2011年04月24日

読書半分、散歩半分

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 朝起きたら晴れていた。しかし空気は冷たく、相変わらず風が強い。昨日と同じような大気の状態らしい。朝ご飯を食べているうちにどんよりとした曇り空になった。福岡市内の天気予報をネットで見ると、昨日の予報より改善はしているが、昼を中心に雨になると言っている。そのうち空が暗くなるが、雨は降らずに今度は薄日が差す。まことに変わりやすい天気のようで、これだと昨日のように、一転にわかに掻き曇りザッと一雨来てもおかしくはない。

 またもや遠出は諦めて、空模様と相談しながら近場を散歩するしかなかろう。天気予報が警告している昼の雨をやり過ごした辺りで出掛けるかと、午前中は家で過ごす。

 この前から読み始めた三津田信三の「作者不詳」を広げながらソファに寝転ぶ。この本は、作者と同名の三津田信三を主人公にしたシリーズものの一つで、謎解きホラー小説とでも呼べばいいのだろうか。

 主人公が趣味としている散歩の途中で「杏羅町」という古風なたたずまいの町を見つけ、そこにある古本屋で「迷宮草子」という同人誌を手にするところから話はスタートする。迷宮草子には、不思議なペンネームの投稿者たちの短編小説が載っているが、いずれも中途半端に解かれた怪奇推理小説のような内容だ。そして恐るべきことに、各短編の真相を読者自ら発見できなければ、小説中に出て来る怪異現象が自分の身の回りで実際に起きるという異常事態が発生する。

 例えば、第一話の「霧の館」では、小説中に出て来る濃密な霧が、主人公たちの周りに立ち込める。それは、主人公たちにしか見えない霧なのだ。やがて、謎を解き終えると、霧はすぅーと消えていく。各編とも同じように、読後に怪異が現れる。どんな怪異が現れるのかは、実際に起きてからしか分からない。

 その不思議な現象に見舞われた主人公たちは、本を購入した古本屋に行き、店の主人を問い詰め、かつて「迷宮草子」を購入した人たちが次々に行方不明になっていることを知る。そして、その古本屋の主人もまた、主人公たちが目を放した隙に、店内で忽然と姿を消してしまう。最後の短編まで全て謎を解かないことには、自分たちも同じ運命をたどると察した主人公たちは、一編、また一編と読み進め、奇妙な話の背後にある謎を解いていく。

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 この本は、迷宮草子の一編一編に対して推理が行われ、真相にたどり着くと怪異が消えるという構成になっているため、細切れにして読みやすい。それで、暇な折々に少しずつ読んでいたのだが、今日は幸い時間があるので、残りを最後まで一気に読むことにした。

 全編を通して非常に凝った構成になっており、最後の最後まで迷宮草子という本そのものの謎が解けない。予想を覆して話は二転三転し、よく練って書いてあるなぁと感心した。

 私は、ホラー小説を読んで怖いと思うことはほとんどない。怪奇現象とか幽霊とか化け物とか、全て人の創造力が作り出した空想に過ぎないから、化け物が出て来て人が次々に殺されても、しょせんは作り話だと割り切ってしまう。現実には起こり得ない話なのだから、恐怖心は湧かないというわけだ。

 むしろ怖いのは、現実に存在する悪意を持った人間の方で、高齢者を餌食にする詐欺師や、自分勝手な無差別殺人の方がよほど恐怖だ。親切そうな振りをして近づいて来る悪人や、邪悪な心を持った冷血漢の方が、怪異現象よりもよっぽど怖い。それに比べれば幽霊なんて、笑い飛ばせる存在だろう。

 ならば何故、ホラー小説なんか読むのかということになるが、それは謎解きが面白いからだ。逆に言えば、謎解きのない怖がらせるためだけのホラー小説なんぞは読まない。

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 私が好きな京極夏彦の百鬼夜行シリーズで、主人公の「京極堂」こと中禅寺秋彦が事件解決の際に「この世には不思議なことなど何もないのです」という有名なセリフを吐く。まぁこれと同じで、この世で不思議だとされている怪現象の裏には何らかの原因があり、科学的に説明が付くというのが私の考えである。

 よく巷に幽霊屋敷なるものがあり、そこで寝泊りした人には夜中に怪異が起こるなんて話がまことしやかに語られるが、これとても科学的に分析すれば原因は必ずあるはずだ。以前、何かのテレビ番組を見ていたら、この種のお化け屋敷を海外に訪ねて科学分析していた。そして、夜中に幽霊が出るという部屋で計測器を使うと、強力な磁場の乱れがあることが確認されていた。人間も動物だから、地中の磁場の狂いを身体で感じ、それが寝ているときに夢に反映されて幻想を見ているのではないかという解説があった。

 また、霊感が鋭い人は霊を見ることが出来るなんて話もあるが、最新の脳科学では、人間の脳の特定部位に電気刺激を与えると、誰でも、あるはずのない物が見えたり、他の人には聞こえない音が聞こえたりするものらしい。要するに霊感の鋭い人というのは、生まれながらにしてこの脳の特定部位に刺激が伝わりやすい構造になっているのだろう。かくして、霊感の鋭い人が幽霊屋敷に行くと、磁場の狂いが脳の特定部位に刺激を与えて、霊が見えるということになる。逆に、幽霊屋敷に行っても何も感じない人もいるが、これは磁場の感知能力が他の人よりも鈍いということなんじゃなかろうか。

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 さて、三津田信三の「作者不詳」を読み終わったところで、遅まきながら散歩に出掛けることにした。

 どうやら雨は降らなかったようで、昼頃に一瞬降るかなと思うような空模様にはなったものの、やがて空が明るくなり日が差し始めた。こんなことなら早くから出掛ければ良かったのだが、昨日の突然の雨があるから踏み切れなかったのだ。こりゃ完全に天気予報に振り回されたな。

 昨日西新方面に散歩に行った際、街路樹の新緑がきれいだったので、新緑を見に行こうと考え、西公園に足を運ぶことにした。この前桜が咲いたときに行って大賑わいだったが、また元の静かな公園に戻っているだろう。

 歩いて西公園の入り口に行く途中で、学校の校庭に藤の花が咲いているのが見えた。そういえば、八女市黒木町に大きな藤があるという話を聞いたことがある。樹齢600年で天然記念物に指定されているらしい。ちょうど今が見頃ではなかろうか。

 八女というのはお茶の産地として知られているが、女優の黒木瞳さんの出身地でもある。芸名は町の名前から取っているが、彼女の方は「くろき」と発音するのに対して、町名の方は「くろぎ」とにごる。

 さて、西公園の入り口までたどり着くと、参道はすっかり桜の花も散り、新緑が美しくなっていた。ただ、散歩に来ている人やジョギングをする人など、それなりに来園者はある。気候も良くなり、散策にはいい頃合いだからだろうか。

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 桜の季節が終わったというのに、車がひっきりなしに上がってくる。参道を上がってすぐのところにある「光雲神社(てるもじんじゃ)」境内の駐車場にもけっこう車が停まっているし、更に山頂の展望台を目指して坂道を上って行く車もある。そのうえどういうわけだかタクシーが多い。お客を乗せているわけではないし、ここでタクシーを拾おうという人もいないだろうから、運転手が休憩を兼ねてやって来ているのだろうか。

 自動車を気にしながら歩くのも鬱陶しいので、途中から脇道にそれて自然の中を歩く。これで一気に静かになった。西公園には、自動車が走れる一般道が至るところに通っているが、地図にはない遊歩道がその周辺を縫うように整備されている。散策するなら、こちらの方が気持ち良い。

 自然の中を入り組んで通る山道や遊歩道を歩くのは、山登りの醍醐味の一つだ。西公園のある荒津山は標高にして30mくらいで、登るといってもたいしたことはないが、高低差があると景色も変わって楽しい。山の中をグルグル歩けば、それなりにカロリー消費に役立つだろう。

 「さくら谷」はすっかり桜の花も散って葉が出て来ているが、シートを広げてなごむ人も少しはいる。この前来たときは、この辺り一帯は花見客で大変な騒ぎになっていた。ここが再び満席になるのは、また来春のことか。

 その先にある「もみじ谷」まで遊歩道を歩いて行く。もみじの新緑がきれいだろうと思ってのことである。

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 もみじは、秋の紅葉の美しさで知られているが、新緑もまたいい。葉の明るい黄緑色が、如何にも春らしく優雅だ。もみじ谷は、橋や東屋をしつらえ、巨石も随所に配して凝った造りになっている。北に向かって傾斜している構造がいいのだが、シートを広げる平地が少ないという欠点があるせいか、あまり人を見掛けない。今日も誰もおらず、極めて静かでいい雰囲気だ。

 傾斜の途中で暫し立ち止まり、辺りを眺めて新緑を楽しんだ。こういうひとときを身近に過ごせるのは、お金のかかった娯楽にも増して贅沢な時間の過ごし方だと思う。東京では、こんなロケーションで一人新緑を楽しむなんて芸当は到底出来ない。新緑のベストポジションともなれば、天気のいい日には黒山の人だかりで、人ごみに疲れてしまう。おそらく福岡の人は、この贅沢に気付いていないだろうが・・・。

 もみじ谷をそのまま登り、展望台に行って海でも眺めようかと思ったが、先ほどの道中の車の具合から見て、けっこう人がいるだろうと思って敬遠した。せっかく静かに新緑を楽しみ、いい気分になっているときに、喧騒に巻き込まれるのも嫌だ。

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 海を見るなら、このまま西出口に下りて「福浜緑地」に行こうと思い立った。あそこの砂浜なら、ほとんど人はいないだろうから、のんびり散歩できるに違いないという読みである。

 もみじ谷を北向きに上がると、すぐ先に西口に下りる遊歩道が整備されている。ここを下りて、よかトピア通りに出る。この出口の角に「サイゼリア」がポツンとある。東京ではお馴染みのイタリア系カジュアル・レストランだが、福岡に上陸して来たのは最近のことと聞く。現在でも福岡の人はサイゼリアのことをよく知らない。

 福岡でスパゲティーなどを主力にするファミリーレストランというと「ピエトロ」がまず頭に浮かぶのではないか。元は天神にあったスパゲティー専門店だったようだが、サイゼリアと同様、スパゲティー、ピザ、サラダなどを主力にしている。私は東京にいた頃からピエトロのドレッシングを愛用していたから、最初はレストランだと気付かずにいたが、都内のどこだったかで店舗を見掛けてレストランだと知った次第である。

 新参者のサイゼリアがピエトロとどの程度張り合うのか見ものだが、やはりサイゼリアの驚異的安さに取り込まれる人も多い気がする。一度福岡の人をサイゼリアに連れて行ったら、値段の安さにビックリされたことがあった。ピエトロとは明らかに価格帯が違うのである。

 スパゲティーの話はそれくらいにして、浜辺を目指そう。よかトピア通りを渡り高速道路の高架下をくぐると、目の前は砂浜である。

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 目論見通り誰もいない。風は相変わらず強いが、朝に比べて気温がいくぶん高くなったせいか、冷たさは感じない。波打ち際まで出て海を眺める。風が強いため白波が立ち、やや荒れている。

 古代には、ここから大陸に向けて船が出たのだと思うと、何とも感慨深い。当時は命懸けの航海だから、別れを惜しむ人たちが浜辺から手を振ったのだろう。「草枕 旅行く君を荒津まで 送りぞ来ぬる 飽き足らねこそ」という万葉歌碑が西公園の入り口に建っているが、その荒津がこの辺りである。

 福浜緑地の西隣には伊崎漁港がある。正式名称は「福岡市漁業協同組合伊崎支所」というらしいが、毎週土曜日の午後3時から、一般人向けに魚介類の直販をやっていると聞く。これを「伊崎の夕市」といい、かなりの人で賑わうようだ。

 伊崎というのは、元々の地名ではないらしい。ここの漁師たちは、キスが好きだった黒田藩主のために漁をした、いわゆる御膳部漁師だった。黒田長政は、元の領地だった備前の地名にちなんで城のある辺りを「福岡」と名付けたが、同時にキス漁をする御膳部漁師の居留地を、備前の地名にちなんで伊崎と名付けたと伝えられる。

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 今日は、山で新緑を楽しみ、浜辺で春の海を楽しむという贅沢な散歩だった。おまけにほとんど人のいない行程で、静かに自然を堪能できた。天気予報に振り回されて出足が遅れたが、散歩の内容の豊かさで全ては帳消しである。

 さて、来週はいよいよゴールデンウィークとなる。めったに東京に帰らず週末を福岡で過ごしている私だが、ゴールデンウィークは長い休みを確保できそうなので、東京に一旦帰ることにした。正月以来帰京していないので、東日本大震災以降の東京がどうなっているのかをこの目で確かめて来ようと思っている。

 そんなわけで、このブログも暫しのお休みとなる。気が向いたら東京から更新するかもしれないが、あくまでも福岡の日記なのであまり期待しないで欲しい(笑)。

 皆さんも、良いゴールデンウィークを。

posted by OhBoy at 23:33| 日記

2011年04月23日

地行で河童を思う

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 今朝は起きたらどんよりとした曇り空。でも雨は降っていない。福岡は昨日から天気が下り坂で、前線が通過するのに伴って荒れ模様になるという予報だった。昨夜は風も強くて雨の音が聞こえていたから、夜のうちにまとまった雨が降ったのだろう。

 前線の通過で冷たい空気が入って来ているらしく、ひんやりとしているうえ、風がたいそう強い。そうはいっても4月も下旬に入ったので、寒いというほどではない。桜が咲いて以降、一時的に気温の低い日もあったが、一気に春めいてコートとは完全におさらばした。散歩には良い季節になったというわけだ。願わくばこの気候が入梅までは続いて欲しい。

 完全に雨が上がったどうか分からなかったので暫し迷ったが、いざとなれば乾燥機にかけようと洗濯を始める。後で天気予報を見ると明日は雨マークが付いているから、結局明日に洗濯を回すという選択肢はなかったわけだ。

 そうこうしているうちに空が明るくなり、時折日が差すようになった。これで何とか洗濯物を外に干せるわけだ。そう思っていたら昼頃になって一転にわかに空が掻き曇り、ざっと雨が降る。すんでのところで洗濯物を濡らすところだった。冷たい空気が入って来ているせいか、晴れ間が覗くことがあっても、天気は不安定らしい。

 その後も雲が広がる中を遅めのスタートで短めの散歩に出掛ける。またもや一降りあるかもしれないので、西新あたりまで歩いて本屋でも冷やかして帰ろうかという程度の行程である。散歩の起点は地下鉄空港線「唐人町駅」の黒門橋交差点とする。

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 交差点から黒門川通りを北に上がって行く。前にも書いたが、ここの道路の下には黒門川が暗渠となって流れている。元は海の一部だったのを、黒田長政が福岡城を築城する際に埋立てて作った人工の川である。黒門橋の交差点の南からは暗渠が外に現れ、そのまま大濠公園に注いでいるのが分かるが、黒門川通りを歩いていても川があるとは全く気付かない。歩道沿いには、申し訳程度に人工の小川が作ってあり、かつての黒門川の面影を今に伝えようとしている。

 江戸時代には、この黒門川で福岡城内と城外とが分けられていた。いわば境界線の川であり、そこに黒門橋が架けられ、城内に向かう入り口に黒門が設けられた。黒門から唐津に向かって唐津街道が延びていたわけで、それは今の唐人町商店街がある場所だと伝えられている。

 当時は黒門川沿いには松並木があって「松土手」と呼ばれていたらしい。現在歩道脇に植えられている街路樹のいくつかは松であるが、これはおそらく松土手をイメージしてのことだろう。そうでなければ街路樹に松は植えない。手入れが大変だし、害虫にやられる心配もある。わざわざ植えてあるというのは意味のあることなのだが、おそらくここを通る人のほとんどは、その意味に気付いていないのではないか。

 黒門川通り沿いに唐人町商店街から少し北に歩くと、通りに面して「当仁小学校」がある。この漢字で「とうじん」と読むのかと思ったら「とうにん」が正解らしい。門の脇のアルファベット表示がそうなっていた。唐人町に当仁小学校というのは不思議な名前の組合せだが、理由はよく分からない。

 そもそも唐人町という名前はどこから来たのだろうか。中華街があるわけでもないので奇妙な感じがする。定説はないらしいが、元寇に由来があるという説が比較的面白い。

 鎌倉時代に「文永の役(ぶんえいのえき)」、「弘安の役(こうあんのえき)」と二度の蒙古襲来があったわけだが、攻めて来たのはモンゴル軍と、既にモンゴルの属国に成り果てていた高麗の軍の混成軍団であった。壱岐・対馬で住民を残虐な方法で皆殺しにしたモンゴル軍に対して、日本の武士団は情け容赦がなく、捕虜は取らずに皆殺しにしたが、昔交流のあった高麗軍の捕虜だけは殺さずに浜辺に住まわせたという。この高麗人が住んだ居留地が唐人町というわけである。

 さて、当仁小学校前には先ほどの小川が注ぐ小さな池が設けられており、かわいらしい河童のモニュメントがある。

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 脇に説明板があり、「せせらぎがっぱ」と命名されているらしい。モデルとなったのは、お隣の地行地区に伝わる「河童の松物語」の河童だという。

 福岡市内には河童にまつわる話が多いが、地行にも河童が主人公の昔話がある。説明板に紹介されているが、この東隣の伊崎に住んでいた酒好きの漁師嘉兵衛と、同じく酒好きの河童の話である。酒を飲みながら漁をしていた嘉兵衛にいたずらをした河童が懲らしめられ、松の木に縛り付けられたというストーリーで、人と河童が共存する世界の平和な物語である。ただ、話からすると主人公の河童は海にいたことになり、ちょっと珍しいなぁと思う。元々河童は川に棲む妖怪だ。

 私は妖怪について詳しいわけではないが、河童は川辺の水死者が変化した存在と考えられている。海で亡くなった者は河童ではなく舟幽霊になる。夜の海に現れて「ひしゃくをくれ」と船に取りつく亡霊である。言われるがままにひしゃくを貸すと、こちらの船に水を汲み入れ沈められてしまうので、船乗りは底を抜いたひしゃくを船に備えていたという。

 しかしこの北九州では、壇ノ浦の合戦で亡くなった平家の武者の魂が姿を変えたのが河童だという言い伝えがあるとも聞く。それなら海の河童でもおかしくないというわけか。それにしても、嘉兵衛さんの酒を掠め取ったのが平家の武者の霊というのは、何ともミスマッチで面白い。挙句に松の木にくくりつけられたのでは平家の面目丸つぶれだろう(笑)。

 そんなことを考えながら、黒門川通りとよかトピア通りとの交差点で西に曲がり、今度はよかトピア通り沿いに進む。暫く行くと「菰川(こもがわ)」に差し掛かるが、川を渡った先が地行地区である。

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 よかトピア通り沿いに植えられたイチョウの若葉が美しい。天気の方は次第に下り坂になり、パラリと雨が舞ったように感じたが、曇り空に新緑が映えて鮮やかだ。それにしても風はやむことなく吹いている。今日は一日こんな感じなんだろうか。

 黒門川通り沿いにあった福岡市設置の史跡案内板では、地行の河童の物語はこの辺りの話として解説してある。河童をくくりつけた松など、今残っているはずもないし、そもそも架空の昔話だ(笑)。具体的な地点などどうでもよいのかもしれない。

 でも有名な話なのだから、舞台となった地行地区のどこかに河童の像でも作って、「河童の松物語」のストーリーとともに展示すれば、それなりに人気スポットになる気もする。地元の人ほど観光資源に気付いていないものらしい。

 河童の像といえば、昨年暮れに室見川の上流を散策したときに「河原橋」の欄干に河童のモニュメントがあったのを紹介したことがあった。橋のたもとの解説板には、昔その辺りに河童がたくさん棲んでいたという伝説をもとにしたデザインだと説明されていた。

 河原橋の河童はこんな河童だった。

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 何ともユーモラスで、付近ののどかな景観と妙に合っていた。妖怪変化の類は、科学の発達していない昔にあっては人々の恐怖の対象で、河童も人を水に引き込み、肛門を抜いて殺すとされていた。そのわりには昔話で河童は人と相撲を取ったり、何かの競争をしたりして、共存して生きている。そのうえ、人間に負かされてあやまったり、善行を働いたりする不思議な存在だ。

 東京の浅草近くに合羽橋という調理道具などを専門に扱う問屋街があるが、ここにも河童の伝説があり、問屋街の一角に河童の像が飾られている。

 江戸時代に川の氾濫に悩まされていたこの地区で、私財を投げ打って住民のために河川整備を行った商人「合羽屋喜八」に対し、付近に棲んでいた河童が夜ごと手助けして工事を完成させたという言い伝えがあり、合羽橋のマスコットは今でも河童ということになっている。これなどは河童が善行を施した典型だろう。

 そうそう、もう一つ福岡で河童の話を紹介したことがあった。姪浜の旧唐津街道沿いにある「住吉神社」を訪ねたときだ。この河童は漁師にいたずらしたといった類ではなく、日本神話にからんで登場する神話時代の河童だ。

 日本神話の国産み・神産みの話に出て来る「イザナギ(伊弉諾)」が、黄泉の国を脱出し現世に逃げ帰ったときに、黄泉のケガレを落とすために「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」で禊を行うのだが、この禊の場所を探すに当たり道案内をしたのが河童だという伝説があり、その河童を住吉神社が祀っている。神話時代に河童がいて、神様の道案内をしたという発想が何とも面白い。人が生まれる前に河童ありきということか。

 その住吉神社に祀られている河童の像がこれだ。

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 どの河童もユーモラスで子供に親しまれやすいイメージになっているが、私が訪ねた先だけでも福岡市内に三つも河童の話が伝わっているのだから、昔から河童と博多っ子は親しい存在だったということだろう(笑)。

 史跡のようなものは残っていないが、福岡の中心部の大名地区にも河童の伝説がある。これは中央区が開設するサイトで「鷹取養巴と手を切り取られたカッパ」の話として紹介されている。

 大名1-2丁目界隈に屋敷を構えていた福岡藩医鷹取家に伝わる話で、夜の厠に出ていたずらをした河童が手を切り取られ、手を返してくれと、藩医の「鷹取養巴(たかとりようは)」に頼みに来る話である。河童は切れた手をつなぐ秘法を教える代わりに手を返してもらい、養巴は傷薬の製法を教わるというストーリーになっている。ちなみに、何代目かの鷹取養巴は、幕末に尊皇攘夷を唱えて月形洗蔵らとともに捕らえられ、桝木屋刑場で斬首されている。

 おそらくは探せばほかに河童の話が色々あるのだろうが、福岡に限らず北九州全域にわたって河童の伝説は多いようだ。私が見た中では、福岡市から南東に行った「田主丸町(たぬしまるまち)」が河童伝説のメッカのようだ。理由はよく分からぬが、近くに筑後川が流れているからだろうか。この町はたくさんの河童伝説を抱えているせいか、JRの駅自体が河童の顔をデザインして出来ている。福岡なんかとは気合の入り方が違うようだ。

 さて、空模様を気にしながら暫く行くと、今度は「樋井川(ひいがわ)」を渡る「百道浜橋(ももちはまばし)」に差し掛かる。このブログに何度か書いたが、現在歩いているよかトピア通りは、昔海岸沿いの浜辺だった。いたずらをした河童を縛り付けた松があったのは、この海沿いの松林の一角ということだろう。

 当時をしのぶ碑が百道浜橋のたもとにある。

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 何も知らない人が見たら、ビックリするような記念碑だ。おまけに、海水浴場だった頃の写真まで飾られている。この辺りが埋め立てられたのはいつ頃だろうか。ここで子供の頃に海水浴をした記憶のある人が今何歳くらいなのか知らないが、時の流れにつれていつか忘れ去られる場所なんだろうなぁ。

 昔の海岸線を西にたどり、次の西新通りの交差点で南に曲がる。この交差点に以前紹介した「磯野公園(いそのこうえん)」がある。「サザエさん発案の地」というヤツである。

 サザエさんの作者の長谷川町子は佐賀県の出身だが、小さい頃に父親の仕事の都合で福岡市に引っ越して来た。ところが父親が亡くなり、一家は叔父を頼って一旦東京に移り住む。このとき長谷川町子は「のらくろ」で有名な漫画家の「田河水泡」に弟子入りしている。その後、昭和19年に再び一家は福岡市に戻ってくる。そして福岡での新しい家があったのが西新であり、家の裏が百道浜だった。当時は先ほどの場所も立派な海水浴場だったのだろう。

 彼女は妹と浜辺を散歩しながらサザエさんの構想を練る。そして昭和21年に福岡の地元紙「夕刊フクニチ」に連載を開始したのが漫画「サザエさん」である。登場人物が全て海にちなんだ名前になっているのは、この百道の浜辺を散歩しながら構想を練っていたがゆえである。

 「サザエさんうちあけ話」という長谷川町子の自伝エッセイに載っているその下りが、磯野公園に石版の形で転載されている。

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 私がここまで歩いて来た道を、まだ浜辺だった時代に長谷川町子も歩いたわけだ。1km先に海岸線が移った現在では波の音すら聞こえないが、この散歩道があの国民的漫画を生んだ場所だというのは何とも感慨深い。

 さて、ここまでくれば西新まではあと少しである。西南学院大学や修猷館高校を横目で見ながら南に5-600mほど下って西新地区に出る。この西南学院大学の構内を元寇防塁が通っているので、鎌倉時代の海岸線は更に内陸寄りだったということだろうか。

 以前にも立ち寄ったが、地下鉄空港線西新駅の脇に「西新緑地」という小さな公園がある。ここに右翼の巨頭「頭山満(とうやまみつる)」の碑があることはそのとき紹介した。石碑の後ろにそびえる楠の大木は、頭山自身が生家の庭に植えたものをここに移植したと、早良区のサイトに解説がある。頭山の生家は、通りをはさんだ向かい側にあったとされる。

 この緑地にはもう一つ大きな石碑がある。「筒井條之助記念碑」である。

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 こんな立派な石碑が建っているわりには、この筒井條之助という人は一般に知られていない。地元早良区の開設するサイトによれば、西日本新聞社の前身である「九州日報社」の記者らしく、大正時代に西新が福岡市に編入されるのに尽力したようなことが書かれている。驚くべきことだが、この石碑の字を書いているのは「五・一五事件」で暗殺された犬養毅首相だ。

 頭山満の石碑の脇に新聞記者の碑が立ち、犬養毅が筆を取っているのは何とも不思議に思われるだろうが、両者の関係が分かればなるほどと思う。頭山満は母方の実家頭山家に養子に出た身で、元の姓は筒井である。そして、筒井條之助は頭山の甥にして娘婿という関係になる。更に、頭山満と犬養毅は真の盟友として親しく交わった仲だ。謎が解けてみればな〜んだということになるが、二つの石碑の関係を知っている人は意外に少ないのではないか。

 さて、頭山の生家だった場所に建つ「プラリバ」でのんびりと本を物色する。自分の生家がこんな建物に変わってしまって、頭山満は草葉の陰でどう思っているのだろうか。

 その後、明治通り沿いを東に歩き、スタート地点の唐人町を目指す。明治通りも街路樹の新緑が鮮やかだ。散歩を始めてからずっと曇り空だったが、ようやく雲の間から陽の差す空模様となった。もう少し前からこうだったら、散歩も気持ち良かったろうに・・・。まぁ雨が降らなかったことだけで良しとせねばなるまい。

 明治通り沿いには、貝原益軒・東軒夫妻が眠る「金龍寺(きんりゅうじ)」や、「漢委奴国王」の金印発見で有名な福岡藩西学問所甘棠館館長亀井南冥の墓がある「浄満寺(じょうまんじ)」などがある。これらは既に紹介したから、今まで写真を載せたことがない「平野神社(ひらのじんじゃ)」に立ち寄ろう。

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 ここに祀られているのは、いわゆる神ではなく「平野国臣(ひらのくにおみ)」という幕末の福岡藩士である。平野国臣は福岡藩の勤王派で、家老の加藤司書を筆頭に、藩士の月形洗蔵、中村円太らと、幕府を倒し尊皇攘夷を推し進めようとした。

 勤王派の動きに神経を尖らせた幕府は、当時の福岡藩主「黒田長溥(くろだながひろ)」を責め、勤王派を取り締まらせた。これにより主要メンバーを含めて百数十名が捕らえられ、加藤司書は切腹、月形らは桝木屋刑場で処刑された。これを「乙丑の変(いっちゅうのへん)」と呼んでいる。しかし、平野国臣はこれに連座したわけではなく、その前に脱藩して同行の士と共に但馬生野で倒幕のために挙兵し、捕らえられて京都の六角獄で処刑された。

 平野神社が建つのは、この平野国臣の生家があった場所である。過激な言動と奇妙な格好で有名だったというが、神社が出来るほど慕われていたということだろうか。ちなみに、西公園にある光雲神社参道を少し下ったところにも「平野二郎国臣像」という銅像が建っている。

 そういえば、平野神社の近くには、東方会総裁で衆議院議員だった「中野正剛(なかのせいごう)」の銅像もある。これもなかなか立派で目立つ存在だ。中野正剛は西公園の南側にある荒戸地区の生まれで修猷館中学に学んだ。戦時中、東條英機首相に反発して痛烈に批判、憲兵隊によって逮捕され、後に割腹自殺している。

 福岡には熱い志の人が多いんだなぁ。

 ようやく晴れ始めた中を歩きながら、この天気が明日も続いてくれればと思うが、天気予報によれば明日はもう下り坂らしい。下手すれば家でお籠もりの週末となるのだろうか。

posted by OhBoy at 23:27| 日記

2011年04月17日

名島でありし日の城を偲ぶ

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 今日は天気予報通り、朝から晴れて気持ちのいい天気だ。もっとも雲一つない快晴というわけではなく薄雲が広がっているし、夕方から曇り空となって明日には雨が降り出すと言っている。それでも週末の二日間、何とか雨も降らずに持ちこたえたのは良しとせねばなるまい。

 さて、好天に誘われ少し足を延ばしてみるかと行き先を考えた挙句、以前からたびたびこのブログに登場するものの一度も行ったことがない「名島(なじま)」に出掛けてみるかという結論に達した。

 何度か書いたが、名島はかつて名島城があった場所だ。この城は、黒田家が福岡に入る前にこの地を治めていた小早川家が居城としていた城だが、今では何も残っていない。それゆえ、あまり見に行く気が湧かなかったのだが、まぁ話として触れた以上、一度くらいは行ってみてもいいんじゃないかという気になった。名島周辺は全く行ったことのないエリアだから、ブラブラ歩いてみたら、それなりに面白かろうというわけだ。

 名島は福岡市東区の海岸沿いにあり、もう少し先にいくと香椎という位置関係だ。本日のスタート地点は、地下鉄箱崎線の終点「貝塚駅」。こんなことでもない限りなかなか来ない場所だ。

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 この駅は地下鉄の駅だが地上にある。そして、西鉄貝塚線の始発駅も兼ねている。西鉄貝塚線はこの先香椎方面につながっており、沿線はベッドタウンになっているので平日は通勤用の路線ということになろう。普通こういう形式だと相互乗入れしているものだが、何故か地下鉄貝塚線と西鉄貝塚線はつながっていない。

 改札口を間に挟んで地下鉄の線路の先に西鉄の線路が延びているのに、わざわざ地下鉄の改札口を出て、10mほど先の西鉄の改札口に入って電車を乗り換えなければならない。どう見ても不合理で、よくこのまま放ってあるなぁと逆に感心する。何とも不思議な話だ。

 実は名島まで行くなら、ここで西鉄貝塚線に乗り換えて次の名島駅で降りるという方が早い。ただ、せっかく見知らぬ土地に歩きに来たのだから、一駅手前から色々見ながら歩いて行きたい。

 貝塚駅を出ると目の前が公園になっている。「貝塚公園」というのだが、ちょっと覗いてみる。

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 最初地図でこの公園を見つけたときには、ここに文字通り貝塚でもあるのかと思ったが、実は交通公園と称する子供向けの公園であった(笑)。どうも駅名に惑わされたらしい。

 一見普通の公園に見えるが、中に入ってみると小さな道路が縦横無尽に走っており、横断歩道や信号、標識などがそこらじゅうにある。しかもおもちゃではなく立派な本物ばかりだ。暫くすると、きちんとセンターラインのある道路を、子供たちがゴーカートに乗って走って来る。

 これはいったい何だろうと思って、ゴーカートのやって来る先に行ってみると、どうやら福岡県交通安全協会が主催するゴーカート・コースのようだ。交通ルールを子供たちに教えることを目的にしているようで、掲示板に警察の名前も見える。それで信号やら標識やらが全て本物というわけか。たくさんの子供たちがゴーカートの順番待ちをしていて、大盛況のようだ。

 交通をテーマにする公園だけあって、園内には、寝台列車をつないだ蒸気機関車のほか小型飛行機まで展示されている。これだと男の子は大喜びだろう。天気も良いせいか親子連れでいっぱいだし、駐車場に次々と車が入って来る。眼を見張る豪華な施設はないが、テーマパークとしては、まずまず成功の部類ではないか。

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 ついでだから交通つながりで、この公園の裏手にある貨物ターミナル駅でも覗いてみようと、公園脇の道を海岸方向に向けて歩いた。大通りを越えて真っ直ぐ行くと、突き当りがターミナル駅である。

 このターミナル駅はかなり巨大で、2km近くにわたって構内が続いている。幅も200mくらいはあろうか。高速道路からよく見えるので、この辺りに来る機会があったら、立ち寄ってみたいなと思っていた場所だ。

 福岡県の鉄道貨物の拠点で、ここから全国に向けて貨物列車が出ていると聞く。周囲には運送会社も建ち並び、駅構内には無数のコンテナが置いてある。今日は日曜日だが、休みということはなく、フォークリフトが荷物を運び、コンテナ車を長くつないだ電気機関車が出入りする。

 ターミナル駅沿いに遊歩道が続いており、のんびりと歩けるのだが、如何せん、街路樹が邪魔になって構内があまり見渡せない。もう少し中を覗けるような場所を作れば、鉄道マニアにも人気のスポットになるんじゃないかと思うが、駅の側からすれば、そんなことしても何のメリットもないし、見物客を集めて仕事の邪魔をされたくないのだろう。

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 さて、電車関係はこの辺りにして、いよいよ名島城址を目指すことにしよう。ターミナル駅沿いの遊歩道を北端まで歩くと、東側に折れて唐津街道に出る。唐津街道と言っても現代の唐津街道であって、江戸時代に大名行列が通った唐津街道ではない。だいたいその頃は、この辺りは海だったはずだ(笑)。おそらく、千利休が野点をして感じ入ったという「千代の松原」がこの辺りまで続いていたのだと思う。

 唐津街道を北に暫く進むと、「多々良川(たたらがわ)」に差し掛かる。多々良川は、日本書紀にも登場する福岡県の糟屋郡から発しており、福岡市を経て博多湾に注ぐ。この辺りは最下流域だからかなり広大である。上流に行くとそれなりに趣のある川なのだろうが、下流域は都市部の管理された河川という印象だ。でも、野鳥は多いらしい。

 多々良川周辺は、南北朝時代と戦国時代に合戦の舞台となっている。

 南北朝時代の戦いがあったのは1336年で、一旦九州に敗走した足利尊氏と、肥後の菊池一族を中心とした九州の御家人連合軍が多々良浜で激突したと伝えられている。足利軍の十倍の兵力を擁する菊池軍は当初戦いを有利に進めるが、裏切り者も出て最後は足利尊氏が勝利した。これにより九州の御家人を味方につけた足利軍は体勢を整えて再び上洛し、湊川の戦いで楠木正成を破ることとなる。

 一方、戦国時代の合戦が起きたのは1569年で、北九州東部を支配する戦国大名「大友宗麟」と、中国地方の覇者「毛利元就」が多々良川を挟んで戦った。戦いのきっかけは、昨年秋に訪れた秋月のかつての支配者秋月家にまつわる話なのだが、長くなるのでそのあたりはカットして(笑)、攻防の中心を言うと、大友氏の重要戦略拠点だった「立花山城(たちばなやまじょう)」をめぐるものである。その立花山城があったのは、この多々良川河口から北東に6-7km行った東区の端の立花山の上である。

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 立花山城は鎌倉時代末期に大友氏が築いた城だが、博多が一望できる軍事上の重要拠点だった。多々良川の合戦前の城主は、大友氏の家臣「立花鑑載(たちばなあきとし)」で、この人は元々大友姓を名乗る大友氏庶流の家柄である。

 だが、毛利・秋月連合軍が秋月家の旧所領を奪還すべく九州に攻め入った際、毛利・秋月連合軍有利と見た立花鑑載は、主君大友氏に叛旗を翻し毛利方に寝返ってしまう。慌てた大友勢は立花山城を奪い返し立花鑑載を自害に追いやるが、再び毛利方が巻き返し、城を奪い返した。こうした立花山城をめぐるシーソーゲームの果てに起きたのが、多々良川の合戦である。

 この戦いは長期戦になり、毛利方には後に名島城主となる「小早川隆景(こばやかわたかかげ)」も加わっている。布陣からすれば立花山城を守る毛利軍の方が有利だったが、大友氏は策略を講じて、中国地方の毛利氏の領土の背後から反毛利派に挙兵させ、城を守る部隊を引き揚げざるを得ない状況に追い込んだ。これにより立花山城は再び大友氏の手に戻り、戦いは終結した。

 そんな幾多の戦いがこの地であったとは思えぬくらい多々良川河口は姿を変えてしまった。かつては広大な干潟であったと伝えられる川岸はコンクリートで防御され、辺りには倉庫や団地が建ち並んでいる。「兵どもが夢の跡」といったところだろうか。

 さて、この多々良川に架かる立派な橋は「名島橋」というのだが、3年の工期を経て昭和8年に完成した七連の鉄筋コンクリート製アーチ橋である。最近の機能一辺倒の橋と違って、デザインがなかなか優美だ。さすが戦前の橋という気がする。

 そのうえ、当時のまま残っているにしては橋の幅が広過ぎる。片側三車線の道路に歩道まで付いている。昭和8年の自動車の交通量など微々たるものだったはずだ。

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 橋のたもとに解説板があるが、ここにこれだけの規模の橋を架けた理由は謎に包まれていると記されている。飛行場の代用だったとか、路面電車を通す目的だったなど、諸説あるらしいが、真相は分かっていない。戦時中には空襲から橋を守るために、真っ黒に塗ったと言われている。そのお蔭で、今もこうして残って幹線道路に使われているわけだ。

 名島橋を渡ったあと唐津街道は、先ほど見た貨物ターミナルから延びる貨物線のほか、西鉄貝塚線、JR鹿児島本線など、計3本の線路と平行して走る。そのまま進むと千早地区に入り、その先が香椎となる。そう言えば、松本清張の「点と線」の最初に出て来る香椎潟の心中死体発見は、香椎から名島に歩いて通勤する工場労働者によってなされるのだった。名島と香椎の距離関係は当時そんな感じだったのだろうか。駅にすると二駅分あるのだが・・・。

 ちなみに、千早と聞くと和歌に通じている人ならピンと来るだろうが、「千早(ちはや)ぶる」が「神」の枕詞になっている。千早地区の先に香椎宮があるというは、何ともしゃれた命名だと思う。いったいどういう謂れで千早と付いたのだろうか。

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 さて、今日のところは千早まで行くと行き過ぎになるので、名島橋を渡った先で唐津街道を海岸側に折れる。名島城址はこの多々良川の河口べりにある。

 暫く歩くと名島城址への観光案内板が出ていて、それに沿って進む。運動公園の先で高速道路の下をくぐり、やがて多々良川沿いの道に出る。このまま道なりに歩けば、自然と名島城址まで行けるようだ。

 海岸縁に出ると何だか人が多い。おまけにたくさんの車が路上に駐車されており、警官まで出て駐車違反を取り締まっている。いったい何の騒ぎだろうと思って岸壁の向こうを覗くと、無数の人が干潟となった海岸に群れている。よく見れば潮干狩りだ。こんなところで貝が獲れるとは知らなかった。

 名島城址に近づくにつれて人はどんどん多くなり、車も道にギッシリ停まっている。辺りではシートを広げる人、護岸に座っておにぎりを食べる人、獲ってきた貝を車のクーラーに積み込む人、もう大騒ぎである。どれくらいかけて獲っているのか知らないが、バケツ一杯分くらいの貝を運ぶ人もいる。こりゃなかなかのもんだ。

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 どう見てもきれいな浜辺とは思えないが、ここで獲れる貝はおいしいのだろうか。そういえば昔、東京の葛西臨海公園の人工の渚で潮干狩りをして獲った貝を食べたが、なかなか肉厚で美味ではあった。貝というのは、多少汚い水の方がよく育つということだろうか。

 潮干狩りに来た人たちを掻き分けて、ようやく「名島神社(なじまじんじゃ)」の入り口にたどり着く。鳥居の下にはあふれた車が二台も停まっていて参道を塞いでいる。その脇を通って階段を登り社殿に行くと、境内にも車がギッシリ。もうこの辺りは潮干狩り一色だ(笑)。

 途中の案内板で知ったが、ここは桜の名所でもあるらしい。花見用に区画が仕切ってあり、社務所で整理表を出すと書いてある。なるほど周囲は桜の木ばかりで、既に花の大半は散ってしまっているが、満開のときはきれいだったのだろう。花が散ったら今度は潮干狩り。色々楽しみがあってうらやましい(笑)。

 鳥居の下にあった解説板によれば、名島神社は元々この地にあったわけではなく、小早川隆景の命でここに移されたようだ。それまでは「神宮ヶ峯(じんぐうがみね)」」の山頂にあったとある。それがどこにある山なのかは分からないが、祭神は「宗像三柱姫大神(むなかたみはしらひめおおかみ)」とあるから、宗像市にある宗像大社の末社のようだ。

 現在社殿は改修を計画しているようで、ベニア板で正面が覆われている。最初見たときにはあまりに粗末なたたずまいでビックリしたが、単に板で覆われていただけだった。

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 この神社の裏手の階段を登っていくと、いよいよ本日の最終目的地である名島城址に着く。上がってみると広い公園になっていて、ほとんど人はいない。下界の潮干狩りの喧騒が嘘のような静けさだ(笑)。

 話に聞いていた通り、城の面影を偲ぶ遺構はほとんど何もない。「名島城跡」の石碑が隅に建つほかは、石垣のごく一部と、櫓の礎石の一部が残っている程度だろうか。

 そもそも名島城は、大友氏に叛旗を翻し毛利方に寝返った立花山城城主立花鑑載が、立花山城の出城としてこの地に築いたものだ。その後、九州平定を果たした豊臣秀吉が筑前国を小早川隆景に与えると、毛利氏の下で強力な水軍として名を馳せた隆景は、水軍の活躍できる名島城に目を付け、大改修して居城とした。これにより山城である立花山城は軽視され、逆に名島城の支城に格落ちする。

 ちなみに小早川隆景は、毛利元就の有名な三本の矢の話に出て来る毛利三兄弟の末弟で、単なる一家臣ではない。継嗣が途絶えた小早川家に養子に入るが、父の教え通り毛利家を継いだ兄毛利隆元をよく支えた。

 名島城を拠点とする隆景の考えには秀吉も賛意を示したようで、名島城改修にも手を貸したらしい。そのうえ城内に「「御座所(ござしょ)」を設けて、「文禄・慶長の役」で朝鮮出兵した際には、淀君を伴ないこの城に宿泊したと伝えられている。

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 小早川隆景はやがて隠居し、元の城があった広島県の三原市に引っ込んでしまう。その後を継いで名島城主となったのが、有名な「小早川秀秋(こばやかわひであき)」である。

 ご存知の方も多かろうが、小早川秀秋は隆景の実子ではない。豊臣秀吉の正室「ねね(おね)」の兄の子である。一旦叔父である秀吉の養子となったあと、実子のいなかった小早川隆景の元に養子に入っている。しかし、何かと失敗の多い人だったようで、秀吉の跡目を巡る豊臣秀次の事件に巻き込まれて連座させられたり、朝鮮出兵時の不備を責められ、一旦名島城主を追われたりしている。

 その秀秋が再び名島城主として返り咲くのは秀吉の死後で、ようやく名島に帰ったと思ったら、ほどなく関ヶ原の合戦を迎えることになる。ここで有名な裏切りが起こるわけだ。西軍として石田三成の軍勢に加わった秀秋は、合戦の最中に徳川方に寝返り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった。それまでの西軍やや有利の戦況はこの辺りから崩れ、結局東軍が勝利を物にした。

 この功績により秀秋は岡山藩を与えられ、その代わりに筑前を与えられ入城して来たのが黒田長政ということになる。ちなみに小早川秀秋は、関ヶ原の合戦から2年後に21歳という若さで早世している。

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 新たに入城した黒田長政は城下町の形成を重視して、城を内陸に置くことにした。これが今の福岡城だが、その築城のため長政は名島城を解体し、石垣もろとも持って行ってしまう。また、名島城のみならず立花山城の石垣まで持ち去ったため、立花山城もあわせて廃城となる。名島城は今やほとんど何もないが、立花山城もわずかに石垣の一部と古井戸が残るのみと聞く。

 こうして見ると名島城は、小早川隆景が大改修してから黒田長政によって廃城とされるまで、わずか10年少々しか往事の姿を留めなかった。何とも短命で、まさに幻のように消えてしまった城ということになる。

 意外だったのは、海城と言うからてっきり平地にあるものだとばかり思っていたが、けっこう小高い丘の上にあって、周囲の見晴らしが良いということだ。香椎方向に山がいくつも見えるから、あの中の一つが立花山なのだろうなぁと思って眺めた。すべては遠い昔のことである。

 そういえば、ここから見える千早地区のどこかに、かつて「名島飛行場」というのがあったらしい。戦前の一時期に大阪方面と中国の上海方面に向けて、水上機の定期便が飛んでいたと聞く。今では建物が建ってしまってその痕跡はないらしいが、リンドバーグが世界一周飛行途中に夫人と共に飛来したという記録が残っていると、名島橋のたもとの観光案内版にあった。何気ない土地に、面白い歴史があるものだ。

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 さて、在りし日の名島城を偲んだあとは、再び海岸線まで降りて、今度は「神功皇后(じんぐうこうごう)」の遺構なんぞを眺めることとする。歴史は一気に神代まで遡るわけだ(笑)。

 神功皇后のことは、もう何度もこのブログに登場しているからご存知だろう。「仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)」の妻であり、「応神天皇(おうじんてんのう)」の母ということになる。

 西暦200年頃に仲哀天皇は九州平定のために遠征してきて、この地に「橿日宮(かしひのみや)」を建て、妻の神功皇后と住んだ。ところがある日「海の向こうにある朝鮮半島を与えよう」という神のお告げにそむいて、「そんな土地は山に登っても見えない」と仲哀天皇が答えたものだから、神罰により死んでしまう。悲しんだ妻の神功皇后が、橿日宮に祠を建て天皇を祀ったのが、「香椎宮(かしいぐう)」である。つまり香椎宮は天皇陵であり、古くは「香椎廟」と呼ばれていた。

 ちなみに、この神のお告げを天皇に伝えたのは、シャーマンだった妻の神功皇后であり、そのため日本書紀では、同年代に日本にいたはずの邪馬台国の女王「卑弥呼」は神功皇后だと解釈している。いずれにせよ、かよわき女性ではなかったわけだ。

 夫が果たさなかった神のお告げを実現すべく、神功皇后は妊娠していたにもかかわらず朝鮮半島に出兵し、新羅、高句麗、百済を征伐した。いわゆる「三韓征伐(さんかんせいばつ)」である。凱旋帰国して九州の地で出産し、応神天皇を生んでいる。

 さて、その神功皇后が三韓征伐の折りに乗った軍船の帆柱が、この名島神社の先の海岸に残っているのである。それがこれだ。

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 この柵の中に横たわる茶色い石の柱のようなものが軍船の帆柱で、「名島帆柱石(なじまほばしらいし)」と呼ばれている。「ホントですか?!」ということになるが、本当のわけがない(爆)。そりゃ常識で考えたら分かるだろう。しかし、これは岩ではなく、本当の木なのである。

 帆柱石の解説板によれば、今から3500万年前の「珪化木(けいかぼく)」という樫の一種が化石になったものらしい。香椎宮に伝わる言い伝えでは、神功皇后の軍船の帆柱が化石になったとされているようだが、実際には神功皇后なんかよりも遙かに古い貴重な化石なのである。

 そんなわけで国の天然記念物に指定されているらしいが、こんな剥き出しの状態で波打ち際に放置していていいんだろうか。誰かがいたずらしたら大変なことになると思うが・・・。

 実は神功皇后関係の旧跡はこれだけではない。すぐそばにもう一つ「緑の石」というのがある。

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 石というより岩なのだが、これは三韓征伐から戻った神功皇后が、上陸してここに座り休んだという謂れの石である。その後に神功皇后は応神天皇を生んでいるので、この石に妊婦が祈願すれば安産になると伝えられている。ちなみに、神功皇后が応神天皇を生んだのは、多々良川の上流の糟屋にある「宇瀰(うみ)」という土地だとされている。この地名は今でも糟屋郡宇美町として残っている。

 しかし、以前姪浜に行った際に書いたが、神功皇后が凱旋したのは姪浜のはずである。朝鮮半島に向けて出航したのも姪浜である。ではどうして、ここに神功皇后が座った石があるのか。まぁ突っ込めば色々矛盾が出てくるのが古代史というものだろう。これ以上の詮索は止めておこう。

 さて、一応見るべきほどのものは見たので、そろそろ帰ることにしよう。帰路は多々良川沿いの遊歩道を南に向かって歩き、名島橋まで戻る。海岸から離れると潮干狩りの人々もいなくなり、静かな河畔を一人歩く。

 こうして見ると、あまり期待もしなかったが、いざ来てみると見るべきものは色々あるものだ。散歩の楽しさというのは、こういう小さな発見の連続にあるのだろう。

 さて、来週はどこに行こう。いやその前にまずは天気だ。来週もまた好天に恵まれるよう、今のうちから神功皇后にでもお祈りをしておこう(笑)。
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2011年04月16日

博多漁港経由で天神へ

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 昨夜の天気予報を見て、今日は朝から快晴だとばかり思って目を覚ましたら、何やら外がさほど明るくない。あれっと思ってカーテンを開けると、どんよりとした曇り空。そのうえ風も強く、寒いというわけではないが、やや冷たい北風が吹いている。時折、唸りを上げるような勢いなので、これですっかり桜も散るだろう。

 桜が咲いて以降、気温も上がり気味だったため、すっかり春になったものと思っていたが、今日の天気はやや肩透かしを食らったような気分だ。といっても、コートがいるような寒さではない。

 天気予報を見ても福岡は次第に晴れるということだったので、そのうち太陽も顔を覗かせるだろうと、午前中は洗濯とワイシャツのクリーニングがけについやす。しかし、昼になっても一向に日が差してくる気配はない。下手すればパラパラと小雨でも降りかねない空模様なので、外に出るのがややためらわれる。洗濯物も外に干しておいて大丈夫だろうかと、やや不安になる始末だ。

 ただ、今日は天神まで行かなければならない用事があるので、どのみち午後には出掛けなければならない。地下鉄で行くかと一瞬思ったが、天気予報の降水確率は10-20%なので、散歩も兼ねて歩いて行くことにした。折りたたみ傘を持っていれば何とかなるだろう。もっとも、ベランダに干した洗濯物は不安材料だが・・・。

 今までの天神への経路としては、けやき通り経由で行ったり、昭和通りや明治通り沿いの旧跡などを訪ねながら歩いたりした。同じルートではつまらないので、今日は海沿いを歩くことにする。といっても、歩いたことのない道というわけではないが・・・。

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 まずはテクテク歩いて西公園の東側まで行く。案の定、西公園の桜はかなり散ってしまっている。雨こそ降らなかったが、あの風では仕方あるまい。道路脇には桜の花びらがいっぱい落ちている。

 博多漁港の西端は西公園のある荒津山ということになる。すぐ北側は、荒津の石油中継基地がある場所だ。奈良時代や平安時代に、この辺りから大陸に渡る船が出ていたなんて信じられない現在の光景である。

 本日は、ここから天神のある東に向けて博多漁港沿いを歩こうという趣向である。

 福岡の港というと、貿易港か工業用途の港湾だと最初は思っていた。まさかど真ん中に漁港があるなんて、思いもしなかった。それは福岡市が150万人近くの人口を擁する九州最大の政令指定都市であったからで、漁業というイメージと結びつかなかったのだ。よく考えれば、北九州の工業地帯は福岡ではなく北九州市だということは、昔中学・高校の社会科の授業で習ったはずなんだが・・・。

 博多港全体としては、貿易港としての役割も当然担っていて、もっと東側にある須崎埠頭や中央埠頭、東浜埠頭などで様々な物資の輸出入が行われていると聞く。元々博多と言えば、古代には大陸に向けて開かれた唯一の玄関口で、人も物も、ここを通じて海外と行き来していた。だから、貿易港というのが本来の博多港の姿なのだろう。

 しかし今は、福岡市の中心部あたりの海岸線を占めているのは博多漁港であり、鮮魚を扱う中央卸売市場もこのちょっと先にある。ここの漁港を基地にしている船団がどの程度の水揚げを占めているかは知らないが、鮮魚市場がここにあるということが、市中に日々新鮮な魚が出回るのを支えているわけで、魚好きの私としてはまことにありがたい存在である。

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 さて、博多漁港の一角には「福岡造船」の造船所がある。こんな狭いところで船を造っているなんて、ちょっと意外だ。

 北九州で造船所というと、長崎が真っ先に思い浮かぶ。三菱財閥創業者「岩崎彌太郎(いわさきやたろう)」の弟「岩崎彌之助(いわさきやのすけ)」が官営の「長崎造船局」の払い下げを受けて創設した「長崎造船(三菱重工業長崎造船所)」が有名で、戦艦武蔵はそこで建造された。今でも武蔵を造ったドッグが残っていると聞く。

 福岡漁港にある福岡造船も長崎に造船所を持っているようだが、本社はここ福岡で、造船所も現役で次々と船を造っているようだ。今も大きな船が建造中で、構内には入れないものの、船体は工場の外から見ることが出来る。工場の正門に突き出すように船の船首が見えていて、船の大きさというものを実感できる。

 福岡造船は、船の進水式を一般人に開放して見せてくれるというので有名らしい。この前の進水式は今年の2月21日だったようで、見に行った人に聞くと、けっこうな人数の見物客が来ていたようだ。大きな船なのでゆっくり水に入っていくものかと思ったら、あっという間の出来事だったという。

 福岡造船のサイトにその時の模様が動画でアップされているので見てみたら、たしかにスルスルと滑るように船が水に入っていく。これを間近で見るとなかなか迫力がありそうだ。でもこの狭い湾内であんなふうに勢いよく進水すると、惰性で向こう岸にぶつからないのかと心配になる。

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 福岡造船から南に少し下がり、「かもめ広場」沿いを歩く。ここは私の好きな散歩道で、平日来ないからよく分からないが、休みの日はホントに静かだ。係留されている船を見ながらのんびりと歩く。ほとんどすれ違う人もいない。

 途中に「天空の足湯」という無料の足湯場があるのだが、福岡の人でも意外とこの足湯のことは知らない。話をすると、みんな「そんなのあるんですかぁ」なんて顔をしている。私のように散歩を趣味にしている人間以外、博多漁港なんて歩かないんだろうなぁ。

 今日も足湯はけっこうな人の入りで、皆さん、気持ち良さそうに足を湯につけて、海を眺めている。休日の過ごし方としてはなかなか優雅じゃなかろうか。

 港を散歩していて気付くのは、けっこうカラスやトビの姿が目に付くことだ。逆にカモメはほとんど見掛けない。カラスはどこにでもいるが、トビが何羽か上空をゆっくりと旋回しているのは、魚でも探しているのだろうか。以前、西公園の展望台に上がったときにも、トビが悠然と漁港上空を舞っているのを見た記憶がある。

 長浜地区に入ると海沿いに中央卸売市場があるので、道は一旦南に折れて海から離れ、市場の脇で再び東に曲がって卸売市場前を歩くことになる。市場の西側辺りが有名な長浜のラーメン街だ。昼メシ時をとっくに過ぎているが、何人かの観光客とおぼしき人たちがラーメン屋に入るのを見掛けた。相変わらずの人気らしい。

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 長浜ラーメン発祥の話は、以前ここに来たときのブログで書いたと思うが、そもそもは鮮魚市場に仕入れに来る業者向けのラーメン屋台だったと聞く。それがやがて店舗を構えて一般の人たちも食べに来るようになり、噂が噂を呼んで今では観光客にも人気らしい。観光客が来るには、ちと辺鄙な場所ではあるが・・・。

 市場に出入りする人たちはみんな忙しいから、注文が来たらすぐにラーメンを出さないといけない。それで瞬時に茹で上がる極細めんが使われるようになり、そうなると熱いスープの中ではのびやすいので硬めの茹で上げが指定されるようになったと言われている。たしかに福岡の人は「バリカタ」が好きだ(笑)。

 ちなみに、こうした事情にない久留米辺りの豚骨ラーメンだと、麺をすぐに茹でる必要がないので、普通の太さの麺が使われている。従って、バリカタなんか頼むと麺が硬すぎるきらいがあるらしい。以前、久留米発祥のラーメン屋に行って店長の話を聞いていると、この人は博多っ子がすぐに「バリカタ」と指定するのが嫌いらしく、「うちにはバリカタはない」と突っぱねていると豪語していた。同じ豚骨ラーメンでも、出身地によって譲れぬ流儀があるものらしい。

 そういえば、この長浜ラーメンには元祖争いがあるとも聞いた。どちらが本家本元かで争っているらしい。私にその話をした人は経緯は知らないと言っていたが、そう言われてみれば店の前に「向こうの○○とは関係ない」みたいな張り紙があったりする。ここにもラーメン屋同士のプライドが火花を散らす土壌があるらしい。

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 さて、ラーメン街から少し行くと、中央卸売市場が見えて来る。当然今日はお休みで、周囲は閑散としている。この市場前の歩道は、場所によっては車が充分すれ違えるくらいに広い。どうしてこんなに広く取る必要があったのだろうと不思議に思う。

 この市場は、昔はここになかったとも聞く。もっと東側にあったものをこちらに移転したという話だ。当然ラーメン街も移動して来たのだろう。してみると、昔はラーメン街へのアクセスは簡単だったのかもしれない。でも、その頃は長浜ラーメンとは呼んでいなかったのではないか。だって、市場があった場所は長浜じゃなかったはずだから・・・。

 このまま行くと道は「須崎公園」にぶつかるが、それでは行き過ぎになって天神地区を越えてしまうため、手前の交差点で南に折れる。もうここまで来たら天神はすぐ近くで、あとは道なりに進めば自動的に着く。

 こうして見ると、天神もけっこう近いものだ。交差点で何度も信号待ちをするのが面倒なので、ダイエーから地下にもぐり、ビルの下を通って地下街に出る。土曜日の天神としては、人通りが心なしか少ない気がする。もしかしてこれは、JR博多シティーに客を奪われているからだろうか。こうして見ると、天神の危機感もあながち杞憂ではないような・・・。

 暫しあちこちに行って用事を済ませたあと、帰路はあっさり明治通りを選ぶ。これで途中雨が降っても、ちょっと行けば地下鉄の駅にたどり着ける。

 少し行ったところで、道路沿いに青森・岩手・秋田の三県が共同で出しているアンテナショップを見つける。更にその先に沖縄県のアンテナショップも。そういえば、最近中洲川端に長崎市・佐世保市・雲仙市 の三市が共同経営するアンテナショップが出来たとも聞いた。東京では県や主要都市のアンテナショップが一通りそろっているようだが、東京以外の都市にもそれなりに出店して宣伝しているんだなぁ。

 明治通り沿いの店を見ながら歩いているうちに、福岡城址のお堀端まで来た。

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 桜はほとんど散ってしまったようだが、代わりに八重桜がぼんぼりのようなピンクの花を咲かせており、なかなかきれいだ。花の色が濃いのと葉が一緒に出ているせいで、ソメイヨシノの幻想的な華やかさとはちょっと趣が異なるが、これはこれでいい。

 私の記憶では、この八重桜を塩漬けしたものを使って桜湯を作るはずだ。それ自体おいしいものだとは思わないが、日本人らしい風情があり、正式の祝いの席などにはふさわしい飲み物だと思う。

 もう一つ桜にちなんだ飲食物と言うと、桜餅がある。さっき天神で見ていたら菓子売り場でたくさん売っていた。この季節にふさわしい和菓子の代表作だろう。私は、桜餅をくるんでいる塩漬けの桜の葉があまり好きではなく、葉を剥がしてから食べるという変則的な食べ方をしてしまう。「葉のしょっぱさが餡と合っておいしいのに」と言われるが、どうも苦手だ。負け惜しみ的に言っておくと、葉に含まれる香りの成分は肝臓に悪い影響を与える。もっとも東京における放射能と同じで、いくつか食べた程度では「ただちには影響がない」(笑)。

 さて、お堀端を私の好きな土の散策道に沿って歩いていくと、散った桜の花びらが薄紅色の帯となって水面に漂っていた。この花が咲いていたのはつい1週間前のことで、桜の花の命の短さを思わずにはいられない。

 「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」と書いたのは林芙美子だ。彼女は門司の人だったなぁ。

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 それにしても、そろそろ夕方になるというのに一向に太陽が覗く気配がない。幸い雨は降らなかったが、気温は思ったほど上がらず、寒いねと言っている薄着の通行人とすれ違ったりした。桜が散っても一気に春本番というわけには行かないのだろうか。既に4月も中旬だから、そろそろ汗ばむくらいの日が幾日か混じり始めるはずだけれど・・・。

 天気予報では明日は晴れのち曇と言っている。今度こそ外れずに、朝から快晴となって欲しいものだ。

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2011年04月10日

山王公園から美野島へ

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 今日も朝から天気がいい。週末が二日続きでこんな快晴というのは久し振りな気がする。たいてい一日は晴れるが、もう一日は曇か雨となることが多い。最後の花見の週末ということで、天が配慮してくれたのだろうか。

 さて、花見行脚の最後を締めくくるのにどこに行こうかと昨晩から思案していたのだが、市内の桜の名所ということで残っているのは「南公園」や「紅葉山公園」だろうか。足を伸ばすなら、共に二千本の桜を擁する「海の中道海浜公園」や「油山市民の森」があるが、車を持たない身としては、そこまで行くのが大変だ。

 いっそ、代表的な名所ではなく隠れた花見の穴場でも訪ねたらどうだろうかと思い付いたところで、以前知り合いから聞いた「山王公園」が頭に浮かんだ。場所は博多駅の東側になる。今まで行ったことのないエリアなのでちょうどいい。

 地図で場所を調べて、地下鉄に乗って出掛けた。本日のスタート地点は地下鉄空港線の博多駅、つまりJR博多駅である。そういえば、この前JR博多シティーを見に来たばかりだ。

 先日来た時には、駅の西側を中心にウロウロしたが、今度は逆の東側から散歩をスタートすることになる。駅ではこちらの出口を「筑紫口」と呼んでいる。西側である「博多口」は、如何にも福岡の玄関口といった立派な感じがするが、筑紫口は地味で、まるで裏口のようだ(笑)。

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 山王公園は、筑紫口から南東方向に1kmほど歩いたところにある。本当は、地下鉄でひと駅先の「東比恵駅」まで行った方が近いのだが、散歩の距離を稼ぐため、JR博多駅をスタート地点に選んだ。かといって、駅からの道中が素晴らしい眺めといったことはない。山王公園までずっと味気ないビル街で、しかも地味なオフィス・ビルや雑居ビルばかりが並んでいる。

 このエリアは、地元の人に訊いても、あまり注目されていない地域らしい。「昔は何もなかったところですよ」と皆さん仰るが、何もなかったといっても荒地だったわけではあるまい。じゃあどんな雰囲気の所だったんだと尋ねると、誰もが記憶にないという。人によっては「確か畑だったですよ」なんて言う人までいるが、本当だろうか。いずれにせよ、忘れられていた場所ということだろう。

 実際、駅の東側は車も人も少ない。日曜日ということもあるのだろうが、ガランとしていてゴーストタウンのような静けさだ。途中、百年橋通りという東西に流れる幹線を横切ったときだけ車がビュンビュン走っていたが、南に下りていく通りは静かなものである。

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 道路沿いの街路樹は若葉が出て鮮やかだ。車もめったに通らない道路の、これまた人もほとんど歩いていない歩道をのんびり歩く。なかなか気持ちのいい散歩である。

 百年橋通りを渡ったあと道幅は狭くなり、街並みもそれまでとは変わって来る。道に面した一戸建ても現れ、駐車場で至るところ歯抜けのようになっている。高いビルも見当たらず、鄙びた地方都市の静かな午後といった風情である。

 通りの裏側はどんな感じになってるかと思いちょっと脇道に入って覗いてみると、低層のマンションやアパート、一戸建てがあるほか、倉庫があったり、雑居ビルがあったり、はたまた町工場まであったりして、統一感なく雑然としている。地元の人が「何もない場所だった」というのも何となく分かるような気がする。要するに、街並みの芯になるものがない。これだと確かに記憶に残りにくいなぁと感じた。

 信号で何度か止まるが、車も人もいないので信号機の意味がない。休みの日なら点滅信号で充分だろう。ほどなくして山王公園に着いた。

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 実は、この公園のことを教えてくれた地元の人は「ここの花見はけっこう騒がしいですよ」なんて言っていたから、あまり良いイメージを持たずにやって来たのだが、なかなかどうして、設備の整った立派な公園だ。野球場があるうえ、ラバーシートが張られたジョギングコースも整備されている。トレーニング用の設備もあり、管理事務所も置かれているようだ。運動をする人にはなかなか良い公園だ。ただ、この季節はジョギングなど不可能だろうが・・・。

 桜は探さずとも至るところに植えられている。桜で有名なだけあって、桜の案内板まで設置されている。ソメイヨシノが中心だが他にも何種類かの桜が植えられているようだ。案内板を見ると外周園路のほか、「さくらの丘」と「芝生広場」にたくさんの桜が植えられているらしい。早速ジョギングコースに沿って桜を見に行く。

 まずはさくらの丘だが、桜以上に人がすごい(笑)。知人の言っていた「騒がしい花見」というのがよく分かった。至るところシートが広げられ、子供からお年寄りまで、様々な人が楽しげに歓談している。陽気がいいのでビールが酌み交わされ、隅の方ではバーベキューの煙まで上がっている。これぞ「日本の花見」(爆)といった感じだ。

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 さくらの丘から降りていったところが芝生広場だが、ここにもたくさんの人がシートを広げて賑やかに一杯やっている。遅れてやって来たグループが、飲み物や食べ物が入った大きな袋をぶら下げてあちこち見渡しているが、いい場所は既に満杯の状態だ。

 ここに来るまでに通って来た街並みの静けさと、この公園の賑わいとの間のギャップがすごい。東京の上野公園の花見のようにカラオケセットを持ち込んで歌っている人はいないが、わいわいと話す人の声でたいそう賑やかだ。西公園や舞鶴公園と同じく何軒か屋台が出ているが、公園内ということもあってそれほどたくさんの店はない。

 花の状態は、満開を過ぎて散り始めといった感じで、至るところで花びらがハラハラと舞っている。この花びらの舞う感じが桜のもう一つの見所で、如何にも日本の春という感じがする。中には葉が出始めている木もあり、来週のウィークディのうちに多くの花が散ってしまうだろう。かくしてこれが今年の桜の見納めのような気もする。

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 芝生広場の先にある外周園路にも桜が植えられて、桜のトンネルになっている。ここも木の下ではシートが敷かれ、わいわいがやがやと皆さん、楽しそうに飲み食いしている。いったいどれくらいの人がこの公園に集まっているのか知らないが、飲み物・食べ物持込みとすると車で来ているのだろう。公園に駐車場はないから、どこに車を停めているのやら、ちょっと不思議である。

 ちょうど公園のジョギングコースを一周した辺りで、ポツリと神社があるのを発見した。ここだけ人がいなくて静かな雰囲気だ。せっかくなので立ち寄ってみる。

 神社は「日吉神社」で、愛宕神社同様、全国にたくさん末社のある神社だ。ただ、入り口に掲げられている由来を読むと、創建年代は不明で古くからこの地にあったとか、筥崎宮、住吉神社とともに黒田藩の藩主が正月に詣でる三社の一つだったなどと書いてある。筥崎宮や住吉神社の風格を思い浮かべると、どうも釣り合わない。あまりに敷地が小さく地味なたたずまいで、藩主が参るような神社とは思えないのである。

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 案内板には他にも、この神社が駅の東側にある「比恵(ひえ)」の地名の由来になったとある。もしかしたらこの神社、只者ではないかもしれないなぁと思い始めた。

 この神社は別名「山王社」と言うと案内板にあるから、江戸時代にはこの山王公園自体が神社の敷地だったのではなかろうか。神社の敷地を使って公園を作ったので、敬意を表して山王公園という名前が付いているのでは・・・。

 更に、この近辺の地名は「山王○丁目」だということと、その北側にある比恵地区が日吉神社の系列である「日枝神社(ひえじんじゃ)」に由来することを併せ考えれば、付近一帯が社領だった可能性もある。藩の信仰が厚い神社は田畑を社領として与えられたから、江戸時代には広い敷地を持つ立派な神社だった可能性は充分ある。

 そういえば、今日の花見の候補の一つでもあった藤崎の「紅葉八幡宮」は、黒田藩三代目藩主黒田光之の信仰厚く、その後黒田藩の守護神として崇められ、広大な敷地と社殿、能舞台、随神門、鐘閣などを有していたが、明治時代になり社領を返上し今のようなこじんまりとした神社になっている。この日吉神社も、何らかの事情で敷地を縮小することになったのではないか。

 そう考えると、この山王公園のど真ん中に日吉神社がある理由がよく分かる。なるほど、それなりに謂れのある公園だったのだ。

 ところで、この公園の東側には「御笠川(みかさがわ)」が流れている。御笠川は、太宰府天満宮の北東に位置する宝満山を源とし、大宰府政庁の南側を横切って福岡市博多区を通り海に注いでいる。以前足を運んだ、「濡れ衣を着せる」の語源となった「濡衣塚(ぬれぎぬづか)」は、この川沿いにある。

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 何でもない川のように見えるが、実はこの川、けっこうな暴れ川で、1999年と2003年に豪雨で川の水があふれ、博多駅東側に甚大な被害を及ぼしている。地元の人に聞くと、1999年のときはJR博多駅からこの山王公園辺りまで水浸しになり、多くの場所で膝上くらいまで冠水し、中には1 m近くの深さがあったようだ。一番ひどい被害を受けたのはビルの地下街と地下鉄の駅だったようで、すごい量の水が一気に流れ込んで、亡くなった人もあると聞いた。

 どうも、この駅東側は土地が低いようで、川があふれると水が溜まってしまう構造らしい。そのうえ御笠川は、上・中流で降った大雨が一気に押し寄せやすいため、短い寺簡易水かさが増し、この下流域で氾濫するらしい。なるほどそうなると、駅東側は不人気地ということになるのだろう。

 この御笠川から更に東に数百メートルいくと、福岡空港にぶつかる。ここはもう空港のすぐそばなのである。福岡空港はJR博多駅から地下鉄で二駅先と、市の中心部からすごく近い空港として有名だが、おそらくこんな場所に空港が作れたのは、文字通りこの辺りが昔何もなかったからなのだろう(笑)。

 福岡空港は以前「板付空港」と呼ばれており、松本清張の「点と線」でも板付空港として登場する。元は終戦間際に作られた陸軍の飛行場なのだが、占領下で米軍が「板付基地」として接収したことから、板付空港の名前が付いた。名前の由来は周辺の地名にあり、山王公園から南東に2kmばかり行った辺りの地名が板付である。

 さて、駅の東側は何もないなんて書いたが、弥生時代にはこの辺りに農耕集落があったことが分かっている。その遺跡があるようなので、ちょっと行ってみることにする。

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 この遺跡は福岡県指定史跡になっていて、案内板によれば正式名称は「比恵環溝住居遺跡」というのだそうだ。一辺10mの溝で四角に区切られた中に二つの竪穴があり、弥生時代の住居だったことが分かっている。こうした構造の環溝住居がいくつも集まり、集落を形成していたようだ。

 なかなか興味深い場所なのだが、如何せん、何気ない細道の片隅にあるうえ、道案内が全くないので、たどり着ける人はそうはいないと思う。おまけに、道路側に生垣があって隠れるように存在しており、脇から入るとようやく案内板が見える。これじゃあ、よくよく下調べして来ないと分からないよ。

 私はたまたま見ていた地図に載っていたのでたどり着けたが、それでもすんなりとは来られず、周辺をウロウロした。せっかくの公開遺跡なのだから、もう少し来やすいように案内板でも出したらどうだろうか。

 さて、桜も遺跡も見たことだし、そろそろ帰路につこう。遺跡のある通りを南西に進み、竹下通りにぶつかると北西に折れる。暫く行くと、百年橋通りに突き当たるので、ここを南西に折れ、JRの高架をくぐる。高架の向こう側に「東領公園」という運動公園がある。

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 この小さな写真では見にくいと思うが、ここは鉄道の高架が三重構造になっている。一番上が新幹線で、ちょうど見えるのがこの前全線開業したばかりの九州新幹線の電車である。その下にJRの在来線が上下二段になって走る。ブルーの車両が見えるが、これは博多と大分を結ぶソニックという電車だと思う。SF映画に出てくるような特徴的な形をしていてよく目立つ。

 上下三層あると頻繁に電車が来るので、電車の好きな人にはなかなかいいスポットだと思う(笑)。

 さて、百年橋通りはこの先「那珂川(なかがわ)」を越えるのだが、そこに架かっているのが、通りの名前の由来となる「百年橋」である。どういう意味なのかと調べてみると、明治元年から数えて百年目に当たる1967年に竣工されたため、こういう名前が付いたようだ。なかなか面白い発想である。

 今日のところは百年橋までは行かず、手前で北側に回る。この辺りは「美野島(みのしま)」という地区だ。比較的新しい名前のようで、古くは「蓑島」という字を当てていたらしい。地下鉄が出来る前にJR筑肥線が博多まで通じていた時代には「筑前簑島駅」という駅が近くにあったようだ。

 この美野島が有名なのは、古くからの商店街があるからで「美野島商店街」という名前で親しまれている。土日は休みで店は閉まっているが、どんな雰囲気のところかちょっと覗いてみようと思って立ち寄った。

 商店街は、百年橋通りから入って200mほどのところにある交差点を起点に東西南北に広がっているようだが、どちらかというと東西方向の方が店が多いらしい。

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 肉屋、魚屋、八百屋など昔ながらの個人商店が並ぶ昭和の匂いのする商店街で、日頃どの程度賑わっているのか知らないが、無人の通りを歩くと、時代をタイムスリップしたような気分になる。こういうのが、古き良き博多の街並みということになるのだろうか。

 美野島商店街を北に抜けると、住吉通りにぶつかる。すぐそばに住吉神社があるので、ちょっと立ち寄る。

 住吉神社は以前にも訪れたことがあるし、縁起などはその時にも書いた。創建年代は不詳で少なくとも1800年の歴史はある、日本で一番古い住吉神社である。住吉神社の総本山は大阪の「住吉大社」だが、最初に出来た福岡の住吉神社はやや別格扱いで「住吉本社」とか「日本第一住吉宮」といった別称を持っている。

 ちなみに総本山である大阪の住吉大社とこの福岡の住吉神社、そして下関の住吉神社を合わせた三社が「日本三大住吉」と言われている。

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 以前来たときには本殿が補修中で、工事現場の中を歩いているような感じだったが、ようやく工事は完成したらしく、覆いも取れてすっきりした。朱塗りの柱と白い壁の対比が美しい。

 境内に古い博多の絵図が掲げられていたが、これを見ると住吉神社は海に突き出た形になっている。航海・海上の守護神として崇められていたからだろう。現在は埋め立てられてしまったが、当時の博多湾はもっと内陸まで入り込んでいたようだ。住吉神社のメインの祭神は、「イザナギ(伊弉諾)」が黄泉の国から帰って来て行った禊の最中に産まれた「住吉三神」だが、三神はいずれも「筒男神(つつのおのかみ)」で、この「つつ」に星という意味があるということだ。星を頼りに航海していた時代の名残だろうか。

 その絵図に、先ほど行ったばかりの美野島の旧名である蓑島の文字が見える。当時は島だったらしい。海に浮かぶ島が何百年後かに商店街になるんだから、歴史というのは面白いものだ。

 さて、ここまで来れば博多駅はすぐそばだ。住吉通りを歩いて博多駅の西側、つまりスタート地点とは逆の博多口に着く。JR博多シティーは今日も繁盛しているようで、たくさんの人が駅周辺を行きかっている。西側と東側で、こんなに雰囲気が違うんだなぁと改めて実感した。

 今日は今まで来たことのないエリアが探検できてなかなか有意義だったし、山王公園以外は静かでのんびりと散歩できたのが良かった。今日もいい散歩だった。

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2011年04月09日

愛宕山と室見川散策

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 今朝は起きたら、薄雲が広がってはいるものの、まずまずの快晴。一昨晩からの雨と風はやみ、けっこうな散歩日和となった。毎週の恒例行事である洗濯とワイシャツのアイロンがけを午前中に済ませ、昼ご飯を手早く済ませると早速散歩に出掛けた。

 木曜から降り続いた雨はまとまったものだったし、風の方もなかなか強く、夜にはうなりをあげて吹いていた。実は水・木と出張に行っていて、飛行機で福岡に戻って来たのだが、海上は飛行機の上からでもハッキリ分かるくらいに白波が立っていたし、着陸時にはふらふらと機体が揺れて何とも不気味だった。

 一緒に出張に行った地元の人は「春一番ですかねぇ〜」なんて言っているので、「こちらでも春一番って言うんですか?」と訊いたところ、「春一番の語源は元々壱岐に由来があるんですよ」と言われてしまった。

 春一番は漁師が使っていた言葉で、この季節に吹く強い南風のことだ。対馬や壱岐、五島列島などの漁師たちは、春一番を昔から恐れていたようで、実際に江戸末期、壱岐から漁に出た船団が春一番に遭い50人近くが亡くなったらしい。この慰霊のため、壱岐の郷ノ浦港には「春一番の塔」が建っているという。以前「濡れ衣を着せる」の語源が福岡にあったのを発見して驚いたことがあったが、春一番もこんな身近な場所に語源があったのかとビックリした。

 まぁそんなわけで、強烈な南風とまとまった雨が通過した後だから、桜はあまり期待できないかもしれないと思いながらも、桜の名所「愛宕山(あたごやま)」に出掛けた。本日のスタート地点は、地下鉄空港線「室見駅」だ。

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 室見駅から室見川を渡り、明治通りの「愛宕下」バス停の前にある参道から愛宕山に登ることにする。今まで何度か愛宕山へ登っているが、どういうわけだか脇道を使うことが多く、この正式の参道を上るのは初めてである。まぁここは心臓破りの階段がいきなりそそり立っているから、敬遠したくなる気持ちは誰しもあるだろう。

 神社の階段というものは、最初は何とも思わないのだが、途中からジワジワと大腿辺りにきいてくる。ここの参道は、とりあえず見えている階段を上ると、ちょっと角度を変えて次なる階段がそびえ立つ構造になっており、それを見て一気に脱力する仕掛けである(笑)。さすがに一息では上れず、途中で休んで下界の景色を眺めたあと、残りを上って何とか駐車場に続く坂道へ出た。しかし、神社にたどり着くには更に先の階段を上らないといけない。実にいい運動になった。

 愛宕山の標高は約60mで、さして高くはない。ただ、海に面しているので見晴らしがいい。桜の名所というだけでなく、季節がよければ景色を楽しみに来る人が多いし、夜景を見るのにも絶好のスポットだと聞いた。

 そんな眺めの良いところゆえ、鎌倉時代にはこの山に「鎮西探題(ちんぜいたんだい)」が置かれていた。文永・弘安と二度にわたる元寇の戦いがあった後に、鎌倉幕府が設置した出先機関で、九州の行政・裁判・軍事などを管轄していた。室町時代になると、鎮西探題を踏襲するかたちで、「九州探題(きゅうしゅうたんだい)」という機関が置かれた。しかし、九州の実力者である島津氏・大友氏などはアンチ幕府の立場で、探題職を担っていた渋川氏を襲ってこれを滅ぼし、探題は事実上消滅する。愛宕山のつい先にある姪浜小学校脇に「探題塚(たんだいづか)」があるが、ここが渋川氏最期の地である。

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 愛宕山に植わっている桜の数は二千本と言われている。数だけ聞くと、至るところ桜だらけという印象だが、実際には山が広いので密集して咲いているわけではない。ただ、古木が多いため一本一本の枝振りが見事で、豪華絢爛という感じがする。

 既に散り始めている桜や、葉が出始めている木もあるが、まぁほぼ満開という感じで充分見ごたえがある。しかし、来週になると完全に盛りを過ぎるだろうなぁ。かくして先週と今週、2週末だけの桜見物となりそうだ。

 階段沿いに咲いている桜が多いせいか、シートを広げて花見をしている人はほとんどいない。そのかわり参道には老舗の茶屋があって名物の餅を売っているので、ここで休憩している人が多いようだ。つられて入って餅を食べると、何のためにウォーキングをしているのか分からなくなるので、私は遠慮しておいた。

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 桜の色には様々なものがあるが、ソメイヨシノのうっすらとしたピンクが一番美しく、桜のイメージによく合う。山桜の白い花もいいが、ソメイヨシノの淡いピンクは格別だ。また花びらの形も色々あって、ぼんぼりのように花が密集して咲く桜も見たことがあるが、きれいではあっても、桜という花の持つイメージからすると、ちょっと派手過ぎるかなと思った覚えがある。

 桜は、日本人に様々な感慨を呼び起こす花だ。誰しも桜にまつわる思い出を持っているものだし、忘れがたい桜というものもあるだろう。そうした記憶の中の桜と、目の前にある桜のイメージが重なり合うことが大事で、そうした観点からは、どうしても一般的なソメイヨシノが有利ということになる。

 日本の自然における美というのは、元々淡い色合いのものなのだ。今では、原色の花や色とりどりの葉をつけた植物を公園や庭先で見かけるが、そのほとんどは海外から持ち込まれた外来品種だろう。日本古来の美は、もっと渋く、淡い色をしている。桜の淡いピンクしかり、新緑の黄緑色しかり、紅葉の赤しかりである。

 原色の装飾が氾濫する現代の都市生活にひたっていると、たまに見る自然の地味で淡い色合いが新鮮に見える。原色の顔料が手に入れにくかった昔の日本人は、逆に派手な色合いを好んだのだろうが、原色も長い間見続けていると辟易してくるところがある。

 桜を眺めつつそんなことを考えながら、何とか頑張って山頂にたどり着く。ここには「鷲尾愛宕神社」がある。

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 この神社の紹介は、以前に来たときにもしたと思う。元は「鷲尾神社」と言い、その当時は山の名前も「鷲尾山」だった。「愛宕」が付いたのは、うつけ者で有名な福岡藩二代目藩主黒田忠之のときで、忠之が京都から愛宕権現を迎えたのである。愛宕山という名前に変わったのはこの時だ。

 元々の鷲尾神社は、景行天皇の時代に建てられたと伝えられているが、「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の父親が建てたということは、創建は神話時代の話になる。要するに、記録が分からないくらいに古いということだ。姪浜地区には他にも創建が神代の神社があるから、この神社に限らず地区の歴史が相当古いということだろう。

 景行天皇がどうしてここにやって来て神社を建てたのかと不思議に思われるかもしれないが、日本神話では「熊襲(くまそ)」を制圧して九州を平定するために景行天皇がこの地に遠征してきたという話になっているから辻褄は合う。

 一方、愛宕神社がやって来たのは江戸時代と、比較的新しい話になるが、それでも京都郊外にある総本山の愛宕神社と、徳川家康の命により建てられた東京都港区の愛宕神社と並んで、三大愛宕神社と呼ばれているらしい。愛宕神社なんて全国に数百社あるはずだが、ここの愛宕神社がどうしてそれほど権威があるのかはよく分からない。

 愛宕神社そのものは、元は火にまつわる神様を祀っていて、お参りすると火事に遭わないなんて言われているが、最近はそれが発展して防災の神様ともされている。今のご時勢にピッタリの神社である。

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 神社の境内はそのまま展望台になっていて、四方がよく見える。上の写真は東方向を見たもので、福岡タワーがそびえる百地浜地区である。北側はシーサイドエリアの高級住宅地で、西側にはアウトレットモール「マリノアシティー福岡」の観覧車が見える。ここから眺められる一帯はほとんどが埋立地で、昔はこの愛宕山の周辺は海だったと考えられている。

 以前愛宕山に来たときに、南西側の登り口付近に「蛇岩」と呼ばれる地層が剥き出しの箇所があるのを紹介したことがあった。対立した村の若者同士が夫婦になったため、村人たちから海に投げ込まれ、死して後に蛇となったという伝説の岩だが、実態は海に洗われて出来た侵食地形だとされており、愛宕山の周りは海だったことが分かる。

 私が住んでいるわけじゃないからいいのだが、地震が起きたときにこうした埋立地は大丈夫なんだろうかと心配してしまう。今回の地震で、東京周辺では高級住宅地としてもてはやされていた千葉県の舞浜地区が液状化現象で大変な事態になっているのを見るにつけ、シーサイドエリアの埋立地に警戒感を抱くようになった。そう感じるのは、今や私だけではあるまい。

 さて、愛宕山の桜も堪能したことだし、そろそろ山を降りて今度は室見川の堤防沿いでも歩こうかと考えた。

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 福岡市内を流れるいくつかの川の堤防沿いを歩いてきたが、今までのところではこの室見川の堤防が一番気に入っている。川自体が広々としていて気持ちいいし、何より散策に適した歩道が、両岸ともきれいに整備されている。所々公園もあるし、水はきれいで野鳥も多い。

 せっかく天気もいいのだし、距離を稼ごうと、かなり南の方まで歩くことにした。堤防沿いにはところどころ桜が植えられており、花見客も多い。家族連れがシートを広げて楽しげにくつろいでいる。その脇を選挙カーが通り、明日投票の地方選の候補が最後のお願いを繰り返す。先週も花見の席を回って売り込みをする候補者を見たが、何もここまですることはないだろうと思う。かえって嫌がられるよ。

 堤防沿いを歩いていて珍しいものを見つけた。室見川の初春の風物詩シロウオ漁に使う「やな」である。

 2月の中下旬頃から室見川でシロウオが獲れる。地元の組合が室見川にやなを仕掛け、かごにシロウオを集めて捕獲する。昔ながらの伝統的な漁法が今でも行われている。捕らえられたシロウオは春を呼ぶ珍魚として魚料理の店などに卸されるようだが、室見川沿いに臨時に建てられたプレハブの小屋でも賞味できる。

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 上の写真が室見川に張り巡らされたやなで、この角の辺りにかごを据え付けてシロウオを集めるのだと思う。やなの上には無数のカモメが集まっている。シロウオは人間様が捕るとして、やなに集まった他の魚は自分らで頂いてしまおうという魂胆らしい。実に賢い鳥である。

 シロウオを食べさせる臨時のプレハブ小屋も営業中だったので、通りすがりに中を覗いたが、天気もいいせいかけっこうな人数の客が集まっている。街中の料理屋でシロウオを食べると高いので、ここの小屋で食べると言っていた地元の人がいたが、繁盛している様子を見ると毎年これを楽しみにしている人は大勢いるのだろう。

 実を言うと、私もたまたま天神で飲み会をやったときにシロウオを食べた。突き出しのように店の人が持って来て、ポン酢をかけて食べて下さいと言われた。もちろん生きているから、ポン酢をかけるとピチピチ跳ねる。辺りにポン酢が飛び散る前にツルリと食べるわけだが、生きたままの魚を口に入れるというのはあまり気持ちいいものではない。

 以前にも書いたが、私はシロウオが好物というわけではない。好きな人に言わせると、動くシロウオが喉を通っていく感触がたまらないらしい。そのうえ精力がつくから毎年楽しみにしているなんて言う人もいるが、こちらとしてはあまり積極的に食べたいシロモノではない。

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 桜の花もきれいだが、川沿いの草木に鮮やかな黄緑色の若葉がつき、青空によく映える。4月も中旬となりそろそろ新緑の季節だ。桜のピンクと新緑の黄緑色は、色の組合せとしてお互いを引き立てあう。これからは週末ごとに自然が息づいて来て、散歩の楽しみが増えそうだ。

 ところで、東京の花見自粛はどうなったのだろうか。私は、被災した人が気を悪くするような騒ぎ方は如何かと思うが、日本人が古来から春の訪れを喜び桜の花を愛でた慣習までやめろというのは如何かと思う。そんなふうに全体で自粛すると被災者の人たちが喜ぶのだろうか。いったい誰がそうして欲しいと言ったのだろうか。

 最近、ちょっとした娯楽に関しても「不謹慎だ」と他人の行いを非難する風潮がある。言わんとするところは分からないでもないが、第二次大戦中に何かというと「非国民」とののしって全体に従うよう国民に強要した全体主義の時代を髣髴とさせて、何だか嫌な気分になる。特にマスコミが先頭に立っていきりたっている姿を見ると、戦時中に国民を戦争に駆り立てた新聞社の行いも、こんなことだったんだろうなと思ってしまう。

 そんなことをつらつら考えながら室見橋からスタートした川沿いの散歩は、室見川筑肥橋、室見新橋とドンドン南下して行く。このまま外環室見橋まで歩いて地下鉄七隈線で帰ろうかとも思ったが、さすがに大回りになるのでやめた。結局、小田部大橋まで歩き、橋のたもとのブック・オフに立ち寄ってから、Uターンして帰ることにする。

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 今日の感じから言うと、桜の方は思ったほどには散っていない。この分だとまだ充分花見は楽しめそうなので、明日もどこかに桜を見に行くかな。おそらくこれが今年最後の花見になるだろう。

 今日は天気も良いうえ、たくさん散歩できていい一日だった。願わくば、明日もこんないい散歩日和であるようにと祈りながら、地下鉄室見駅まで歩いた。

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2011年04月03日

福岡城さくらまつり

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 今日は昨日と打って変わって、朝からどんよりと曇り空。いつ雨が降り出してもおかしくない空模様で、気温もやや低め。天気予報では雨の心配はそれ程ないと言っているが、厚い雲を見上げると、信用していいものかどうか。この季節、天気の変わり目は早いし、局地的に雨になることもある。さてどうしたものかと迷っていたら、午後になって空が明るくなり薄日が時折差すようになった。これなら大丈夫だろうと外に出た。

 昨日に引き続き桜見物ということで、「舞鶴公園(まいづるこうえん)」に出掛けることにする。約千本の桜が植わっている市民憩いの場である。

 ちょうど4月10日まで「福岡城さくらまつり」という催しを、この舞鶴公園でやっている。この季節恒例の行事らしいが、インターネットで開催の案内を見ると、東日本大震災の影響で様々なイベントが中止になっている。花見自粛の動きが関東を中心に広がる中では、遠く離れた九州といえども、華やかな行事はやりにくいんだろうなぁ。

 舞鶴公園は、福岡城址を中心とする公園で、大濠公園とは隣り合っている。まずは大濠公園の東側から舞鶴公園西広場へと進む。この周辺にも桜が植わっていて、広い芝生広場は恰好の花見スポットということになる。

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 今日は曇り空で気温も低めなため花見客は少なかろうと予想していたが、そんなことはなくて大賑わい。桜の方は満開というわけではないが、至るところにシートが敷かれて、家族連れや友人・知人のグループが賑やかに宴会を繰り広げている。典型的な花見の光景で、自粛ムードはまるでない(笑)。まぁ日本経済を支えるためには、遠く離れた九州では普段通り生活する方がいいのかもしれない。

 昨日の西公園と同じく、沿道には様々な屋台が軒を並べていて、手ぶらで来ても食べ物、飲み物は一通りそろうようになっている。花見客用に大きなゴミ捨て場がいくつも設置され、簡易トイレまで臨時に据え付けられているなど、さすがに人気の花見スポットだけのことはある。

 大賑わいの西広場だが、この芝生広場の片隅には、福岡藩初代藩主「黒田長政(くろだながまさ)」の父「黒田如水(くろだじょすい)」の隠居場があったとされている。

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 黒田如水は現役時代、黒田官兵衛の名で知られ、竹中半兵衛と共に豊臣秀吉に仕えて才能を発揮し、戦国時代屈指の軍師として名を馳せた。秀吉亡き後は徳川方につき、関が原の合戦で息子長政が戦果を挙げたことから、この福岡の地を与えられ移り住むことになる。

 関が原の合戦で手柄を立て家康から手を取って褒められたと自慢する長政に対して、如水は「どちらの手を取って家康は褒めたのか」と訊いたとされる。長政が右手だと答えると、如水は「で、そのときお前の左手は何をしていたのだ」と再び訊いたという有名なエピソードがある。要するに、油断している家康を左手で刺し殺せば、再び天下の形勢は変わっただろうと如水は言いたかったわけだ。

 このエピソードが事実かどうかは知らないが、如水という人は、権謀術数の限りを尽くす野心的戦略家として歴史上語られている。しかし、福岡の地に居を構えて以降は、荒廃していた太宰府天満宮の再建に力を入れながら隠居生活を送っていたらしい。キリシタンであった如水が天神様の復興に精力を注いだというのは何とも不思議な話だが、意外と鷹揚な人であったのかもしれない。

 なお、如水が亡くなったのはこの隠居の地ではなく、京都の伏見と伝えられる。墓は以前に行った崇福寺にある。如水も、まさか自分の隠居場が、後世庶民の花見の場所になるとは思ってもいなかっただろう。

 さて、話が少々脱線したが「名島門(なじまもん)」から道路を渡り、福岡城址に入ることにする。名島門は、以前にも紹介したかもしれないが、福岡城築城に際して「名島城(なじまじょう)」から移築された門で、福岡市の文化財に指定されている。

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 元々黒田家が福岡に入る前にこの地を治めていたのは小早川家で、その居城が名島城である。現在の福岡市東区の海沿いに建てられた水城だった。新たに福岡の地に来た黒田長政は、城下町の形成を重視して、城を内陸に置くことにし、名島城を解体し、石垣もろとも今の福岡城の建材に使った。

 お蔭で名島城は何も残っておらず、現在では公園と石碑があるだけと聞く。在りし日の名島城の面影を伝えるのは、この名島門と、黒田家歴代の墓がある「崇福寺(そうふくじ)」の「唐門(からもん)」だけである。

 さて、名島門をくぐって道路を渡り、松ノ木坂御門から城内に入る。ここから桐ノ木坂御門までの南北200mほどが一つの花見のスポットである。

 石垣が組まれた上に広がるこの空間は、二の丸ということになる。石垣の西下側に南北に広がる広場が三の丸である。ただ、今日の感じではここも満開というわけではなく、五分咲きくらいだろうか。

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 江戸時代、博多の町人が正月十五日に城内に入り、藩主に新年の挨拶をする慣わしがあった。これを「松囃子(まつばやし)」と言っていたらしい。町民一行は現在の下之橋から入り三の丸の一角にあった館で藩主と対面したという。ちょうど名島門の南側にある舞鶴中学校の辺りだ。

 この松囃子は明治になってなくなったが、その後これを復活させたお祭りが「博多どんたく」だと言われている。どんたくの行進は、藩主に会いに行く町民の行列が原型だということになる。

 桐ノ木坂御門のすぐ南に多聞櫓のある一角があり、ここを南二の丸という。この区域は国の重要文化財に指定されているが、桜の名所でもある。ここも本日のところは、五分咲きという感じだが、何本も桜が植えられているので、なかなか見事だ。

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 既に天守閣が失われて城らしい風情は石垣と櫓くらいしか残っていない福岡城址だが、やはり城と桜というのはよく合う。城壁の白と、石垣・瓦の灰色を背景に、ピンクの花がよく映える。如何にも日本らしい春の景色だ。ふと、土井晩翠・滝廉太郎の「荒城の月」の歌詞が思い出された。

 このエリアは、白壁に囲われた四角い緑地が広がっていて、シートを広げるのにちょうどいいし、桜と櫓が織り成す景色もなかなかなので、たくさんの人がシートを広げて楽しそうに飲み食いをしていた。さすがに地元の人はいい場所をご存知だ。

 本来は、この南二の丸に特設ステージが設けられ、和太鼓の演奏のほか、福岡藩に伝承されてきた柳生新影流の演武、同じく福岡藩に伝わる砲術である陽流抱え大筒の実演などが行われるはずだったが、東日本大震災の影響で中止となった。事情を考えれば致し方ない面もあるが、ちょっと残念だ。

 さて、次はいよいよ本丸に上がろう。天守閣のあった北側が広場になっており、たくさんの桜が植えられている。

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 どういうわけだか、本丸の桜はほぼ満開で、今まで見て来た中では最も美しい。一番高い位置にあるため日当たりが良く、開花が進んだのだろうか。

 お蔭ですごい人だかりになっていて、至るところで花見客がシートを広げている。これだけこんでいると、空いている場所を見つけるのが大変そうだ。歩くのにも一苦労で、桜を見ながら歩いていると人にぶつかりそうになる。最も人口密度の高いエリアということになろうか(笑)。買出しに行って来た人が食べ物や飲み物を持って右往左往しており、おちおち写真も撮っていられないほどだ。

 たまに散歩がてら大濠公園からこの本丸まで上がって来ることがあるが、普段はポツポツとしか人がいない。特に何もない空間だから、せいぜい天守台に設けられた展望台から市内を見渡すくらいしか、ここに来る目的はないのだろう。こんなにこんでいる本丸は初めてだ。

 さて、宴会の喧騒から逃れて、城を北側に下りお堀端に向かう。扇坂から東二の丸を通って東御門から旧平和台球場へ進む。この道中も桜の樹がたくさん植えられていて、なかなかきれいだ。

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 かつて平和台球場があった場所や、現在平和台陸上競技場がある場所は、江戸時代、家老の屋敷が建ち並ぶ区域だったようだ。上之橋辺りに、黒田節で有名な「母里太兵衛(もりたへい)」の屋敷や、黒田騒動を引き起こした「栗山大膳(くりやまだいぜん)」の屋敷があったと言われている。

 母里太兵衛は、戦国武将福島正則が強要した大杯の酒を飲み干して名槍「日本号」を奪い取った話がつとに有名だが、槍の名手でもあり、黒田軍の先手両翼の大将の一人だった。もう一人の大将が、栗山大膳の父栗山利安である。黒田如水は、黒田家家臣から24人の精鋭を選び「黒田二十四騎」と称したが、その中で最も勇猛果敢な8人が「黒田八虎」である。母里太兵衛も栗山利安も、その最精鋭メンバーに名を連ねている。

 一方栗山大膳は、長政も心配する問題児だった二代目藩主黒田忠之に仕え、その破天荒な暴政ぶりに危機を感じて幕府に「忠之に謀反の疑いあり」と訴え出たことで、いわゆる黒田騒動を引き起こす。これにより黒田家所領は一旦没収された後、黒田如水・長政父子の功績を称えて再び戻されたが、大膳の方も「乱心した」という幕府の裁決により盛岡藩預かりとなる。いわば喧嘩両成敗みたいな裁きだったのだろう。事実上の追放処分であったにもかかわらず、盛岡藩は大膳を手厚くもてなし、栗山家は以後、盛岡に定着したと伝えられている。

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 さて、黒田家の有名な家臣たちの物語に思いを馳せながら、上之橋からお堀を渡り、今度はお堀端の桜並木を歩くことにしよう。明治通りの歩道脇には、お堀の水際に沿って土の散策道が続いている。ここは桜の季節に限らずけっこう気に入っている場所で、明治通りを歩くときには歩道ではなく、この土の道を歩くことにしている。小説や映画にでも出て来そうな、何とものどかで雰囲気のある道である。

 全般的に、福岡城址の桜も満開の一歩手前といったところだろうか。でも来週暖かくなると一気に開花が進み、来週末ではやや盛りを過ぎてしまうかもしれない。サラリーマンは花見には不利だなぁ(笑)。

 桜に限らず、自然の美しい状態はほんの一瞬である。その時、その場所に行き会えるかどうかは運次第とも言える。だからこそ自然は美しいのであり、桜の花に人は心惹かれるのだろう。今年のこの桜はこの時限りのものである。茶の湯に「一期一会」という言葉があるが、これは自然と向き合う際にも通じる言葉だと思う。

 運が良ければ、来週も桜を見に行こう。福岡で見た桜は、福岡の思い出と共に、きっと心に残ると思う。

posted by OhBoy at 23:09| 日記

2011年04月02日

桜を訪ねて

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 今朝は起きたら晴天で、気温も高め。如何にも春らしい陽気である。毎度のことながら洗濯をしたりワイシャツにアイロンかけたりしているうちに昼近くになる。昼食を食べたら散歩に行こうと思っていたら、段々雲が広がって来て薄曇となった。こんなもやっとした天気の方が、この季節にふさわしいのかもしれない。

 このところ気温も上がって春らしい陽気の日が増えた。時折、朝晩肌寒い日があるが、日中は暖かい陽が降り注ぎ、戸外を歩いていても心地よい。そろそろ、散歩にはいいシーズンになって来たのではなかろうか。

 さて、職場近くにある桜の木が三分咲きくらいになっていたので、この週末には方々で桜便りが聞かれるだろうと期待して、桜の名所に足を運ぶことにした。取りあえず今日のところは「西公園」を目指す。ここは「(財)日本さくらの会」が選んだ「さくら名所百選」の一つである。他に福岡県で選ばれているのは、秋月の「秋月杉の馬場通り・甘木公園」と、「英彦山(ひこさん)」の麓の添田町にある「添田公園」の二つだけなので、福岡市内では一番の桜の名所と考えて間違いはあるまい。

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 この前西公園に来たときは北の福浜側から登ったが、今日は南側の光雲神社参道から登ることにする。参道の桜は三分から五分咲きといった感じだが、既に屋台が出て多くの人で賑わっている。桜の下の草地にはシートを敷いて弁当を食べている家族連れもいて、この季節らしい平和な光景である。

 今回の東日本大震災で被災された方々にとっては、とても花見どころではなかろうし、被災地の様子を新聞やテレビで毎日見ていると、のんびりと桜の花を見るのは、何だか後ろめたい気持ちもする。花見をしている人たちの中にも、例年通りの花見というわけにはいかないなと思っている方もおられるのではないか。

 今日の昼に見たNHKニュースによれば、関東地方では酒を飲みながらの桜見物は自粛する傾向にあるらしい。そんな風潮に対して、過度な自粛要請は如何かという反論も聞かれるが、私はこと桜に関しては、静かに見る方が好きである(笑)。

 昔、桜の季節に米国のワシントンD.C.に家族で訪れたことがあって、タイダルベイスン沿いの桜並木を散歩した。タイダルベイスンは、ポトマック川の水を引き込んだ人工の入り江なのだが、水際の散策道沿いに、それは見事な桜並木が続く。これは、米国側の求めに応じて明治時代の終わりに東京市長が贈ったものだが、米国からは返礼にハナミズキが届けられた。ちなみに、日本にハナミズキが植えられたのは、そのときが初めてである。

 そのタイダルベイスンの桜並木だが、米国では誰もシートを敷いて飲めや歌えやの騒ぎをしないものだから、静かな中を桜を見ながら散歩できる。木の下で宴会をしていないということは、食べ物の匂いやお酒の匂いもしないということだ。これが実にいい。手に取れるくらいのところまで枝を張った満開の桜の中をそぞろ歩きながら、明治時代から咲き続ける桜を観賞した。純粋に桜の美しさだけを堪能できる花見だった。

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 西公園は荒津山という小高い山を整備したもので、西公園のすぐ北側は海である。万葉集の時代から都でも知られた場所で、防人も置かれていたし、大陸と行き来をするうえでの玄関口でもあった。

 荒津山には現在、黒田如水・長政父子を祀る「光雲神社(てるもじんじゃ)」がある。その参道はお堀端から一直線に北に伸びていて、その様子から、黒田藩が大切に守ってきた神社のように見えるが、実はこの神社がここに移ってきたのは、明治後半になってのことである。

 では江戸時代にここに何があったのかというと、福岡藩が東照宮を建てていたのである。東照宮を建てることは徳川家への忠誠を形で見せることになるため、各藩は競って藩内に東照宮を建てた。福岡藩もそれに倣ってここに東照宮を建て、立派な参道を整備した。要するに、徳川幕府への忠義の証として作られた参道ということになる。

 荒戸山が今のような公園になったのは明治後半のことと聞く。最初に整備されたときには、山の名前を取って「荒津公園」と呼ばれていたらしい。そのときに桜も植えられ始めたようだ。公園として整備された当時の石碑が、光雲神社の近くに建っている。本日は残念ながら屋台が所狭しと道沿いに並んでいて石碑が見られないから、以前に撮った「荒津公園成立之記」の石碑の写真を下に掲げておこう。

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 それにしても桜は不思議な花だ。これほど日本人から愛されている花はないし、単に美しいだけでなく、見る人ごとに様々な思い出がよみがえる花だ。卒業や入学、人事異動など、人の別れと出会いの季節に咲く花であり、そうした場面を演出してきた重要な脇役だ。桜の名前の付く歌には名曲が多いというが、それは桜そのものに、多くの人の思いが詰まっていることと無縁ではあるまい。

 日本人にとって「花」といえば、奈良時代には梅だった。それが平安時代に入って暫くすると桜になる。平安朝の文学作品で単に「花」と出てくれば桜を指す。吉田兼好の「徒然草」に出て来る有名な文章「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」の「花」も桜のことである。但し、当時はソメイヨシノはまだないから、山桜のことを指している。逆に今は、山桜を見つける方が難しくなった。

 ここ西公園に植えられている桜も、多くはソメイヨシノである。ソメイヨシノは、エドヒガンとオオシマザクラを交配させて江戸時代に作られた品種だ。人工交配の品種であるがゆえに、種子を作って自然に繁殖することがない。人の手で、接木して育てるしかないという欠点を持つ。また、寿命も山桜に比べて短く、数百年の古木もある山桜に比べて、ソメイヨシノは百年持てば貴重な古木となる。多くは50-60年で樹勢が衰えるという。従って、この西公園の桜も、こまめに手入れをし続けなければ「さくら名所百選」の地位は守れないわけだ。

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 西公園は、荒戸山全体に桜が満遍なく植わっているが、光雲神社の階段下から左に回り込むようにして北方向へ伸びる道を少し行くと「さくら谷」という場所に出る。ここにはたくさんの桜が集中して植えられているし、木の下もシートが敷けるように草地になっている。既にたくさんの人たちが桜の木の下で弁当を食べたり歓談したりしている。五分咲きでこの状態だから、来週辺りはすごいことになるに違いない。

 そんな賑やかな花見の様子を眺めていると、ちょうど地方選挙の期間中なので、候補者が各シートを回って名刺を配って挨拶しているのが見える。たしかにこれだけ人が集まっている場所だから、選挙運動も一気に進むのだろうが、人が楽しんでいるところに押しかけて名前を売っても、かえって恨まれるだけなんじゃないかと、他人事ながら心配になる。

 暫しさくら谷の桜を楽しんだ後、喧騒を離れて、山道沿いの桜を見て歩くことにした。道の所々に植えられているので、さくら谷のようなパッとした華やかさはないが、静かな中で見る桜もいいものだ。誰に見られるでもなく細い山道の途中に咲く桜なんて、日本人の詫び寂びの感覚に訴えかけるものがあるような気がする。

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 方々歩いて桜を堪能したところで、そろそろ荒戸山を下りることとする。今度は、来たときとは逆方向の福浜側に出る。少々歩き足りないのと、せっかく陽気もいいので海岸線を歩きたくなったのである。福浜側の登り口を下りると、すぐ先に福浜緑地から伸びる砂浜があるが、どうせなら足を伸ばして地行浜、百道浜まで行こうと、西に進路を取る。

 よかトピア通りを進み「菰川(こもがわ)」を渡ったところで、川沿いを北上して海浜公園に出る。ここから「室見川(むろみがわ)」にかけての砂浜沿いの散策道は、私がよく歩く散歩コースである。浜辺に出ると玄界灘を渡ってくる北風が少々強いが、冬場と違ってそれほど冷たくはない。これだと、ジャンパーなしで問題ないレベルだ。もう春ということだろう。

 曇り空となったせいか、「志賀島(しかのしま)」や「能古島(のこのしま)」が霞んで見える。春になって空気が緩んでくると、こうした景色になるものだ。この季節、夕暮れの博多湾はなかなか美しい。遠くに島々が霞んで見えて、実にのどかな情景である。福岡のような大きな都市で、こんな景色が見られるというのもいいものである。

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 春の海といえば、富山湾辺りではこの季節、蜃気楼が有名である。私は行ったことはないが、昔から魚津の蜃気楼は見物客も多いと聞く。江戸川乱歩の「押絵と旅する男」も、主人公が魚津に蜃気楼を見に行った帰りに、汽車の中で不思議な男と会うところから話が始まる。

 乱歩の小説の中にも出てくるが、元々蜃気楼というのは、海に住むハマグリの化け物が吐き出す息の中に、架空の建物が幻のように見えるという言い伝えから名前が付いている。蜃気楼の「蜃」は大ハマグリの中国名で、「楼」は高い建物を差す。従って、合わせると「蜃」が吐き出す「気」の中に見える「楼」という意味になる。

 実際の蜃気楼は、海面温度と大気の温度の違いから、海上に温度の異なる空気の層が出来て、光が屈折して見える現象である。夏の暑い日にアスファルト上に見える「逃げ水」と原理は同じなので、富山湾でなくとも見えそうな気がするが、残念ながら博多湾で蜃気楼が見えるという話は、地元の人から伺ったことがない。

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 遠く霞む島々を見ながらのんびりと福岡タワーまで歩く。ふと気付くと、空はすっかり厚い雲に覆われている。日中は雨は大丈夫と天気予報では言っていたが、空の暗さにちょっと心配になる。洗濯物も干したままだし、そろそろ帰ることにする。福岡タワーから南に真っ直ぐ下りていけば、西新の駅に着く。本日のところは、それで散歩終了としよう。

 もう少し天気が持てば良かったのだが、ちと惜しい。明日天気が良ければ、また別の場所に桜を見に行こう。花の命は短い。ちょっと見ずにいるとたちまち散ってしまう。そこがまた日本人の心をくすぐるのだが・・・。

posted by OhBoy at 23:18| 日記