2011年02月27日

福浜から荒津、南公園へ

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 今日は朝起きたときこそ晴れていたが、まもなく曇が出て来て一面空は雲に覆われた。昨日の好天が嘘のようだが、気温は高めで寒さは感じない。午後には雨が降るといっているから、南風が入って来ているのだろう。

 この天気だと遠出するわけには行かないなと思いながらも、午前中から出掛ければ、雨が降るまでにいくばくか時間が確保できるだろうと、珍しく朝から散歩に出る。日曜の朝は洗濯などの雑務をしなくとも良いため、たいていのんびりと読書などして過ごすのだが、今日は雨雲との戦いなので、雲に追われるようにして外に出る。

 ヤフードームから福岡タワーにかけての浜辺を散歩したことは何度かあるが、更に東側の福浜から荒津にかけての海岸線は歩いたことがないので、今日はその辺りを探索してみることにする。

 福浜地区は、よかとぴあ通りの北西側に広がる団地群を主体にした住宅地で、いくつか学校もある。昔この辺りは海だったはずで、おそらく埋立地なのだろう。黒門川通りとよかとぴあ通りの交わる交差点から福浜地区に入ることとする。

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 上の写真は、交差点からよかとぴあ通りを西方向に眺めたものだが、この左側の並木辺りは昔海岸線で、「桝木屋 (ますごや)」という福岡藩の刑場があったという話を何かの本で読んだ。海沿いの松林の中に桝を作る作業所があり、その跡に刑場を作ったから桝木屋という名前が付いたと解説されていた記憶がある。この刑場で、幕末に福岡藩士「月形洗蔵(つきがたせんぞう)」ら福岡藩勤王派の14名が処刑されている。

 福岡藩の勤王派は、家老の「加藤司書(かとうししょ)」を筆頭に、藩士の月形洗蔵のほか「中村円太(なかむらえんた)」「平野国臣(ひらのくにおみ)」らを中心とするメンバーで、幕府を倒し尊皇攘夷を推し進めようとした。

 当時の福岡藩主「黒田長溥(くろだながひろ)」は、討幕派ではなかったが尊王派だったため、藩内の勤王派にはやや寛大なところがあり、彼らは藩内でかなりの勢力を誇っていたとも聞く。「禁門の変」で京を追放され長州から大宰府へと逃れた三条実美以下七卿の世話をしたり、西郷隆盛や坂本龍馬、桂小五郎といった幕末の立役者とも親しく交わったほか、薩長同盟成立にも一定の貢献をしたと伝えられている。

 そんな勤王派の動きに神経を尖らせた幕府から、藩主だった長溥は責められ、ついに黒田藩は勤王派取り締まりに動く。これにより主要メンバーを含めて百数十名が捕らえられ、加藤司書は切腹、月形らは桝木屋刑場で処刑された。これを「乙丑の変(いっちゅうのへん)」と呼んでいるらしい。

 さて、福浜団地の中を北に進み、突き当たりの海まで出てみることにする。

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 ここには漁協があり、正式名は「福岡市漁業協同組合伊崎支所」というらしいが、毎週土曜日の午後3時から、一般人向けに魚介類の直販をやっていると聞く。これを「伊崎の夕市」といい、かなりの人で賑わうようだ。

 買いに行っている人に聞くと、魚のほか、アサリやサザエ、アワビといった貝類やエビ、タコ、シャコなども手に入るという。料理方法もその場で教えてくれるらしく、知人はここでシャコを買って塩茹でにするのを楽しみにしていると聞いた。刺身は食べるが料理がサッパリの私は、とてもそんなところで魚を買う気にならないが、一度賑わいのほどを見に来てもいいかなと思っている。

 漁協から東に向かい高速道路の高架下を歩く。暫く行くと高架下をくぐって浜辺側に出られる通路があり、そこを通って砂浜に出た。わずかの距離しかないが、遊歩道付きの浜辺になっていて、犬の散歩やジョッギングを楽しむ人のほか、集団でやって来ていた子供たちともすれ違った。地行浜やシーサイドももちと同じく、ここも人工の砂浜なのだろう。

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 どういうわけだかここの砂浜は、波打ち際にものすごい数の貝殻が落ちている。砂の上を歩いているというより、貝殻の上を歩いているといった方がいい。足元でバリバリ音を立てながら、砂浜の端まで歩く。百道の浜辺と違ってたいした距離ではない。

 この砂浜のすぐ南側には「西公園」のある荒津山がある。この荒津山の麓に当たる地区が荒津だ。

 荒津は、万葉集にも出て来る古い地名で、当時はこの近くに鴻臚館などの外交施設もあったから、大陸に旅立とうとする遣唐使には馴染みの場所だったことだろう。この近くに、荒津を詠んだ万葉集歌の歌碑がいくつか建っている。

 しかし、この歴史的な荒津の浜も今では、石油の貯油施設を中心とした、工場と倉庫が集積する工業地帯になっており、万葉集に歌われた当時の面影は残っていない。歩いても面白くなさそうなので、福浜から荒津山に登るコースを取ることにする。

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 荒津山は別名を荒戸山ともいうらしく、この山の反対側の地区は荒戸という地名である。山自体は、市街地の大半が埋立てという福岡市にあっては随分昔からあったようで、現在の別府や今川辺りまで「草香江」という入り江が深く入り込んでいた時代から、荒津山自身は存在していたらしい。

 江戸時代には福岡藩がここに東照宮が建てたという記録がある。東照宮を建てることは徳川家への忠誠を形で見せることになるため、各藩は競って藩内に東照宮を建てたらしい。その数は全国で500社ともいう。しかし、明治になって徳川家が衰退すると、あっという間に各地の東照宮が取り潰され、ここ福岡の東照宮も廃社になったという。政権交替というのはこういうものだろう。

 今の西公園は桜の名所として名高いが、ここに桜が植えられて公園として整備されたのは明治後半になってからのことと聞く。当初の名称は「荒津公園」で、園内に「荒津公園成立之記」という石碑が建っている。この西公園については、昨年の秋に来たときブログに書いたことがある。

 ここには「黒田如水」「黒田長政」父子を祀る「光雲神社(てるもじんじゃ)」があるほか、博多湾を一望できる展望台も備わっている。ただ、福岡市民にとっての西公園というと桜の名所というイメージが強く、現に「(財)日本さくらの会」が選んだ「さくら名所百選」にもなっている。もう暫くすれば、その見事さを堪能できるときが来るだろう。

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 上の写真は、西公園の展望台から荒津の石油備蓄タンク群を見たものである。その昔この荒津は海上交通の要所の一つでもあったため、防人が置かれていたと伝えられる。万葉集の中に収められている防人の歌の中には、この荒津を詠んだものがあるが、今日の荒津の姿を見たら、防人もビックリするだろうなぁ。

 暫く園内の散策道を歩く。ここは山の中とあって高低差があるので、運動不足解消を兼ねた散歩にはちょうどいい。犬の散歩に来た人のほか、ジョギングをする人にもたくさん会ったが、山道のジョギングは負荷がかかって、いい運動になりそうだ。

 山の中はまだ冬の様相だが、椿の花は既に落ち、梅が咲いていた。そろそろ春の兆しが感じられる頃合いだ。桜の季節ともなると、この静かな山道もこみ合うに違いない。

 今回は、前回来たときにブログでご紹介しなかった場所に行ってみようと思う。福浜の方から登ると山の反対側になってしまうが、ちょうど光雲神社参道の脇辺りに、ちょっと変わった天神様が祭られている。

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 この天神様、「立帰天満宮(たちかえりてんまんぐう)」という不思議な名前が付いている。古来より船乗りの信仰を集めている天満宮で、名前の通り、無事に帰って来られるというご利益があるという。海の近くにある天満宮としてふさわしい霊験だ。お蔭で、遠洋航海に出る漁師さんだけでなく、戦争中は出征兵士の無事な帰還を願う人たちからも篤い信仰を集めたと、案内板に解説されていた。

 狭い境内ではあるが、天神様らしく梅の木が植えられており、紅梅・白梅ともきれいに咲いていて、辺りにただよう香りが素晴らしかった。社務所は光雲神社と管理を兼ねているようで無人だったが、かえるのお守りが売られているのが見えた。なかなかユーモアがあっていい。

 最後にもう一つ立ち寄ることにする。立帰天満宮から光雲神社参道を少し下ったところにある「平野二郎国臣像」である。

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 平野国臣の話は、上に書いた乙丑の変のところでも触れた。幕末の福岡藩勤皇派の藩士である。

 実は、地下鉄空港線の唐人町駅から明治通りを少し西新方向に行ったところに「平野神社」という神社が建っている。これは平野国臣を祀った神社である。幕末の志士が神様になっている例って珍しい気がするが、この西公園にも銅像が建っているところを見ると、慕う人が多かったということだろうか。記録によると過激な言動と奇妙な格好で有名だったというが(笑)。

 ちなみに、平野国臣は福岡藩勤皇派だが、月形洗蔵らと共に桝木屋刑場で斬首されたわけではない。その前に脱藩して同行の士と共に但馬生野で倒幕のために挙兵し、捕らえられて京都の六角獄で処刑された。

 さて、雲も厚くなって来たことだし、そろそろ帰り支度を始めるか。明日から泊まりがけの出張だが、この分だと雨にたたられそうだな・・・・。

posted by OhBoy at 22:51| 日記

2011年02月26日

姪浜散歩

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 このところ3月下旬から4月初め辺りの気候になっているらしく、コートの要らない暖かい日が多い。今日も起きたら青空で気温も高め。気持ちのいい朝である。

 午前中は洗濯やら買い物やら、それなりに雑務はあったが、せっかくの散歩日和なので昼ご飯もそこそこに出掛けることにする。どうも天気は下り坂らしいので、もしかしたらこの週末に長めの散歩が出来るのは、今日だけかもしれない。そう思うと、たまには足を伸ばすかと「姪浜(めいのはま)」に出掛けることにした。

 姪浜はこのブログでも何度か紹介したことがあるが、日本書紀にも登場する「神功皇后(じんぐうこうごう)」の「三韓征伐(さんかんせいばつ)」の出発地点、あるいは凱旋場所として有名な地域だ。姪浜という名前自体、神功皇后が三韓征伐から戻った際に海水で着物が濡れたので干した場所という意味で、ずっと昔は「衵ノ浜(あこめのはま)」と呼ばれていた。「衵」というのは当時の着物の一種で、それを干した場所を衵ノ浜と言っていたが、そのうち「あこ」の部分が取れて、今の名前になったと伝えられている。

 神功皇后は、実在したと推測される最古の天皇「応神天皇(おうじんてんのう)」を生んだ皇后であり、神話と現実の境界線辺りの時代に生きた人である。姪浜はその頃から人の住んでいた地域であり、歴史は実に古い。創建年代が神代に遡る神社もいくつかあり、旧唐津街道の通る街であり、鎌倉時代には軍事・行政の中心だった探題が置かれた場所でもある。そんな歴史の重みを感じながら、旧唐津街道沿いを中心に散策してみようという趣向である。

 まず出発地点は、地下鉄空港線の「室見駅」である。室見川の東側にあり、ここから室見橋を渡って西岸に行けば姪浜地区となる。

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 橋を渡ってすぐ北側に小高い山があるが、ここが昨年秋にブログで紹介した「愛宕神社(あたごじんじゃ)」のある愛宕山である。標高は60mだが、ここからの長めはなかなか素晴らしい。でも今日は登っている暇がないのでパスする。

 愛宕神社そのものは小さなものだが、「三大愛宕神社」の一つとして有名である。しかし、愛宕神社となったのは黒田藩がこの地を統治するようになってからで、その前は「鷲尾神社(わしおじんじゃ)」と言った。当然のことながら山の名前も当時は「鷲尾山」である。鷲尾神社の歴史は神話時代に遡るくらい古く、神社の縁起では「景行天皇(けいこうてんのう)」の時代に建てられたという。

 景行天皇は完全に神話上の人物で、「熊襲(くまそ)」を制圧して九州を平定するためにこの地に遠征してきたというのが日本書紀の解説である。この人の息子が、日本神話で英雄として登場する「日本武尊(やまとたけるのみこと)」で、その日本武尊の息子が、神功皇后の夫である「仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)」という関係になる。

 さて、室見橋を渡って明治通りを暫く行くと、北に向かって伸びる道とぶつかる。この道を北に行くとショッピングモールの「マリナタウン」に出るのだが、道沿いには「早良病院(さわらびょういん)」も建っている。実はこの辺りは炭鉱だったらしい。

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 明治時代にこの付近で石炭の鉱脈が発見され、大正から昭和にかけて実際に掘られたと聞く。名前は「早良炭鉱(さわらたんこう)」と言っていたと、近くの案内板にあった。第一坑と第二坑の2つがあったようで、採掘に伴って搬出される砂利を盛った「ボタ山」が姪浜に築かれたらしい。その土はやがて海岸線の埋立てに使われたと解説されている。

 ちなみに、この写真の左側に位置する早良病院は、もともと炭鉱労働者とその家族のために大正時代に開設された病院である。

 今では何気ない住宅地である姪浜に石炭の鉱脈があるというのは驚くが、実は筑豊に行くと、町中至る所が鉱脈になっている場所がある。どこでも掘れば石炭が出るということらしい。鉱山なんていう言葉があるくらいだから、石炭も山の中にあるのかと思っていたらそういうわけでもない。今では人件費が高くなったり、鉱害問題もあったりして掘られていないが、現在も地中には石炭が眠っているのだろう。

 もうそろそろ明治通りから外れて旧唐津街道に入ろうと思うが、その前に一つ寄って行きたい場所がある。姪浜小学校脇にある「探題塚(たんだいづか)」である。

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 探題塚は、昔鎌倉幕府が九州平定のために置いた出先機関があった場所である。元々は、文永、弘安と二度にわたる元寇の戦いがあった後に設置されたもので、1282年に「北条時定(ほうじょうときさだ)」が派遣されたのが始まりだと、脇の解説板にあった。二度の元寇を経験し、幕府としては九州のこの地が軍事上かなり重要な場所だと思い知らされたということだろう。この頃は「鎮西探題(ちんぜいたんだい)」と呼ばれていた。

 後に室町幕府の時代になると、鎮西探題を踏襲するかたちで、「九州探題(きゅうしゅうたんだい)」という機関が置かれた。機能は同じようなものだが、九州を巡る情勢は最初に探題が置かれた頃とは異なっており、九州の有力者だった島津氏、大友氏などは九州探題とは対立関係にあった。

 やがて、島津氏、大友氏などが探題職を担っていた渋川氏を襲ってこれを滅ぼし、探題は事実上消滅する。今では平和な場所だが、何百年か前にはここで戦火が交えられ、鎌倉時代以来の探題が消滅したわけだ。

 しかし、鎌倉幕府が鎮西探題を置いてから九州探題が滅ぼされるまでの約百年間、福岡の軍事・行政の中心はこの姪浜だったというのは何とも興味深い。神功皇后が三韓征伐に出発し凱旋帰国した地点でもあるこの場所は、武家にとって特別の意味があったのだろうか。それとも、見晴らしの利く愛宕山があるということで軍事上の要所という認識だったのだろうか。

 さて、この辺りからは旧唐津街道が残っているので、明治通りを外れてそちらに入ろう。

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 唐津街道は、江戸時代、北九州の小倉と佐賀県の唐津を結んでいた主要街道で、姪浜は宿場町の一つとして栄えていたようだ。大名や長崎奉行も宿泊したということで、こうした要人のために専用の宿泊場所が設けられていたと聞く。

 神話時代には神功皇后凱旋の地、鎌倉から室町にかけては探題の置かれた軍事・行政の中心地、そして江戸時代は主要街道の宿場町、更に大正から昭和初期にかけては炭鉱の町と、姪浜の歴史というのはいくどもクルクルと顔を変えており、まことに面白い。

 で、現在の街道沿いの街並みだが、期待していたほどの風情はない。商店と住宅、それにマンションやら雑居ビルがランダムに並ぶ狭い道という感じで、明治通りの抜け道代わりに使われているのか、車もそれなりに通る。古い家並みがもう少し残っていて、のんびりとした味わいのある道を想像していたのだが、まことに残念だ。

 唐津街道沿いには江戸時代、茶店が並んで賑わっていたというが、歴史のある神社もいくつかある。その一つの「住吉神社」に立ち寄ってみる。

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 元々一番古くに出来た住吉神社は、今の博多駅近くにあるが、この姪浜の住吉神社も相当古い神社のようだ。奈良時代の天平年間に建てられたと伝わり、姪浜の氏神である。

 ところで、このブログに何度か登場した江戸時代の学者「亀井南冥(かめいなんめい)」は、この神社の裏手辺りで出生した姪浜出身の人である。

 亀井南冥は、福岡藩の西の藩校「甘棠館(かんとうかん)」館長であり、有名な「漢倭奴国王」の金印を世に知らしめた人物でもある。一時は郡の奉行所で鋳潰されそうになった金印を「百両で買い取るから引き渡せ」と掛け合い鑑定も行った。

 しかし南冥のその後は不遇である。江戸後期になって「寛政異学の禁」が発せられ朱子学以外の学問が禁じられた辺りから甘棠館は衰退し、やがて南冥は館長を罷免される。挙句の果てに学問所が火事となり焼失してしまったという。失意のうちに生涯を閉じた南冥が眠るのは、この生誕の地から東に数キロ行った「浄満寺(じょうまんじ)」である。

 さて、話を住吉神社に戻そう。この神社には面白い話がいくつかあるが、一つだけ紹介しておこう。河童伝説である。昨年暮れに姪浜の北西端にある「小戸大神宮(おどだいじんぐう)」に行った際、日本神話の国産み・神産みの話に出て来る「イザナギ(伊弉諾)」の禊の話をしたが、ここの河童はこの禊の話に登場する。

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 男神「イザナギ(伊弉諾)」とその妻「イザナミ(伊弉冉)」は、日本の国土や水・風などの自然を構成する多数の神を産んだが、やがてイザナミは火の神「カグツチ」を産んでやけどを負い亡くなってしまう。このときイザナミは夫のイザナギに、死んだ後の自分の姿は決して見ないでくれと頼むが、イザナギは禁を犯して黄泉の国までイザナミに逢いに行く。約束を破った夫に対して、死者となったイザナミは怒り狂い夫を追いかけるが、すんでのところでイザナギは黄泉の国を脱出し逃げ切る。黄泉のケガレを落とすためにイザナギは「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」で禊を行うのだが、その禊の場所が小戸大神宮と言い伝えられている。

 この禊の場所を探すに当たり道案内をしたのが河童だという伝説があり、それがこの住吉神社に祀られている。どうしていきなり河童なのかが分からないし、そんな話が古事記や日本書紀に出て来るとも思えないので後世の創作だろうが、その発想が何とも面白い。

 ちなみに、イザナギの禊の最中には様々な神が産まれているが、この住吉神社に祀られている「住吉三神」もそのうちの一つである。また、太陽を司る神「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」や、のちにヤマタノオロチを退治することになる「素戔男尊(スサノオノミコト)」もこのときに産まれている。ということは、この住吉神社の祭神や天照大御神よりも先に、この世に河童がいたことになる(笑)。ありえんだろ、そんなこと(爆)。

 馬鹿話はそれくらいにして、次に訪れたのは名柄川の近くにある「興徳寺(こうとくじ)」である。

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 ここは、初代鎭西探題だった北条時定が建てた臨済宗大徳寺派の禅寺である。中に入ってみると、予想外に敷地は広く、門や建物は歴史を感じさせる造りだ。森閑と静まり返っていて、外部の喧騒から隔絶された不思議な空間の趣があった。時が止まったような感覚で、暫し庭やら裏山やらを散策。博多塀が古びたいい味を出していて、本日最大の穴場だった。

 寺の開山には、鎌倉時代末期に宋より帰国した「南浦紹明(なんぽしょうみょう)」が招かれた。紹明の別名は「大応国師(だいおうこくし)」といい、ここに3年間とどまったのち、太宰府に移ったとされている。多くの弟子を輩出した高僧であったといい、最後は鎌倉の建長寺の住持となり亡くなっている。

 この大応国師には、「龍王うさぎ」という面白い逸話が残されている。

 大応国師が宋より日本に帰ろうと、雪深い山道を歩いていた際、山中で狼に追われていた白うさぎを助けたことがあった。このうさぎはその後も大応国師のそばを離れなかったので、国師はうさぎを日本に連れて帰ることにした。日本への航海中に国師の乗った船が暴風雨に遭い今にも沈みそうになったとき、突然このうさぎが海に飛び込み嵐は収まった。そして金色の竜が海から登り空のかなたに消えて行った。国師の助けた白うさぎは竜王の化身だったという話である。

 さて、興徳寺を出た後は名柄川沿いを南に下りていき、線路にぶつかったところで東に曲がり、線路沿いの道を歩く。暫く行くと「姪浜駅」に到着である。ここは地下鉄空港線の終点であり、JR筑肥線の始点でもある。相互乗り入れをしているので、地下鉄にそのまま乗っていると筑肥線に入って唐津の方まで行ける。

 この姪浜駅の南口に、先ほどの大応国師の龍王うさぎ伝説の記念碑があるので、ちょっと立ち寄ることにする。

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 なかなか立派なモニュメントだが、果たしてこの駅を利用する人の何割がこの像の意味を理解しているのだろう。下手すれば、今年はウサギ年なのでその関係で作られたモニュメントかと勘違いされてしまいそうだ(笑)。

 さて、以前にも書いたが、ここを始点とするJR筑肥線は、元々博多駅まで延びていた。最初の筑肥線は私鉄で、博多と伊万里を結んでいたようだが、これを戦前に国鉄が買い取り国鉄筑肥線となった。やがて1980年代に福岡市に地下鉄が出来た際、筑肥線と地下鉄が今のように相互乗り入れとなり、筑肥線の博多と姪浜の間の線路が廃止された。

 この古い線路が通っていた場所が、今では道路となっており残っている。姪浜駅のすぐ南を走るこの道路がそれのようだ。

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 この道路は「グリーンレールロード」と呼ばれており、今の地下鉄よりも南を走っている。グリーンレールロードは、この先で南東に折れて行き、「樋井川(ひいがわ)」の辺りまで続いているが、油山観光道路とぶつかるところで途切れ、その先は「梅光園緑道」として整備されている。

 この道路を昔国鉄の電車が走っていたことを、今この駅を利用する人のいったい何割程度が知っているのだろうか。「十年は一昔」なんていうけれど、かれこれ30年もたてばその昔話すら忘れられてしまうのだろう。

 さて、そろそろ帰ることにするか。今日は神話の時代から地下鉄の開通まで、様々に移り変わった姪浜地区の歴史を見ながらのんびりと散歩が出来た。明日も出来れば出掛けたいが、天気が持つかどうか、ちと心配だ。

posted by OhBoy at 23:30| 日記

2011年02月20日

日曜出勤

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 今日は朝から北九州市まで出掛ける。日曜なのに仕事である。従って、特にこれと言って面白い話はない。朝のうちは曇っていたが、昼過ぎからは晴れ間が覗くようになった。風はまだ冷たいが、寒いというほどではなく、まぁ冬にしては快適な部類である。週間天気予報を見ると、この先暫くはこんな調子らしい。そろそろ暖かい日も混じるようになって、春の兆しが伺える。

 さて、こういう気候になるといよいよ本格的な花粉飛来シーズンとなる。今年は寒さが厳しかったせいか、例年に比べて花粉の飛び始める時期が後ろにずれていると聞く。従って、本格シーズンはこれからということになる。今年の花粉はすごいらしい。昨年の10倍近くの量が飛散するなんて予報がある。原因は、昨年の夏が猛暑だったことにあるようだ。

 そうは言っても、私は花粉症ではない。少なくとも今年までのところは、と断りを入れなければならないが・・・。今まで花粉症でなかった人でも、ある日突然発症することがあるらしいからだ。

 我が家には花粉症患者が2人いる。女房と娘だ。毎年この時期になると花粉症対策グッズが登場するが、年々バリエーションが広がり、新製品の投入にメーカーは余念がないことが分かる。そしていずれも決定打はなし。お蔭で、例年グッズの売り上げは好調らしい。

 仮に、あるとき突然花粉症を簡単に治す薬が発明されたら、グッズを売るメーカーがパニックになること請け合いだ。今や一大産業の観があり、この売り上げが景気に及ぼす影響も、決して無視できない水準にあるのではないか。ついでに、眼科医と耳鼻咽喉科医のこの季節の診療報酬もね(笑)。

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 さて、北九州での仕事が終わって福岡に戻って来たら、まだ4時前だったので、帰り道に寄り道をして、散歩がてら海岸まで出る。すっかり晴れたので、砂浜を歩いたら気持ち良かろうと考えてのことだが、海辺まで出ると予想外に風が強い。しかも玄界灘を渡ってくる北風で、けっこう冷たかった。

 しかし、ひと頃とは違って、浜辺にはけっこう人がいる。そろそろ暖かくなり出したので、海辺に行ってみようという人が増えたのだろう。こちらは防寒着を着ているので風は強くても耐えられない寒さではない。せっかく来たのだからと、暫し散歩する。

 海は白波が立ち、海面を飛ぶカモメも風に流されている。そんな中、防波堤の先では、この前までは見掛けなかった釣り人がさおを操っている。こんな日にでも釣果はあるのだろうか。いずれにせよ、魚釣りの人がやって来だしたということは、春が近いということなのだろう。

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 ところで、私は花粉症などのアレルギーの蚊帳の外にあるかというと、実はそういうわけではない。この季節、突然喉の調子がおかしくなって、激しく咳き込むのである。そしてそれが暫く続いたかと思うとピタリと収まる。

 この症状は、この季節にだけ出るわけではない。秋から冬に向かう時期にも出る。ちょうど気温や湿度の変わり目なので、最初は風邪を引いたと思い、病院で薬を処方してもらっていたが、風邪薬を飲んでも、多少症状は和らぐが、直りはしないのである。

 何度か医者にかかっているうちに、向こうはカルテをめくって「昨年と同じですねぇ」なんて言うようになった。「毎年、春先と晩秋になるんです」と言っていたら、あるとき医者が「これは風邪ではなく、アレルギー反応じゃないですか」と言い出した。

 最新の研究によると、何かの原因物質によって引き起こされる風邪のような症状のアレルギー反応があるらしい。何かのアレルギー物質に鼻の粘膜が過敏に反応し、物質を追い出そうと試みる。それが痰となって鼻の奥から喉に伝わる。痰は微量なのだが継続的に流れ出るので、それを喉からはがそうと咳が止まらなくなる。そう言われてみれば、喉が痛いのではなく痒いのである。

 「春と秋と2回起こるということなら、原因物質はスギ花粉じゃあないですねぇ」と医者は言う。イネ科の植物の花粉が怪しいとのことだが、アレルギーテストをしてみないと分からないらしい。しかし、それが何であるのか分かったところで防ぎようがないから、今まで一度もテストをしたことがない。

 そのかわり、医者が風邪薬ではなく花粉症の薬を処方してくれるようになった。アレルギー反応を抑える効果があるので、原因物質が何であろうと効くという。確かに症状は改善した。しかし、風邪薬以上に眠気がする。アレルギー反応を弱らせるということは、「鈍感力」を高めることとイコールなのだから、まぁそういうことになるのは必然だろう。でもあまりに眠くて、これでは仕事にならん。

 花粉症の薬を飲んでみて、全国の花粉症患者がこの季節にどういう状態にあるのか、垣間見た気がした。多くの人が猛烈に眠いのである。「春眠暁を覚えず」ではないが、ヘタすりゃ爆睡路線まっしぐらになってしまう。こりゃ、けっこう危険なこともあるんじゃないかと思った。「眠気を我慢しながら運転するのと、くしゃみと目のかゆみを抱えながら運転するのと、どっちが危険だ」みたいな究極の選択ではあるまいか。

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 さて、そんな私のアレルギーであるが、どういうわけだか昨年の秋には起きなかった。福岡にはアレルギーの原因物質が自生していないのだろうかと思った。花粉症でも土地が変われば症状が出ないという人がいるので、私のケースも引っ越しにより解決したのだろうと、都合よく考えていた。それでこのアレルギーのことは暫く忘却のかなただったのであるが、ついにそれがやって来た。それも気温が上昇し始めた2月の到来と同時にである。

 早速医者に行って事情を説明したら、先方はよく心得ている様子で、せき止めと花粉症の薬をくれた。これを飲むとたちまち症状はやわらぎ、今のところは日常生活に支障はない。昼間眠いのは困ると言ったら、就寝前に1日1回飲めば効くという花粉症の薬をくれた。こういう薬が開発されたということは、猛烈な眠気で苦しんだ花粉症患者が多かったのだろう。薬の進化というのはありがたいものだ。

 スギ花粉はこれから本格的に飛ぶようだが、私のアレルギー原因物質の方は今どんな具合なのだろう。こちらは既に2月の初めから飛び始めているのだから、そろそろ終わりになっても良さそうな頃合いだ。いっそのことスギ花粉と入れ替わってくれればそれに越したことはないが、そんなこと言っていると、今度は花粉症の方も発症したりして・・・。

 何はともあれ花粉症患者の皆様、これからの本格シーズン、頑張って乗り切って下さい(笑)。

posted by OhBoy at 22:55| 日記

2011年02月19日

貝原益軒を訪ねて

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 朝起きたら、気温は低めながら太陽が覗いていて、まずまずの天気である。散歩には良い日和なのだが、今日は色々やることがある。

 朝から洗濯に買い物、ついでに散髪にも行って来た。明日は日曜出勤で北九州方面に出張なので、やるべきことは今日中に済ませておく必要がある。そんなこんなで結構忙しくて、遠出をしている時間がない。散歩に出掛けるといってもご近所をウロウロする程度だが、ふと思いついて「貝原益軒(かいばらえきけん)」の足跡でもたどろうかと考えた。

 前回、天神に行く途中で福岡藩時代の「東学問所修猷館」の跡を訪ねた話を書いた。修猷館初代館長は、あの時も書いたが「竹田定良(たけださだよし)」という福岡藩の儒学者だ。竹田家は代々儒学者の家系とも書いたが、正確に言えば、元の出は京都の公卿で、福岡に移る前は医者を家業としていた。

 福岡に移った竹田家の初代は「竹田定直(たけださだなお)」というが、福岡藩の第三代藩主「黒田光之(くろだみつゆき)」に仕え、ここで儒学者貝原益軒の弟子となる。そして朱子学を学び、代々儒学者として黒田家に仕官することになる。つまり、東学問所修猷館につながる遠い根っ子は、貝原益軒ということになる。

 その貝原益軒は、福岡の城内で福岡藩士の子として生まれたのだが、生家の場所は今の西公園の南側辺りと聞いたことがある。比較的狭いエリアなので、ぶらりと歩いてみる。

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 このエリアには学校がいくつかある。福岡教育大付属の小・中学校に九州女子高と3つの学校がひしめいている。あとは住宅とマンションの混在している居住エリアといったところか。道は狭いし、街並みも雑然としているが、ほとんど車が通らないので散歩には都合が良い。

 そんな調子でちょっと歩き回って、さてそろそろ次に向かおうかと思っていたところで、偶然「貝原益軒屋敷跡」を見つける。ガイドブックにも地図にもそんなものがあると出ていなかったから、ちょっと驚いた。その場所は今ではマンションになっていて、石碑は植え込みで半分以上隠れてしまっているので、なかなか見つけにくい。いや〜、これは絶対にどこにも紹介されていない名所だと思うなぁ。

 だが、これを見るためだけにこんなところに来る人がいるとは思えないので、おおよそ観光ルートにはなりそうもない。だいいち、よほどよく探さないと場所が分からないし・・・。

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 益軒は若い頃から博識で、やがて二代藩主「黒田忠之(くろだただゆき)」に仕えるが、ここで忠之のご不興を買って職を失う。いきなり大騒動である。原因は何か分からぬが、そもそも忠之自身が相当の問題児だったから、益軒だけが例外的に嫌われたわけではあるまい。

 今年の初めに西新にある「紅葉八幡宮」まで散歩に行った際にも書いたが、二代目藩主の黒田忠之の治世は波乱万丈の時代だった。黒田藩の初代藩主は、戦国時代の有名な軍師「黒田如水」の息子「黒田長政」であるが、その長男だった忠之は、父長政も心配する、我がままで愚鈍な問題児で、一時は忠之を廃嫡して弟に家督を譲ることまで考えたほどだった。

 その長政の心配は見事に当たり、藩主になると長政の信任厚き重臣「栗山大膳」を遠ざけ、あまつさえ殺そうと画策する。大膳は幕府に「忠之に謀反の疑いあり」と訴え出て、ついには幕府の詮議となる。結果的に疑いが晴れるが、黒田藩の所領は一旦没収された後、黒田如水・長政父子の功績を称えて再び戻された。いわゆる「黒田騒動」である。

 忠之は、重臣を遠ざけただけでなく、後妻として娶った坪坂氏も遠ざけ、家老の元に預けてしまう。そして、この坪坂氏が三代目藩主「黒田光之(くろだみつゆき)」を生んだ。忠之の死後、光之が藩主になると、益軒の父の仲介で、ようやく益軒は浪人の身を脱し、光之に仕えるようになる。

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 光之は文治を好み、貝原益軒は藩の金で京都に学問を学びに行くことになる。益軒は10年の間京都で様々な分野の学者と交流を重ね、朱子学だけでなく博物学、数学なども学んだ。元々読書家で、幼い頃から博識で名を馳せた益軒のことだから、興味の赴くまま吸収できるだけのものを吸収したのだろう。

 益軒は、机上の知識だけでなく、現地に出向いて自分の目で見て確かめるという実証主義的な姿勢を重んじたと言われ、同時に数学を重視し、天文などにも興味を持っていたと伝えられる。文字通り、知の鉄人だったのだろう。

 やがて京都から福岡に戻って後は、光之の命により「黒田家譜」を編纂し、ついで実証主義的姿勢で藩内をくまなく歩き回り「筑前国続風土記」を書き上げた。昨年9月に方生会の筥崎宮へ行った際、「濡れぎぬを着せる」の語源と言われる「濡衣塚(ぬれぎぬづか)」に立ち寄ったが、この話を発掘したのは貝原益軒で、筑前国続風土記に話が収められている。

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 貝原益軒というと、昔日本史の教科書に江戸時代の儒学者として出て来て「養生訓(ようじょうくん)」を書いたと解説されていたと思う。貝原益軒とくれば養生訓、穴埋め問題はこれで充分だったはずだ(笑)。しかしこの養生訓、いったい何が書いてあるのだろうか。

 益軒が養生訓を書いたのは83歳と言われているが、この本は、百冊以上とも言われる益軒の著作の中でベストセラー(笑)になった一冊である。ちなみに、今でもいくつかの出版社から発刊されていて、本屋で買える(!)。何だかちょっと笑ってしまうなぁ。

 で、この本、如何にも売れそうな内容だ。ずばり、長生きの秘訣と、人生を楽しむ処世術が書かれている。今で言う人生の指南書みたいなものだ。いや〜江戸時代でもこういう本が人気を博したんだなぁ。83歳の高名な学者が書いたとなれば確かにありがたいだろう。

 まぁそんな長生きの益軒だったが、養生訓を完成させてまもなく荒津の自宅で亡くなる。荒津は今の福岡市西公園辺りの地名だが、おそらく屋敷跡の碑があった場所で亡くなったのだろう。墓は、唐人町と西新の中間辺りにある「金龍寺(きんりゅうじ)」にある。せっかくだから、こちらにも足を運ぼう。

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 金龍寺は、先ほどの屋敷跡から地下鉄で2駅分西にある。明治通りに面した立派な敷地なのだが、あいにく工事中で、入り口から本堂まで鉄板が敷いてあり、工事車両を誘導する警備員が立っている。何とも雑然とした感じが残念だったが、せっかく来たのだから、益軒の墓をひと目見てから帰ることにする。

 金龍寺は曹洞宗の禅寺で、元は、更に西の糸島半島にあったが、この地に移したのは、益軒を罷免した二代目藩主黒田忠之である。寺院内には、貝原益軒の像とともに、益軒・東軒夫妻が眠る墓がある。

 益軒の像は冒頭に掲げた写真のものであるが、墓の方は、夫婦で一基ずつ並んで建っている。その脇には貝原家歴代の墓があるが、今でも系譜としてはつながっているのだろうか。

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 日本史の教科書にも出て来る貝原益軒だが、この福岡で活躍した学者だと知っている人は、地元でどれくらいいるのだろうか。江戸時代に活躍した儒学者なんて聞くと、江戸か京都の人と思いがちだが、どっこい福岡にも有名な学者がいるんだよ。

 さて、そろそろ家に帰ろう。明日は朝から電車に乗って北九州に出張だ。遅くならないうちに帰って来る予定なので、天気が良ければちょっとは散歩したいものだ。

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2011年02月13日

ようやく天候回復

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 朝起きたら薄日が差していた。どうやら、吹雪は去ったらしい。昨夜は、夕方辺りから雷がゴロゴロと轟いたかと思うと、横なぐりのあられやみぞれが降って大荒れだった。

 冬に鳴る雷のことを、私の故郷では「雪起こし」と呼んでいた。発達した雪雲から鳴っているわけで、夏の夕立と同じく、その後には猛烈な雪が降る。たいてい雪起こしの雷は夜に鳴り、夜通し雪が降って朝起きたら一面の銀世界というのが、雪国の定番である。昨夕の雪起こしの雷については、そういう意味で心配していたのだが、どうやら福岡市内では積雪はないまま、悪天候は峠を越えたらしい。

 天気も回復したことだし早速散歩でもと考えたが、今日は天神まで行かなければならない用事がある。この3連休中に行かなければならなかったが、悪天候ゆえ日延べし続けていたのだ。さすがに3日間あれば、1日くらいは雨や雪の止む日があるだろうと考えていた。だが最悪の場合、最終日まで待っても天気が回復しないこともあり得て、そのときは雪や雨の中出掛けるしかなかったったことになる。そういう意味では、待つことは一種の賭けだったが、結果的に待って良かったわけだ。

 午後から散歩も兼ねて出掛ける。天神までは何駅分も距離があるので地下鉄で行くのが常道だろうが、昨日、一昨日と雨や雪にたたられてろくに歩いていないため、あえて歩いていくことにした。天神までの道すがらはあまりたいした趣向もないが、「明治通り」「昭和通り」沿いの名所旧跡を訪ねながら天神を目指す。といっても、福岡市民には馴染みのものばかりだが・・・。

 まず最初は「黒門」からスタートすることとする。といっても既に門は残っていない。今では地名として「黒門橋」と「黒門川」が残るのみである。江戸時代に、ここに黒門という門があったのが名前の由来であるが、それを感じさせるのはこの黒門飴の店「板谷商店」くらいか(笑)。

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 現在南北に通る「黒門川通り」は、地下を黒門川が流れている。黒門川は大濠公園と福岡湾を結ぶ短い川だが、元々大濠公園自体が入り江だったので、川は城を建設する過程で人工的に作られたということだろう。

 板谷商店の前を通る細い道を東に進む。このありふれた市街地の道は、実は「旧唐津街道」である。江戸時代には、この道沿いに町が発展した。今では並行して通る昭和通りが主要幹線なのですっかり街中に埋没しているが、こちらが本家本元の街道だ。

 旧唐津街道は福岡市中心部では寸断されていて、暫く行くと行き止まりとなる。仕方ないので右手に折れ、地下鉄空港線大濠公園駅のある荒戸の交差点まで南下し、ここから明治通りに入る。明治通りはお堀端を通る比較的大きな幹線である。この道がいいのは、歩道の脇にお堀端を通る遊歩道が併設されていることだ。ここは珍しく土の道である。

 暫く水鳥など見ながらお堀端を歩いたあと、明治通りの反対側に横断する。そのまま平和台辺りまで行くと道路の北側にあるのが福岡藩の藩校「東学問所修猷館(ひがしがくもんじょしゅうゆうかん)」の跡である。

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 福岡藩には東西二つの藩校があった。こういう形態は珍しいらしい。西の学問所は、以前に何度かこのブログでもご紹介した「甘棠館(かんとうかん)」である。これは現在の唐人町に跡が残っている。

 東西の藩校のうち、東学問所の修猷館は藩士の師弟が多く通ったといわれ、正統派的な位置付けだったと聞く。一方、西学問所の甘棠館は、「亀井南冥(かめいなんめい)」が館長を務め、自由な校風で商人の師弟が多く集まったらしい。何だか、東京大学と京都大学の関係に似ているなぁ。

 亀井南冥は、有名な「漢委奴国王」の金印の価値を見抜いて、鋳潰されそうになっていたところを買い取り鑑定したので有名だが、寛政2年に幕府が「寛政異学の禁」を発すると甘棠館は衰退し、2度にわたる火災で焼失する。何とも不幸な最期だ。

 一方、廃藩置県で廃校になるまで栄えた東学問所修猷館は、初代館長を「竹田定良(たけださだよし)」が務めた。代々儒学者の家系で名門らしいが、亀井南冥に比べるとどうも精彩を欠く気がする。金印の鑑定は武田定良もしたらしいが、やはり亀井南冥の方が有名だからなぁ。

 さて、そろそろ修猷館跡から次の目的地に向かおう。明治通りを東に進み、赤坂の交差点で、南北に走る「大正通り」に折れ、少し北に進む。今度は「黒田家別邸跡」である。これは大きな駐車場の脇にあって、なかなか探しにくいスポットだ。

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 敷地3千坪といわれたこの別邸が建てられたのは明治期になってからだが、建設に至るまでの経緯は何ともビックリするような話だ。

 黒田家最後の藩主だった「黒田長知(くろだながとも)」は、幕末の薩長対立の頃から長州寄りの人で、明治政府からの受けは悪くなかったらしい。明治2年の版籍奉還により藩主でなくなったが、多くの藩主がそうであったように、そのまま知藩事となった。

 ところが、明治4年になって驚くべき事件が発覚する。財政窮乏にあえぐ黒田藩は、藩を挙げて太政官札の偽造を行っていたのである。これがばれて長知は知藩事を免職され、後任には有栖川宮熾仁親王が就任した。かくして黒田家は事実上の改易処分を受け、福岡での地位を失う。

 福岡での居場所をなくした黒田家は東京に移り住むが、福岡城にある先祖代々の家宝や古文書などを引き取り、合わせて福岡来訪時の居所とするため、旧濱町に別邸を建設した。その建物のあった場所が、この別邸跡である。

 大正初期に完成した別邸には、福岡城から搦手門、武具櫓、潮見櫓を移築し、家宝・古文書も引き取ったが、昭和20年の福岡大空襲で一部を残して全て焼失したと伝えられる。まことにもったいない話だ。

 次に向かうは通称「飯田屋敷の大銀杏」である。これはなかなか立派な大木で、思わず立ち止まって見上げてしまうような迫力がある。

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 屋敷の主である飯田覚兵衛こと「飯田直景(いいだなおかげ)」は、もともと肥後国主「加藤清正(かとうきよまさ)」の重臣で加藤家三傑と称された槍の名手だったが、清正の死後、福岡藩主「黒田長政」に迎えられ黒田藩の家臣となった。

 飯田覚兵衛は、幼馴染でもあった加藤清正を敬愛しており、自分の屋敷の庭に、加藤清正の居城だった熊本城からイチョウの苗木を移植した。それが代々受け継がれ約400年間生き延びているわけである。現在では福岡市指定の保存樹となっている。

 しかし、木の前に掲げられた掲示板を見ると、樹齢400年の老木は相当傷んでいるようで、大枝のほとんどは枯れてしまっていると書かれている。それでも何とか生き延びさせようと、樹勢回復のための手入れをしているらしい。福岡の今昔を見てきた時代の生き証人だけに、何とか枯れずに持ちこたえて欲しいものだ。

 そろそろ天神も近くなって来た。最後に「母里太兵衛下屋敷跡」に寄って、ゴールとしよう。

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 母里太兵衛こと「母里友信(もりとものぶ)」のことは、このブログに何度か書いたことがある。有名な「黒田節」の主人公である。

 母里友信は、黒田家家臣で黒田如水・長政親子に仕えた。槍の名手にして、黒田軍きっての勇猛果敢な武将として名高い。「黒田二十四騎」の中でも精鋭中の精鋭とされる「黒田八虎」の一人である。

 ある年の正月、飲兵衛で有名な「福島正則」の屋敷に長政の名代として挨拶に行った友信は、正則より酒を強要され、いったんは固辞するものの「飲み干せば何でも褒美を取らす」と強く勧められたため、やむを得ず大杯を飲み干す。慌てたのは正則だが、あとの祭り。槍の名人だった友信は、福島正則が大切にしていた名槍「日本号」を所望し、正則は泣く泣く手放すことになった。有名な黒田節の背景となった話である。

 日本号という槍は、元は皇室所有物だったが室町幕府15代将軍「足利義昭」に下賜され、「織田信長」「豊臣秀吉」「福島正則」と伝えられた。これを黒田藩に持ち帰ったのだから、母里友信は大殊勲だったろう。今では福岡市立博物館に「漢委奴国王」の金印とともに展示されている。

 さて、あっという間に天神に着いた。この調子なら、帰りも歩いて帰れそうだ。何と言っても3日分歩かなきゃならないからなぁ・・・。

 明日からは大阪出張だ。天気の方はどうだろうかなぁ。

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2011年02月12日

風の音にぞおどろかれぬる

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 今朝は風の音で目が覚めた。戸外で電線が風にビュービューと鳴る音がする。幸い雨は止んだようで、空の端にはわずかながら青空も覗いている。

 私は朝、窓を開けて空気の入れ替えをすることにしているのだが、今日は1分とたたぬうちに家中の空気が入れ替わった。窓を開けたとたん、突風のような勢いで風が吹き抜けたかと思うと、テーブルのうえに置いていた小物が吹き飛んだ。いやはやすごい風である。

 朝から洗濯することにしていたのだが、とても外に干せる状況ではないと考え、乾燥機を使う。日ごろあまり乾燥機を使わず、ベランダに干すようにしているが、こういう天気の日には乾燥機は重宝する。引っ越してきてすぐに、風の強い日に洗濯物を外に干してタオルが吹き飛んだ苦い経験があるので、無理をしないことにしているのだ。

 そうこうしているうちに、空が一転にわかに掻き曇り、あっという間に雪が降り始めた。しかも風が強いのでまるで吹雪だ。乾燥機を使うという選択は結果において大正解だったわけだ。

 午後になっても雪は降り止まず、まるで雪国のような空模様となる。でも舞うだけだから積もらない。これがボタン雪に変わってしんしんと降り出すと厄介だが、そこまではいかないだろう。だがいずれにせよ、散歩に出掛けている場合じゃなくて、篭城を覚悟する。

 こういう日には読書が一番と、読み始めたばかりの桜庭一樹の「赤朽葉家の伝説」を手に取り、ソファにゴロリと横になる。コーヒーを淹れ、今朝方女房と娘から届いたバレンタインデーのチョコをつまみ、ページを繰る。

 実に不思議な小説だ。製鉄業で財を成した山陰地方の旧家赤朽葉家を巡る三代にわたる物語なのだが、どこかおとぎ話みたいなエピソードがあり、何とも不思議な家族模様があり、青春のロマンスがあり、どんどんと読み進んでしまう。

 実はこの本、第60回の日本推理作家協会賞を受賞している。ということは推理小説のはずだがと思いながらページを繰るのだが、いつまでたっても推理小説の「す」の字も出てこない。いったいどうなっているんだと首をひねりながらも、おもしろいので先へ先へと進む。そしてついに、終わりかけの頃にトンッと推理小説の扉が開かれる。そこから、過去まで遡る推理が始まる。実に見事だし、こんな推理小説、見たことがない。

 本格的な推理小説ファンでなくとも充分楽しめる一冊である。

 さて、ろくな散歩もしないまま三連休の前二日が過ぎたが、明日はいったいどうなるのだろう。天気予報では、またもや雪マークだが・・・。

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2011年02月11日

またもや荒れ模様の三連休

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 1月に引き続き三連休がやってきた。1月8-10日の三連休は天気が悪く、あいにくの休日だった。そして天気予報によれば、今回の三連休もまた、あいにくの空模様らしい。雪、しかも暴風雪になるかもしれない、なんていう地区もある。どうして三連休となるとこうも天気が悪いんだろう。

 本日の福岡の天気は、朝から雨。雪にならなかっただけましと思うしかないだろう。でも山の方は雪になっているのかもしれない。京阪神では朝から雪が降っているようなので、こちらもそのうち雪になる可能性がある。まぁ日本海側なので、冬の天気はこんなもんだろう。

 当初の予定では、本日は朝から外出することになっていた。しかも久留米の先まで行ってたっぷり歩くという計画だった。面白い企画だったので楽しみにしていたのだが、悪天候ゆえ中止ということに相成った。まことに残念な話である。

 計画では「城島酒蔵びらき」というイベントに参加する予定だった。城島というのは、久留米と柳川の中間辺りにある町で、酒どころである。この時期、周辺の9つの酒蔵が共同で、新酒のお披露目を兼ねたイベントをやる。今年で17回目になるらしいが、毎年かなりの賑わいで、周辺から大勢の人が集まると聞く。

 この時期、城島に限らず酒蔵開きというのが北九州各地で行われる。たいていは酒蔵ごとに行っていて、内部を見学させてくれて新酒の試飲なんぞをさせてくれるという催しだ。酒蔵の中を覗くというのはめったにない機会なので、飲兵衛はこまめにチェックし、休みの日にあちこち訪ね歩いているなんて話を聞く。

 城島酒蔵びらきの場合は、周辺の酒蔵が協力して、町全体のお祭りとして行われているところが他とは違っている。各酒蔵が見学者を受け入れ新酒の試飲をさせるだけでなく、町の中にイベント広場を設け、地域の特産品の販売会や和太鼓の演奏なども行われるらしい。最寄の駅からシャトルバスも出るようで、なかなか大規模な催し物だと聞いた。

 実を言うと私は酒を飲まない。だから酒蔵びらきそのものにはあまり参加意欲が湧かない。にもかかわらずお誘いがかかったのは、ウォーキング目的で参加する人々がいたからだ。

 城島の酒蔵は町内にほどよく散らばっていて、駅から歩き始めてグルリと回ると10kmほどの手軽なウォーキングになるらしい。それぞれの酒蔵を覗きながら、川沿いの田舎道をのんびり歩くという趣向である。沿道沿いは色々イベントやったり出店が出たりしているので、時々そんなものも覗き、食事も地元のおいしい料理屋があるので案内しますよ、なんて言われた。これはなかなか魅力的なお誘いだなと思って、ウォーキング組に乗ったのである。

 だが、そこに降って湧いたような天気予報。久留米地方の天気は雪。しかも昨夜の予報では暴風雪と出ていた。10kmも悪天候の中を歩いて風邪でも引いたら、誰も同情してくれないだろうという話になり、昨夜のうちにウォーキング組は参加断念。しかし、飲兵衛組は「酒蔵で酒飲むだけなら雪でも大丈夫」とか言って参加を決行する様子。あぁ酒飲みってヤツは・・・。

 まぁ三連休明けの報告を楽しみにしよう。あんがい天気は持って、ウォーキングも出来たんだったりすると、おおいに悔しい話だが・・・。「暴風雪で死ぬかと思いました」なんて報告が来たら、「やっぱり止めたのは正解だった」と、安堵の溜息をつきそうだ(笑)。


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2011年02月06日

崇福寺と九州大学

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 今日も昨日に引き続き、おだやかな日和で散歩には申し分ない天候だ。雲は多めながら、雨の心配はないらしい。せっかくの天気だからと、少々足を伸ばして、福岡の東区辺りまで出掛ける。

 東区というエリアは、福岡市の中心部である天神やJR博多駅からは北に位置する。じゃあ天神やJR博多駅の南側は西区かというとそういうわけではなく、こちらは南区という。どうもこの辺りが位置関係をつかみにくい要因だ。

 私の場合、東区に足を伸ばす機会がなかなかない。ここには福岡県庁や九州大学病院、筥崎宮など、それなりに重要な施設があるのだが、どうも最近はご無沙汰である。最初に福岡に来た頃、探検方々、方生会の筥崎宮に行ったついでに、東公園、濡衣塚と回ったことがあるが、もしかしたらそれ以来かな・・・。

 本日のスタート地点は地下鉄箱崎線「千代県庁口駅」である。そうそう、東区は箱崎線沿線なので、それもなかなか来ない原因なのだ。どこかに行くついでに寄るということがない。箱崎線は終点の貝塚駅で西鉄貝塚線に接続していて、そのまま進むと香椎方面に行くので、住まいがそちら側だったら、もっと頻繁にこの辺りに散策に来ているのかもしれない。

 さて、本日の第一目的地は「崇福寺(そうふくじ)」である。

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 まず山門が立派だ。これは、旧福岡城本丸表御門を移築したもので、福岡県指定の有形文化財になっている。そんな門が何故この寺にあるかというと、ここが福岡藩主だった黒田家の菩提寺だからだ。

 ところで余談だが、この写真の左手に見える家は一般の民家ではなく、参拝客のために線香や蝋燭を売る店なのだが、ここに絵馬が売っている。寺に絵馬というのは妙な組合せだが、これは敷地内にある「旭地蔵尊(あさひじぞうそん)」というお地蔵様に願掛けするための絵馬なのである。

 実は、福岡の人々に親しまれているのは、黒田家菩提寺である崇福寺ではなく、この旭地蔵尊だと聞いたことがある。縁日には大変な賑わいだそうで、願い事をする人が耐えないという。

 で、この絵馬なのだが、私はこんな絵馬初めて見た。さすがに買うわけでもないのに店頭で写真を撮るのも悪いから具体的にお見せは出来ないが、願い事をする人ごとに祈る姿が描かれた絵馬なのだ。男の子が祈っている絵柄もあれば女の子のもある。お兄さんもお姉さんも、おじさんもおばさんもある。そのうえ、その絵というのが昭和30年代の子供向け絵本みたいなヘタウマ絵で、私なりにものすごいインパクトがあった。行く機会があったら、是非見て欲しい。一見の価値ありだ。

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 お寺の中に歴代の黒田藩主の墓があるのだが、このエリアは残念ながら立ち入り禁止になっている。何故かはよく分からないが、案内板まであって、特別に「藤水門」なんて門まであって、福岡市指定史跡なんて解説版まであって、それで立ち入り禁止である。まるでわけが分からんが、門の脇から覗くことが出来るので、撮影したのが上の写真である。

 普通、旧藩主というのは地元で慕われているもので、歴代藩主の墓というのは参拝の対象になりやすいものだ。黒田家といえば、軍師として名高い「黒田如水(黒田官兵衛)」をはじめとして歴史に名を残す名家なのに、何か閉鎖しなければならないいわれでもあるのだろうか。

 せっかく黒田如水の墓を見ようと思って来たのに残念だ。何故私が黒田如水の墓を見たかったかというと、黒田如水は「ドン・シメオン」という洗礼名を持つキリシタンだからだ。キリスト教徒が禅寺に祀られているというのも妙な話だが、キリシタンだとどんな墓なのか興味がある。息子の初代藩主長政とは墓石の形状が違うのか、十字架の一つでも刻んであるのか、そんな辺りを観察したかったのである。

 ちなみに、ここには黒田如水・長政親子をはじめ歴代藩主の墓があるが、2代藩主忠之、3代藩主光之、8代藩主治高の墓は、ここではなく祇園の東長寺にある。これまた不思議な話だ。

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 ところで、このお寺は元からこの場所にあったわけではない。最初に崇福寺が建てられたのは1240年のことで、場所は太宰府だった。創建したのは禅僧の「湛慧(たんえ)」だが、開堂は湛慧の依頼で、鎌倉時代に「聖一国師(しょういちこくし)」の名で親しまれた臨済宗の僧「円爾(えんに)」が行った。円爾は宋から帰国後、博多で「承天寺(じょうてんじ)」を開山し、上洛して「東福寺(とうふくじ)」を開いた。

 承天寺は前に訪ねたことがあり、敷地内にある「饂飩・蕎麦発祥之地(うどん・そばはっしょうのち)」や「御饅頭所(おまんじゅうどころ)」を紹介した。聖一国師は宋で製粉に関する技術を学び、羊羹の前身となった「羹」や、饅頭の元になった「饅」、またうどんやそばの原点である「麺」を日本に伝えたことでも有名だ。

 さて、太宰府に創建された崇福寺だが、その後、戦国時代に九州統一を目指す島津氏の軍勢が、対立する大友氏の家臣「高橋紹運(たかはししょううん)」の岩屋城を攻撃した際に焼け落ちてしまった。

 やがて豊臣秀吉によって九州が平定され、福岡藩初代藩主となった黒田長政が入城した際、京都の大徳寺住持だった「春屋宗園(しゅんおくそうえん)」が崇福寺再興を依頼し、現在の場所に寺が移された。大宰府は遠くて不便だというのが、この地に再興された理由らしい。その後は黒田氏の菩提寺として庇護を受けることになる。

 ところで、冒頭にも触れたが、この黒田家菩提寺の敷地内に地蔵尊がある。それが「旭地蔵尊(あさひじぞうそん)」である。

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 地蔵尊というがなかなか立派で、これだけで一つのお寺くらいある。そして傍らには延々と続く無数の小さな仏像が・・・。何やら独特の雰囲気がある場所だ。しかも山門入ってすぐ左手に大きな面積を取っており、駐車場もついていて、人がたくさん参拝している。これにはちょっと驚いた。何と言っても、参堂にこの地蔵尊用の絵馬を売る店が二軒もあるのだから、人気のほどが分かろうというものだ。

 黒田長政によって移された崇福寺の中に、どうしてこんな立派な地蔵尊なんかが出来たかだが、これがなかなか面白い。もともと、太宰府において崇福寺と旭地蔵尊はセットだったのである。

 旭地蔵尊に祀られているのはもちろんお地蔵様だが、このお地蔵様のいわれは、崇福寺を創建した禅僧の湛慧の亡くなった場所に菩提を弔うために建てられたものだ。しかも、湛慧が亡くなったのは、太宰府の山の中に掘られた横穴の中だったらしい。

 湛慧は横穴の中で読経にふける晩年を過ごしていたようで、ある日の朝、読経の声が途絶えたのに気付いた村人が見に行くと、座ったまま息絶えていたという。その菩提を弔って建てられたのがこのお地蔵様で、「旭」は湛慧の亡くなったのが夜明けだったから付いた名前のようだ。

 自分が亡くなった後供養してくれた者の願いをかなえてやるという遺言を湛慧が残していたものだから、この地蔵尊を拝めば願い事がかなえられるというので人気があり、お百度参りのメッカとも聞いた。お百度参りなんていうから、昭和の時代にそんな風習があったのだろうと勝手に思っていたが、行ってみると実際に裸足でお百度を踏んでいる人が複数いて、ビックリした。今でもやっているんですね。

 さて、黒田家墓所は立ち入り禁止で見られなかったが、ここにはもう一つ有名な墓所がある。それが「玄洋社墓地」だ。

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 「玄洋社(げんようしゃ)」のことは 今年の初めに福岡城址から赤坂にかけて散歩した際に書いた。旧士族のよる自由民権運動を受け継いだ政治団体で、欧米列強の侵略主義的な動きを強く意識して、天皇を中心とした強兵国家を築き、アジア各国の独立を支援すべきという立場に立っていた。それゆえ、後に続く右翼運動の源流とされている。

 玄洋社は「頭山満(とうやまみつる)」ら旧福岡藩士によって福岡市内に作られたが、やがて軍部や政財界に強い影響力を持つようになり、日清戦争から第二次世界大戦まで日本の対外戦略に深く関わったと言われている。故に戦後、GHQはその存在を問題視し、狂気的な集団として強制的に解散させた。

 玄洋社墓地には、総帥の頭山満のほか、大隈重信爆殺未遂事件を起こした「来島恒喜(くるしまつねき)」ら玄洋社の錚々たる社員の墓が並ぶ。こんなところをうろついていたら、右翼と間違えられそうだが、この墓地にはけっこうすごい人も参拝に来たことがある。清朝が倒れた後中華民国の臨時大総統に就任した「孫文(そんぶん)」である。

 孫文は中国清朝末期の政治家で、清朝を倒し共和制国家を築くこととなった「辛亥革命(しんがいかくめい)」を指導したが、親日家で何度か来日している。また、清朝の軍閥「袁世凱(えんせいがい)」に追われた際には一旦日本に亡命をしている。玄洋社や筑豊地方の炭鉱経営者たちが孫文を経済的に支援したと伝えられ、孫文も恩義に感じていたらしい。

 辛亥革命の後に中華民国臨時大総統に就任すると、来日時に福岡にも立ち寄り、崇福寺を訪れ玄洋社員の墓参りを行った。孫文といえば、現在の中華人民共和国においても近代革命の先人として称えられている人物だが、そんな革命家を右翼の源流と言われる玄洋社が支援していたというのはなかなか興味深い話だ。

 さて、崇福寺には他に「名島城(なじまじょう)」から移築した「唐門(からもん)」もあるが、これをちらりと見て九州大学構内へ向かうこととしよう。

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 「名島城って何だ?」ということになるが、これは黒田家が福岡に入る前にこの地を治めていた小早川家の城で、ここから更に北に行った海辺にあった。小早川は、福岡が海に面した土地だったゆえ水軍を重視した守りを念頭に、海に突き出る形で城を築いたが、新たに入城した黒田長政は城下町の形成を重視して、城を内陸に置くことにした。

 長政は福岡城築城のため名島城を解体し、石垣もろとも今の福岡城の建材に使った。お蔭で名島城は何も残っておらず、わずかにこの唐門と、福岡城址に残る「名島門」に面影を留めるだけである。

 さて、見るべきものを見たので、崇福寺を出て前の道を北東に進む。今度はお隣の九州大学を訪ねようという趣向だ。

 崇福寺や九州大学のある通りは片側一車線の狭い道なのだが、由緒は正しく、これが旧唐津街道である。今では、下を地下鉄が通る立派な幹線道路が平行して走っているが、昔はここを大名行列が通ったわけだ。

 以前何度か書いたと思うが、九州大学は元々いくつかのキャンパスに分かれた分散体制になっていたため、これを福岡市の西にある糸島半島の「伊都(いと)キャンパス」に集約すべく、2005年から移転が行われている。但し、大学病院と医学部・薬学部・歯学部のある「馬出(まいだし)キャンパス」については、市民の便宜を考慮してこの地に残すことになっている。

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 馬出キャンパスは元々福岡県立病院のあった場所で、九州に帝国大学を作ることになった際、熊本や長崎と争った挙句に、福岡県立病院を母体に作ることに落ち着いたという経緯がある。従って、いくつかある九州大学キャンパスの中でもここが一番古く、いわば九州大学発祥の地ということになる。

 ナンバースクールとしての旧制高校があったのは熊本で、当時の九州の中心は熊本だったはずだ。また、江戸時代からの伝統で医学の盛んだったのは長崎である。両方とも、帝国大学を置くのにふさわしい場所だと思うが、よく福岡が射止めたなと感心する。

 何はともあれ、最初にこの馬出キャンパスに設立されたのは、九州帝国大学ではなく、京都帝国大学の分校である。理由は建設資金が足りなかったからとも聞く(笑)。誘致しておいて何だという話だ。

 福岡医科大学としてスタートした九州帝国大学の母体は、やがて古河財閥からの援助を得られることになり、福岡県も後押しする形で、ようやく九州帝国大学が設立された。九州帝国大学設立が議会で可決されてから10年後のことである。

 ところで、キャンパスの名前になっている「馬出」というのは、元々城などの防御施設に設けられた馬の出入り口だが、ここがどうしてこんな地名なのかはよく分からない。一説には、豊臣秀吉の九州征伐の際にこの地区に陣が作られ、軍馬を置いていたからだなんて言われるが、詳細は定かではない。

 さて、九州大学に立ち寄ったのは、この構内に見所があるからで、それは豊臣秀吉ゆかりの場所である。それがこれだ。

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 これは「利休釜掛の松」と呼ばれており、ここで利休がお茶会を開いたとされている。

 記録によると、当時の九州の実力者島津氏を討伐し九州を平定した豊臣秀吉は、帰り際に福岡の筥崎宮に滞在し博多の豪商「神屋宗湛(かみやそうたん)」と親交を深めている。宗湛は織田信長と知己を通じており、秀吉とも親しかった。また当時九州を我が物にしようと北進していた島津氏とは対立関係にあったから、秀吉の九州征伐時には経済面も含めて秀吉軍を支援した。純粋な商人というより政商だったわけだ。

 このとき宗湛は焦土と化した博多の町を秀吉に見せ、復興を願い出る。これが元になり博多の商人町の復興が始まった。このときの縦横に街路を張り巡らせた区画整理が「太閤町割り」と呼ばれるものである。

 さて、筥崎宮に滞在していた秀吉は、宗湛らを呼んで「千代の松原」と呼ばれた海岸沿いの松林で茶会を開いた。このとき茶をたてたのは、秀吉に同行していた千利休である。その場所が今、九州大学構内に残っているというわけだ。つまりここは当時、白砂青松の海岸だったことになる。

 釜掛松の由来というのは、千利休が千代の松原の松に鎖を掛けて雲龍の小釜を吊るし、白砂の上に散らばる松葉をかきあつめて湯を沸かしたことにある。いわゆる「野点(のだて)」であるが、湯を沸かすのに松葉を燃やした際、煙となって立ち上る芳香が茶会に風情を添えたということで千利休が感じ入り、秀吉が滞在していた筥崎宮に燈籠を寄進している。茶史に残る有名な野点だったらしい。

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 ところで、この利休釜掛の松だが、興味を覚えて行ってみようと思われる方にあらかじめ申し上げておく。九州大学キャンパス内は大学病院があって一般人の出入りは自由で、かつ構内の各所に丁寧な地図が掲げてあるが、利休釜掛の松の案内は一切ない(!)。従って、具体的な場所は自分で探すしかない。あらかじめおおまかな場所の見当をつけてから出掛けることをお勧めする。

 準備もなくいきなり行って広いキャンパス内をウロウロするのは大変だ。私のような散歩好きならそれもまた楽しいが、これだけを目当てに来たとしたら浮かばれない。

 さて、今日は見所も多かったし、久し振りに散歩らしい散歩をした気がするなぁ。来週の週末もこんな天気ならいいのだが・・・。冬の日本海側は天候が定まらないからなぁ。何はともあれ、今日はいい散歩であった。

posted by OhBoy at 23:15| 日記

2011年02月05日

立春の海にて

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 朝起きると曇り空で、天気予報とは違うなぁと思いつつ、それでも昼前には太陽が出て来て、おだやかな日和になった。2月に入ってから福岡も寒さが緩み、風も収まって外出しても身を縮ませることがない。こんな日は散歩にはもってこいだが、おっとどっこい、今日は色々な用事がたんまり溜まっている。先週、先々週と、2週連続で週末は東京にいたものだから、その間サボっていたり、先延ばししていたものが、ドッと降りかかって来たわけだ。

 お仲間の単身者の方々に聞くと、週末に帰京すると洗濯や掃除をする時間がなくなり、平日の生活に支障をきたすなんて悩みをよく耳にする。私はあまり帰京する方じゃないから実感が湧かなかったが、今回立て続けに週末を留守にしてみると、なるほどなぁと思う。

 タイマーのボタン電池が切れていたり、洗濯用の洗剤が底を尽きかけていたりして、買いに行かなきゃなと思いつつ、この2週間ほどはこちらにいなかったので、そのままにしていた。単身生活の週末というと、こうしたちょっとしたものを買いに行くことが多い。スーパーやコンビニでは買えないものというのは意外に多く、それがまとめてではなく、ちょこちょこと必要になる。そのたびに買いに行っていると、ほぼ毎週末出動することになりかねない。平日の昼間が使えないというのは、けっこう痛いんだよなぁ。

 そんなわけで、今日は朝から洗濯と掃除にいそしみ、午後からは色々溜まっていた買い物リストを持ってあちこち訪ね歩いた。まぁ散歩も兼ねていたわけだが・・・。

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 外を歩くと、ポカポカ陽気とはいかないが、1月には考えられなかった穏やかな日和だ。気持ちが良かったので、そのまま足を伸ばして海岸まで出てみた。ついこの前までは、海を見に行こうなんて思いもしなかった。あの寒波襲来の中、海辺に出るなんぞ、あまりに無謀というものだろう。

 冬だというのに、遠景にはうっすらと煙のようなもやがかかっている。そう言えば、今朝も薄もやの中を太陽が昇っていたっけ。気温が高いのでこういう空気の状態になるのだろう。

 たいてい冬の空は空気が澄んでいて遠くまでくっきりと見える。東京でも、冬だと都内から富士山が見える。空気が透明なせいだ。遠景がこんな風にぼけて見えるのは、春が近づきつつある兆しだと思って、喜ぶべきだろう。何と言っても、もう立春だ。

 ただ、気温が高めとはいえ、浜辺に人影はまばらで、釣りをしている人もいない。いつもは防波堤で何人かが釣竿を伸ばしているのだが、この季節に釣果は望めないのだろうか。

 たまにジョギングする人とすれ違うだけの静かな遊歩道をのんびりと歩く。海に出ると風があって、さすがに冬だなと思わせるが、身を切るような冷たい風ではない。浜辺で凧を飛ばしている人に出会った。強い海風に乗って、凧が上空で勢いよくはためく。凧揚げにはちょうどいい日和だ。

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 波打ち際まで出て、砂の上を歩く。靴が砂に沈み歩きにくいが、浜辺を歩くというのはいいものだ。寄せては返す波の音しか聞こえない。砂の上の足跡はわずかしかついておらず、ほとんど人が来ていないのが分かる。犬の足跡もクッキリ残っているところを見ると、犬の散歩を兼ねて朝やって来た人だろう。その足跡をたどるようにして波打ち際を歩く。実に優雅な散歩である。

 時々立ち止まり沖合いを眺めながら、ふと1月のこの辺りの景色はどんなだっただろうと想像する。鉛色の重い雲が上空を覆い、凍えるような強風にあおられ高波が押し寄せていたに違いない。その強風の中に雪が混じり、わずかも立っていられないような極寒の世界だったのだろう。冬の日本海というのは、そういうものだ。

 私の故郷は日本海側の町で、冬の福岡と気候が似ている。もっとも、現在の積雪の状況は決定的に違うわけだが・・・。

 冬の日本海側は、毎日のように雲が重く垂れ込め、冷たい北風に時折雪が混じったりして、とにかく寒く暗い。東京に出て来たとき、あまりに晴れ渡り透明感のある冬の空に驚いたものだ。あれからもう30年近くが経つので、すっかり透明な青空の冬に慣れてしまったが、今回福岡で、どんよりとした曇り空の日々を過ごすうちに、故郷の冬を思い出した。

 日本海側の冬の海は迫力がある。風が吹きすさび、白い高波が繰り返し押し寄せる。荒れた海というのは、人間に潜在的な恐怖感を湧かせるもので、それでいてついつい見とれてしまう。人間の力なんて、自然の猛威の前にはちっぽけなものでしかないと思い知らされるのだ。

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 今年は雪が多いようなので、日本海側の人たちは大変だろうなと思う。私が子供の頃も雪がたくさん降ったが、年を追うごとに降る雪は少なくなり、やがてスキー場で雪不足が心配されるようになった。ほとんど積雪のない年もあったと聞く。だから、今年のような豪雪がたまに来ると、雪に慣れた地域でも参っているはずだ。

 雪国というのは不利だなと思う。子供の頃はそれほど思わなかったが、東京に出て来て、青空の冬を過ごすようになって、つくづくそう考えるようになった。日本海側と太平洋側では、1年を通じた活動期間がかなり違う。冬の間は、雪かきに時間を費やさねばならないし、市街地から少し外れると、雪が深くなって交通の便もぐっと悪くなる。1年を通じた地域の生産性は、雪の降らない地域と雪国では、かなり違うのではないか。

 福岡はその点、日本海側といってもましな方だと思う。雪雲は日本海上空で発達する。海から水蒸気を吸い上げて雪に変えるわけで、海の部分が短いと雪雲はたくさんの雪を蓄えられない。たまたま福岡はすぐ北に朝鮮半島があるので、西高東低の気圧配置になっても雪雲はあまり発達しないまま陸地に達する。お蔭でこの冬も、他の日本海側が大雪でも福岡市内は雪が舞う程度で済んでいる。

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 今日は3月上中旬くらいの陽気と天気予報は言っていた。このまま暖かくなっていくのか、また再び1月のような大寒波がやって来るのか、よくは分からないが、もう寒いのは充分だという気がする。2月は一番寒い月なんて言われるが、それは3月になれば一気に暖かくなるからではなかろうか。夜明け前が一番暗いなんて言うからな・・・。

 立春過ぎたんだから、そろそろ気温の方も高めにお願いしたいですね(笑)。

posted by OhBoy at 23:23| 日記