2011年03月27日

JR博多シティー探訪

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 今日は朝から太陽が燦々と降り注ぐ快晴。だが、気温は低めで風も冷たい。春はまだ足踏みをしているらしい。

 たいていの桜はつぼみの状態だが、所々日当たりの良い場所では咲き始めている。ソメイヨシノはまだだが、種類によっては満開の桜もある。来週は気温が上がるらしいから、いよいよ桜の季節到来ということになろうか。本来は今日辺り花見という予定だったが、それは来週に回すことにして、本日もぶらりと出掛けることにした。目指すは、遅まきながら「JR博多シティー」である。

 JR博多シティーは駅ビルを改築して、「阪急百貨店」と専門店街「アミュプラザ博多」、「東急ハンズ 」、レストラン街「くうてん」、更にはシネマコンプレックスなどを集めた一大ショッピングモールである。JR九州が渾身の力をこめて開業したもので、その集客力に大いに注目が集まっている。九州初上陸の店も含めて多数のショップやレストランが集結しており、福岡の最新スポットということになる。

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 ここが開業したのは、九州新幹線全線開業に先立つ3月3日(木)で、福岡はおろか九州や本州からも客を集めようとJRは鼻息が荒い。対するショッピング・ゾーンの雄「天神地区」は、けっこう危機感を持っていると言われ、それに次ぐ先端スポット「キャナルシティー」も客を持っていかれまいと懸命な様子である。

 さすがに開業してすぐに来るというのは無謀だろうと思って控えていたが、かれこれ3週間以上経つし、最近は東北の巨大地震の関係で福岡でも何かと自粛ムードが漂っているから、そろそろいい頃合いかと思って覗いてみることにした。

 職場の噂では阪急百貨店が善戦していると言われている。お菓子では、クリスピードーナツと堂島ロールにすごい行列が出来ているらしい。私が注目している牛たん炭焼の「利久」も混雑しているようだ。利久は仙台に出張に行くたびに食べに行っていた店だが、数ある牛たんの店の中でもお薦めの一つだ。だが、今回の地震で大丈夫かと心配になる。応援する意味でも繁盛して欲しいものだ。

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 上の写真は、アミュプラザ地下のクリスピードーナツに並ぶ人たちだが、開業早々は人が殺到し、2時間待ちだったとも聞く。クリスピードーナツは確かにおいしいが、2時間待って食べるほどのことはない気がする。でも九州初上陸となると、皆さん気合の入り方が半端じゃなかったのだろう。今日も、至るところでクリスピードーナツの箱をぶら下げている人を見掛けたなぁ。

 3月3日に大盛況のうちに開業したJR博多シティーだが、新幹線開業日の3月12日の前日に東北で巨大地震が起き、とてもお祝いの式典なんかやっている場合じゃなくて、寂しいスタートになった。まぁみんなそんな気持ちになれなかったから仕方ないが、おそらく関係者は相当の準備をして来たはずで、何とも複雑な気持ちだろう。

 開業イベントが全て中止になったからというわけでもなかろうが、開業してまもない九州新幹線はかなり低調らしくて、休日に実家を訪ねる際に利用した人に訊いたら、車内はガラガラだったという。東北も頑張って欲しいが、こっちの方も頑張らんといかんかもしれん。

 従来は中国・韓国からのお客さんでも賑わっていた福岡だが、地震と原発問題による各国の渡航自粛要請により、この前も中国からの大型クルーズ船が、当初の予定を変更して福岡寄港を取り止めてしまった。韓国から定期船で来る人も減っているようだ。福岡県としては、地震の影響はこちらにはないので是非来て欲しいと宣伝しているのだが、日本全体が一緒に扱われているんだろう。

 他にも、イベント、行事で自粛になっているものが福岡でも沢山あるらしく、産業界は少々振るわないと聞く。東北・関東が沈んでいるときだからこそ、影響のない地域は何とか頑張って日本経済を支えないといけない気もするが、こういうところは日本人らしく全体に従うものらしい。

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 そんなわけで、JR博多シティーも低調なのかなと思って来てみたら、そんなことはなくて、結構な賑わいである。

 入り口を見た感じでは人はすいすいと流れていたので、さすがに開業から3週間経って空いてきたのかと思ったが、阪急デパートに入ってみるとかなりの賑わい。デパートの中がこんなにこんでいるなんて、今どき東京じゃあ見掛けない光景だ。

 店内はそれほど広いわけではないが、エスカレーター・ホールをはさんでアミュプラザとつながっているので、開放感がある造りになっている。高島屋と東急ハンズがドッキングしている新宿タカシマヤを思い出してしまった。

 阪急デパート内を暫しウロウロした後、途中の階でアミュプラザ側に移り、屋上を目指す。エスカレーターはこんでいて、誘導員が出ている階もある。

 9階と10階に「くうてん」というレストラン街があるが、既に2時半を過ぎているのに多くの店で長蛇の列。ここで並ばず食べられるのは日本料理の「加賀屋」くらいという笑い話を聞いたことがある。加賀屋は金沢の有名旅館の直営店なので、昼ご飯でも3000円前後かかります(笑)。

 さて、いよいよ屋上に上がろうとするが、このエスカレーターが一番こんでいた。でもちょっと並んだくらいで上れた。開業当時はこんなものでは済まなかったような気がする。

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 なぜ屋上まで上がったかというと、「バカと煙は高いところに上がりたがる」というわけではなく、既にJR博多シティーへ行ったことのある人から、屋上がなかなかいいと勧められたからだ。

 屋上に何があるかというと、「鉄道神社」という旅の安全祈願のための社と仲見世、それに「つばめ電車」という子供が乗れる電車、更に展望テラス、おまけに何故かドッグランなどなど。

 けっこう盛りだくさんだが、まずみんなは展望テラスを目指す。ここから福岡市内が一望できるからだ。そのため、展望テラスに上がる行列が屋上に出来ている。どこまで行っても満員だ。

 他にこんでいるのはつばめ電車。屋上の半分程度のスペースに、楕円形に線路が敷かれていて、子供たちを乗せて何両編成かの電車が走る。これに乗るために、ちびっ子たちと親とが長蛇の列を作っている。ここに並べと言われたら、どっと疲れが出そうだ。

 それにしてもよく分からないのはドッグラン。こんな大混雑の中、犬を屋上まで連れてきて、ここで運動させようという人がいるのが不思議だ。青山通りを犬を散歩させながら歩く優越感と似たものがあるのだろうか(笑)。

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 ところでこの博多駅だが、福岡に鉄道が通じて以来ずっとここにあったかというと、実はそうではない。戦後から暫くは、数百メートル北西に駅舎があったようだ。その頃は旅客と貨物と両方を扱っており、地上駅だったので交通の妨げになっていたとも聞く。

 それまで今の駅がある辺りはどんな場所だったのかと地元の人に訊くと、誰もが首を傾げつつ「いや、何もなかったなぁ」と答える。どうも記憶に残らないような地域だったらしい。

 そもそも今のJR博多シティー界隈は何だったのかというと、昭和の途中まで畑だったらしい(笑)。今はビル街となっている駅の東側も畑だったなんて人までいる。いやこれは地元の人の昔語りだから、どの程度田舎だったのか具体的なイメージがあるわけじゃないが、たまたま昔の博多駅周辺の面影をたどることのできる場所があるので、ちょっと寄ってみよう。

 JR博多シティーから南西に伸びる住吉通りからちょっと入ったところに「人参公園(にんじんこうえん)」というのがある。これは昔この辺りが、福岡藩の薬用人参を栽培する畑だったから付いた名前だと聞く。その名残で、明治、大正と畑になっていたということだろうか。

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 この公園から少し離れた場所に、昔「興志塾」という私塾があったと伝えられている。

 以前、南公園の近くにある「平尾山荘(ひらおさんそう)」を訪れたことがあった。山荘の主は「野村望東尼(のむらもとに)」という福岡藩士の娘で、幕末に長州藩士の高杉晋作のほか、平野国臣、月形洗蔵ら勤皇倒幕派の福岡藩士などを匿い支援した。お蔭で、勤皇倒幕派弾圧のさなかに福岡藩によって自宅に幽閉された後、島流しにあった。

 彼女のいとこに「高場乱(たかばおさむ)」という女性眼科医がいて、彼女がこの薬用人参畑の傍らで「興志塾」という私塾を開いた。人参畑の中にあったので、俗に「人参畑塾」と呼ばれていたようだ。

 高場乱は藩医の家庭に生まれたが、どういうわけだか男として育てられ、元服までしている。そのせいか生涯を男装で過ごしたようで、残っている肖像画を見ると、女性なのにちょんまげを結っている(笑)。武術も習ったが、学問にも熱心で「亀井昭陽(かめいしょうよう)」の下で漢学を学んだ。師の昭陽は、福岡藩西学問所「甘棠館(かんとうかん)」の館長「亀井南冥(かめいなんめい)」の長男である。

 興志塾には、血気盛んな者が多かったと言われている。それは、他の塾で断られるような者でも、高場乱が受け入れたかららしい。中でも有名なのが、後に玄洋社の主要メンバーとなっていく「頭山満(とうやまみつる)」、「来島恒喜(くるしまつねき)」らである。そして、玄洋社が結成されていく過程にも、高場乱は深く関わっている。

 さて、人参畑の話はこれくらいにしよう。ところで、かつての博多駅はどこにあったのだろうか。JR博多シティーから北西に伸びる大博通りからちょっと脇に入ったところに「出来町公園(できまちこうえん)」というビルに囲まれた地味な感じの公園がある。ここが元の博多駅の駅舎があった場所だと伝えられている。

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 今月初めに、福岡出身の型破りな芸人「川上音二郎(かわかみおとじろう)」の生誕の碑がある「沖濱稲荷神社(おきはまいなりじんじゃ)」を訪ねたが、そのとき、舞台で倒れた音二郎は遺言に従い博多の「承天寺(じょうてんじ)」に葬られたと書いた。

 この承天寺は出来町公園のすぐ脇にあるのだが、そもそも音二郎の希望は、汽車が眺められるところに葬って欲しいというものだったと聞く。当時出来町公園の駅舎は健在だったわけだ。しかし、今や博多駅が移り電車の姿も見えなくなってしまうと、泉下の音二郎はどう思っているのだろうか。

 今日は短い範囲しか移動していないが、JR博多シティー内を時間をかけてウロウロしたものだから、歩数としてはかなり稼いだ気がする。こういう屋内散歩は雨の日にもってこいなので、今後天気の悪い日用に、天神の地下街と並んで、JR博多シティーを散歩コースに入れておくかな(笑)。

 たっぷり歩いたことだし、そろそろ最寄の祇園駅から地下鉄に乗って帰ろう。承天寺の脇を地下鉄空港線が通っているので、音二郎は今やこっちの方を見ているのかもしれないなぁ。

posted by OhBoy at 23:13| 日記

2011年03月26日

合馬までタケノコを食べに

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 今朝は起きたら曇り空で、そのうち弱い雨が一降りしたかと思うと、次第に空が明るくなり、太陽も見えてきた。雲は多めながら、一日中雨の心配はなさそうな空模様だ。

 桜の開花宣言が福岡でも出ていたような気がするが、そのわりには冬の寒さが続いていて、連日コートなしではしのげない。本来なら今週辺り桜も咲いて、花見方々桜の名所探訪と洒落こむはずだったのだが、もう暫くお預けだろうか。

 そんなところに、職場の同僚から「旬のタケノコ料理を食べに行きませんか」とお誘いがあって、小倉の南の方まで出掛けることになった。行き先は「合馬(おうま)」。私は寡聞にして知らなかったのだが、九州を代表するタケノコの名産地のようで、「合馬のタケノコ」と言えばお値段もそれなりにするらしい。

 福岡から車で東に1時間弱走り、九州自動車道を小倉南インターで降りると、辺りは竹林に囲まれた山間地となる。一般道をほどなく走ると、「合馬観光たけのこ園」に着く。タケノコ料理を食べさせてくれるのは、ここにある「合馬茶屋」という店だ。

 でもこの合馬茶屋、どう見ても店らしくない。すごく立派な構えだが造りが個人の家のようだ。で、よく見たら、ホントに個人の家だった(笑)。玄関にちゃんと表札が掛けてある。タケノコを味わえるのはこの季節だけなので、個人の家の大広間でお客さんを迎えているらしい。実にアットホームだ。

 今日食べようというタケノコ料理は、予約不可の限定100食というシロモノで、簡単に言えば早い者勝ち。昼食の時間に合わせて行こうとしたら、もうなくなっている公算が大なので、昼ご飯にはちと早い時間に店に入る。

 料理はシンプルで、竹と梅の2つしかない。全てタケノコ尽くしのメニューで、両者の違いは焼きタケノコがつくかどうか。ここまで来て焼きタケノコを食べないなんて選択肢はあり得ない。問答無用で竹コースにする。

 ほどなくして焼きタケノコが来る。

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 昔、職場の同僚と一緒に、伊豆にタケノコ掘りに行ったことがあった。観光農園ならぬ観光タケノコ園に入って、くわを貸してもらって掘るのだが、これがなかなか大変だった。

 まずは園の管理者の人に見本を示してもらったが、食べ頃のタケノコというのは、ほとんど地面に埋もれてしまっている。地面といっても一面枯れた笹の葉が敷き詰められたようになっているので、それがちょこっと持ち上がっているような場所を探す。そして手で払いのけるとタケノコの先端が出て来るわけである。

 その程度の大きさなら簡単に掘れるかというとそうでもなく、タケノコを傷つけないように周りを丁寧に掘って行き、根元を探す。実際やってみると、地面にちょっと顔を出している程度でも、根は深い。しかも、竹林が平地ではなく斜面にあるものだから、不自然な格好で足を踏ん張って掘り進める必要がある。いや〜、これはなかなかしんどい仕事だった。

 そのとき、園の管理者の人が、朝掘りのタケノコをアルミホイルに包んで焚き火で焼き、レア状になったところに醤油を振り掛けて皆に振舞ってくれた。これが抜群においしくて、すっかり焼きタケノコに魅了されてしまった。

 さて、合馬茶屋の焼きタケノコだが、確かにうまい。数切れ分しか出てこないが、正直、もっと食べたい気分になる。でも新鮮なタケノコでしか作れない料理のうえ、今年は寒さが厳しかったのでタケノコが不作と聞く。そうなると、あまり贅沢も言えないだろう。

 その後はタケノコ尽くしの料理を賞味する。

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 焼きタケノコ以外では、タケノコの刺身、タケノコの煮しめ、タケノコのてんぷら、タケノコの木の芽あえ、タケノコの白あえ、タケノコのきんぴら、タケノコしんじょう、若タケノコ汁、タケノコの茶碗蒸にタケノコ御飯というラインナップとなる。

 この中では刺身と木の芽あえが特にうまかった。実にヘルシーな昼食で、まるで精進料理のようだ。これを毎日食べていれば、身体に余計な肉は付かないだろう(笑)。

 合馬のタケノコが何故高級品なのかというと、理由は土壌にあるらしい。粘土質の赤土の上に竹林があって、こうした土壌で育ったタケノコはあくが少なく、風味がよいという。お蔭で、ここから京阪神の料亭にも出荷されているらしい。

 この後、道を戻りがてら「合馬竹林公園」に立ち寄る。国産と中国産の竹や笹が約150種類ほど植えられている「竹のテーマパーク」のような場所で、広い園内に散策道が張り巡らされている。食後の散歩とばかり暫く竹林内を散策したあと、展示館で竹を使った農漁具、生活用具のほか、竹とんぼなどのおもちゃを見る。竹製の楽器なんてものもあり、なかなか面白かった。

 このまま福岡に帰るのももったいないので、近隣の名所でも寄って帰ろうかということになり、まずは近くにある「平尾台カルスト」に向かう。

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 九州自動車道小倉南インター入り口辺りまで戻り、そのまま一般道を南に行くと、平尾台への入り口がある。その先は山道となり、延々と登り続ける。ヘアピンカーブの連続で、かなりの急勾配だ。道が周囲の山よりも高くなった辺りから、道路脇に雪が残っているのが見え始める。これは随分高いところに来たなと思ったら、急に視界が開けて台地となる。麓とはまるで別世界だ。

 平尾台は、海抜350-600mの台地に東西2km南北6kmの規模でカルスト地形が広がっており、一帯が天然記念物に指定されている。まだ雪の残る季節なので、多くの部分は土がむき出しになっているが、夏場だと一面草のはえた中に白い石灰岩が並び、非常にきれいらしい。

 上の写真の右側辺りから山肌に無数の石灰岩の露出している部分があって、夏場だと草地に羊の群が放牧されたように見えることから「羊群原(ようぐんばる)」と呼ばれているようだ。ただこの季節、周囲は至るところに雪が残っており、遠くから見ると残雪か石灰岩か見分けが付かない。

 標高が高く吹きさらしなので、身を切るような冷たい風が吹く。暫く戸外に立っていると凍えそうになるが、せっかく来たのだし、防寒用のジャンパーも持参しているので、見晴らしのいい場所を少し登ってみることにした。

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 冬場はけっこう積雪があるのだろうが、既に雪は解け始めており、登山道は雪解け水でぬかるんでいる。これはどう見ても本格的な登山用の靴を履いていないと太刀打ち不可能な道だなぁと思いながら、滑らないように足元を見て登る。

 ずっと先の山頂付近を見上げると、登山客とおぼしき幾人かの人たちが立っているのが見える。そういえば、先ほど車で通ったときにも登山道を登ろうとする人を見掛けたが、きっちり冬山風の装備だった。そういう格好をしていないと、この季節は上の方まで行けないのだろう。

 カルスト台地は、表面から見ると石灰岩が露出する草原だが、地下にも鍾乳洞や地下川があるのが特色らしい。山口県の秋吉台もカルストだけでなく鍾乳洞で有名だ。ここ平尾台にも洞窟や鍾乳洞、地下川があり、古代生物の化石も見つかっているという。一般人が入れるように整備された鍾乳洞もあるらしいが、そんなところまで探検しているとかなり時間がかかるので、今日のところはカルスト台地を途中まで登って終了とする。

 願わくば、もう少し気温が高ければ心地よく山登りを楽しめたのだろうが、如何せん季節が季節だけに仕方ない。風邪を引かないうちに退散することにした。

 途中まで登って下界を見下ろすと、空気が澄んでいるせいか、かなり向こうまで見渡せる。夏に来たら、きっと気持ちのいい場所だ。

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 さて、まだ時間はあるので飯塚市経由で帰ることにして、「旧伊藤伝右衛門邸」に立ち寄る。

 飯塚市は筑豊の中心地であり、石炭で大いに栄えた街である。石炭産業が最盛期だった頃は、活気あふれる豊かな土地だったと聞く。遠賀川が流れボタ山が見える街の風景は、五木寛之の「青春の門」を髣髴とさせるところがあるが、それも昔のこと。石炭産業が衰退した今では静かな街だ。

 「伊藤伝右衛門(いとうでんえもん)」は、明治時代に父が興した炭鉱会社を引き継いで巨万の富を築き、衆議院議員までつとめた大立者である。

 伝右衛門の父親は江戸時代に目明しとして十手を預かった身らしいが、それだけでは生活できず、魚の行商をして一家を養っていた。お蔭で家は貧しく、幕末に生まれた伝右衛門も、幼い頃から父の行商を手伝ったり丁稚奉公に出たりして、満足に教育も受けないまま実業の世界に飛び込んだ。そんな伝右衛門がサクセスストーリーを歩むきっかけになったのは、父親が始めた小さな炭鉱会社である。伝右衛門は、これを足がかりに炭鉱経営に乗り出し、見事に成功させる。

 旧伊藤伝右衛門邸は、伝右衛門の本邸として明治後半に建造された後、大正・昭和にも増改築が行われている。敷地面積は約2300坪、建物延床面積が約300坪という、桁違いに豪華なお屋敷で、当時の炭鉱経営者の栄華が偲ばれる建造物である。

 ただ、成功した炭鉱経営者がたくさんいる中で彼や彼の私邸が有名なのは、伝右衛門が柳原前光伯爵の娘「Y子(あきこ)」と再婚し、再び離婚した顛末にあるのだと思う。

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 柳原Y子は、本名よりも歌人「柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)」としての方が有名かもしれない。Y子は柳原伯爵が柳橋の芸妓との間に生んだ子で、絶世の美女だったと伝えられる。柳原家は華族の中でもかなり地位の高い家柄であったらしく、柳原伯爵の妹は大正天皇の生母「柳原愛子(やなぎわらなるこ)」である。

 妾腹ながら貴族の家に生まれ、大正天皇とは従妹にあたるという境遇にありながら、Y子の人生は波乱万丈である。最初の結婚は14歳のとき。北小路子爵の嗣子と結婚し、翌年子供をもうけるが、知的障害のあった夫との生活はうまくいかず、5年後に離婚。そして次に結婚したのが伊藤伝右衛門だった。

 伝右衛門は先妻を亡くしたばかりだったが、年は既に52歳、一方Y子は27歳だった。そのうえ、貧しい子供時代を経て叩き上げの実業家として成り上がり、川筋気質で女性関係も派手だった伝右衛門と、貴族の令嬢として育ったY子と、気質がまるで違っていた。

 やがて伝右衛門との生活に耐えられなくなったY子は、左翼系雑誌の記者をしていた「宮崎龍介(みやさきりゅうすけ)」と恋に落ちて出奔。その後夫の伝右衛門に向けて新聞紙上に公開絶縁状を掲載し大事件となる。当時この種の行為は姦通罪として罰せられる性質のものであり、世論はY子を激しく責めた。伊藤家側も激昂したが、まさに面子を潰された当事者である伝右衛門は、何故か親族を押し留め、Y子を姦通罪で訴えることもしなかった。

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 しかしこの大スキャンダルのために、Y子は髪を下ろして尼寺に預けられ、後に華族から除籍されている。また実家の柳原家では、兄が貴族院議員を辞職し、その後没落することになる。Y子は、宮崎龍介との間にもうけた息子を戦争で亡くし、戦後は平和運動に従事した。晩年は失明して、歌を詠みながら1967年に静かに息を引き取ったという。

 それにしても、新聞紙上で妻から絶縁状を突きつけられた伊藤伝右衛門は、なぜY子をかばったのだろうか。父子二代でたくさんの妾を持ち、その子をY子と一緒に住まわせるなど、デリカシーの欠けた振る舞いの目立つ伝右衛門だが、彼なりの流儀でY子を愛していたのかもしれない。

 旧伊藤伝右衛門邸に行って気付いたが、広大な屋敷の中で2階があるのは一部分だけであり、そこはY子のために作られた特別の部屋だった。この部屋から見ると庭が一望できて、実に眺めがよく開放的な造りである。華族からの嫁入りということで特別扱いされてのことだろうが、それだけではなく、何とかY子にこの家を気に入ってもらいたいという伝右衛門の思いもあってのことだったのではないか。

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 3月は雛祭りの月ということで、旧伊藤伝右衛門邸の内部は至るところに雛人形が飾られていた。その中にはY子が持ってきたものも含まれていた。彼女はこの家を出て行ったが、雛人形だけは残されたということだろうか。

 伝右衛門はその後再婚もせず、事業に奔走して戦後まもなく亡くなっている。伊藤家や伝右衛門が興した会社がその後どういう末路をたどったのかは、地元の人に聞いてもよく分からない。伝右衛門は事実上一代にして莫大な富を築き、そして一人で歴史の中に埋もれていった。後に残っているのは、この旧伊藤伝右衛門邸だけである。

 さて、当時伝右衛門と知遇を得ていた炭鉱経営者で、今でも繁栄している麻生本家でも見てから帰りましょうかと誘われて、飯塚市内の麻生本家に行く。と言ってもここは現在も麻生一族の住む家なので、外からそっと覗くだけである。

 村の庄屋の出で麻生炭鉱を興した「麻生太吉(あそうたきち)」は、伝右衛門とほぼ同じ頃の人である。伝右衛門同様、衆議院議員も務めている。麻生太吉は炭鉱以外にも数々の事業を行ったが、その一つがセメント事業であり、戦後に石炭事業が衰退した際、麻生家の軸足はセメント事業へと移る。これが今の麻生セメントである。

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 麻生本家の邸宅は、旧伊藤伝右衛門邸に負けず劣らず広大な敷地を持ち、周囲の家を圧倒している。あぁこれが麻生総理のご実家かと感嘆した。

 歴史の中に消えていった伊藤伝右衛門と、将来を見越して巧みに舵を切って生き延びた麻生太吉。同じ炭鉱経営者の光と影を見る思いだ。

 さて、飯塚を後にして一路福岡へと向かう。タケノコ料理に始まって飯塚の炭鉱経営者たちの栄光と挫折まで見て、今日は内容の濃い一日であった。それにしても、もう少し暖かくなって欲しいと切実に思った遠出の旅だった。

posted by OhBoy at 23:50| 日記

2011年03月21日

点と線

 今日は朝から雨。天気予報は終日雨だと言っている。昨日も午後は雨だったから、随分長い雨ということになる。これも季節の変わり目だからだろうか。そのわりに、この雨が上がったら少し寒気が入って気温が下がるとのこと。もう3月も下旬だから、普通は雨が降るたびに暖かくなるんじゃないのか。この分だと、桜はもう少しお預けか。

 終日雨となると今日も散歩はお休みで、家にこもることになる。この前も書いたが、今年は三連休あると、そのうち二日は雨でつぶれるという傾向にある。何だかもったいないなぁ。

 かくして今日も読書ということになるが、前任者が暇つぶし用に置いていってくれた本の中から、松本清張の「点と線」を再読することにした。再読といっても、最初に読んだのは中学生の頃だったから、もう遠い昔のことになる。時刻表を駆使したトリックが面白くて、その後何冊か清張作品を読むきっかけになった。

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 松本清張は北九州の小倉の出身で、家が貧しかったため尋常高等小学校を卒業したのち給仕、印刷工など様々な職業を経験している。やがて北九州にある朝日新聞西部支社に入社することになるが、一旦兵役に就き朝鮮半島で終戦を迎えている。小説を書き始めたのは帰国して新聞社に復帰した後で、年齢的には40歳代。遅咲きの作家ということになる。

 たくさんの作品を残している清張だが、元々小説家志望ではなく生活費を稼ぐために原稿を書いて文学賞に応募するようになったらしい。やがて「西郷札」が直木賞候補となって注目され、「或る『小倉日記』伝」で芥川賞を取って人気作家の仲間入りをした。

 北九州市は多くの文学者と縁のある街だ。松本清張のほかには、森鴎外が小倉の第12師団軍医部長に赴任してきている。清張の芥川賞作品「或る『小倉日記』伝」は、森鴎外が小倉に赴任していた時代の日記を探す障がい者の物語である。「放浪記」で有名な林芙美子も、生まれは下関とも門司とも言われ、幼少期を北九州で過ごしている。また、「麦と兵隊」などの作品で有名な火野葦平も小倉の出身である。その中でも清張は小倉の誇りということで、北九州市小倉北区には「北九州市立松本清張記念館」がある。

 さて「点と線」だが、この作品は1957年から雑誌に連載が開始され、翌年単行本として刊行されベストセラーとなった。同時期に「ゼロの焦点」や「眼の壁」などが発表され、人気を博した。この辺りから、清張を旗手とする社会派推理小説というジャンルが花開くことになる。

 「点と線」は、福岡にとってみればいわば「ご当地小説」で、近辺の地名やら当時の街の様子やらが出て来る。

 話の発端は有名だが、機械工具商の安田辰郎を東京駅13番線プラットフォームに見送りに来た料亭の女中2人が、15番線プラットフォームに同じ料亭で働くお時を見つけ、男性と博多行き夜行特急「あさかぜ」に乗り込むところを見てしまう。そして数日後、お時とその男性・佐山憲一が香椎の海岸で心中死体となって発見されるのである。

 始終電車が出入りする東京駅で、13番線プラットフォームから15番線プラットフォームを見通せるのは1日のうちでわずか4分しかないという設定に、中学時代に読んだ時には惹かれたものだ。そしてその後に続く、アリバイ崩しのための時刻表との戦い。西村京太郎で有名になったトラベルミステリーの先駆け的役割も果たしていたのではないかと思う。

 佐山とお時の心中死体が発見される香椎は、福岡市東区の北部にある。事件の検証の中では、香椎の海岸、国鉄香椎駅、西鉄香椎駅の3つがポイントになる。交通事情は今ではかなり違っているが、2つの駅は現在も健在であるし、その位置関係は変わっていない。しかし、死体が発見される海岸線は、当時と今ではすっかり変わってしまっている。

 香椎には仕事の関係で何度か行ったことがあるし、休日に有名な香椎宮に参拝したこともある。舞台となる海岸線の道は車で1、2度通ったが、埋立てが進み近代的な雰囲気に変わっている。そして、すぐ目の前には巨大な人工島アイランドシティーが出来ており、海岸部分はぐっと狭くなって、まるで湖のようだ。目撃証言の中に出て来る「ずいぶん寂しい所ね」というセリフも、今では通用しないのかもしれない。

 ただ、実際にその場所に行ったことがあるという経験を踏まえて読み直してみると、話の進展にリアリティーがあって面白い。国鉄香椎駅と西鉄香椎駅の関係なんて、面白いところに目をつけたものだなと感心する。事件の舞台を現実に知って読むのと知らずに読むのとで、こんなにも小説の楽しみ方に差が出るのかと感じた。

 加えて、久し振りにがっしりした造りの本格推理小説を読んだ気分になった。動機付けにも設定にも不自然さがなく、話として奇抜に感じられる非日常性がない。本格的な謎解きをテーマにする推理小説の中には、謎を設定するために現実には考えられないような舞台設定や人間関係、かなり無理のある動機付けなど、作り物っぽさが鼻につく作品も多いが、清張作品にはそうした非現実性がない。そこが、一般の人にも受けてベストセラーになった要因だろうか。

 更に、話が簡潔で要領よくまとめられている。それがよく分かるのは、登場人物が極めて少なく、これだけの謎解きを盛り込みながら200ページ少々で話が完結することだろう。おそらく、現代の推理小説家がこれを書けば、背景となっている某省の汚職の実態やら犯人の人物造形やらにかなりの紙数をついやし、300ページを簡単に超えてしまうのではないか。

 それにしても、古い小説なので読んでいて色々時代を感じさせるものが登場する。遠方の警察署同士の連絡には電報を使っているし、東京には都電が走っている。東京から福岡に行くにも北海道に行くにも夜行列車ですごい時間をついやすことになる。更に言えば、今ほど科学捜査が発達していないのか、推理小説では必ず登場する指紋の照合やら詳しい現場検証やらが出て来ない。

 こうして見てみると、松本清張の推理小説ですら、徐々に古典になりつつあるのかなぁという感慨が湧く。私は読んでいて違和感はなかったが、平成生まれの若者が読んだらどう思うのだろうか。そもそも福岡や札幌に夜行列車に揺られて行くという設定そのものがピンと来ないだろう。

 しかしトリックが分かっていても、時間が経ってからの再読なら、上質の推理小説はそれなりに楽しめるものだ。機会を見て、昔読んだ古典的名作でも再読してみるかなぁ。

posted by OhBoy at 22:44| 日記

2011年03月20日

今日は家でおとなしく

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 今朝は、起きたときこそ雨が降っていなかったものの、今にも降り出しそうな黒い雲が空を覆っていた。地面は濡れていて、昨夜のうちに一降りあったらしい。朝ご飯を食べてパソコンでメールのチェックをしているうちに、空はどんどん暗くなって来た。天気予報を見ると終日雨で、特に午後から雨脚が強まるらしい。そうこうしているうちに昼頃から雨が降り出した。こりゃ家にこもっているしかないなと、本日の散歩を諦めることにした。

 最近は家にいるとまずテレビをつけるようになった。普段、私はめったにテレビを見ない。せいぜい見ているのはニュースと天気予報くらいだろうか。でも、今回の東北の地震以降、度重なる強い余震やら福島の原子力発電所関係やらが気になるので、ついつい最新の情報を得ようとテレビをつける習慣がついた。

 そんなわけで今日も朝からテレビをつけたら、NHKが普通の番組をやっている。終日地震情報を流す体制は徐々に崩れ、通常モードに戻ろうとしているのだろうか。

 実は本日3/20は、福岡にとって地震の記憶を思い起こさせる日だ。2005年に西方沖地震が起きたのが今日だった。震源地は、糸島半島の先にある玄海島。福岡市のすぐ近くである。島の周囲が4.4kmで、面積は1.14平方キロというから、小さな島だ。人口は約700人で漁業に従事している人が大半のようだ。

 西方沖地震のことは何となく記憶にあるのだが、それ程強くは印象に残っていない。福岡市が編纂した当時の記録などを読むと、阪神淡路大震災や、今回の東北を震源とする大地震のように、大きな被害を出したわけではなかったらしい。

 最大震度は6弱で、震源地に近かった福岡市内は、地区にもよるが概ね震度5弱以上の揺れに見舞われたようだ。ブロック塀が倒れたりビルのガラスが割れたりしたほか、電気、ガス、水道などライフラインへの被害もあったという。福岡市で千人弱の方が負傷され、倒れてきたブロック塀で一人が亡くなっている。

 ただ、被害の程度で言えば、玄海島をはじめとする島嶼部の被害が大きかった。とりわけ震源地の玄海島は、死者こそ出なかったものの、負傷者もいたし大半の家が全半壊した。不幸中の幸いだったのは、津波が発生しなかったことだろうか。仮に津波が起こっていたら、玄海島はもちろん、すぐ近くにある福岡市でも被害が出ていたのではないか。

 玄海島は、船で渡ったことはないが、昨年秋に志賀島に行った際、島の北西にある休暇村の浜辺から眺めたことがある。そのときの写真がこれである。

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 玄海島を襲った地震の震源は、当時は知られていなかった海底断層で、それが横ずれしたのだが、その延長線上には、福岡市内を北西から南東に走る「警固断層(けごだんそう)」がある。福岡市内の被害も、この警固断層に沿った辺りで頻発している。

 警固断層は、西公園の東側の福岡造船がある辺りから、地下鉄七隈線薬院大通駅脇の高宮通り東沿いを走っている。市内の建物被害もこれに沿って、中央区舞鶴、大名、今泉、薬院地区に集中している。

 だからといって、この辺りが危険かというと、どうなんだろうという気がする。理由は、そもそも過去北九州で大規模地震はあまり起きていないからだ。

 北九州には温泉がたくさんあり、地下のマグマの活動も活発なんだろうと一瞬思うが、そのわりに大きな地震が起きた記は録はさほどない。明治時代に「糸島地震」と呼ばれる大地震が起きたらしいが、このときのマグニチュードは6だとされている。2005年の西方沖地震のマグニチュードは7である。観測史上に残る大きな地震はその二つくらいで、有史以来の言い伝えの中では、7世紀に「筑紫大地震」というのが起きたという記述が日本書紀にあるくらいのものだ。ちなみに、この筑紫大地震は警固断層によるものという説が有力なようだ。

 まぁそんなわけで、一応地震については楽観視しているが、備えあれば憂いなしと言うから、非常時のことは考えておいた方がいいかもしれない。

 そう言えば、今日3/20は、1995年に起きたオウム真理教による「地下鉄サリン事件」の日でもあった。

 あの朝のことはよく覚えているのだが、地下鉄に乗ろうとして駅まで行くと、駅のシャッターが閉まっている。駅員が何人かいたので話を聞くと、ほとんどの線がストップしているという。そんなことは初めてだったので驚いたのだが、それが地下鉄サリン事件だったわけだ。

 そうして考えると、3/20というのはあまり縁起のいい日ではなさそうだ。やっぱり家でおとなしくしていようと、ソファに寝転がって本でも読むことにした。明日、雨が上がることを期待しよう。


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2011年03月19日

陽気に誘われ博多湾を散歩

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 今朝は起きたら薄曇。時折陽は差すが、午後に向けて天気が良くなっていくという感じではない。その上風も強く、天気はゆっくりと下り坂らしい。今週は冬に逆戻りの寒い日が多かったが、ようやく今日になって気温が上昇した。春と言うにはお日様が足りないが、お蔭で寒さは感じず、まぁまぁの散歩日和と言えるのではないか。

 それにしても、今年に入ってこれが三回目の三連休だが、毎度三連休になると天気が崩れる。こりゃ今年のジンクスだろうか。今回もどうやら天気がいいのは今日だけということらしい。午前中に洗濯をして手早く昼食を済ませると、散歩に出掛けることにした。

 せっかく暖かめの日なのだから、海岸沿いを散歩しようと思い立ったのだが、またいつもの百道浜を歩くというのではつまらないので、ちょっと足を伸ばして博多港の「ベイサイドプレイス博多」界隈まで出掛けてみることにした。

 今月の初めに、古い博多湾の跡を訪ねて現在の博多地区を散策したとき、川端にある「渡唐口跡」の石碑に「冷泉津」という言葉が彫ってある旨を書いた。これは古い博多湾にあった入り江の名称である。今日行く辺りがまさにその冷泉津ということになる。もっとも、平家の総帥である平清盛が大宰大弐として九州に赴任し港湾整備を行って「袖の湊」を作って以降、何度も埋立てがされてすっかり海岸線は遠くなったはずだ。

 さて、博多湾に行く最寄の駅は地下鉄箱崎線の呉服町駅だが、上に書いた冷泉津のいわれとなった場所が博多区にあるので、まずはそちらに寄ってみよう。地下鉄空港線の祇園駅で降りて地上に出ると「冷泉町(れいせんまち)」という地区がある。冷泉津も冷泉町も語源は同じである。

 冷泉町の中に「龍宮寺(りゅうぐうじ)」というお寺があるのだが、ここが目的地である。

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 このお寺はなかなか面白い造りで、上の写真にある山門をくぐると三宝大荒神を祀る小さなお堂があるだけ。その裏に回るとわずかに墓石が並ぶ。墓地の裏にまた小さな観音堂があるのだが、肝心の本堂が見当たらない。

 いったいどういうことなのかと思いながら、隣のビルをふと見上げると、何とそこが本堂だった。実に意表をつく造りだ。山門脇のきれいなコンクリートの道は、てっきり隣のビルの敷地だと思っていたのだが、それが本堂の入るビルへと続く道だった。新旧取り混ぜた不思議な雰囲気の寺院である。

 で、不思議なのはそれだけでなく、ここにはえっというものが祀られている。ズバリ、人魚である。

 時は遡って鎌倉時代のことだが、今の博多湾に巨大な人魚が打ち上げられたらしい。当時の記録をそのまま信じると数十メートルの大きさということになる。当たり前だが大騒ぎになり、早速幕府のある鎌倉に知らせが行った。

 鎌倉から朝廷にも話が伝わり、勅使として来たのが冷泉中納言である。どうして冷泉家の者が派遣されたのか定かではないが、この時代の冷泉家は鎌倉幕府と親しかったと言われている。

 さて、中納言一行の中に占い師がいて、その見立てでこの人魚は「国家長久の瑞兆」とされ、手厚く埋葬されることになった。

 この中納言一行が宿泊したのが、当時海岸沿いに建っていた「浮御堂(うきみどう)」と言われる寺社の辺りであり、この寺に人魚を埋葬して、名前を龍宮寺に改めた。人魚が龍宮からの使いとされたからだという。そして山号を、中納言の名にちなんで「冷泉山」とした。それに合わせて、この近辺の海が冷泉津と呼ばれるようになった。

 というわけで、冷泉津の冷泉とは、京都の「冷泉家(れいぜいけ)」のことだったわけだが、福岡では「冷泉」を「れいせん」とか「れいぜん」と読む。漢字だけ伝わって、読みまで伝わらなかったということだろうか。

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 墓地の片隅には「人魚塚」があるが、驚くのは、今でもこの寺は当時の人魚の骨の一部を保管しているということだ。常設展示ではないので行っても見られないが、人間のものとは思えない大きな骨だそうである。数十メートルと言えば、クジラくらいしか思い浮かばないが、今もって鑑定はされていないようだ。夢は夢のままそっとしておいた方が良いのかもしれない。

 ただ、福岡では一般にクジラを食べる。魚屋の看板に「鯨」とわざわざ書いてあったりする。いつの頃からの習慣なのか知らないが、昔から食べていたのだとすれば、クジラと人魚の見分けくらいついたと思うが、どうなのだろうか。

 さて、冷泉津のいわれも分かったところで、進路を北にとって海外線を目指そう。大博通りを北に進むのが最も手っ取り早いが、交通量の多い騒がしい通りを歩くのは止めて、冷泉町と店屋町の間を左に折れ、土居通りを北上することにする。

 土居通りに曲がる角には「冷泉公園」があるが、その側に「大乗寺(だいじょうじ)」の跡があるので寄っていこう。

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 大乗寺は、そもそも弘法大師空海が、唐での留学から帰って来た年に建てた寺だが、その後数奇な運命をたどる。空海が大乗寺を建てたのが806年、その後1277年に奈良の西大寺の「叡尊(えいそん)」が再興し、亀山上皇の勅願寺となった。そのうちどういうわけだか、浄土宗の寺になってしまうのだが、1644年になって福岡藩の2代目藩主黒田忠之が再興し真言宗に戻している。そして大正時代になると「長宮院(ちょうきゅういん)」という真言宗のお寺と合併され、場所も中央区大手門に移る。しかし、第二次大戦中に空襲に遭い焼失してしまうのである。

 まぁそんなわけでお寺自体は残っていないのだが、元あった場所にいくつか石碑が建っている。おそらく、空襲の焼け野原から発掘して来たのだろう。

 上の写真で一番左側は、実は元寇のおりに蒙古軍が軍船の錨として使っていた「蒙古碇石(もうこいかりいし)」である。これは、福岡県指定の考古資料となっている。そしてその右側が、同じく元寇の際、亀山上皇が西大寺の叡尊に命じて敵国降伏の祈願を行わせた「勅願石(ちょくがんせき)」である。更に右側が、どういういわれのものかは知らないが、県指定文化財の「地蔵菩薩板碑」らしい。この写真では見にくいのだが、岩の表面にレリーフのようにお地蔵様が彫ってある。そして一番左側が、おそらく大乗寺跡の古い石碑ではないかと思うが、表面がボロボロになっていて読めない(笑)。

 さて、こんな寄り道ばかりしているといつまで経ってもベイサイドプレイス博多に着かないから、土居通りを北上する。そうは言っても歩くだけじゃあつまらないので、昭和通りを渡ったところで、再び寄り道することにした(笑)。少しばかり西側に歩き、ホテルオークラの前まで行く。ここにある「石村萬世堂(いしむらまんせいどう)」をちょっと紹介しておこう。

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 ここは、明治の終わり頃に創業した福岡の和菓子屋で、以前紹介した川上音二郎の援助で商売を始めたと聞く。代表的なお菓子は「鶴の子」というのだが、マシュマロの中に黄身餡が入ったような和菓子だ。全国レベルではあまり有名でないかもしれないが、福岡土産の一つである。ただ、この季節、マシュマロと聞いて何か思い出さないだろうか。

 そう、3月14日のホワイトデーである。最初ホワイトデーが始まった頃は、チョコレートのお返しにマシュマロを贈ろうということだった。実はそのホワイトデーを考案して世に広めたのが、この石村萬世堂なのだ。嘘のような話だが、この福岡の和菓子屋がホワイトデー発祥の店なのである。

 で、石村萬世堂にはその伝説のホワイトマシュマロが売られている。白いマシュマロの中にチョコが入ったもので、これこそが正統なホワイトデーのお返しだろう(笑)。

 そんなこんなで寄り道ばかりだが、土居通りに戻って北に進み、突き当たりにある「福岡国際センター」に出る。ここは毎年大相撲九州場所が開かれる施設で、その時期になると多数の幟が立ち並び、力士たちが行き交うようになる。しかし、今年は無事に開催されるのだろうか。

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 ここには道路沿いにいくつか大きな施設があり、福岡国際センターの隣にあるのが「福岡サンパレスホテル」で、その更に隣に「福岡国際会議場」がある。サンパレスホテルは入ったことがあるが、国際会議場の方は一度も足を踏み入れたことがない。

 この公共施設が並ぶエリアの後ろ側には高速道路が通っているが、道路脇はもう海である。そして、海の左側に、今日行こうとしているベイサイドプレイス博多が、右側にコンサートホールやコンベンションセンターが入る「マリンメッセ福岡」がある。

 マリンメッセ福岡は、特にお目当ての催し物が開催されているのでなければ、これといって面白いものがないので、人はベイサイドプレイス博多の方に集まる。

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 ベイサイドプレイス博多のエリアには色々な施設がある。ただ、ここの賑わいは近隣の島に行く定期航路のターミナルがあることが大いに影響していると思う。海の中道、志賀島や玄界島行きのほか、壱岐・対馬航路のフェリーやジェットフォイル(水中翼船)も出ている。

 私もこのジェットフォイルを使ったことがあるが、壱岐まで1時間、対馬まで2時間といったところだ。但し、壱岐まで4900円、対馬まで7700円とそれなりの料金がかかるから、ちょっと行ってみようかと気軽に利用は出来ない。また、時速70km以上で航行するため、少し波が高いと運休してしまう。

 他にベイサイドプレイス博多にある施設としては、巨大な円筒形のアクアリウムのほか、ショッピング、レストランなどの商業施設や温泉といったところか。

 アクアリウムはショッピングエリアのホール中央にドーンと据えられていて、もちろん無料で見られる。なかなか立派なもので。子供なら大喜びではないか。

 ショップを全て見たわけではないが、港という場所柄からか、生鮮を扱うセクションが充実している。野菜も豊富にあるが、やはり魚介類コーナーが立派だ。魚自慢の福岡らしく、色々な魚が並んでいる。但し、魚介類の卸売市場はここではなく、長浜にあるのだが・・・。

 さて、商業施設ではないがベイサイドプレイス博多の中でひときわ目立つのが「博多ポートタワー」であろう。

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 高さ100mと、東京タワーやスカイツリーとは比べ物にならないが、塔の設計は東京タワーと同じ「内藤多仲(ないとうたちゅう)」が行ったと聞いている。この人は大阪の通天閣のデザインもやっているのだが、そういわれてみればどこか似ているなぁと思う。

 このポートタワーの上に展望台があるが、何と無料である。普通は料金を取ると思うが、実に気前がいい。建物を入ったところが「博多港ベイサイドミュージアム」という展示コーナーになっている。ここでは博多港の歴史や現在の役割が、模型や解説板を使って分かりやすく説明されている。

 近くに外航船舶の旅客ターミナルがあるため、中国や韓国からの団体旅行客がよく登っていて、皆でワァワァ言いながら博多の街を見学していると聞く。お蔭でこんでいる時にはけっこうな人出らしいが、今は地震の影響で中国も韓国も渡航自粛になっているから、観光客はそういないはずと踏んで、エレベーターで展望台に上がってみる。

 読み通り、かなりガラガラ状態で、地元の人が何人かいる程度。お蔭でゆっくりと四方の景色を楽しむことが出来た。願わくば、もう少し天気が良くて遠くまで見渡せれば更にラッキーだったのだが、まぁ春になって気温が上がれば景色の見え方はこんなものと我慢せねばならないだろう。

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 タワーから降りて、ベイサイドプレイス博多の突端まで行ってみる。タワーの北側に「サンセットパーク」という緑地があり、その先が海になっている。埠頭の先端の風景が、冒頭の写真である。

 と、こんなところに神社がある。近寄ってみると「櫛田神社浜宮」である。櫛田神社と言えば、以前何度かこのブログでも紹介したが、博多の総鎮守という位置付けの由緒正しい有名神社だ。その分社がこんなところにあるとは・・・。

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 帰ってから調べてみて分かったのだが、この浜宮は結構重要な位置付けの分社で、毎年7月に行われる「博多祇園山笠」の準備作業「棒洗い」が行われるらしい。

 博多祇園山笠は、櫛田神社の氏子たちが「流(ながれ)」と呼ばれる町割りによって7つの地区に分かれ、「舁き山笠(かきやまがさ)」を担いで練り歩くお祭りだ。このとき山笠を担ぐために「舁き棒(かきぼう)」と呼ばれる何本かの木の棒が山笠に通されるが、祭りの準備の際、まずこの若宮に来て舁き棒を海水で洗い清めるらしい。

 櫛田神社本社の脇に「博多町屋ふるさと館」という観光施設がある。博多の歴史や文化を紹介しているのだが、その中に博多祇園山笠のコーナーがあり、そこで棒洗いの様子をビデオで見たことがある。そして、脇に実際の舁き棒が展示されていた。あの場面はこの浜宮前で撮影していたんだなと、ビデオで流れていた棒洗いの様子を思い出した。

 さて、結構歩いたはずだからそろそろ帰ろうかと道を戻り始める。ベイサイドプレイス博多の南端から海岸沿いに散歩道が伸びており、マリンメッセ福岡までつながっている。どうせなら、海沿いを歩いてマリンメッセまで行き、そこから南に下って大博通りに出ようかと考えた。

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 上の写真の対岸に写っているのがマリンメッセである。でも、ここも国際会議場同様、一度も足を踏み入れたことがない。コンサートなどをやっているらしいが、このままでは一度も中に入らないまま福岡を後にする可能性すらある(笑)。

 ちなみに、韓国・釜山行きの定期航路は、このマリンメッセの先、写真で言えば左側から出ている。毎日何往復かしているが、3時間弱で釜山に行ける。料金も片道1万3000円と、お手軽な値段である。お蔭で、週末に家族旅行で韓国に行く人が、福岡にはたくさんいると聞く。場合によっては、奥さん同士でショッピングと食事を兼ねて一泊旅行に出掛けるケースもあるらしい。やっぱりここは、古来より大陸と近い関係にあるんだなと、つくづく思う。

 いつの間にやら雲が空一面に広がり、天気が下り坂であることを告げている。せっかく気温も上昇して散歩にはいい気候なのに、明日から雨というのは何とも残念だ。まぁ毎度のことながら、雨が降ったら読書でもして過ごすかな。

 明日外出できないときのことを考えて、帰りに天神辺りをもう少しウロウロしてから自宅に向かうことにする。また本屋でも覗くかな。

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2011年03月13日

藤崎探訪

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 今朝は気持ちのいい快晴で、午前中は地震のニュースを見ながら布団を干したり大物の洗濯をしたりした。空気は、朝のうちこそ低めだったが、昼になると上昇して、絶好の散歩日和となった。

 せっかくだからちょっと長めに歩くかと、行き先を色々思い巡らせた。住んでいるところから歩いて行ける場所はだいたい行ってしまっているが、どういうわけだか「藤崎(ふじさき)」界隈だけは、今までずっと素通りしていたことに気付いた。

 藤崎は、地下鉄空港線が通っていて、「西新(にしじん)」と「室見(むろみ)」に挟まれた駅である。早良区役所のほか、警察署や税務署などの官公庁施設が多く、商店街で賑わう隣町の西新に比べ、やや地味な印象がある。お蔭であまり散歩の対象に選んだことはない。でもまったく見所がないのかというとそんなわけでもなく、今日はそんな隠れた名所を訪ねることにしようと思う。

 長めに歩くということで、唐人町の黒門から旧唐津街道をたどって、西新経由で藤崎まで歩くことにする。江戸時代に、福岡城内から唐津方面に向かって行く人たちが使っていたのと同じルートだ。

 唐津街道は、江戸時代に参勤交代にも使われた由緒ある道で、起点は今の北九州市、終点は佐賀県唐津市である。今回の散歩のスタート地点である黒門は、江戸時代に福岡城内と城外を分ける境目に作られた門で、城の内外は黒門川という川で隔てられていたため、門から五間(約9m)ほどの長さの橋が架けられていたと伝えられる。この橋は黒門橋と呼ばれていたが、現在では黒門川は暗渠となり、門も橋も失われている。

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 上の写真は、旧唐津街道沿いにある唐人町商店街の入り口から黒門方向を見たものである。画面を横切っている大通りが黒門通りで、昔の黒門川ということになる。現在は暗渠になっていて、この道路の下を川が流れている。正面の細い道の入り口に、かつて黒門があった。ここにちょうど黒門橋が架かっていたわけで、江戸時代の城内と城外の境目ということになる。

 スタート地点から暫くは、唐津街道はアーケード付の商店街になっている。唐人町商店街というのだが、なかなか元気な商店街でそこそこ賑わっている。この商店街の中には、創業二百数十年と言われる黒田藩御用達の和菓子屋「加美屋」もある。

 また、以前この唐津街道沿いを歩いたときに訪れたが、商店街の北側に江戸時代の西学問所「甘棠館(かんとうかん)」の跡地がある。館長の「亀井南冥(かめいなんめい)」は、このブログで何度も紹介したが、「漢委奴国王」の金印の価値を見抜いて、鋳潰されそうになっていたところを買い取り鑑定したので有名だ。

 さて、商店街が終わったところで、唐津街道は90度曲がり南側に下りていくのだが、分岐点の近くにあるお寺にちょっと寄ってみよう。ここにはこの界隈で昔から有名な「八兵衛地蔵尊」というお地蔵さんがある。

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 地蔵尊の由来は江戸時代の元禄年間に遡る。ある火事の際、唐人町と須崎町の火消しの間で喧嘩があって、須崎町の側に死者が出た。この事件について奉行所が詮議をして、唐人町側から下手人を出せというお達しがあった。相手が死んでいるのだから、下手人は死罪である。

 唐人町の人々が困っていたところに、近所に住んでいた浪人「森八兵衛」が聞きつけて、自分は独り身だから身代わりになると申し出た。八兵衛はかつて大病を患った際、唐人町の人々に看病され九死に一生を得たことがあったので、その恩返しだと言う。

 身代わりとなって死んだ八兵衛を祀ったのが八兵衛地蔵尊で、唐人町の恩人であると同時に、町の火消しの恩人でもあるということで、火消しの人たちから慕われたと聞く。今でも消防の守り神とされているらしい。

 さて、寄り道はこれくらいにして先へ進むことにしよう。商店街の終点から直角に南に折れた唐津街道は、明治通りを渡った先で再びゆるやかに曲がり、東西方向の通りとなる。そのまま明治通りの裏道として、並行して西に向かう。この道はほとんど人通りのない静かな道で、散歩にはちょうどいい。

 唐津街道が東西方向の通りとなった辺りから、「今川(いまがわ)」という住所表示になる。昨日立ち寄った西町公園を過ぎて「樋井川(ひいがわ)」を渡ると「西新(にしじん)」である。

 西新のプラリバの裏を通り過ぎると、唐津街道は商店街になる。「西新中央商店街」というアーケードがあるところから続く商店街が、昔の唐津街道である。

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 この商店街はかなり活気があって、人通りも多い。そしてここの名物は、リヤカーで野菜を売りに来る糸島や早良の農家のおばさんたちだろうか。たまに土曜日に来ても道の中央に何台ものリヤカーが並んでいることがあるが、おそらくは平日が最も賑わうのだと思う。

 いつ頃からこういうリヤカーの野菜売りがあったのかは知らないが、以前聞いたところでは、農家の人たちがこの商店街に買い物に来るついでに、自分の畑で取れた野菜を売ったのが始まりらしい。野菜が売れた代金で買い物をして帰れれば、一石二鳥と言うことだろうか。

 そうは言いつつ私はリヤカーのおばさんから野菜を買ったことはない。どのおばさんの野菜がおいしいのか目利きが出来ないし、何度か買っていれば気心知れるのだろうが、たまにしか来ない一見の客には、おばさんたちからの買い物はどうも敷居が高い(笑)。

 さて、この商店街も藤崎に近づくにつれて次第に静かになり、活気も失われてくる。どうもこの辺りが、藤崎を馴染みのない街にしている要因なのではないかと思う。

 やがて裏道の商店街が終わり、唐津街道が明治通りに交わる辺りに、有名な炉辺焼きの「磯貝」がある。

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 福岡市内でうまい魚を食わせる店は、それこそ星の数ほどあると思うが、磯貝は昔から行列の出来る店として有名だ。福岡の人に聞くと、地元の人はあまり行列を好まないという。並んでまで食べようという気力がないとも聞いた。そんな中で毎日行列が出来るというのはすごいが、それが、いくらでも代替のきく魚料理の店で、というところが面白い。

 支店が天神にあるほか、最近では東京にも進出しているらしい。しかも丸ビルの中にあるというからビックリだ。いきなり東京進出という辺り、自信のほどが伺えようというものだ。

 私はこの本店と天神の支店と、両方行ったことがあるが、確かにおいしい。刺身は新鮮だし、出て来る魚料理は全ていい味付けだ。中でも、自慢料理と聞く「つぼ鯛のみそ焼き」は絶品だった。だが毎度満員御礼状態で、ちょっと思いついて行こうかというわけにはいかないところが惜しい。まぁ人気店だから仕方ないか。

 さて、この磯貝の隣に「猿田彦神社」という小さな神社がある。藤崎の名所というと、真っ先にここが頭に浮かぶ人も多いかもしれない。

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 普段は無人で、実に小さく静かな神社だが、年に何回かある「庚申(かのえさる)」の日には、たくさんの人が訪れて大賑わいになると聞く。人々のお目当ては、この日にだけ売りに出る猿のお面である。

 このページの先頭に掲げた写真がその猿のお面だが、実物は小さなものだ。このお面は、住宅地を散歩しているとたまに玄関先に飾ってあるのを見掛ける。最初はいったい何なんだろうと思っていたが、あるときにそれが猿田彦神社のお面だと気付いた。

 猿は「去る」と音が同じなので、「災いが去る」という意味があるらしい。そのため、家の玄関先にこの面を飾り、災厄が来ないようにしているということのようだ。まぁ一種のおまじないだな。

 この猿田彦神社からもう少し西に行ったところにあるのが「一里塚」だ。ただ、このロケーション、もう少し何とかならんかなという気がする。歴史的建造物に無頓着な福岡の人たちの気質を見るような環境だ(笑)。

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 ここに一里塚が出来たのは江戸時代のことだが、いったいどこから一里なのかというと、福岡城「上の橋御門」からである。上の橋御門は今では失われてしまったが、現在の「舞鶴公園」から平和台の交差点に出る辺りにあったらしい。そこから唐津方面に向けて唐津街道を歩いていくと、ここが一里(約4km)になるようだ。

 どうせなら、黒門からではなく平和台の交差点から歩いた方が良かったかなと一瞬思ったが、あの辺りは唐津街道が失われてしまって、唐津街道を歩いて藤崎に向かうという趣向が成り立たない。街道の残っている起点を探すと、黒門からとなるわけである。

 ちなみに福岡藩では、東と南にも一里塚を置いている。東の一里塚は筥崎宮の前にあるらしい。これは香椎方面に抜ける道だったのだろう。また、南の一里塚は板付橋にあると聞く。板付橋は空港のやや西側にあるようで、昔福岡空港はその辺りの地名を取って「板付空港」と呼ばれていた。そして、そこを通るのは、大宰府に抜ける道である。

 ここで明治通りを渡って、今度は北側に移ろう。

 早良区役所の脇を北に伸びる道に入り暫く行くと、税務署と保健福祉センターにはさまれた場所に緑地があり、何基かの墓が立っている。ちょっと不思議な感じの空間だが、この墓地に面した東側の部分に、元寇防塁の跡が保存されている。

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 この防塁の更に東の延長線上に西南学院大学があるが、そのキャンパス内にも同じような元寇防塁がある。これは以前にこのブログでも紹介したことがある。

 ここに防塁があるということは、鎌倉時代にはここが海岸線だったということになる。こうした防塁は、西は今津から東は香椎まで延々約20qにわたって築かれたが、鎌倉幕府が直接事業をしたわけではなく、九州の御家人などに区画が割り当てられ、それぞれの負担で作られた。従って、区画によっては作りに違いがあるようだ。

 この防塁のお蔭で、2回目に攻めてきた「弘安の役(こうあんのえき)」のときには蒙古軍は上陸できず、1回目の「文永の役(ぶんえいのえき)」のような激しい市街戦はなかったと聞く。防塁は、その後も維持されていたようだが、大陸からの侵攻の記憶が薄らぐにつれて修理もされなくなり、やがて荒れるに任せて崩されたり、埋められたりしたらしい。今ではたいてい地中にあり、ここのように掘り出さないと見られない。従って、元寇防塁跡という場所に行っても、石碑が建っているだけだったりして肩透かしを食うことになる。

 最後にもう一つ、珍しい「黄檗宗(おうばくしゅう)」のお寺に寄ろう。「黄檗宗大悲山千眼寺」である。これは、区役所から少し東に行った明治通り沿いにある。

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 黄檗宗は臨済宗、曹洞宗と並ぶ禅宗の一つだが、どちらかというと禅宗としてはマイナーなイメージがある(笑)。

 黄檗宗が日本に伝わったのは江戸時代初期のことで、明朝末期の中国から「黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)」の「隠元隆g(いんげんりゅうき)」が招聘された。隠元は日本の仏教界で大変な人気があったらしく、当初は期限を切って中国に帰る予定が、引き止められて結局日本で没した。

 隠元は日本において、中国と同じ名前の黄檗山萬福寺を京都の宇治に開き黄檗宗を確立するが、他の禅宗と違って日本流にアレンジせずに中国様式をそのまま持ち込んだため、寺の佇まいなどが一般の日本の寺院とは少々異なっている。

 ちなみに隠元が日本に持ち込んだのは黄檗宗だけでなく、インゲンマメと煎茶道を伝えている。インゲンマメはまさに名前としてそのまま付いているので有名だろう。煎茶道については、今でも関係団体の事務局は黄檗山萬福寺内に置かれ、萬福寺管長が団体のトップを務めている。

 さて、千眼寺の話であるが、ここに黄檗宗の寺が出来たのは福岡藩主の黒田家が招致したためだと伝えられている。黄檗宗は幕府や皇室からも信頼を得ていたらしい。開山は「天祐海信」という黄檗宗の僧で、ここが福岡唯一の黄檗宗の寺となる。

 私は黄檗宗の寺の中に入ったのは初めてだが、なるほど中国風の造りが随所に見られ、なかなか面白い。院内はきれいに整備されており、不思議なデザインの門のほか、本堂の赤い縁取りの円窓や卍字崩しの欄干など見ごたえがある。

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 こうしてみると、藤崎もそれなりに見所はあるのだが、如何せん宣伝がされていないのか、わざわざここを訪れる人は少ないように思う。

 ところで、福岡の地下鉄の駅にはそれぞれシンボルマークが付いていて、藤崎駅は名前の通り藤の花なのだが、この名前の由来になった藤って、どこにあったんだろうか。古い絵図を見ても、この辺りは海岸沿いの松林ばかりで、藤の花が咲くような場所は見当たらないのだが・・・。

 さて、帰りは西新に寄って本屋でも冷やかすか。今日はたっぷりと歩いたし、いい散歩だった。

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2011年03月12日

かつての草香江をたどる

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 今朝は曇り空で時折陽が差す空模様。まだ春の日差しというわけではなさそうだが、先週の寒波襲来時に比べれば、多少は暖かくなったと感じられる。散歩には申し分ない日和だ。

 昨夜は、東北地方太平洋沖地震のニュースを見ていて、ついつい夜更かししてしまった。観測史上最大級の巨大地震だったようで、被害の範囲も相当広いし、かなり離れたところまでゆれたようだ。だが、最大の脅威は津波だろうか。震源地から遠く離れた福岡にまで津波は到達し、博多湾でも何度かの津波が観測されているらしい。

 実を言うと今日は、九州新幹線の全線開業の日なのだが、未曾有の大惨事に記念行事は全て中止となった。福岡の人たちが楽しみにしていたイベントも取り止めとなり、私も駅周辺をブラブラしてみようと思っていたのだが、これまた中止である。ニュースで東北地方の惨状を見るにつけ、お祝いの会をしている場合じゃなかろうという主催者の気持ちはよく分かる。

 そんなわけで突然の予定変更となったが、せっかく天気もいいので、あまり遠出をしない範囲内でウロウロしてみようかと外に出掛けた。

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 この前、古い博多湾の跡を訪ねて現在の博多地区を散策した。あのとき、川端にある「渡唐口跡」の石碑に「冷泉津」という言葉が彫ってあったと思うが、これは古い博多湾にあった入り江の名称である。旧博多湾には、実はもう一つ大きな入り江があった。それが「草香江(くさがえ)」である。今日は、その草香江の跡をたどってみようと思う。

 いったいそれがどこにあったかということだが、今でもその入り江の一部が福岡市内に残っている。どこかというと「大濠公園(おおほりこうえん)」である。草香江をどんどん埋め立てていって、小さくなったのが大濠公園というわけで、今では巨大な池なのだが、かつては海の一部だったということになる。道理で大きいわけだ。

 ということで、本日のスタート地点は毎度お馴染みの大濠公園である。

 大濠公園はこれまで何度も紹介したが、今日はこれまでブログに出ていないスポットをご紹介しようと思う。大濠公園の池の中央部には細長い中の島があり、観月橋とさつき橋という2つの橋で岸と結ばれている。この中の島に万葉歌碑がある。

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 石碑に彫られた「しろたへの袖の別れを難みして 荒津の浜にやどりするかも」の句は、ここが海と直接つながっていた時代に、海路で旅立つ人が別れを惜しんで作った歌である。見送りに来てくれた人と別れがたく、浜辺でもう一晩宿泊したという内容の歌だが、見送りに来ていた人が歌った返歌も収められていて、
「草枕 旅行く君を荒津まで 送りぞ来ぬる飽き足らねこそ」
というのがそれである。

 荒津は以前紹介したが、現在の西公園の北側にあった浜辺で、海路の要所として防人まで置かれていた重要拠点である。当時は、荒津から内陸部に入り込んだ入り江が、大濠公園よりも更に南まで達していたらしい。

 その巨大な入り江が埋め立てられたのは、関が原の戦いの後に福岡に入って来た初代福岡藩主「黒田長政」の治世下で、福岡城を築く際の堀にしようと大規模な工事が行われたようだ。長政は、入り江の入り口をふさいで巨大な湖に変え、海との間の水の行き来が出来るように、人工の川を作った。それが黒門川である。現在では暗渠になって上を「黒門川通り」が通っているが、これもかつては海の一部だったということになる。

 当初の入り江がどの程度まで広がっていたのかをたどるため、まずは大濠公園を出て南下する。気象台の脇から出て国体道路を渡ると、すぐ南にある地区の名前が、ズバリ「草香江」である。

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 今ではマンションと戸建てが混在する住宅街だが、昔はこの辺りは海だったことになる。最初にこの辺りを散歩していたとき、しゃれた地名なので新しく付けられた名前だとばかり思っていたが、まさか古い入り江の名前だとは思わなかった。

 草の香る入り江という意味の名前からすると、この辺りは砂浜というより水草などが生い茂る湿原のような状態だったということだろうか。江戸時代以降になると、絵図を含め色々な記録が残っているようだが、それは大規模土木工事をして、川を付け替えたり、埋立てをして道や家並みを配したりした後の姿である。それ以前のこの辺りの様子がどんなだったかは、どうもよく分からない。

 では、いったいいつ頃からこの草香江という名前があったかということになるが、遅くとも奈良時代には存在していたと推測できる。それは万葉集に、この付近を歌った歌が出て来るからだ。その歌を記した万葉歌碑があるのでちょっと寄っていこう。歌碑は草香江地区の公民館にあるのだが、隅の方にひっそりと置かれているものだから、ちょっと分かりにくい。

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 写真では読みにくいが、「草香江の入り江にあさる葦鶴のあなたづたづし友なしにして」という歌だ。作者は「大伴旅人(おおとものたびと)」である。

 旅人は奈良時代初期の貴族だが、酒をこよなく愛した歌人として有名である。福岡との縁は、長官職である「大宰帥(だざいのそち)」として家族共々大宰府に赴任したことによる。このとき大宰府に連れて来た子供というのが、三十六歌仙の一人として名高い「大伴家持(おおとものやかもち)」である。当時、筑前守はこれまた歌人として有名な「山上憶良(やまのうえのおくら)」で、大伴旅人とはよく交流していた。

 歌に出て来る「あなたづたづし」は「あぁ、たどたどしい」というくらいの意味で、草香江で一羽の水鳥が餌をついばんでいる様子を歌ったものだ。「友なしにして」という部分は、水鳥のことでもあり、都から離れて遠く九州までやって来た自分自身のことでもあったろう。

 実は、旅人は大宰府に赴任するとまもなく、この地で妻を亡くしている。そもそも60歳を越えてからの九州赴任で、何かと苦労も多かったことだろう。そんな気持ちが、この寂しげな歌に表れているのかもしれない。妻を亡くし独り身でこの九州の地に暮らす自分と、岸辺でゆっくりと餌をついばむ一羽の水鳥の姿を重ね合わせたのではなかろうか。ちなみに旅人は、数年の後に都に戻るが、すぐに病に伏し亡くなっている。

 さて、入り江がおそらくここまで来ていたのだろうと言われている「別府(べふ)」まで南下することにする。草香江地区のすぐ南が別府である。

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 上の写真は、別府橋の交差点に向かって南に歩いているところで、左の川は「樋井川(ひいがわ)」である。草香江周辺の川は、福岡城築城の際に黒田長政によって付け替え工事が行われて流れが変わっているため、昔の樋井川が今の通りに流れていたかどうかは分からない。ただ、この別府橋辺りはおそらく浜辺だったのだろう。

 実は、ここから西に数百メートル行ったところに、かつてこの場所が浜辺だったことを示す痕跡が残っているので、ちょっと立ち寄ってみよう。場所は城西中学の南側になるのだが、注意して見ないと分からないポイントである。

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 この小さな祠は「愛宕将軍地蔵大菩薩」という。ここは、鎌倉時代の元寇のおりに西新に上陸した蒙古軍と日本の武士団とが激突した古戦場なのである。祠に併設されている解説板によれば、この辺りは当時「阿弥陀ヶ浜」と呼ばれていたようで、草香江の浜辺の一部だったのだろう。

 蒙古軍が上陸して陣地を敷いたのは、以前に訪ねた西新の「麁原山(そはらやま)」である。山の上には蒙古の旗がたなびき、太鼓やどらを打ち鳴らして蒙古軍が気勢を上げたという。陣から出撃した蒙古軍は、火薬を使った武器を打ち鳴らし、鳥飼、赤坂、別府、荒江の各地区で、九州の御家人勢と激しく戦った。その戦場の一つがここというわけで、この場所で千人以上が戦死したと伝えられている。

 戦場となった各地区は、おそらく草香江を取り巻く浜辺だったのではなかろうか。赤坂は福岡城のある辺りだが、昔城のあった場所は赤坂山という山だったそうだから、浜辺沿いに博多地区を目指した蒙古軍と、迎え撃つ武士団とが入り江に沿った幾つかのポイントで、激しく争ったのだろう。

 別府の戦場で戦死した者たちを弔うため、当時祠が建てられ、ずっと大切にされて来たという。ところが大正時代になって、私鉄の「北九州鉄道」が博多と伊万里を結ぶために筑肥線を作った際、工事で祠が壊されて行方知れずになっていたらしい。

 なかなか面白いのは祠が再建された経緯で、福博トラックという会社がこの辺りの土地を事業用に買い取った際、祠が地中に埋まっているというご霊託があり、詳しい調査をして手掛かりを得、現在の社を再建したという。何とも不思議な話だ。

 で、その筑肥線だが、地下鉄開業に合わせて昭和58年に姪浜以東の線路が廃止された。線路の跡は道路となって「グリーンレールロード」という名前が付いている。

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 上の写真は、祠の近くの交差点から南側を見たものだが、すぐ先に見える信号のあるところが、グリーンレールロードとの交差点である。この交差点を左右に走っているのが、昔の筑肥線の線路跡で、祠のある通りのすぐ南を延々と平行して走っている。線路脇に作られた道路と二重になってしまったわけだ。考えてみればもったいない話だ。知らない人が見れば、どうして同じような道が延々と平行して通っているのか不思議に思うに違いない。

 このグリーンレールロードを西側、この写真で言うと右側にたどっていけば、筑肥線の始発駅だった姪浜駅に着く。以前姪浜を散策したときに、筑肥線の線路跡を利用して作られた道路を紹介したが、あそこにつながっているのである。

 現在の姪浜は、地下鉄空港線の始発駅であると同時に、そこから西に向けて、唐津方面に行く現在のJR筑肥線が走っている。いつかこのグリーンレールロードをたどって姪浜まで行ってみたいと思うが、かなり距離がありそうだ。

 さて、ここからは北に進路を取って、入り江の北端辺りまで行ってみようと思う。城南区役所脇の道を北に進むと、やがて西に蛇行した樋井川にぶつかる。そこに架かる「塩屋橋」を渡ると北側は鳥飼地区だが、そこを抜けたところに今川地区がある。暫し歩くと左手に「西町公園」があるが、この公園の北側を通る細い道が、旧唐津街道である。おそらく、この辺りまで北上すると陸地だったのだろう。

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 上の写真の左手にあるのが西町公園だが、昔ここら一帯は、今川ではなく西町という地名だったらしい。今ではこの公園くらいしか、西町という名前を今に伝えている場所はないと思う。西町自体、いつ頃出来た集落だったかは詳しく知らないが、ここに集落があったということはもう入り江ではなかったということだろう。

 ちなみに、このすぐ西側にある「西新(にしじん)」という地名は、この西町の先に出来た新しい町という意味らしい。西新の方は地下鉄の駅名にまでなって福岡の人たちにはお馴染みだが、おおもとの西町は、いつの間にか名前が失われてしまった。

 さて、今日のところはこれくらいにして、家路をたどることとしよう。地震の被災地では、まだ余震や津波が続いているらしいが、早く事態が終息し救助活動が進むことをお祈りする。福岡からも続々応援部隊が出動しているらしいし、世界各国からも援助の打診があると聞く。何とも心強いことだ。

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2011年03月06日

デパート戦争

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 今朝は起きたら、夜のうちに降ったらしい雨で地面が濡れていた。空には重く雲が垂れ込め、時折雨の降る憂鬱な空模様である。天気予報を見ると、日中はずっと雨ということで、散歩は諦めることにした。

 朝から本を読み始めたが、昨日天神の書店で買った本ではなく、私の前任者がおみやげ代わりに置いていった、内田康夫の「博多殺人事件」である。前から読もうと思ってはいたが、いつの間にやら延び延びになっていた。

 内田康夫の推理小説は、ひと頃熱心に読んだ。警察庁刑事局長の弟である浅見光彦が活躍するシリーズをかなりの数読んだが、内田康夫は多作の作家で、読めども読めども終わりがなく、そのうち飽きてやめてしまった。でも読みやすい本のうえ、全国各地が舞台となる旅情派の推理小説なので、出張のお供にはなかなかいいと思う。

 博多殺人事件は、福岡市の博多区で発見された白骨死体を皮切りに話がスタートする。最初に博多の歴史がさらりと解説されていて、以前その冒頭だけぱらぱらとめくって読んだ覚えがある。昨日散歩から帰って、訪れた昭和通り界隈の歴史にも触れてあったかなと手に取って再読しだして、そのまま本格的に読み始めたわけである。

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 福岡の老舗デパートと、新たに進出を目論む大手流通グループとの戦いを背景にストーリーが展開していくが、初版は1991年と、かなり昔の舞台設定になる。

 白骨死体が発見されるのは「御供所町(ごくしょまち)」の地下鉄工事現場ということだし、今のヤフードームやシーホークホテルも出来ていない時代の話だ。面白いのは、当時繰り広げられていた現実の小売業界の競争をそのままモデルに使っていることだ。これは、小説の末尾にある作者の解説でも触れられている。

 小説の中に登場する、呉服屋が発祥の老舗デパートが「岩田屋」のことであるのは福岡の人なら誰でも分かるし、福岡進出を目論み百道にドーム球場や高層ホテルを立てる計画を練っている流通業界の覇者が「ダイエー」であることも一目瞭然だ。その進出の先駆けとして吸収合併されてしまう北九州最大のスーパーチェーンというのがどこなのかは私には分からないが、長く福岡に住んでいる人なら「あぁあそこかな」と分かってしまうのだろう。

 しかし「事実は小説より奇なり」というように、博多殺人事件が世に出てから20年の歳月を経て現実を眺めると、小説内ではしのぎを削る岩田屋、ダイエーともかつての勢いをすっかり失ってしまっている。

 当時日の出の勢いで福岡に進出したダイエーは、バブル崩壊と共に業績が悪化し、やがて産業再生法の適用を受けて業務を縮小、経営再建の道をたどる。小説の中で豪腕でエネルギッシュな存在感を発揮する社長のモデルは、ダイエー創業者の中内功氏だろうが、彼もダイエーが経営再建に取り掛かった辺りで亡くなっている。

 今でも福岡市内にはダイエーの店舗がかなり残っていて、それなりに存在感があるが、再建に当たって多くの店舗を手放したとも聞いた。福岡で暮らしていると「あそこは以前ダイエーでね」という話を聞くことが多いが、ある店はコンビニに変わり、またある店は全く別系統の小売店舗になっている。また、ダイエー福岡進出のシンボル的存在だったであろうドーム球場と高層ホテルは、「ヤフードーム」と「ヒルトンホテル」になった。かつての「福岡ダイエーホークス」は「福岡ソフトバンクホークス」となり、今ではソフトバンクのイメージがすっかり定着した観がある。

 一方、岩田屋の方もかつての栄光はかなり衰えたと言わざるを得ない。戦前に天神に店を構えて以降、福岡一のデパートとして栄えた岩田屋も、ダイエーや他の地方デパートと同じく、バブル崩壊と共に経営が悪化し、創業者一族は経営の第一線から身を引いたと聞いた。かわって東京の伊勢丹デパートの傘下に入り、三越と伊勢丹の経営統合の後は「岩田屋三越」となっている。

 この間、天神の一等地に建っていた旧本店を売却して、渡辺通りから少し入った場所に本店を移したほか、他の地域に持っていた支店も閉鎖した。証券取引所でも上場廃止となり、今では三越伊勢丹ホールディングスの完全子会社となっている。

 現在天神地区のデパートとしては、この岩田屋のほか、三越と大丸がある。福岡に来て地元の人と話をしていると、東京に比べて福岡にはまだまだデパート信仰みたいなものが残っているなと感じることがある。東京ではデパートという小売業態の凋落が激しいが、福岡では一応新規の流通店舗とうまく共存している気がする。

 私は天神にある3つのデパートに行ったことがあるが、店の規模は東京の老舗デパートの売り場面積に比べると狭いし、華やかさにやや欠けるところがあるという印象を受けた。店舗の作り方やディスプレーの仕方がそう感じさせるのだろうか。

 それでも「デパートは高級な場所、特別な場所」というイメージが残っていて、いいものを買うときにはデパートに行くという意識が、東京の人より強い気がする。東京ならブランド物は直接そのショップに見に行くという傾向が強まっているように思うが、福岡ではまずはデパートに足を運ぶ人が多いのではないか。それが、海外ブランドショップを集めた博多リバレインが今イチ振るわない原因だとも思える。

 そんな中で3月3日に、JR博多駅を中心とする「JR博多シティ」が鳴り物入りで登場し、中核テナントの一つとして大阪から阪急百貨店がやって来た。新しくJR博多シティにやって来る多数のテナントのうち、地元の人が阪急に寄せる期待が大きかったので少し驚いたが、これもデパートに対する思いの違いなのかなとも考えた。

 ちなみに、博多駅には以前、地元の北九州市を拠点とする井筒屋が店舗を構えていた。新しい駅ビルになっても引き続き存続を望んだというが、競争の結果は阪急に軍配が上がったということらしい。その井筒屋も業績不振にあえぎながら経営再建策を実施中と聞くが、今のところ大手資本傘下には入らず単独で東証一部に上場した状態を保っている。

 今回のJR博多シティ開業と九州新幹線鹿児島ルート全線開業で、福岡はおろか九州全体の消費者の動きが変わるかもしれないなんて言われている中、この先福岡のデパート業界がどうなっていくのか、大いに興味のあるところである。JR博多シティに客を奪われないよう、従来の勝ち組だった天神地区の商業施設は既に臨戦態勢にあるというし、これからは国内だけでなく中国からの買い物客の争奪を巡る動きも出てくるだろう。さしずめ新たな戦争と言ったところか。

 一度偵察がてらJR博多シティにも足を運んでみたいものだ。クリスピードーナツ買うのに2時間待ちなんて聞いたから当面近寄らないようにしようと思っているが、ちょっと覗くくらいなら平気かな。これからの季節、天気の悪い日の散歩候補に入れておくことにしよう。

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2011年03月05日

那の津、袖の湊を訪ねて

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 今週は寒い。一旦暖かくなってから再び寒気が到来したから、余計にそう感じるのかもしれない。春の初めというのは、暖かくなったり寒くなったりの繰り返しだから仕方ないが、願わくばこの寒さを最後にして欲しいものだ。

 さて、先週は福浜、荒津と海岸沿いを探訪したが、今週は更に東に移って、昔の博多の港沿いをぶらぶら歩いてみようと思う。

 旧博多の港は「那の津(なのつ)」と呼ばれたり、「袖の湊(そでのみなと)」と呼ばれたりしているが、両者の違いは概ね次のようなものらしい。

 那の津の「那(な)」は、金印で有名な「倭奴国王」の「奴(な)」だと言われている。「倭奴国(わのなこく)」の王が、後漢の都洛陽まで使者を遣わし光武帝から金印を授けられたという記述が「後漢書東夷伝」にある。これは建武中元二年、西暦に直すと57年ということになる。従って、この呼び名はかなり古いものだろう。

 「日本書紀」では、外交と軍事の拠点を築くため、536年に「那津官家(なのつのみやけ)」が博多に置かれたという記述があり、この時点で「那津(なのつ)」という名前が大和朝廷に認知されていたことが分かる。

 一方袖の湊という名前はもう少し新しいもののようで、平家の総帥である平清盛が整備した港のことをさすことが多いようだ。皇位継承を巡る朝廷内のゴタゴタから後白河天皇派と崇徳上皇派が武力衝突した「保元の乱(ほうげんのらん)」で、後白河天皇方について勝利した平清盛は、大宰大弐となって九州にやって来る。1158年のことである。そして博多に港を整備して宋との貿易を本格化させた。いわゆる日宋貿易であり、その拠点として作った港が袖の湊というわけだ。

 ただ、当時の港と今の海岸線は、当然の事ながら異なる。埋立てが進んだからだ。昔は、昭和通りの北側が海岸線だったのではないかと思う。今日は、そうした古い海岸線沿いを歩き、かつての遺構をたどろうという趣向だ。

 出発地点は地下鉄空港線の「中洲川端駅」である。ここは歓楽街中洲の最寄駅だが、中洲の対岸、博多側に「博多座」や「中洲リバレイン」「ホテルオークラ」などがある。この3つの建物は、いずれもこの地区の再開発事業として整備され1999年に完成した。従って、かなり新しい街の顔ということになる。

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 博多座は、演劇専用の建物で、歌舞伎、ミュージカル、お芝居など幅広い演目を扱い、九州最大規模の座席数を誇ると言われている。毎年2月と6月に歌舞伎がかかるが、6月の興行時には、隣の博多川で歌舞伎役者が船に乗ってお披露目をするらしい。これが大変な人気だと聞く。

 一方中洲リバレインは、ショッピングとレストランを中心とした複合商業施設で、ショップは海外の高級ブランドが多いと聞く。一度だけレストラン街に食事に行ったことがあるが、ショップの方をしげしげと見たことはない。まぁホテルオークラと直結しているところからして、高級店が多いんだろうなぁと想像はつく。

 さて、この最先端の建物群の脇になかなか渋いスポットがある。それが、「鏡天満宮(かがみてんまんぐう)」である。

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 鏡天満宮は博多川に面していて、中洲リバレインとホテルオークラに挟まれこじんまりと建っている。近代的なビルの間に神社というのも違和感があるが、川沿いだからそれ程目立たない。ここのご神体は名前の通り鏡である。但し、普通の鏡ではなく、菅原道真にまつわるいわく付きの鏡と聞く。

 菅原道真が大宰府に流された際、一行は船で博多の港に着いた。ようやく九州に上陸した道真は、海路の疲れでやつれた自分の顔を、休息の折りに鏡でしげしげと見たという。そのときの鏡を供の者とその子孫が自宅内に祀ったのが、この神社の始まりらしい。そのため別名を「奴天神(やっこてんじん)」というとの解説があった。奴は下僕の意味である。

 ところで、この鏡天満宮の脇に小さな石の道標のようなものがある。実はこちらの方が目的だったのだ。

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 「渡唐口跡」と書かれているが、ここは遣隋使、遣唐使の時代から、中国大陸との間を行き来する船が接岸した場所だと言われている。

 渡唐口の「口」は、戦国時代に荒れ果てた博多の街の復興を目指して豊臣秀吉が行った「太閤町割(たいこうまちわり)」の名残の地名である。九州征伐からの帰途博多に立ち寄った豊臣秀吉に対し、博多の豪商「神屋宗湛(かみやそうたん)」らが商人の町の復興を願い出て実施された区画整理が太閤町割だが、そのときに区画の単位の一つとして「口」という言葉が用いられ、計7つの口が作られた。渡唐口もその一つというわけである。

 太閤町割の時点でこの場所が、かつての大陸行きの船の発着場だということが知られていたが故にこうした名前になったのだろう。石碑の下に小さく「冷泉津」「袖湊」とあるが、冷泉津は博多湾の入り江の旧名で、袖湊は、上に解説した平清盛の整備した港である。いつの時代のものかは分からないが、この辺りに船着場があったのは確かなようで、今と違ってすぐ先は海だったということだ。

 ちなみに、脇にあった解説板によると、昔この辺りに、唐から帰って来た最澄が「明王山冷泉寺」を開いたらしいが、今では失われてしまって存在しない。

 当時の海だった辺りをたどろうと、すぐ北側の昭和通りを渡り、路地を入って「沖濱稲荷神社(おきはまいなりじんじゃ)」を訪ねた。

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 沖濱稲荷神社は、うなぎの寝床のように細長い敷地にあるこじんまりした神社だが、なかなか興味深いいわれを持っている。

 ここは神社なのだが、実は弘法大師空海ゆかりの地である。空海が留学先の唐から帰国し、博多に上陸した際、長旅の疲れから衣を脱いで松に掛け、暫しまどろんだのがこの場所だという。このとき衣をかけた松が「大師衣掛けの松」と呼ばれて、長年大切に保存されていたらしい。つまりこの辺りは当時海岸沿いの松林だったということになる。

 この場所に神社まで建っているのにはわけがある。空海が居眠りをしたとき、夢の中に雲に乗ったお稲荷様が現れて「高野山に弘道の本拠を開くべし」とのお告げがあったと伝えられている。つまり、後に空海が高野山に「金剛峯寺(こんごうぶじ)」を開き真言宗を確立する最初の啓示を受けたのがこの地というわけである。

 以前はこの場所に「光照寿院」という大師堂が置かれるとともに、夢に出て来たお稲荷様も一緒に祀られていたという。大師堂とお稲荷様という珍しい組合せで両者が同じ場所に共存していたらしいが、第二次大戦の空襲で焼けてしまい、戦後は稲荷神社だけが再興されたようだ。

 ちなみに、神社の方のご神体は隕石だったと解説板にあった。その隕石は江戸時代に町内の酒屋の大桶に落ちて来たもので「宝珠石」と呼んでいたようだ。言い伝えでは、その石を直接見た者は目がつぶれると恐れられていたらしいが、こちらも戦災で行方不明となっている。

 ここにはもう一つ名所がある。「川上音二郎生誕記念碑」である。

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 「川上音二郎(かわかみおとじろう)」のことをどう表現すればいいのかよく分からない。一言でいえば型破りの芸人ということであろうが、その波乱万丈の人生や活動の幅広さでは、今どきはいない破天荒の存在であることは確かだ。

 福岡に生まれたのち家を飛び出し福澤諭吉の書生として慶應義塾に学び、一時は自由党所属の反政府活動家となって、演説・新聞で政府批判を繰り返したびたび検挙された。その後は講談、演劇、落語と、芸の道に入りつつも政治色の強い活動を展開。「オッペケペー節」が有名になるが、政治の夢が捨てきれなかったのか総選挙に立候補して落選している。妻だった「貞奴(さだやっこ)」とともに欧米に渡って好評を博したりもしたが、最後は舞台で倒れ、遺言に従い博多の承天寺に葬られた。

 演劇の世界では、音二郎は新派の確立に寄与したとして尊敬を集めているようで、神社内には女優の水谷八重子や波乃久里子が建てた顕碑がある。

 それにしても、空海が高野山開山の啓示を受けた居眠りの場所、隕石をご神体にしていたお稲荷様、そして破天荒の芸人川上音二郎生誕の地。まことにもって奇妙な組合せである。

 さて、この旧海岸沿いをそのまま東にたどろう。大博通りの手前辺りに「豊国神社(とよくにじんじゃ)」がある。

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 一見、何かの商業施設かと思う新しめな外観と、住宅地程度しかない狭い敷地で、あまりありがたい神社とも思えない。実は、ここが神社になったのは比較的新しい話で、明治時代のことだという。元々は上にも書いた博多の豪商神屋宗湛の屋敷跡である。

 神屋宗湛のことは、今年になってから訪れた九州大学医学部構内にある「利休釜掛の松」のときにも書いた。

 宗湛は織田信長と知己を通じており、秀吉とも親しかった。他方、九州全土を支配下に置こうと北進していた島津氏とは対立関係にあったから、秀吉の九州征伐時には経済面も含めて秀吉軍を支援した。純粋な商人というより政商ということになる。

 上にも書いたように、宗湛は焦土と化した博多の町を秀吉に見せ、復興を願い出て、太閤町割が実施された。このとき宗湛は、秀吉から間口13間半、奥行30間という広大な宅地を与えられた。それがこの場所で、宗湛はここに屋敷を構えた。

 宗湛は秀吉から商売上の特権を与えられ、博多一の商人としての地位を築く。秀吉の九州征伐時に資金援助しただけでなく、朝鮮出兵時にも協力している。そうした極度に秀吉寄りの姿勢が後に徳川家康から嫌われ、黒田長政の時代になると勢いは衰えていったらしい。政商らしい結末をたどったわけだ。

 秀吉の死後、冷たい世間の風にさらされた宗湛は、感謝の念から屋敷内に秀吉を祀る祠を建てたという。これが今の豊国神社へと発展するわけだ。

 広大な屋敷というわりに神社は小さいが、実際の宗湛の屋敷は、今ではお隣の博多小学校の敷地になっている。

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 博多小学校は、冷泉、奈良屋、御供所、大浜の4つの小学校が統合して出来た新しい小学校で、平成10年に開校した。大博通り沿いに続く校舎は近代的なデザインで、外観がなかなかしゃれている。校庭を中に持って来て、道路沿いを全て校舎にしているので、よく注意しないと小学校とは分からない。これが全て宗湛の屋敷だったとなると、確かに豪邸だ。

 ところで、この小学校の建設工事の際に、石塁が発見され地下に保存されていると聞く。発掘された石塁は、元寇の際に九州の御家人たちによって海岸沿いに築かれた元寇防塁の一部ではないかと言われている。つまり、ここもまた海岸線だったろうと推測できる手掛かりとなる。

 ただ、宗湛の屋敷跡とされる場所に元寇防塁があったとなると、屋敷は海沿いにあったのだろうか。あるいは、平清盛が袖の湊を作った際に埋立てを行ったということだろうか。

 さて、そろそろ元の場所に戻ろうと思うが、帰りがてらにもう一つ、当時ここが海岸だったことをうかがわせる場所に立ち寄ろう。昭和通りの南側にある「綱敷天満宮(つなしきてんまんぐう)」である。

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 ここは、菅原道真が船で博多に上陸した際、地元の漁師たちが舟を停めておく綱を輪にした敷物を作って出迎えた場所と言われている。つまりこの辺りが、当時の漁村だったということだろう。それにしても、京の都で右大臣まで務めた道真が、そんな粗末なもてなしに甘んじなければならなかったというのは、何とも哀れなエピソードである。

 その後、道真を迎えた場所に神社が建ち、最初は「綱輪天神(つなわてんじん)」と呼ばれたらしい。神社はやがて今の「綱敷天満宮」となったが、「綱輪(つなわ)」の名前も残り、それがなまって「綱場(つなば)」に転じたようだ。今ではこの界隈の町名は、「綱場町(つなばちょう)」という。

 しかし、鏡天満宮といい綱敷天満宮といい、九州における道真の一挙手一投足が全て天満宮という形になって記録されているところが面白い。そこまで地元の人に慕われていたのか、はたまた祟りが怖くて朝廷側が慌てて祀ったのかは知らないが、ここまで事細かに挙動が足跡として残っているのは、弘法大師並みと言っていいのではないか(笑)。

 さて、この往復に使った昭和通りは、現在の海岸線から約1kmほど内陸にある。昭和通りよりも海側には、国際会議場やポートタワー、マリンメッセなどの施設があるが、全て埋立地ということになる。

 現在の昭和通りに立って那の津や袖の湊の面影を想像するのは難しいが、ビル街の中に当時の記憶の断片が神社や石碑として残されているあたりが、如何にも歴史ある博多の街らしいなぁと感心する。

 このあとは天神まで歩き本屋にでも寄って帰ろうと思う。どうやら明日の天気は、先週末同様下り坂らしい。お篭もりの一日となったときのために読む本でも物色することにしよう。

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