2011年01月30日

冬の定番鍋料理

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 2週続けての東京への出張が終わって、今夕福岡空港に着いた。この週末は、福岡は雪の予報だったし、機内のアナウンスでも「福岡は気温1℃で、時折雪の舞う空模様」なんて言っていたので警戒していたが、着いてみると雪の気配はまるでなし。寒いのは寒いが、空も晴れていたし、飛行機から福岡の夜景がきれいに見えた。

 これで2週続けて週末の散歩をさぼっているが、こちらにいたからといって散歩に出掛けていたかは怪しいものだ。天気の巡り合せが悪いのか、このところ週末になると天気予報に雪マークが出る傾向にある。実際、今にも雨か雪が降りそうな厚い雲に覆われた空模様の日が多いから、出掛けるのにはちょっと躊躇する。

 最近は平日の昼に食事に出掛けるのも億劫になってきた。外に出ると風が冷たいものだから、職場の同僚たちはオフィス街に売りに来る弁当屋で昼食を買い求める人が多い。従って、近隣の食堂はめっきり客足が細っている。これじゃあ商売上がったりだろうなぁ。

 ところで、こんな寒い冬の福岡で名物料理といえば、まず思い出すのはモツ鍋か。これは昼間食べるのには適さないが、夜の宴会にはピッタリで代表的宴会料理だろうなぁ。

 街を歩くと至るところにモツ鍋の看板がある。福岡は魚が新鮮でおいしいから、冬になると魚料理が宴会の代表格かと思っていたら、モツ鍋の方がポピュラーだったのには驚いた。

 モツ鍋のベースは醤油味か味噌味が基本中の基本らしいが、店によっては工夫を凝らした変わりダネのスープも提供しており、長年福岡の人々に愛されて来たのが実感できる。そもそも、夏場からモツ鍋を食べさせる店がたくさんあるのにはビックリした。クーラーかけながらではあるが、最初連れて行かれたときには、どうして夏にモツ鍋なんだといぶかしく思ったものだ。

 モツ鍋といってもモツがメインではなく、むしろ野菜の方が多い気がする。名前からすると高カロリーっぽい印象だが、実際にはカロリー低めで、ビタミン豊富なうえ、コラーゲンがたっぷり含まれていて、健康に配慮した料理らしい。そして、最後にシメで入れるのはちゃんぽん麺というのがこちらの定番。これを食べると、寒い冬でも乗り切れそうな気分になるから不思議だ。

 牛肉の産地というわけでもないのに、どうして福岡でモツ鍋がポピュラーになったのかはよく分からない。昔、石炭産業が隆盛だった頃、筑豊で炭鉱労働者がすき焼きや焼肉を食べていて、その派生でホルモン焼きも食べられるようになり、それが鍋に転じた、と解説してくれた地元の人がいたが、ホントかどうかは知らない。いずれにせよ、遠い昔からモツ鍋が食べられていたわけではないらしく、子供の頃はあまり馴染みのない料理だったという声も聞く。いずれにせよ、広まったのは戦後のことなんだろう。

 福岡は昔からある程度裕福な街だったんだろうから、牛肉系の鍋料理ならモツ鍋じゃなくすき焼きでも良かったんだろうが、何故モツの方がポピュラーになったのかは定かではない。昔から健康志向だったわけでもあるまいし、コラーゲンがもてはやされたのは最近のことだし・・・。

 もう一つ、冬の福岡の鍋物の定番といえば、どういうわけだか水炊きになる。これもまた不思議な話で、鶏肉の産地は福岡ではなく宮崎や鹿児島だ。そのうえ、地元の方の話では、いまや全国銘柄の観がある水炊きの元祖は福岡らしい。ちょっと意外だな。

 こちらも夏場から水炊きがあり、有名店にはそれなりに客が入っている。水炊きというと、沸かした湯に具を入れて炊くというイメージだったが、こちらでは、鶏がらで取った白く濁ったスープで鶏肉と野菜を煮る。このスープが自慢らしく、鶏肉や野菜を入れる前にそのスープだけをまずは飲む。ここがちょっと変わっているなと思う。そして、これがなかなか美味なのである。

 そのあと鶏肉を煮て食べ、野菜、雑炊と進む。専門店で食べたせいか、味の水準が今までイメージしていた水炊きとは違って、かなりうまい。単調な宴会料理という先入観が打ち破られたのは確かだ。やはりスープが決め手なのだろうか。

 ただ、モツ鍋と同じく、どうして鶏肉の産地でもない福岡で水炊きが名物なのかは分からない。福岡県と佐賀県の県境に「三瀬(みつせ)」という山間の集落があり、そこが地鶏の名産地と言われているが、ここが有名になったのよりも、水炊きの方が歴史が古い気がする。

 以前地元の人から聞いたところでは、そもそもは海外の料理の亜流から生まれたらしい。でも正確な起源は良く知らないとのこと。地元の人ほど、自分の街の歴史や名物の由来を知らないものなのだ。まぁ知らなくとも充分おいしいから問題はなかろう。

 最後に、やはり鍋物の王者と言えば、北九州を代表するふぐがチャンピオン級の位置にあるが、そうそう宴会で食べられるものではないので、庶民派の料理じゃあないなぁ。でも比較的安くで食べられる店もあるので、その点は東京に比べて有利か。

 今年の冬は格別寒いらしいから、温かい鍋物でも食べて栄養を付け、何とか乗り切りたいものだ。
posted by OhBoy at 23:04| 日記

2011年01月23日

東京の青空

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 週の後半に東京で会議があったものだから、週末を含めて4日間東京にいて、今晩ようやく福岡に帰って来た。東京と福岡と、どっちが寒いのだろうと思っていたが、気温の面ではさして違いがなかった。でも、東京特有の冬の透明な青空を見ていると、やはり精神的には、東京にいた方が明るい気分で過ごせるかなと思った(笑)。

 東京は、昨年末から雨らしい雨もないようで、空気がカラカラに乾燥している。土曜日には、用があって出掛けたついでに、暫し散歩を楽しんだ。空は雲ひとつなく、ついでに風も全くなかったので、冬とはいえ太陽の光を浴びながら気持ちよく歩けた。日本海側にあり雲の多い福岡とは、冬の環境がかなり違う。福岡ももう少し晴れ間があれば、冬でも散歩を楽しめるのにと、少々東京の冬がうらやましくなった。

 昨年末に帰京した折りには行かなかった地区をウロウロしたが、古い家が取り壊されて更地になっていたり、逆に青空駐車場がマンションの建設現場になっていたりと、ちょっと見ないうちに、街並みは徐々に変わっている。店舗も何軒か入れ替わっていて、やはり東京は変化の多い街だと実感した。

 上に掲げた写真は、冬のレインボーブリッジをお台場から見たものだが、残念ながら今回の散歩で撮影したものではない。そもそもお台場まではちと遠いので、今回は足を運ばなかった。たまたま東京で見ていた新聞に、風景写真をジオラマ風に撮影したものがあったので、真似して挑戦してみただけ(笑)。まぁプロがやるようにはうまく行かぬが、「なんちゃって」風には素人でも出来る。

 ところで、今年は元旦の朝、年賀状が届く前に福岡に戻っていたので、今頃になってようやく私宛の年賀状を見た。ちょうど今日はお年玉付き年賀ハガキの抽選日で、正月気分は記憶のかなただが、年賀状で友人・知人の近況を読むのはいいものだ。私と同じ単身赴任者が何人かいることに改めて気付く。

 虚礼廃止なんて言いながら、なかなか枚数を減らすことが出来ず、毎年かなりの数の年賀状を出し、そして貰う。だが、以前と違って、パソコンで表裏を印刷するようになって、手間はグンと減った。今年のように、年末まで福岡にいると、パソコンの印刷のありがたみをつくづく感じる。単身赴任ながらも、正月に年賀状が届くように準備できるのは、パソコンのお蔭である。もっともその分、手書きコメントはほとんど書けなかったが・・・。

 今回の年賀状のやり取りで、自分の知り合いの中に、福岡に縁のある人が何人かいたことに気付いた。虚礼廃止と言いながら、こんなことを発見できるのは楽しいものだ。また何かの折りに会って、昔の福岡の話でも聞きたいと思う。

 以前、子供時代を福岡で過ごしたという方とたまたま話をする機会があって、当時の様子を伺ったら、けっこう面白かった。その頃は、今の博多駅辺りは何もなかったとのこと。駅も今の場所になかったらしい。道理で、駅の東側は街並みは続いているものの、未だにあまり垢抜けた感じがしない(笑)。お蔭で全く散歩の対象にもしていなかったが、話を聞いているうちに、一度歩いてみてもいいかなと思った。

 さて、また来週の後半は東京で会議があり帰京する。今度は別の場所で違う種類の会議があるのだが、たまたま2週続けてということになった。また、あの気持ちのいい青空の下で散歩して来るかな。こちらで週末に家に閉じ込められがちな分、運動不足解消になるだろう。

posted by OhBoy at 23:20| 日記

2011年01月16日

空振りで幸い

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 夜になってから雪が降るという天気予報を聞いていたので、朝起きて雪が積もっている光景を予想していたが、恐る恐る開けたカーテンから見えたのは青空だった。雲は多いが時折陽も差す空模様で、雪が降る気配はない。

 天気予報をつけてみると、午後から雪が降るようなことを言っているので、どうやら悪天候の時間はドンドン後ろにずれ込んでいるようだ。さて今日はどうしたものかと思案したが、雪に降り込められ家に篭城することを予定して昨夜から読み始めた推理小説の先行きが気になって、取りあえずソファに寝転がって、続きを読み始める。

 今回読んでいる本は、法月綸太郎(のりづきりんたろう)の「生首に聞いてみろ」。2004年に単行本として発刊され、その年の「本格ミステリ大賞」を受賞したほか、「このミステリーがすごい!」の1位に輝いている。高名な彫刻家の遺作にまつわる謎を追う過程で起きる殺人事件を題材にしたものだが、アリバイ崩しや密室トリックの類ではなく、背景にある人間関係を追っていく筋立てだ。

 推理小説というのは、中断するタイミングが難しく、特に後半はドンドンと話が展開していくので、止まらなくなる。結局、最後まで読み終わって時計を見ると午後4時半。外を見ると、昼過ぎから更に雲が多くなったものの雪は全く降らず、依然上空には一部青空がのぞいている。こりゃ、完全に天気予報に裏切られたと悔やんだが、まぁいい方に外れて良かった。休日とはいえ雪に降り込められるのは嫌だからねぇ。準備万端整えて週末にのぞんだが、空振りで幸いというヤツだ。

 そうはいっても、強烈な冬型の気圧配置のお蔭で、昨日からすごい風が吹いている。昨夜は、閉め切った家の中でもゴウゴウという風の音が聞こえるほどで、ベランダに置いたゴミ箱は吹き飛ぶは、わずかな隙間からでも風が吹き込むはで、その強烈さに台風襲来を思い出してしまった。今日も引き続き風の音が凄かったから、散歩に出たらさぞかし身の縮む一日だったことだろう。

 テレビのニュースを見ていると、日本海側の多くの地域で雪が降っているとのことで、記録的な積雪量になっている地域もあるらしい。九州辺りでも昨夜から今朝にかけての冷え込みはこの冬一番だったようで、道理で今朝は寒かったはずだ。

 ところで、毎週末更新しているこのブログだが、来週後半から東京で会議のため、年末に引き続き帰京する。その翌週も東京なので、暫しこのブログもお休みかな。また気が向いたら東京から投稿するかもしれないが、それじゃあ福岡の日記とは言えないか・・・(笑)。


posted by OhBoy at 22:59| 日記

2011年01月15日

再び寒風散歩

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 今週末は福岡でも大雪が降ると何度も天気予報で聞いていたので、今日は一歩も外に出られないことを覚悟して、昨夜おかず類をスーパーで仕入れて朝を迎えた。起きて恐る恐るカーテンを開けると、雪ではなく冷たい雨。風はかなり強いようで、電線が始終揺れている。こりゃいずれにしても散歩には向かない日だわと諦める。

 ところが、昼前になって空が明るくなり、雨もやんでわずかながら空の一角に青空までのぞく。天気予報を見ると、寒波襲来は今夜から明日にかけてと、今まで聞いていた予報がずれていた。ここで外に出なければこの週末は家にこもり切りだろうと思い、寒風の中、散歩に出かける。

 遠出は避けて、おとなしく大濠公園を歩くことにした。さすがにこんな日は公園も静かだろうと近づくと、何やら黄色い声援が聞こえる。何かと思ったら、高校か中学の生徒たちが、大濠公園のジョギング用トラックを使って長距離走をやっている。先生も父兄も出ていて、園内はけっこうな人手だ。

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 走る人の邪魔にならないように、ジョギング用のトラックを避けて池沿いを歩く。強い北風が吹く中、ランニングに短パンで走る選手たちを見ていると、こちらまで寒くなる。先生も走っているらしく、沿道の生徒から頑張れの声援が響く。

 生徒たちの様子を見ていて、ふいに今日が大学入試センター試験の初日だったことを思い出す。どうやら福岡は雪にならずに済んでいるが、東北や北陸、北海道の受験生は大変だろうなと思う。

 私自身の大学入試はもう何十年も前のことで、大学入試センター試験はおろか共通一次試験すらない時代だった。私立大学の入試が2月から始まり、国立は一期校、二期校に分かれ、3月に行われた。今の時代とは全然違うわけだが、今でもテレビや新聞で大学入試の話題を見ると、ふとあの頃のことを思い出してしまう。大学入試というのは、青春の一時期にとってかなり印象に残る一大行事ということなのだろう。

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 私が受験生だった頃には、受験環境は今ほど整っておらず、参考書も定番のものが多かった。合格体験記みたいな本が出始めた辺りだったのではないかと記憶しているが、気分転換に読んだある合格体験記に印象的な話がいくつかあった。

 その本は、いわゆる受験テクニックや勉強法を解説しているものではなく、文字通り受験生が合格を勝ち取るまでの道のりを、その時々の心情や学校・家庭事情を交えながら書いている。出て来る話はけっこうユニークで、ストーリーも面白かった。

 工業高校から苦労して国立大学に進む話や、高校時代に1年間交換学生で米国に行った受験生が同級生と一緒に大学に進みたくて米国の高校の卒業証書で受験にチャレンジする話、大学進学に乗り気でない両親の下で店番をさせられながら受験勉強をする女子学生の話など、いわゆる王道を外れた受験生たちのストーリーが次々に語られる。

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 その中でも比較的印象に残った話として、京都大学を目指して2浪した挙句九州大学に進んだ受験生の話があった。主人公は関西の進学校に在籍し学年順位も上位で、京大への現役合格は充分可能という成績の高校生だった。それが本番の日、苦手だった数学の科目で頭が真っ白になり一問も解けないまま時間切れとなる。当然不合格。1浪は当たり前だと気にせず浪人し、予備校に通って更に成績を上げるが、またもや本番のときに数学でパニックになる。

 人間、一度苦手意識を持つと、実力を出し切れなくなることは誰にだってある。彼も、数学で一度失敗したという苦い意識が働き、数学の試験だけは無条件に焦ってしまったわけだ。だが代償はかなり過酷だ。青春の貴重な一時期に、2年間を予備校通いでつぶすことになる。

 ついには2浪のときに禅寺に行き、座禅を組んで精神を落ち着けるすべを学ぶが、もう3浪は出来ないと、願書を出す直前に志望校を変える。九大の入試が終わったときには、受験会場で涙が出て来て無性に泣いたという記述があった。2年間浪人して希望がかなうというのではなく、最後の瞬間に自らの選択で、それまで追って来た第一志望校を捨てる。その気持ちはよく分かる。

 受験というのは、誰にとってもある種のドラマである。道のりは長く成功は保証されていない。基本的に筋書きは自分で書かねばならず、そのシナリオと実演如何で運命が決まる。不合格なら受験勉強の日々がもう1年続く。同級生が大学生として学ぶ傍らで、英単語帳を追うのはやり切れないと、その合格体験記に何人もの浪人生が書いていた。

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 そんな昔話を思い出しながら歩いていたら、空から雪が舞い始めた。傘を差すほどのことはないので、そのまま雪の中を歩く。風も強くなり、大濠公園の水面がさざめき立つ。

 相変わらず、高校生か中学生か分からないが、声援を送りながら競技を続けている。彼ら彼女らもやがて、何年か後のこの時期に、天気を気にしながら大学入試センター試験を受けるのだろうか。

 先生や両親がどう言おうと、受験生にとっては大学入試が全てということになる。後になって振り返ってみれば、社会人としてどの大学を出たかなど、たいしたことではないと分かるし、世の中を見渡せば偏差値の高い大学の卒業生が常に成功しているわけではないことも一目瞭然だ。むしろ、一度浪人して挫折を味わった人間の方が、社会に出てからの苦難によく耐えるとも言われる。

 だが、そんなことをいくら当の受験生に言ってみても、仕方ないことだ。入試という一瞬に全てを賭けて、様々なことを犠牲にしながら準備をしてきた人間に、今さらそんなことを諭しても始まらない。

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 全員が第一志望に受からないことがハッキリしているのが入試の悲劇的なところである。ただ、それは分かっているが、全ての受験生に幸運あれと願わずにはいられない。何か一つのことに一生懸命になるという経験は、そうそうあるものではない。結果が希望通りではなかったとしても、何かしら得るところはあると思う。

 私が今でも大学受験のことを思い出すように、今日試験を受けている若者たちも、いつまでもこのときのことを覚えているだろう。良くも悪くも、青春の貴重な瞬間である。

posted by OhBoy at 23:12| 日記

2011年01月10日

おこもりの週末

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 今日は朝から冷たい雨。それも時折雪が混じり、外は如何にも寒そうだ。どう考えても散歩に出るのは無謀そうだから、篭城を覚悟する。昨日、一昨日と散歩に出られたことを良しとしよう。何といっても福岡は日本海側気候なんだから、冬場に無理をしてはいけない。

 日ごろ買ったまま積んであった文庫本を手に取る。天気の悪い冬の日には、ミステリーがよく似合う。日本では怪談は夏場と決まっているが、海外ではむしろ冬の方が怪談向けの季節とされている。毎年、クリスマス辺りにミステリーの新作が出され、暖炉の前でそれを読むのを楽しみにしている人も多いと聞く。

 今日読んだのは、大村友喜美の「首挽村の殺人」で、「横溝正史ミステリー大賞」を受賞した彼女のデビュー作品である。豪雪で閉ざされた東北の寒村で起こる連続殺人事件を描いたもので、雪に閉ざされて読むにはピッタリなストーリーだと思って選んだわけだ(笑)。

 ストーリーはよく練られていて意外な犯人が用意されているし、描写もこなれていて自然に読み進められる。昔から様々な言い伝えのある村で、昔話になぞらえながら殺人事件が起きる当たりは、横溝正史ミステリー大賞らしいなぁと思ったが、どうも横溝正史の作品が持つあの独特の雰囲気はない。確かに舞台装置もストーリー運びも似ているのだが、何かが欠けている気がするのである。

 暫し考えて、昭和の匂いがしないためではないかと思った。横溝正史の推理小説が持つおどろおどろしさは、戦後すぐの混乱期の匂いがする舞台設定あったればこそという気がする。どこかうまく両者が合うんだろうなぁ。

 それに比べて「首挽村の殺人」は、やはり平成時代の物語である。材料に使われる昔話は、デジタルな平成の世にあって、遠い過去の話になってしまっている。横溝作品のように伝説や言い伝えが身近ではないのである。そこを身近に感じさせるのが昭和という時代設定であって、京極夏彦の作品もそこら辺りを意識して、時代設定を昭和にしているのかなと思った。

 まぁでも面白かったから、充分合格点だろう。

 さて、休み明けからまた雪や雨らしい。これから暫くは家にこもる週末が続くかもしれないから、溜まった未読本を消化するにはちょうどいいかもしれない。でもこのままだと、冬場は運動不足になりそうだなぁ。

posted by OhBoy at 23:40| 日記

2011年01月09日

雨を気にしながら寒風散歩

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 今朝も朝から寒い。おまけに昨日と違って空は一面曇っていて、今にも雨が降りそうな気配だ。今日は散歩を諦めるかなと思っていたら、午後になって少し空が明るくなって来たので、運動不足にならないように、取りあえず出掛けることにした。散歩を楽しむというより運動のための外出という感じだ。

 一歩外に出ると冷たい北風にあおられる。福岡は海に面しているので、西高東低の冬型の気圧配置になるとたちまち風が強くなる。しかし、大陸までの距離が短く、海上で雲が発達しにくいので雪はあまり降らないという。そこが、他の日本海側の地域と違うところだろう。

 さてどこに行こうかと考えたが、雨が降り始めたときに備えて、地下鉄沿線を歩くことにする。いざとなれば最寄の地下鉄駅から戻って来れるからだ。

 スタートは、毎度お馴染みの大濠公園。さすがにこの天候だと人が少ない。休日なので暖かければ家族連れで賑わうが、この寒風の中遊びに来ると風邪を引きそうだということで敬遠されているのだろう。

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 人がいないものだから、餌をもらおうと集まった野鳥たちが手持ち無沙汰そうだ。餌をくれそうな気配を察すると、すかさず集まって来る。普通の公園だと鳩とカラスが来るのだが、ここは海に近いのでたくさんのカモメが集結している。

 カモメというのは東京では珍しいが、福岡市内だと至るところで見掛ける。おまけに人に馴れていて、歩いていると向こうから寄って来たりする。餌をやる人も多いのだろう。

 以前、カモメに餌をやっている人を見掛けたが、カモメたちはその人を中心に群でクルクル舞う。そして、餌を上空に放り投げると、さっと巧みにキャッチするのである。これは見ていてなかなか面白い。鳩やカラスではこうはいかないだろう。それが楽しみで餌やりする人が増えて、カモメの側も人間に馴れたということだろうか。

 池のほとりを半周ほどしたところで東側に折れて、今度は福岡城址に向かう。もう何度も来ているが、今回は「名島門」を抜けて道路を渡り、石垣沿いを南に歩いて「桐木坂御門跡」から城址に入る。ここは「西南戦争」に呼応した旧福岡藩の士族が反乱を起こし、明治政府軍と激突し多数の死傷者を出した場所である。

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 後に「福岡の変」と呼ばれたこの事件が起きたのは明治10年のことであり、この時期は薩長中心の明治政府に対して、他藩の士族の不平不満が溜まっていたという背景があった。昨年終わったNHKの大河ドラマ「龍馬伝」の続きみたいな話だな。たしか龍馬伝では、龍馬を暗殺したのは誇りを傷つけられた幕府側の侍たちということになっていたが、士族の反乱にも通じるところがあるかもしれない。

 この種の士族の反乱は福岡で起きただけではなく、福岡の変の直前には「佐賀の乱」や熊本で起こった「神風連の乱」のほか、秋月や萩でも同趣旨の士族の反乱が起きている。そして、李氏朝鮮との外交問題に端を発して下野した西郷隆盛が九州南部で起こした最大の武力反乱が、有名な西南戦争である。

 西郷隆盛はこの時代にあってはカリスマ的な存在であり、西郷軍が鹿児島を出て熊本城を包囲したという知らせが届くと、元福岡藩士600名が呼応して、福岡城を奪取すべく決起した。しかし、西郷を中心とした不穏な動きは明治政府も察知して警戒していたところであり、福岡においても反乱軍が桐木坂門から城内に攻め入ろうとしたところで、待ち構えていた鎮台兵に一斉射撃され総崩れとなる。

 反乱軍は今の南公園まで一旦退却したが、追撃を受けて多くが死傷し、残りの者も捕らえられ投獄された。中には福岡を逃れ、熊本で戦う西郷軍に合流した者もいたが、そのうちの一人が、後の「玄洋社」を設立することになる「平岡浩太郎」である。

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 上の写真が、激突の場となった桐木坂で、当時はここに銃撃され死傷した多数の士族が横たわっていたことになる。今の静かな福岡城址からは、想像もつかないことだ。皮肉なことだが、黒田長政が万全の備えで築城した福岡城で戦闘があったのは、後にも先にもこの一回限りである。

 さて、西郷軍に合流した平岡浩太郎だが、西南戦争で捕らえられ東京で獄中生活を送ることになる。やがて出獄した彼は、板垣退助が中心となって始まった自由民権運動に参加し、明治11年に同じ旧福岡藩士の「頭山満」らと「向陽社」を組織する。そしてこの向陽社が改名され、有名な「玄洋社」となるのである。平岡は玄洋社の初代社長となった。

 天気は何とか持ちそうなので、福岡城址を抜けて更に東に進み、赤坂まで歩く。ビル街の中を分け入ると、ここに玄洋社の跡がある。

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 玄洋社は自由民権運動を受け継いだ政治団体にして、後に続く右翼運動の源流となった組織である。欧米列強の侵略主義的な動きを強く意識して、天皇を中心とした強兵国家を築き、アジア各国の独立を支援すべきという立場に立っていた。やがて軍部や政財界に強い影響力を持つようになり、日清戦争から第二次世界大戦まで日本の対外戦略に深く関わったと言われている。故に戦後、GHQはその存在を問題視し、狂気的な集団として強制的に解散させた。

 ちなみに、現在NHKが年末に放映している「坂の上の雲」で、ロシア公使館付武官として「明石元二郎」という人物が出て来てロシア革命を裏から支援しているが、彼も元福岡藩士で玄洋社社員である。また、不平等条約改正に弱腰と批判された外務大臣「大隈重信」を爆殺しようとした「来島恒喜」も玄洋社社員で、大隈に爆弾を投げつけたその場で自ら頚動脈を切って自決した。この爆殺未遂事件により大隈は右足を失い、黒田清隆率いる内閣は瓦解する。

 また平岡浩太郎と共に向陽社を作った「箱田六輔」は、傍らで教育機関として「向陽義塾」を立ち上げ、これが後の県立修猷館高校へとつながる。箱田は後に玄洋社社長を務めている。

 だが、玄洋社で最も有名な人物といえば「頭山満(とうやまみつる)」ということになろうか。彼は、昨日散歩に行った西新の生まれで、昔の西新岩田屋、今のプラリバ辺りが生家だったと言われている。頭山生誕の地ということで、地下鉄空港線西新駅を上がったところに碑が立っている。

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 頭山は、政界に広い人脈を持つ右翼の巨頭にして、戦前・戦中の様々な出来事の黒幕とも言われている。

 福岡藩士の家に生まれた頭山は、士族の反乱に共鳴して決起を画策し投獄された経験を持つ。福岡の変も西南戦争も、獄中にいた故に参加できなかった悔しさから、板垣退助と共に蜂起しようとするが、板垣に諭されて自由民権運動に参画する。福岡で頭山は、血気にはやる若者を集めてグループを作り頭角を現した。

 平岡浩太郎と共に向陽社を立ち上げて、後に玄洋社の総帥となる。板垣退助が自由党を結成して政治の道に進む中で、生涯公職には付かず国士として様々な活動に参画した。以前、南公園のある大休山に行き、孫文の記念碑があるのを紹介したが、日清戦争後に広州で武装蜂起した後日本に亡命した孫文を助けたのも頭山であるし、その後蒋介石とも親交を深めている。

 終戦の前年に亡くなった頭山は、戦後にはGHQによる玄洋社の解散と共に、どこかタブー視される伝説的人物になってしまったが、戦前・戦中の日本の対外戦略を語る上では欠くことのできない存在かもしれない。でも彼の名前を知っている人は、次第に少なくなりつつあるんだろうなぁ。

 さて、そうしているうちにポツリと雨粒が落ちて来た。天気は確実に下り坂らしい。明日は雪が降るとも言っているので、食料を買い込んで家路を急ぐとするか。


posted by OhBoy at 23:15| 日記

2011年01月08日

西新で元寇を偲ぶ

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 今頃になってようやくこのブログも始動とあいなった。もはや新年の挨拶をするには時機を失しているが、何はともあれ、本年も宜しくお願いします(笑)。

 年末は一旦東京に戻ったのち、元旦に自宅から初日の出を見たその足で飛行機に乗り、家族共々福岡に舞い戻った。「福岡の正月は概ね天気がいい」なんて地元の人の話を信じて、家族みんなで正月を福岡で過ごそうという計画だった。ところが戻ってみたら、天気は大荒れ。

 年末に九州一帯で雪が降り、長崎まで積雪があったらしい。あの坂の多い街で雪が積もるとどういうことになるのか、考えるだに恐ろしい。そして年が明けても天気は荒れ模様で、元旦の福岡は冷たい雨。その後も雪が降ったり雨が降ったりと、傘の手放せない正月休みだった。

 それにしても寒い。地元の人の話では、今年の福岡は格別寒いらしい。運の悪いときに赴任してきたものだ。今週も第一級の寒波襲来ということで、連日冷え込み、時折雪が舞った。寒さには強いと自負する私でも寒いと感じるのだから、寒さ慣れしていない人は震え上がっているのではないか。

 さて、そんな中で本日は珍しく晴天。朝から洗濯したり散髪に行ったりと、慌しく午前中が過ぎ去った。ふと気付くともう午後も2時近く。明日以降再び天気が崩れると言っているので、この三連休で散歩するとすれば、今日くらいしかチャンスがないことを思い出す。

 どこに出掛けようかと思案したが、晴れているとはいえ風があって外は寒いので、遠出や海の近くはやめる。ちょうど買い物の用もあったので、西新まで歩いて、裏通りを散歩しようと考えた。

 まず向かったのは「祖原公園(そはらこうえん)」である。

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 西新という地区は海から近く、埋め立てが進む前はすぐそばに海があったと聞く。海岸線は砂浜だったようで、サザエさんの作者「長谷川町子」が住んでいた頃は、家の裏は海だったという。その砂浜を散歩しながらサザエさんの構想を練ったという話を以前このブログに書いたし、「磯野公園」というサザエさん発案の地が西新にあることも紹介した。

 たしかに幹線道路を通っている限りは平坦な土地のように見えるのだが、一歩入ると実は小さな山がいくつかある。今日はそんな隠れた山を訪ねてみようという趣向である。

 最初に立ち寄った祖原公園も、地図で見る限りは住宅街の中の公園のように見えるのだが、実は「麁原山(そはらやま)」という小さな山の上にある。早良街道の「祖原公園東口」という交差点を入ると、山に登る入り口があるのだが、こんなところに山があるとは、早良街道を歩いているだけでは分からない。

 実はこの麁原山は、元寇の際に蒙古軍が陣を敷いた場所なのである。

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 元寇は日本史の授業でお馴染みだが、二回襲来があって、二回とも神風が吹いて蒙古軍の船が沈んだことになっている。この麁原山に蒙古軍が陣を敷いたのは一回目の襲来のときである。この襲来は1274年に起きていて、年号を取って「文永の役(ぶんえいのえき)」と呼ばれている。

 最初蒙古軍は対馬・壱岐を襲い、住民を皆殺しにしている。その後、壇ノ浦の合戦でも活躍した松浦水軍を全滅させ、博多湾に現れた。対馬・壱岐が襲われた時点で九州に状況が伝えられ、幕府のあった鎌倉にも急報が届く。博多には九州の御家人が集結し、大宰府に日本軍の陣を敷く。そして上陸して来た蒙古軍と、今の福岡市内で激突した。

 蒙古軍の先陣は今の西新辺りに上陸し、見晴らしの利く麁原山に陣を敷いた。戦場跡の石碑にある解説では、この山の上に蒙古の旗がたなびき、太鼓やどらを打ち鳴らして蒙古軍が気勢を上げたという。この陣から出撃した蒙古軍は、火薬を使った武器を打ち鳴らし、鳥飼、赤坂、別府、荒江の各地区で、九州の御家人勢と激しく戦った。

 日本の御家人たちにしてみれば、ほぼ初めての異文化との遭遇で、勝手が分からないため緒戦はかなり苦しんだらしい。しかし一旦相手の戦法を知ると巻き返しに出る。このとき活躍したのが、「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」を作成した肥後国の御家人「竹崎季長(たけさきすえなが)」である。

 この戦いで蒙古軍が火を放ったため、博多の町は焼け野原となる。しかし、それ以上の戦闘にはならず、蒙古軍は博多湾に停泊している軍船に引き上げる。このあと神風が吹いたかどうか知らないが、蒙古軍は博多湾から姿を消す。日本は辛くも難を逃れたわけだ。

 再び蒙古軍が襲来してきたときに備えて、このあと海岸線に長大な防塁が敷かれる。西新の更に西から始まり、東は香椎まで続く全長20kmの長さで、高さ2-3mの石垣が積まれた。これが今に残る元寇防塁で、西新地区では西南学院大学のキャンパス内で掘り出された防塁を見ることが出来る。

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 この元寇防塁がある場所は、麁原山から6-700m北である。鎌倉時代には、そこがもう海岸線だったということになる。この公園からわずか先に無数の蒙古軍の軍船が停泊し、この辺りを兵士が蹂躙して回ったわけだ。西新には遠い昔から人が住んでおり、近くの鳥飼地区は、昔神功皇后の凱旋の祝宴を開いた鳥飼一族という豪族が治めていた土地だ。それも蒙古軍によって破壊され、全て焼き尽くされたのだろう。

 蒙古軍は1281年に再び博多を襲うが、今度はこの防塁に阻まれて思うように上陸出来ず、海上に釘付けになる。そこに嵐が襲い、蒙古軍は大混乱をきたす。その機に乗じて日本軍は蒙古軍を襲い殲滅する。蒙古軍が対馬・壱岐を襲った際に住民を皆殺しにしたことを覚えていた日本軍は、蒙古軍の兵士を一人も生かさなかったと伝えられている。これが「弘安の役(こうあんのえき)」である。

 この平和な街並みからは到底想像も出来ない合戦がこの地であったと思うと感慨深い。兵どもが夢の跡である。

 さて、元寇はこれくらいにして、次なる山に向かおう。麁原山から西に400mくらい行ったところにある「紅葉山(もみじやま)」である。

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 名前の通り、紅葉の名所だが、桜の名所でもあるらしい。ここも、幹線道路からは山があるとはうかがえない。高取小学校の手前辺りから登り始めたが、山頂に「紅葉八幡宮(もみじはちまんぐう)」という神社があるため、けっこうな人で賑わっていた。

 紅葉八幡宮は西新の鎮守様であり、今では小さな神社だが、江戸時代には権勢を誇った黒田藩内有数の神社だったと伝えられる。そうなった経緯はなかなか面白い。

 黒田藩の初代藩主は、戦国時代の有名な軍師「黒田如水」の息子「黒田長政」であるが、二代目藩主の「黒田忠之」の治世は波乱万丈の時代だった。忠之は、父長政も心配する問題児で、長政の信任厚き重臣の「栗山大膳」を遠ざけ、あまつさえ殺そうと画策する。大膳は幕府に「忠之に謀反の疑いあり」と訴え出て、ついには幕府の詮議となる。結果的に疑いが晴れるが、所領は一旦没収された後、黒田如水・長政父子の功績を称えて再び戻される。世に言う「黒田騒動」である。

 我がままで愚鈍だった忠之は、重臣を遠ざけただけでなく、後妻として娶った坪坂氏も遠ざけ、家老の元に預けてしまう。そしてこの坪坂氏が三代目藩主「黒田光之」を生んだのが、城から遠く離れた早良郡橋本村で、その鎮守神が紅葉八幡宮だったのである。

 光之は橋本村で育ち、やがて藩主になると紅葉八幡宮を今の地に移し、厚く崇敬した。その後も歴代藩主が参るようになり、やがて紅葉八幡宮は黒田藩の守護神のような位置付けになる。壮麗な社殿、能舞台、随神門、鐘閣を有し、猿楽、鏑馬、相撲等も奉納されたという。当時は、筥崎宮や太宰府天満宮と並ぶ格式を誇ったらしい。

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 しかし明治時代になり黒田藩の庇護がなくなると、所有していた田や山林などを返上し規模も縮小された。かつての栄光はなくなったが、今でも西新の人々から氏神様として慕われ、初詣などは随分と賑わうそうだ。今日の境内の賑わいを見ると、なるほどなと思わせるものがある。

 さて、空を見上げると雲も厚くなり、天気も怪しくなって来た。そろそろ家路を急いだ方が良さそうだ。それにしてもこの天気はいつまで続くのだろう。この分だと、冬場の散歩はなかなか思うようには行かないと思っておいた方が良さそうだ。日本海側の気候だから仕方ないのだろうが、何だか運動不足になりそうだな。

posted by OhBoy at 23:48| 日記