という長ったらしい解説名が付いている。

 園内の水は、古くは樋井川の支流を利用していたらしい。名前に泉の文字があるが、どうも本当に泉が湧いていたのではないと思う。

 建物の中も入ることが出来るので上がってみたが、造りは質素で、藩主の別荘としてはあまり豪華さがない。それが黒田家の気風だったのだろうか。

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 友泉亭は、明治に入ってから数奇な運命をたどる。藩が取り潰されて以降は、小学校になったり村役場になったり、はたまた駐在所になったりした挙句、昭和に入って民間人に買われて別荘になる。しかし、この後もまた民間企業の社宅になったりしている。ようやく福岡市が買い上げたのが昭和53年。

 友泉亭の場合は、最後には市の管理になりこんなふうに保存されているが、同じような運命をたどって最後には取り壊されたり、朽ち果てたりした歴史的建造物がいっぱいあるんだろうなぁ。

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 建物の大広間からの眺めはなかなか素晴らしいが、惜しむらくは紅葉にはちと早いということか。少し色づき始めた木もあったが、11月も後半に入らないと見頃にならないかなぁ。でも、その頃にもう一度来るかというと、もう来ない気もする(笑)。

 散歩も、ネタが尽きたら二回目の訪問はあるだろうが、当面は新しい散歩道の開拓にいそしむだろうから、当面ここに来ることはあるまい。いやもしかしたら、今後二度と来ることはないかもしれない。そういう意味で、私の散歩はいつも「一期一会」である(笑)。

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 最後にゆっくりと庭を散策して帰路につくこととする。ここまで結構歩いたが、帰りも同じだけ歩くことになる。これだけ歩くと、散歩したという気分になる。久々に長距離を歩き、良い散歩だった。

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2010年11月06日

本当の博多を歩く

 先日、突然我がノートパソコンが壊れてしまい、セーフモードでも起動しないので、やむを得ずWindowsを入れ直すことになった。全くの災難である。何をしたわけでもないのに簡単に壊れるなんて、Windows7もマイクロソフトが宣伝しているほど立派なOSではないと実感した。

 だいたい、OSのくせして新しい機能を盛り込みすぎだと思う。進化するごとに使いにくくなっていると感じているのは私だけではあるまい。「シンプルで頑丈」というのが私の理想のOSだが、Windowsはそれからドンドン離れていっている気がする。

 Windowsの再インストールをしたことによって使えなくなったアプリケーションソフトが多数あるので、ここ2-3日、夜になるとパソコンの機能復旧に努めていた。フリーソフトはネット上から探して再インストールすればいいのだが、市販のソフトはインストール用のディスクを持って来ていないので、どうしようもない。でも、ないと困るものもあるので、販売元のサイトに行って体験版をダウンロードして使っている。あと1ヶ月以内にどうにかしないといけないなぁ。

 さて、愚痴はこれくらいにして、今日の散歩の話題である。

 今日は秋晴れのおだやかな天気に恵まれるとの天気予報を聞き、このまま家にくすぶってパソコンの調整をしているのも悔しいので、午後から出掛けることにする。今日は、旧博多地区を歩いてみようと思う。スタートはJR博多駅である。

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 現在の博多駅は工事中で、駅周辺はもちろん、駅構内も半分工事現場みたいな感じである。来年3月に九州新幹線鹿児島ルートが開業するが、これに合わせて阪急百貨店や東急ハンズなどが入る「JR博多シティ」を建設しているのである。

 新幹線が鹿児島まで通じると、新大阪・鹿児島間は約4時間で結ばれるが、九州に限ってみると、博多・鹿児島間は約1時間20分となる。ほとんど通勤圏内である(笑)。

 こうなると、九州一円から買い物のために福岡へ人が来るのではないかと、地元の人たちは噂している。今でも福岡は、北部九州の買い物の拠点としてかなりの吸引力があり、熊本近辺からも週末に福岡に来る人が多いと聞く。このため、九州新幹線の全線開通で、さらに南から買い物客が来てくれるのではないかという期待が高まっているわけである。まぁそうかもしれぬ。

 今までほとんどの買物客が駅をスルーして繁華街の天神に向かっていたのに対し、現在建設中の新駅ビルが完成すれば、駅周辺で買い物を済ませてしまう人も増えるのではという予測もあるらしい。本当にそうなれば、今ではややしょぼい駅周辺の人の流れも変わり、ちょっと寂しい駅の東側も賑やかになるのかもしれない。

 まぁそんな話をしたのは、もともと商人の町として長い歴史を持つ博多地区は、このJR博多駅から北西側に広がり、中洲までの狭いエリアを指しているからだ。かつての商人の町はビジネスの街に変わり、買い物客はかつての武士の町である天神にすっかり取られてしまっている。面白いことに、武士の町福岡と商人の町博多の役割は、現代ではすっかり入れ替わっているのである。

 旧博多地区に向かう前に、駅近くにある「楽水園(らくすいえん)」を訪れる。住吉神社の横の方にあるのだが、ビルの奥にあるため、意外と知られていないと思う。

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 この建物は、江戸末期に活躍した博多商人の「下澤善右衛門親正」が明治39年に建てた別荘である。戦後は一時旅館として使われていたようだが、今では福岡市が管理している。

 ただ、ここの茶室とか庭を見ようとして寄ったのではなく、塀が見たかったのである。

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 この不思議な塀は「博多塀(はかたべい)」と呼ばれるもので、商人の町博多の象徴的存在だと思う。と同時に、今となっては、古い博多を偲ぶのは、この博多塀くらいしかないのではないかと私は思っている。

 博多は古代より栄えた貿易の地である。以前、東南アジアとの外交・交易の窓口だった施設「鴻臚館(こうろかん)」の遺跡跡をご紹介したが、古来より博多には海の向こうから様々な人がやって来て、珍しい品々を持ち込んだ。それを商っていたのが博多の商人たちで、797年に編纂された「続日本紀」に「博多大津(博多津)」として紹介されている。「博多」の語源も、人の行き来が多く、扱われる物産もまた多いという意味から来ているという説が有力だが、まさにその通りの場所だったわけである。

 しかし、この地は商人が平穏に商売をし続けていたわけではない。元寇のときはもちろん、博多の富を求めた大名たちによって、戦国時代にも何度か戦火に遭っている。豊臣秀吉が九州を平定したときには、一面瓦礫の山だったという。

 秀吉は、戦火を逃れて避難していた博多商人と会い、博多の再興を目指す。縦横に街路をめぐらし町割りを行い、商人達を呼び戻した。この町割りを「太閤町割り」と呼ぶ。そして、散らばる瓦礫を使い塀を作った。これが博多塀である。土に埋め込まれた瓦や石は装飾のように見えるが、実はかつての商人町の瓦礫であり、この塀そのものが、復興のシンボルだったわけである。

 さて、今の博多の中心部を見てみよう。

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 これは祇園町の辺りから「大博通り(たいはくどおり)」の北側を写したものである。如何にもビジネス街で、車がビュンビュン通っている。この大博通り沿いをそぞろ歩きしようというのが今日の趣向だが、排気ガスも多いし、あまり散歩向きじゃない。ちょっと後悔しながら歩き出す。

 大博通りの東側、つまり上の写真では右側には、寺社が多い。写真で見えているのは「東長寺」だが、この手前にも、そして裏側にもたくさんの寺が集まっている。おそらくは、これらの寺が博多の商人町の東側の境界だったのではないか。通常、古い町並みでは、お寺の集まっているところの裏手は寂しい場所と相場が決まっている。

 ただ、ここにある寺は、なかなか立派なお寺ばかりなのである。排気ガスが嫌だったので、ちょっと裏手に回ってお寺を巡ってみることにする。まずは「承天寺」である。

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 承天寺は大博通りから少し奥まった場所にあるので見逃しやすいが、なかなか雰囲気のいいお寺で、わざわざ寄るだけの価値はあると見た。惜しむらくは、かつての区画整理事業で、お寺の境内が市道によって二分割されてしまっていることで、全体を合わせると相当な大きさの寺である。

 臨済宗東福寺派に属しており、1241年に大宰少弐だった武藤資頼が、中国で修行した臨済宗の僧「円爾(えんに)」を招聘して創建したと伝えられる。円爾はむしろ「聖一国師(しょういちこくし)」の名で知られており、寺の創建時に博多で疫病が流行しているのを見て、町人が担いだ施餓鬼棚の上に乗って祈祷水(甘露水)をまいて疫病退散を祈祷したという逸話がある。このときの祈祷が、有名な「博多祇園山笠」の始まりとされている。

 他にも聖一国師は歴史に名を残すことをしており、その一つがこれだ。

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 写真では読みにくいかもしれないが、左側の碑は「饂飩・蕎麦発祥之地(うどん・そばはっしょうのち)」、右側の碑は「御饅頭所(おまんじゅうどころ)」である。「何じゃそれ?!」という声が聞こえて来そうだが、こんなところにうどんやそばなど、日本人には馴染みの深い食べ物の原点があったのである。

 聖一国師は宋に留学していたおり、製粉に関する技術を学ぶとともに、羊羹の前身となった「羹」や、饅頭の元になった「饅」、またうどんやそばの原点である「麺」の製法を持ち帰り、日本に伝えた。そんなわけで、このお寺がうどん、そばをはじめ、羊羹や饅頭の発祥の地になっているわけけである。

 で、右側の碑だが、これはなかなか面白い。聖一国師が布教に回っていたおり、ある茶店で店主より手厚い歓待を受ける。聖一国師はお礼にと、店主に饅頭の製法を教えただけでなく、看板まで書いてやった。そのレプリカというわけではないが、文字だけここに碑として残っている。で、肝心の看板はどうなったんだということだが、驚くべきことに現在でも残っており、東京の羊羹の老舗「虎屋」が所蔵している。

 こうして見ると聖一国師って、なかなか面白い人だったわけだ。

 さて、次のお寺に行こう。今度は、上の方の写真に写っていた大博通り沿いのお寺「東長寺(とうちょうじ)」である。この寺は大博通り沿いですごい存在感を示しているが、実際にもすごい謂れの寺である。

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 ここは真言宗の寺だが、実は唐で修行を積んで帰国した弘法大師「空海」が、国内で初めて創建したお寺なのである。当初はもう少し北側にあったが、 戦火にあって一旦焼失。その後福岡藩二代藩主「黒田忠之」によって現在の地に再興された。 この縁で、何代かの福岡藩主がこのお寺に眠っている。

 ここには大仏殿があり「福岡大仏」なる大仏が安置されているが、これは1992年に完成した最近のもの。木像坐像としては日本一の大きさだそうだが、「弘法大師創建の寺としては日本最古」という立派な看板があるんだから、何もそんなもの作らなくても、という気がするなぁ。

 お寺巡りもこの辺りで最後にするか。最後を締めくくるのは、東長寺の裏手にある「聖福寺(しょうふくじ)」である。

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 ここの売りは何かというと、日本で最初に建てられた禅寺という点である。創建は1195年で、臨済宗の開祖である「栄西(ようさい)」が宋での修行から帰って来た際、源頼朝がこの地を提供して寺院が建てられた。従ってここには、日本最初の禅道場もある。

 栄西といえば、曹洞宗の開祖「道元(どうげん)」と並んで、日本の禅宗の開祖として日本史で習った覚えがある。そんな人のゆかりの寺に、こんな散歩のおりに出会うとは思わなんだ。

 上の写真に写っているのは本堂ではなく山門だが、この山門には後鳥羽天皇により贈られた額がかかっている。額には天皇の勅号として「扶桑最初禅窟」と書かれている。日本で最初の禅寺という意味である。

 境内はさすがに立派で、これでも相当敷地を削られたようだが、福岡の中心部にこれだけの面積を持っているのはすごいの一言だ。

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 先ほどの承天寺の聖一国師は、うどんやそば、饅頭、羊羹を伝えたが、この聖福寺の栄西は何を日本に伝えたかというと、お茶である。これは日本史の教科書にも載っていたと思う。栄西が記したとされる「喫茶養生記」の名前は覚えているなぁ。喫茶店の語源はこれかとアホなことを考えたものだ。

 栄西が最初にお茶の木を植えたのは、このお寺の境内と、福岡の南にある「脊振山(せふりさん)」の「霊仙寺(りょうせんじ)石上坊」だと、お寺の案内板に書いてあった。聖福寺にはそのお茶畑は残っていないが、霊仙寺石上坊には今でも名残のお茶畑があり、お祭りをやるようだ。だが、お茶畑は残っていても、肝心の霊仙寺石上坊は残っていないらしい(笑)。

 そういえば、このお寺の塀は博多塀だった。

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 そろそろ寺院は良かろうから、今度は商人側の話をしよう。聖福寺のある辺りは「御供所町(ごくしょまち)」という。聖福寺の裏手は御笠川という太宰府から流れる川になっていて、その川を渡った先には、以前ブログで書いた「筥崎宮(はこざきぐう)」がある。御供所町は、この筥崎宮にお供え物をそなえていた町という意味らしい。つまり勢力圏からいって、この辺りは筥崎宮の支配地だったことになる。

 ここから更に北に上がると、「上呉服町(かみごふくまち)」や「店屋町(てんやまち)」など、如何にも商人の町らしい地名が現れる。だが、今の町並みから、その当時のよすがを偲ぶのは難しい。

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 それでも、小さな痕跡を探して歩くのが散歩の楽しみで、例えばこんなものが大博通りの歩道にある。

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 これはいったい何かというと、この辺りの建設現場から発掘された壷であり、おそらくは貿易の対象になっていた商品だったのだろう。他にも大博通りの歩道には、出土した品々がこんな形で展示されている。

 あとは、こんな表示に当時の町の様子を想像したり、

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 よーく目を凝らすと、こういう古い碑もある。でも、ほとんど隠れたようになっているので、探す気になってじっくり観察しないと、見つからないだろう。

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 呉服町の交差点を過ぎて北に向かい、蔵本の交差点まで行って、そろそろ今日の散歩も終わり。昔この辺りには商人たちの蔵が並んでいたらしい。今ではこの先もビルが続くが、博多商人が闊歩していた時代には、この先は海だったはずだ。その海を、大陸からの珍しい品々を積んだ貿易船が行き来していたのだろう。

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 当時のことなど想像しながら、地下鉄の駅に向かった。「つわものどもが夢のあと」ならぬ「商人たちの夢のあと」である。

posted by OhBoy at 23:33| 日記

2010年11月03日

唐津でくんちを見る

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 今日は文化の日。九州地方の文化に親しもうと、唐津にくんちを見に行った。ホントは唐津にちょっと用があり、多少仕事の色合いがないわけではないが、あくまでもメインはくんちを見ること。休日使ってプライベートに行く以上、楽しまないことにはもったいない。

 唐津は佐賀県にある城下町で、県内二番目の人口を誇る。そのわりに静かなたたずまいで、歴史も古い。魏志倭人伝に出て来る「末盧国(まつらこく)」は、唐津のある東松浦半島に存在していたと言われており、古くからこの地は大陸との交流があったようだ。そのため、古墳時代の遺跡・史跡が数多く残されている。福岡市の西側に位置し、JR筑肥線を使って博多から1時間少々の距離である。

 JR筑肥線の姪浜ー唐津間は海沿いを走る箇所が多く、なかなか眺めのいい線だ。姪浜駅で地下鉄からJRに乗り換えるのが面倒なので、福岡市内から地下鉄直通の便に乗る。地下鉄用の磁器カードでは精算がきかないので、東京から持って来ているSUICAで地下鉄に乗った。福岡地下鉄の磁器カードでJRの運賃は払えないが、SUICAだと地下鉄でもJRでも西鉄でも使える。何とも不思議な感じがするなぁ。

 唐津くんちの日ということで、電車はこんでいるのではと恐れていたが、そうでもない。いつもより多少人が多目かなという程度で、座って行けた。車だと交通規制が敷かれているし、駐車場に入るのに長蛇の列と聞いたので、電車で行く人が多いと思っていたら、そういうわけでもなさそうだ。でも、唐津の手前辺りからけっこうな数の人が乗って来たから、駐車場が空いている手前の駅に車をとめて、最後の1、2駅だけ電車を利用しようという人が多かったのかもしれない。

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「唐津くんち」は、唐津神社の秋祭りである。と言ってしまえばそれまでだが、このお祭りを見るために数十万人の人が唐津を訪れる。お祭りのメインは、漆塗りの巨大な曳山14台がお囃子に合わせて唐津市内を練り歩く場面である。

「くんち」は、この前長崎のものを見に行ったが、語源としては開催日が「九日(くにち)」であることに由来するという説が有力らしい。長崎の場合は、その説通りに毎年10月7日から9日までの3日間催される。しかし、唐津は11月の2-4日が開催日になっている。どういう事情によるものかは知らないが、祭りの意義や行事内容は、長崎も唐津も概ね同じである。

 くんちでは、祭りの中心となる神社の神様が一旦神社から出て、町中に滞在する。この場所が「お旅所(おたびしょ)」と言われている。実際には、神社から神様の乗ったお神輿を出して、祭りの期間中お旅所に置いておく。そして町衆の方では、お旅所への道中、お神輿のお供をすると同時に、色々な出し物を奉納する。基本骨格はこういう感じで、つまり有力神社とその氏子が祭りの中心となる。これは長崎でも唐津でも変わらない。変わるのは出し物の中身である。

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 唐津でも、出し物を奉納するのは町内会で、冒頭に述べた漆塗りの巨大な曳山を各町で用意して出して、町内会の人たちが引く。重さは2トンと言われ、動かすのは並大抵のことではない。そのため、曳き手は小学生から大人まで数十人が綱を引く。町内会総出の様相だ。笛と太鼓のお囃子に合わせて、リズミカルに「エンヤ、エンヤ」の掛け声をかけながら、歩くというより小走りに駆けるようにして曳山が次々に目の前を通過する。交差点を急角度で回るところなどは、なかなかの迫力である。

 大人になって唐津を出た人でも、くんちになれば帰って来て祭りに参加するという話を聞いたことがある。子供の頃にこうして綱を引いていれば、大人になってからでも懐かしくなって、祭りのために帰省するということかもしれない。

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 祭りは三日間行われるが、初日の11/2は「宵ヤマ(よいやま)」と呼ばれ、各町が曳山を出して神社前に集結する。祭りの準備完了というわけだ。

 そして、本日11/3は最大の見せ場の「御旅所神幸(おたびしょしんこう)」。神社で曳山が奉納行事を行った後、前後に曳山を引き連れてお神輿がお旅所に向かう。そして、お旅所のある砂地のグラウンドに次々と曳山が入場する。重量2トンの曳山を大勢の町衆が引き回すさまが勇壮で人気がある。

 最終日の11/4は「町廻り(まちまわり)」といって、曳山が町中をパレードする。最後は町に戻り終了。但し、今では「曳山展示場」という施設があって、普段はそこに安置されるため、展示場に戻っていくことになる。

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 お旅所というのは、昔は砂浜を利用していたとも聞くが、今では学校のグラウンドがそれに充てられている。但し、普通のグラウンドではなく、昔と同じように砂地にしてある。この日のためにわざわざ砂を入れているとも聞くが、ホントだろうか。

 とにかく、この厚い砂のために、曳山を曳く作業は相当大変になる。重量があるため車輪が砂にめり込み、たちまち立ち往生する。そこを、みんなで力を合わせて曳き込み、所定の場所に曳山を入れる。一言で言えば、綱引きみたいなもので、全員が掛け声をかけながら力を合わせて曳く。これが、なかなかの見せ場なのである。

 見ていると、曳き込みのうまい曳山と、そうでないのとがある。指揮に合わせて気合を入れ、皆が一気に引き、すっと所定位置に収める曳山には、観客から「おぉっ」と声が上がる。町内会同士の競い合いもあるのだろう。力のこもった見せ場である。

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 お神輿を囲んで全ての曳山がお旅所に整列すると餅まきが始まり、もうグラウンド一面、人また人である。

 ここで一旦休憩になり、暫くしてから今度はお旅所から曳山が出て行く。このときも先ほど同様、砂地に車輪をめり込ませながら、皆で曳山を出すという見せ場があるが、さすがにそこまで見ていると帰りが遅くなるので、頃合いを見計らって帰ることにした。

 ずっと立ちっぱなしで何時間もいたせいかさすがにくたびれて、この祭りの中心である唐津神社までは行かなかったが、そもそもどういう神社かというと、これがまた神功皇后の三韓征伐と深いつながりがある。もう福岡周辺は神功皇后だらけである。

 神功皇后は三韓征伐に際して住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)に航海の安全を祈願している。このため、無事に勝利して帰国した際、浜辺で宝鏡を縣けて住吉三神に感謝の意を捧げた。時は下って天平年間、西暦では755年に、唐津を治めていた「神田宗次(こうだむねつぐ)」が「浜辺に出れば不思議なことがある」という夢を見て海岸に行くと、箱が打ち上げられていて中に宝鏡があった。時の帝に「これは神功皇后の鏡ではあるまいか」と奏聞したところ、帝が「唐津大明神」の称号を送ってきた。これが、この唐津神社の起源だと伝えられている。

 従って、祀られているのは、神功皇后が感謝の意を表した住吉三神、そして神社創建にかかわる神田宗次である。住吉三神は、国産み神話で有名な「イザナギ(伊弉諾)」が黄泉の国から帰ってきたときに禊をした際に生まれた神様だ。それと実在の人物の神田宗次が並んで祀られているのは、何とも奇妙な感じがするなぁ。

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 さて、遅めの昼ご飯を食べるため駅に向かう。以前、呼子に行ったときにイカ料理を食べた店の支店が唐津駅構内に入っているので、そこで食べることにする。駅は帰る人で大混雑だが、時間が遅めのせいか、幸いレストラン街はそれほどの人ではない。5分も待てば座れた。

 駅構内の店なのでイカの活き造りはメニューにないが、イカ関連のメニューがたくさんあり、その中からゲソ天定食を選ぶ。予想外に大量のゲソの天ぷらが出て来て、満腹になる。腹ペコの遅い昼食にはちょうど良く、大満足であった。

 最後に、一番曳山の「赤獅子」の写真を掲載しておく。この曳山が祭りの行列の先頭でやって来る。子供たちのファンが多いらしく、通りの角を回ってこれが現れると、周りで見ていた小さな子供たちから「赤獅子だぁ!」の声がかかる。

 駅でもらったパンフレットを見ると、江戸後期に作り始められた曳山の中で、一番最初に登場したのが赤獅子らしい。当時の秋の例大際には、お殿様のいる唐津城内にも赤獅子が入り、大変な賑わいだったと聞く。

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 祭り気分一色の文化の日、笛や太鼓と掛け声に、子供の頃の秋祭りを思い出した。かくして懐かしくも楽しい一日だった。

posted by OhBoy at 23:42| 日記