2011年05月29日

台風襲来

 今朝は風の音で目が覚めた。戸外でブーンという音が聞こえる。電線が強風にあおられて立てている音だろうか。昨日は雨といっても比較的穏やかだったが、今日は激しい天候だ。起きてカーテンを開けると、窓ガラスに雨が叩きつけられるようにして降っている。こうなると、買い物のための外出すら敬遠したくなる。

 天気予報をつけると、台風2号は九州南部の海域を通過するらしい。昼頃に最接近のようだが、雨風の強さは台風の位置とずれることがあるので、午後に天気が回復するとは限らない。逡巡することなく読書の一日と決めた。

 まだ読んでいない本の中から暫し考えて選んだのは、三津田信三の「山魔(やまんま)の如き嗤う(わらう)もの」である。講談社文庫から文庫版が今月発売されたばかりで、書店で見つけた瞬間に買った本だ。

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 この本は、全国を放浪して怪異譚を収集する小説家「刀城言耶(とうじょうげんや)」を探偵役とするシリーズで、既に講談社文庫から発刊されている「厭魅(まじもの)の如き憑くもの」「首無(くびなし)の如き祟るもの」の2冊は読んだ。今回の「山魔の如き嗤うもの」は、講談社文庫版としては3作目に当たり、単行本として出た際に2009年の「本格ミステリ・ベスト10」一位に輝いた作品である。

 物語の舞台は戦後まもなくの山間の集落で、成人した男子が一人で霊山にお参りする通過儀礼から始まる。話の主人公がその途中で道に迷い、誤って入山を禁止されている忌み山に入り込み、夜になって一軒家にたどり着いて、不思議な山人一家と遭遇する。しかも彼らは、翌朝、密室状態の家から忽然と姿を消してしまう。この手記に興味を持った刀城が赴いた現地で、村に伝わる六地蔵の童唄に見立てて連続殺人が起こるというのが主な筋立てである。

 刀城言耶シリーズは推理小説であり、動機もトリックも仕込まれていて一応合理的なストーリーになっているが、どこかにホラーの要素がきちんとあって、読後感はすっきり合理的に話が片付いたというより、怪異の余韻がしっかりと残る構成になっている。その辺りが、他にもたくさんある土俗風味の推理小説と違うところだろう。

 この作品の中では、忌み山に棲むという山魔の存在が一つの伏流になっているが、それがかつてあった姥捨ての風習と重ねられていたり、山の中をたった一人で歩く原始的恐怖を様々に脚色したりしていて、恐怖のあおり方がうまいなと感心する。

 これをゴウゴウと風がなる薄暗い室内で一人読んでいると、なかなか雰囲気があって宜しい(笑)。怖いのが苦手な人には、一人深夜にこの本を読めといっても敬遠されるかもしれない。いっそ、この本を読んだ後に一人で曇り空の中を登山したりしたら、もっと盛り上がるんじゃなかろうか(笑)。

 最近とんと行かなくなってしまったが、東京にいた頃、たまに電車で埼玉県北部まで出掛けて山登りをしていた。たいていは息子と一緒だったが、一度夏の日に一人で山に登ったことがあった。そのときはいつも行く山ではなく、初めての山を登ったのだが、どういうわけだか登山道に誰もいなかった。これはなかなか珍しいことで、たいていは登る時も下りる時も誰かと出会って挨拶するものだが、この時はたった一人で初めての山道を歩いた。

 私は超自然現象を信じる方ではないが、大自然の中をたった一人歩くというのは、気持ちのいい反面、どこか原始的な恐怖を湧き上がらせる要素がある。山魔が出るというわけではないが(笑)、例えば途中で足を滑らせて崖下に落ちたらどうなるだろうといったような不安が芽生える。山の中では携帯電話の電波が届かないので、他のハイカーに見つけてもらうしかない。もし誰も通り掛らなかったらどうなるのだろう・・・。

 あるいは道に迷って辺りが薄暗くなり、下山口が見つからなかったらどうするのか。おそらくいないと思うが、道の先の笹薮からクマが出て来たらどうするのか。こうしたこともまた原始的な恐怖を呼び起こす不安材料である。

 科学の発達していない昔は、こうした原始的恐怖が妖怪や怪異として形を取って山の中に存在していた。だから、事故の多い山は忌み山として入山を規制されたのだろう。妖怪が出るとか怪異があると言えば、当時は誰も怖がって入山しない。言うなれば、昔の人の知恵だ。

 そんな妖怪変化や怪異譚は、文明社会の到来と共に次第に我々の周りから消えて行った。自然の隅々まで詳細に明らかになって、謎はなくなり、闇も消えた。闇のない社会には妖怪や怪異は身の置き場がない。だから現代の都市伝説と称される怪異譚には、人を怖がらせる要素しかない。人々の生活の知恵や、古来からの言い伝えなどとはキッパリ縁を切った存在なわけだ。

 でも、今回節電が叫ばれるようになって、公共空間の片隅に小さな闇が出来つつある現在、こうした原始的恐怖がもう一度息を吹き返し、山魔のように人々の心に宿るようになるかもしれない。暗がりに行ってはいけないよ、というのは、我々世代が子供の頃に親から言われた警告だった。それだけ暗がりが日常生活の中にあったからだろう。

 さて、来週は会議で東京に出張である。従って、福岡での週末の散歩はお休みということになる。もうそろそろ北九州も梅雨入りだろうから、これから暫くは週末の散歩は難しくなるかもしれない。運動不足にならないようにしないといけないなぁ。

posted by OhBoy at 22:16| 日記

2011年05月28日

雨の週末

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 今日は起きたらしとしと雨が降っていた。昨夜の天気予報では、朝から激しい雨が降るかのように報じていたので、もしかしたら予報が外れて雨が上がったりするのかなと期待して天気予報を見たが、残念ながら終日雨マーク。明日はもっとひどくなりそうな雲行きだったので、散歩は無理かなと諦める。

 この週末は台風2号の影響でかなりの雨になると職場で話題になっていたため、土日に家にこもり切りになってもいいように、昨夜のうちに食料を買い込んで来た。台風に直撃されない限り、傘さえ持って出れば買い物は可能なのだが、本降りになるとさすがに外出が億劫になるからなぁ。

 そういえば今週は、沖縄、九州南部を皮切りに関東・甲信や東海まで梅雨入りした。しかしどういうわけだか、福岡を含む北九州はまだ入梅宣言が出ていない。天気の方はすっかり梅雨の気配で、もう水ガメの心配はいるまいという程に降ったのに、まだ梅雨ではないらしい。何とも不思議な気分だ。

 いずれにせよ、今日も明日も雨だから、いつ洗濯しようと条件は同じだろうと、午前中に洗濯をすることにした。洗ったものは乾燥機に放り込み、ワイシャツをアイロンがけする。雨の週末ともなると、乾燥機というのはまことに便利な文明の利器だ。

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 さて、先週末はブログをさぼってしまったので、これが2週間ぶりの書き込みとなる。先週末はネタがなくて書かなかったのではなく、親戚の方々が福岡まで訪ねて来てくれて、楽しい週末を過ごしていたためだ。

 福岡という街は、一般には観光地と思われておらず、観光客は福岡空港に到着するなり、市内を素通りして太宰府天満宮に行き、その足で次の目的地長崎を目指す、みたいな日程になりがちである。私は週末ごとに市内をあちこち散歩しているが、観光バスに乗った団体さんと出くわした経験はほとんどない。

 福岡で観光名所を推薦してくれと言われたら、いったいどこを挙げればいいのだろう。これはなかなか難問だ。たいていの観光客のお目当ては、福岡での食事でしかない。中洲か長浜辺りの屋台でラーメンというのが定番だろう。目で見て楽しむものと言えば、いったい何があるのだろうか。今回の親戚ご一行様の受け入れに当たっても、これはおおいに頭を悩ました問題だった。

 私が取ったコースは「柳橋連合市場の魚屋見学→櫛田神社とその界隈の博多の街並み→キャナルシティー→長浜→舞鶴公園周辺(鴻臚館跡、福岡城址、大濠公園)→浄水通り界隈(16区での買い物を含む)→天神界隈(水鏡天満宮、親富孝通り含む)」というのが一日目で、二日目は「サザエさん発案の地→福岡市博物館→福岡タワーと百道浜→太宰府天満宮」といったラインアップだった。

 食事は、豚骨ラーメンにもつ鍋、ちゃんぽん・皿うどんに、イカの活き造りを含む海鮮料理といったところで、これにあと水炊きが入れば、福岡の代表的料理は網羅したことになっただろう。ちなみに一口ギョーザはラーメン屋で食べた。

 こうして並べて見ると、観光ポイントとしては太宰府天満宮を除くと少々マイナーで、福岡タワーと博物館は市のシンボルだから多少有名だとしても、他は一般に知られていないスポットじゃなかろうか。お蔭で、たいていの人は福岡と言われても、パッと頭に浮かぶイメージを持っていない。

 博多祇園山笠は有名なお祭りだから、全国的に知られているに違いないと思う人が福岡には多いだろうが、確かに名前は有名だが、山笠そのものがどんな外観なのか意外に知られていない。福岡空港に舁き山が飾られているがそれほど乗降客は見ていないし、インパクトの強い飾り山笠は、櫛田神社に行かないと見ることが出来ない。そして、その櫛田神社が規模の小さな神社だから、観光客が立ち寄らないのである。かくして福岡と言うと、もっぱら中洲の屋台という夜のイメージが主流になるわけだ。

 こういう状況で、何を見せれば福岡のイメージがいいものになるのか、これは意見の分かれるところだろうが、歴史好きというケースを除けば、百道浜界隈の街並みと浜辺がまぁ候補の一つかなという気がする。福岡に人にしてみれば単なる住宅エリアかもしれないが、海辺に面した福岡の開放的な雰囲気がよく出ている区域だという印象がある。

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 福岡の観光談義はそれくらいにして、本日は家にこもって本を読んだ。この前から読み続けているダン・ブラウン著「天使と悪魔」である。上中下と3巻ある長編小説だ。

 著者のダン・ブラウンはアメリカの小説家だが、著作はそう多くない。「ダ・ヴィンチ・コード」を書いた人と言ったら分かるだろうか。ちなみに「天使と悪魔」は「ダ・ヴィンチ・コード」同様、宗教象徴学を専門とするハーバード大学教授のロバート・ラングドンが主人公だが、実は作品の発表年としては、「天使と悪魔」の方が「ダ・ヴィンチ・コード」より先だ。しかし、世界的なベストセラーになったのは「ダ・ヴィンチ・コード」の方で、お蔭で「天使と悪魔」がそのあとになってから注目される形になってしまった。私の場合も「ダ・ヴィンチ・コード」を先に読んで、この作家に興味を持った形だ。

 「ダ・ヴィンチ・コード」同様、歴史的事実を巧みに織り交ぜて話を構成しているが、「天使と悪魔」の方がアップテンポなうえ、核兵器以上の破壊力を持つ反物質や、圧倒的速さの超音速機など、SF的な要素も取り入れられていて、アクション系のサスペンス小説みたいな感じだ。

 ロバート・ラングドンが欧州にある研究所の所長から、研究者の他殺体に残された紋章について問い合わせを受けるところから話が始まる。ラングドンはその紋章が、中世にカトリック教会と対立していた伝説的な秘密結社「イルミナティ」のものと推理する。殺人犯はそこで研究されていた反物質を盗み出し、ローマ教皇選出の真っ最中であるバチカンを破壊すべく反物質を仕掛け、同時に次期教皇として有力視される4人の枢機卿を誘拐し、イルミナティゆかりの場所で1時間ごとに殺していく。ラングドンはバチカン所蔵のガリレオの書物を頼りに殺害場所を推理しながら、盗まれた反物質を発見すべく奮闘する。

 「ダ・ヴィンチ・コード」同様、歴史的な手掛かりをたぐりながら古い史跡を駆け回って推理していく過程がなかなか面白く、我々日本人が知らないキリスト教の裏面史なども垣間見ることが出来る。確かに、中世のローマ教会って宗教団体というより勢力を拡張していく帝国のようだったからなぁ。

 この本の背骨を貫くテーマは、神と科学という対立軸である。かつて人類の上に君臨した神と教会に対し、近代以降人々は科学を崇めるようになった。科学の萌芽期に、神の教えを否定する科学者を徹底的に弾圧した教会と、それに対抗するために秘密結社として集まった中世の科学者たちの対立が、現代のローマに持ち込まれて再び激突するのだが、そのテーマが小説の最後の最後まで続いていく。一見事件が解決したかのように見えた終盤から、更に意外な方向に展開される人間ドラマがなかなか良い。

 私はこの小説を読みながら、福島原発事故を思い出してしまった。小説の後半で前教皇の侍従が科学と宗教の対立についてテレビカメラに向かって長々と演説する下りがあるが、今回の原発事故と重ね合わせると、この部分はうなづくべき箇所が多々ある。そういう意味では考えさせられる部分も多かったなぁ。

 さて、明日もまた雨マークのうえ、更に激しく降るかのような予報だ。再び読書の一日になるのだろうが、次は何を読むかな。

posted by OhBoy at 23:38| 日記

2011年05月15日

鴻巣山へ長距離散歩

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 今日は朝起きたら、昨日に引き続き気持ちの良い晴天。絶好の散歩日和である。昨日は午前中を中心に風が強かったが、今日はそれ程でもない。こういう天気が続いて欲しいなぁと思うような理想的な空模様である。

 思い付いて、午前中フトンを干す。実は以前、風の強い日にフトンを干して、風にあおられてフトンが階下まで落ちて汚れてしまった悲しい事件があった(笑)。その時に、二度とフトンは干すまいと堅く心に誓ったのだが、今日のような理想的な晴天を前にすると、何となく干してみようという気持ちになった。でも、目の届く範囲で、短い時間干すだけにする。失敗から学ばない者は愚者である。

 さて、せっかくの散歩日和なので本日は気合を入れて歩こうと、今まで足を踏み入れていないエリアを目指すことにした。福岡市南部の中央区と南区の境にある「鴻巣山(こうのすやま)」である。行って帰って来ると、軽く10kmは超えるのではないかと思う。私の住んでいる場所から、歩いて鴻巣山に行って帰って来ようという人はまずいないだろう。

 福岡市の南部には南区や城南区があるが、ほとんど足を踏み入れたことがない。住宅地中心であまり目標となるスポットがないほか、道が入り組んでいて分かりにくいからだ。また、バス以外の交通手段がなく、便数や時間の正確さがあまり頼りにならないため、いざとなれば家から歩いていくしかないという問題もある。大きな川でも流れていれば、それに沿って歩くという手もあるが、そういっためぼしいルートもない。

 鴻巣山も以前から知ってはいたが、歩いて行くには少々遠いと敬遠していた。しかし、色々散歩しているうちに南公園くらいまでなら軽く歩けるという自信が付いたため、更にもう一歩踏み出して挑戦してみるかという気分になった次第である。

 スタート地点は、毎度お馴染みの大濠公園とする。今日も昨日と同じく大勢の人で賑わって、何とも平和な休日の風景である。

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 まずは昨日と反対周りで池に沿って南に下り、「大濠1丁目」の交差点を目指して「さつき橋」脇から公園を出る。交差点から「油山観光道路」に沿って南へ歩くルートを取ることにする。

 以前この付近を南下するのに「樋井川(ひいがわ)」沿いの道を歩いたことがあるが、車道と歩道の区別のない道で交通量もそこそこあり歩くのにはやや不向きなため、本日は幹線道路である油山観光道路を使う。こちらはたっぷりとした歩道が付いている。ただ、この通りは自動車道としては便利だろうが、機能一辺倒で街並みは味気ない。おまけに街路樹がないので、直射日光が照りつける。こうしてみると、どっちもどっちかな。

 九州大学の旧六本松キャンパスがある六本松西交差点を渡ろうとしたところで、以前から見ている風景と何かが違うような気がした。どういうわけだか開放的で明るいのである。いったい何がそう感じさせるのだろうと辺りを見渡してはたと気付く。九大旧六本松校舎が取り壊されて、ぽっかりと空間が出来ているのである。

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 ここは旧制福岡高等学校があった場所で、その後は九大の教養部が置かれていたと聞く。2009年に伊都キャンパスに移転したようだが、建物だけはつい最近まで残っていた。けっこう立派なビルがデーンとそびえていて、この辺りのランドマーク的存在だったのではなかろうか。いったいいつ取り壊したのだろう。卒業生が見たら悲しむかな。

 六本松に教養部があった時代にはこの付近には学生街が形成されていたと聞いたことがあるが、今では普通の街並みになっている。今回建物が取り壊されたあとに何が建つのか知らないが、近辺の現況から推察するに高級マンションなんぞが建設されるのではないか。そうなると、ここが学生街だったことを知る人はやがていなくなるんだろうなぁ。

 さて、六本松を通り過ぎて暫く行ったところで「梅光園緑道(ばいこうえんりょくどう)」に入ることにした。この道の方が多少は近道になるし、油山観光道路より散歩に適している。

 梅光園緑道は以前にも通ったことがあるが、車の入ってこない歩行者専用道で、静かな上、木陰もあって歩くにはもってこいだ。単なる歩道ではなく、ところどころ公園みたいなしつらえになっているが、元は筑肥線の線路があった場所だ。

 距離にして1km程度だが、いくつかのエリアごとにテーマが設けられている。北から南に道をたどると、最初に健康遊具のコーナーがあり、その次は松の広場だ。その先のアーチトンネルをくぐると、梅の広場、石の広場、芝生の広場、笹の広場と続き、噴水があって、最後は彫刻の広場となる。

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 現在の筑肥線はJR九州が運行しており、福岡市の西にある姪浜駅から佐賀県唐津市へ向かう路線になっている。だが、元をたどれば私鉄の「北九州鉄道」が博多と伊万里を結ぶために作った路線で、戦前になって国有化された。以前は姪浜ではなく、福岡市の中心部である博多まで線路が通っていたが、地下鉄開業に合わせて昭和58年に姪浜以東の線路が廃止された。その線路跡を緑道にしたのが梅光園緑道というわけだ。

 梅光園緑道を南まで歩き切ると、同じく筑肥線跡地を道路にした「筑肥新道」という幹線道路に出る。この道路をこのまま東にたどると、那珂川を渡り、以前に行った美野島の辺りで北にカーブを切ってJR線に併走する形になって消える。これがかつての筑肥線のルートということだろうか。

 梅光園緑道の終点までは以前来たことがあるが、ここから東に向かってのエリアは、まだ足を踏み入れたことのない場所だ。鴻巣山に行くには、ここから東の方に2km弱行ったところを南に折れるというルートになる。六本松からは、ずっと旧筑肥線線路跡をたどりながら歩いているということになる。

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 筑肥新道は幹線道路なので、平坦な道かと思ったら、微妙に起伏がある。この道路は東西方向に走っているのだが、道の北側が南公園のある「大休山(おおやすみやま)」で、南側にも無線中継塔の立つ丘陵地がある。つまり、広い意味でこの辺り一帯が昔、山地だったんだろう。

 南公園は動物園や植物園があって有名なため誰でも知っているが、その南公園がある山の名前はとなると、意外と福岡の人は知らない。西公園のある荒津山の名前もそうかもしれない。ちなみに、無線中継塔の立つ丘陵地も低い山だが、その名前は地図にも記されていなくて分からない。というか、地図を見る限り、そこが山だということが全く分からず、単なる住宅地のように表示されている。おそらく鴻巣山から西に連なる山なんだろう。

 大休山は、江戸時代に那珂郡や早良郡から福岡城下に入るための峠道があったところで、ここを越える人が峠の頂上で一休みしたので、この名前が付いているともいう。今は道路が整備されていて車ならあっという間に上り下りできるし、歩いて行くにしてもさして難儀ではない。しかし、江戸時代にはなかなか厳しい山だったようだ。おそらく大休山だけでなく、その手前の山も越えて行かなければならなかったからではないか。

 享保の大飢饉の時に、食料の尽きた南部の村々から福岡城下での炊き出しを求めてやって来た人々が、峠を越える辺りで力尽きて次々に餓死したという。当時のそうした犠牲者を弔う地蔵や供養墓が、今でも南公園内の片隅に残っている。

 さて、南公園を少し越えた辺りで筑肥新道を南に折れ、鴻巣山への入り口を探す予定だったが、ここで事件発生。道に迷ってしまったのである。実は交差点の名前を勘違いしていて、誤った道を南下してしまったようだ。だいぶ進んだところで気付いて地図を確かめるが、住宅街の中なので目印となるものがない。おまけに山の斜面にある住宅地なので、すごいアップダウンがある。ちょいと先まで行って様子を見るかなんて気持ちにはならないエリアである。

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 本来なら「平尾霊園」を目指して行き、霊園の奥から鴻巣山に入るのが確実なルートだが、ウォーキングを趣味にしていると、脇道や裏道を通りたいという妙な欲望が湧く。今回は「平尾西口」という入り口から鴻巣山の自然散策道に入るつもりで地図を調べていたのだが、これがなかなか分かりにくい場所にある。

 とにもかくにも自分がどこにいるのかを知らなくてはならない。キョロキョロしていると住宅街の中に緑地を発見した。早速地図を広げて、それがどの緑地か探す。小さな緑地なので地図には名前が出ていないが、道路の交差具合と緑地の位置関係などから、おそらくこの地点だろうと目星を付ける。祈るような気持ちで無人の住宅街を進むと、地図にある次なる緑地が見つかった。どうやら最初の推理は正しかったらしい。これで何とか正しい道を発見できる。

 暫く行くと、自然歩道の入り口を示す小さな案内板を見つけホッとする。この間、20分ほど坂のきつい住宅街の中をウロウロした。アップダウンがなければたいしたことないが、こんな道、よく自動車が上るなぁと思うような急勾配もあって、けっこう消耗した。

 それにしても、散歩の折に腕時計に付けている方位磁石が、こういう場面で役に立つ。以前アウトドアの店で買った本格的なものだが、これと地図のお蔭で、迷子になるたびに窮地を脱して来た。街中、特に入り組んだ住宅街では方位すら怪しくなることがあるから、ウォーキングに方位磁石は必須アイテムだ。

 ほどなく「平尾西口」を見つけるが、実はここからが山登り本番である。と言っても、この登山口の前の道から見ると、既にかなりの高さまで登って来たことが分かるが・・・。

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 「平尾西口」の階段を上がると、いきなり森の中である。これは本格的な山の風景だなぁと感じ入った。落ち葉が厚く敷き詰められ、道がどれなのか分からなかったが、ところどころにある土の階段を目印に、上へと登って行く。やがて山道の分岐のような場所にたどりつき、案内板を見つける。まずは山頂を目指そうと、道を右に折れて山道を上がって行った。

 東京にいた頃は、たまに埼玉県まで山登りに行っていたが、山道の整備状況としては鴻巣山は今イチの観がある。気を付けないと滑るんじゃないかと思う箇所があったり、地盤のゆるい場所に据えられた木道がぐらついていて、油断して踏み出すと足元を取られたりする。おそらくこの道は、なかなか人が来ないんだろう。

 やがて自然歩道を登り切ると、コンクリート道に出た。ここは電波塔に行くための自動車道らしいが、麓にあった門柱は閉じられ鍵がかけられていたので、車が上がって来ることはあるまい。もっとも、門柱の脇から人間は入れるので、この舗装道路を上がってくる人も多いのではないか。ここまでの道を考えると、山道に慣れていない人や、街中を歩くための靴を履いている人にはそちらの方がお薦めかもしれない。

 舗装道路の突き当たりにある電波塔まで行ってみたが、ここも門が閉められて人の気配がない。百道にある福岡タワーが今やメインなので、ここから発せられる電波はないということだろう。それにアナログ放送用らしいので、そのうち取り壊される運命なのではないか。

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 舗装道路と自然歩道の交差している地点まで戻り、自然歩道の先がどうなっているのか窺う。舗装道路からは土の階段がついていて一旦下りるようだが、その先再び上っている気配がある。その先に何があるのか木が邪魔して見えないし案内板の類もないが、登山口にあった地図では展望台があると表示されていたから、一応行ってみることにする。

 自然歩道を下まで降りて見上げると、なるほど登り道の一番上に鉄骨で組んだ物見台のようなものが見える。近づくと、かなりの高さのある展望台で、階段を上るのがちとつらい。でも、てっぺんまで行くと眺めは最高だ。

 鴻巣山は、山といっても100mほどの高さしかない。緑地保全地区に指定されているので、樹木は生えるに任せており、眺望のきくところはないのが実情だ。従って、歩いている限りはずっと森の中というわけである。それで、こんな展望台が据えられたのであろう。

 東側の眺望はあまりきかないが、他はきれいに見える。とりわけ、南側がいい。

 昨年9月末に南公園まで初めて来て、山頂の展望台から福岡市内を見渡した時、南側は鴻巣山から続く丘陵地帯に阻まれて、その向こうの街並みまでは見えなかった。緑に覆われたあの小高い一角は何だろうと思って調べたのが、鴻巣山を知ったきっかけだったが、こうして鴻巣山まで来てみると、油山まで続く福岡市南部が一望できる。遠路はるばる来た甲斐があったというものだ。

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 上の写真は、その油山方向の市街地を見たもので、冒頭の写真が海の方向を見たものである。なお、電波塔の写真もここから撮った。先ほど行った電波塔の真下からでは、木が邪魔になって全景が見えないのである。

 昨年秋に南公園に来て展望台に上った際には、桜坂に来るだけでもかなり遠いという感覚があったから、鴻巣山まで足を伸ばす気力など湧かなかったが、色々歩いているうちに、ここも散歩の射程距離になった。思い返せば何とも感慨深い話だ。

 さて、鴻巣山からの眺望を充分楽しんだところで、自然歩道を引き返し、今度はここの名物であるマテバシイの群落を見ることにする。

 マテバシイは、子供にはドングリの木という方が分かりやすかろう。秋になれば、ドングリ拾いのために子供たちが鴻巣山までやってくるのかもしれない。皆でワイワイ言いながらドングリを探して拾い集めるのは楽しいと思う。私も子供の頃、友達とドングリを拾いに山に行った経験がある。

 ここにどうしてマテバシイの群落があるかだが、元々は木炭用、あるいはそのまま薪用に植えられたようだ。しかし、戦時中にここが軍の演習場に使われて立ち入りが制限されたほか、戦後になると保全地区になってしまい伐採出来なくなったため、放置されたまま大きく育ったと聞く。

 先ほど「平尾西口」から上がって来た場所を通り過ぎて暫く山道を東に進むと、マテバシイの木々が密集している場所に出る。入り口の案内板では「マテバシイの森」と表示されている。なるほどここのマテバシイはなかなか立派なものが多い。

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 そのまま山道を進むと、やがて「平尾霊園」の一角に出る。ここは福岡市が運営する宗教不問の墓地で、園内はかなり広い。いったい自分が霊園のどの辺りにいるのか分からないので、園内を示した地図がないかと探す。区画ごとに番号が付いているので、地図さえあれば居場所が分かる。再び変なところに出て迷子になりたくなかったのである。

 当初の予定では、この霊園の正面ゲートから出て北に進み、筑肥新道に戻ろうという計画である。ほどなく園内案内図を見つけてメイン道路を目指す。緑の中に墓石が並び、丘陵地帯にあるため景色もいい。天気がいいせいか、けっこう人が来ている。ここだと、墓の区画の前まで車で来られるので便利そうだ。山の斜面にあってアップダウンがあるから、入り口から歩けと言われると、お年寄りにはちとしんどいかもしれない。

 メインの道路にはタクシーがけっこう停まっている。ここまで墓参りの人を送って来て、誰か帰りに乗る人を待っているのだろうか。そう言えば、さっき鴻巣山への入り口を探して住宅地をさまよっていたときに気付いたが、あの辺りにもたくさんタクシーが停まっていた。空車表示のままドライバーが車を離れ、ペットボトルを飲んだり、携帯電話をいじったりしていた。恰好の休憩エリアということだろうか。もしかして、この平尾霊園も、そうしたタクシードライバーの休憩エリアなのかもしれないと、ふと思った。

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 さて、一応見るべきものは見たのでここからは帰り道となるが、これがまた遠い。ただ、ここまでのところ、思ったほどには疲れていない。霊園正門から北上して筑肥新道まで戻る。来た道を戻るのではなく、今度は東側から南公園のある大休山の麓を回って行くコースを取ることにする。

 本当は、筑肥新道から裏道を利用してそのまま北に上がれば近道だが、分かりやすい道を行くと南公園のある大休山に一旦登って桜坂側に下りるルートになる。既に山には登ったので、もうアップダウンはけっこうという感じである。山を避けようすると東の麓辺りの裏道を回りこむように歩くことになるが、かなり道が複雑で迷子になりそうだ。

 もう迷うのはけっこうなので、多少距離はかかっても分かりやすい道を歩くことにした。

 ここから一気に帰るとしんどそうなので、筑肥新道に出てすぐのところにある「平尾大池公園」で休む。この公園は名前の通り池があり、全体として親水公園という感じだろうか。道路脇にあって一見落ち着かなさそうだが、道路から下ったところにあるので、公園まで下りてしまえば、のんびりとしてなかなか雰囲気のいい公園だ。

 池の周りに、中に入るなと表示があるが、子供なら絶対入るだろう(笑)。私が池のところに下りて行くときにも、何人かの子供が網とプラスチックの水槽を持って脇道から出て行った。ザリガニかカエルを捕っていたのではないか。何だか、色々な水中生物がいそうな池だ。

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 私は子供の頃に、よく用水路や池にカエルやザリガニを捕まえに出掛けた。学校が終わると、友人と待合わせをして目的の場所に繰り出す。用水路や池の中にはそれこそ子供には想像もつかない種類の生き物がいた。網ですくい取った泥の中に色々な生き物がのたくっていて、今度は何が取れたのか手で探るのが楽しみだった。

 時には水際で蛇に出あったり、ヒルに吸い付かれたりといったこともあったし、誤って靴を濡らしたことも一度や二度ではない。大きな食用ガエルを捕って持ち帰り、怒られたこともあったなぁ。でも、そうやって生き物について学んだのも事実だ。池や用水路は子供にとっての小宇宙だったし、自然について学ぶ場所でもあった。

 そんなことを考えながら池の脇にある石のベンチに座っていたら、根が生えたようになってしまった。やはり長い距離をアップダウン付きで歩き回ったので疲れているのだろう。

 座っているときりがなくなりそうだったので、立ち上がって公園の裏道沿いに東に進む。そこから脇道をたどり、「野村望東尼(のむらもとに)」の山荘をそのまま公園にした「山荘公園」に出る。ここは以前にも訪れたところで、彼女はこの家に幕末の志士たちをかくまったと伝えられている。

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 野村望東尼は幕末の女流歌人である。元々は福岡藩士の娘で、結婚後夫が亡くなり、仏門に入った。尼になってから幕末の志士たちを支援するようになる。特に長州藩の高杉晋作とは懇意だったとされる。山荘に志士たちをかくまったり、密会の場所として提供したりして、それが福岡藩に知られるところとなり、島流しにされた。彼女を助けたのは高杉晋作で、彼の手引きで島を脱出したあと、福岡には戻らず長州で生涯を閉じたという。

 以前この辺りに来た時に思ったが、周辺は品のいい住宅地で歩いていて気持ちがいい。そして、住人相手のショップやレストラン、パン・ケーキ屋なども、ちょいとしゃれた感じの店が多いと思う。和もあれば洋もあり、隠れ家的な店やら個性的な店やらも混じって、天神・大名界隈とは趣を異にした雰囲気のある街並みになっている。

 そんな街並みを楽しみながらのんびりと歩く。浄水通りと交差する辺りは店も多くておしゃれな感じだ。浄水という名前は、かつてあった「平尾浄水場」にちなんで付けられている。

 平尾浄水場は、福岡市に初めて出来た浄水施設のようで、大正時代に造られたと聞く。水源は同時に造られた「曲渕ダム」にあり、そこから送水管を引いて平尾まで水を持って来て浄水したようだ。その後水需要の高まりにより拡張を繰り返したが限界に達し、昭和51年に、油山の麓に出来た「夫婦石浄水場」に役割を譲り閉鎖された。その跡地は現在植物園の敷地の一部になっている。

 浄水通りの交差点からちょいと歩いたところに「カトリック浄水通教会」がある。この辺りの象徴的な建物として有名なようだ。

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 この隣には、アメリカ風の白い木造建築の「福岡司教館」もある。教会の真向かいはミッション系の「福岡雙葉小・中・高校」で、近くには他にもキリスト教会がいくつかあるようだ。浄水通りとの交差点界隈がおしゃれなのも、こういう環境と無縁ではないのかもしれない。

 教会の斜め前には「浄水緑地」と名付けられた傾斜地の公園がある。南公園のある大休山の斜面に作られた緑地保全地区で、昔のこの辺りの雰囲気を窺うことが出来る。せっかくだからと思って上まで登ってみたが、ベンチと遊具が備えられた広場があるだけで、誰もいなかった。

 最後のひと踏ん張りと、教会のある通りを北に向かい、城南線に出たところで西に曲がって桜坂に出る。ここからはもう地図がなくとも歩いて帰れるエリアだ。よく足を運ぶテリトリーまで戻って来た安心感からか、先ほど浄水緑地の上まで登ったのがダメ押しになったのか、足がだるくなって来た。でももう休む必要はなかろう。

 桜坂から北に延びる道をたどり、筑紫女学園の脇の道からショートカットしてけやき通りに出る。ここを西側に曲がり、護国神社を過ぎればスタート地点の大濠公園が目の前だ。

 大濠公園は相変わらずたくさんの人が行き来し賑やかだ。ここをスタートしてから戻って来るまで、4時間弱といったところだろうか。それにしても今日はたっぷり歩いた。鴻巣山への入り口を探してウロウロしたり、山の中を端から端まで歩いたりして、総計15kmはあったような気がするなぁ。おまけにアップダウン付きだ。

 今晩は心地良い疲労でぐっすり眠れそうだ。本日もいい散歩だった。
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2011年05月14日

天神の心霊スポット

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 ちょっとご無沙汰したが、無事に東京から帰って来た。東日本大震災発生以降帰京したことがなかったので、現在の東京がどんな状態か関心があったのだが、至るところ節電対策が施された都市になっていた。駅や空港などの公共スペースで照明が部分的に落としてあるほか、エスカレーターや動く歩道がところどころ停まっていたり、電車の本数が間引かれていたり・・・。照明が落としてある関係で、何となく公共の空間の隅が暗い。開発途上国の公共スペースと雰囲気が似ているなと思った。

 余震が頻繁に起こると聞いていたが、日頃の行いが良いせいか(笑)、私が滞在していた間はわずかに1回揺れただけで済んだ。でも、九州では地震なんてないから、久し振りに体験した揺れであった。

 ゴールデンウィーク辺りからけっこう気温も湿度も上がったものだから、今年初めて半袖で過ごしたりもした。翌日以降は半袖だとちょっとひんやりするかなという天気だったが、今週などは夜も蒸し暑く感じる日があり、季節は一気に夏になったような気分だ。

 さて、今朝は起きたら気持ちのいい青空が広がっていた。風は昨日に引き続き強めだが、これも徐々に収まるだろう。こうなるとちょいと遠くまで足を運びたくなるが、どっこい本日は天神に用があるので遠出は無理だ。

 午前中に洗濯とアイロンがけをしてから、午後に天神まで往復しておしまいという味気ない日程だ。ルーティーンのような日常の中にもちょっとした楽しみを見出すのが人生を粋に過ごす極意というわけで、またもや変則的な道をたどって天神まで行くことにする。

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 取りあえずスタートは大濠公園とした。毎度お馴染みの散歩の起点だが、さすがに5月になって天気もいいと、家族連れなどが繰り出してなかなかの賑わいだ。気温も上がって水が恋しくなる季節だから、ここの公園は絶好の選択肢ということかもしれない。

 池を回る遊歩道の脇に、一部池の水を引き込んで循環させるための小川がある。流れる水はきれいだし小魚が泳いでいたりしてなかなか粋な演出なのだが、この暑さのせいか、早速小さな子供が入って水遊びをしていた。大人のくるぶしのちょっと上程度しか深さがないので、幼児が入っても危なくはない。4月には考えられなかった光景だが、もう初夏なんだなと実感させられた。

 池を半周して南側にある福岡市美術館脇からNHKの前に出て、けやき通りを東にたどる。この前けやき通りを散歩したのは秋の紅葉シーズンで、街路樹がきれいに色付いていた。今は新緑のシーズンで、これまた若葉が美しい。

 このけやきの街路樹と道路沿いの街並みが、どうも原宿の表参道を思い起こさせる。最近めったに行かない表参道だが、独身時代に代々木上原に住んでいて、友人が東郷神社近くにいたものだから、休みの日にちょくちょく出掛けてメシなど一緒に食っていた。今では表参道ヒルズができて、同潤会アパートがあった頃の面影は失われつつあるが、私にとっては懐かしい街である。

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 さて、このままけやき通りを進んでもいいのだが、ちょっと寄り道して「赤坂緑地(あかさかりょくち)」を見てみる。場所はなかなか分かりにくく、地図がないと迷う。

 以前も赤坂のお屋敷街を探訪しようと、表通りから一歩中に踏み入って四苦八苦したが、とにかくこの辺りは細道に入ると厄介だ。今日はあちこち見て歩くつもりはないので、最短距離を目指して護国神社の東側の小道を入る。侵入地点を間違えるとたちまち迷子になること請け合いの地区だ。

 一歩裏道に入るといきなり急な坂があり、登り切ると、また微妙なアンジュレーションがある。この辺りは江戸時代、上級武士が住んでいたエリアであり、今でも高級住宅地のたたずまいである。どの家も「邸宅」といった風情で、駐車場には高級車が並んでいる。地図を見ながら道を進んでいて、「月形洗蔵居宅跡」の碑に行き会う。散歩というのは、こういう偶然の発見が面白い。

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 「月形洗蔵(つきがたせんぞう)」というのは、このブログで何度か紹介したことがあったと思うが、勤王派のリーダー格の一人として有名な幕末の福岡藩士である。

 福岡藩の勤王派は、家老の「加藤司書(かとうししょ)」を筆頭に、藩士の月形洗蔵のほか「中村円太(なかむらえんた)」「平野国臣(ひらのくにおみ)」らを中心とするメンバーで、幕府を倒し尊皇攘夷を推し進めようとした。

 当時の福岡藩主「黒田長溥(くろだながひろ)」は、討幕派ではなかったが尊王派だったため、藩内の勤王派にはやや寛大なところがあり、メンバーは藩内でかなりの勢力を誇っていた。「禁門の変」で京を追放され長州から大宰府へと逃れた三条実美以下七卿の世話をしたり、西郷隆盛や坂本龍馬、桂小五郎といった倒幕の立役者とも親しく交わったほか、薩長同盟成立にも一定の貢献をしたと伝えられている。

 そんな勤王派の動きに神経を尖らせた幕府から、藩主だった長溥は責められ、ついに黒田藩は勤王派制圧に動く。これにより主要メンバーを含めて百数十名が捕らえられ、加藤司書は切腹、月形らは「桝木屋 (ますごや)」という福岡藩の刑場で処刑された。これを「乙丑の変(いっちゅうのへん)」と呼んでいる。

 幕末の動乱に思いを馳せつつ、かつて武家屋敷が並んでいたであろう道を歩いているうちに、何とか当初の目論見通り赤坂緑地に到着した。これがまたきつい登り道の付いた公園で、えっちらと階段を上がって頂上を目指す。

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 どうしてここに来たかったかというと、昔ここが山だった頃の面影を偲べるんじゃないかと思ったからである。そして、大通りから一歩裏道に踏み入って急な坂に行き会った瞬間から、その勘は外れていなかったと思ったし、小高い山のような公園の形状からして、やっぱりこの辺りは山だったんだと実感した。

 かつて赤坂は「赤坂山」という山だったが、黒田長政がこの地を徳川家康から賜って移って来た際、山をならして今の福岡城を建てたため、なくなってしまったと聞く。削った膨大な土は、昔の入り江だった「草香江(くさがえ)」を埋め立ててお堀にするのにでも使われたのだろう。現在赤坂地区の表通りを歩いていても、山の面影など微塵もないが、脇道に分け入ってこんな場所に来てみると、やはりこの辺りは山だったんだなと分かる。

 赤坂緑地の入り口にある案内板を読むと、昔の武家屋敷跡を保存して公園にしたとある。確かに、公園の一部に立派な石垣が残っている。武家屋敷を造成した時の名残だろうか。

 標高は28mということだから、西公園のある荒津山と同じくらいか。頂上まで登ってみたが、木が生い茂っているために眺望はあまりきかない。緑地保全地区だから、樹木はそのまま生えるに任せているのだろう。お蔭でうっそうと茂った樹木で、公園全体に暗い箇所が多い。天気の悪い日だとここも印象が違って見えるのかもしれない。

 さて、探検を終えたあと赤坂緑地を下りて、今度は隣の方にある「筑紫女学園(ちくしじょがくいん)」に寄ってみる。ここは私立の中高一貫校なのだが、学校を見たいわけではない。ここに不思議なお地蔵さんがあるのだ。

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 塀の中に埋め込まれているこのお地蔵さんがそれだが、これはどういう謂れのお地蔵さんかと言われても、実は分からない。ここに学校が建つ前から存在しているそうで、江戸時代に祀られたものではないかという説もある。

 以前、中洲に行った際に、水車橋の近くにある「飢人地蔵(うえにんじぞう)」を紹介したことがあった。享保の大飢饉時の犠牲者を弔う地蔵で、当時西日本一帯でイナゴが大発生して穀物を食い尽くし、加えて干害、疫病なども相次いで発生したため、福岡の人口の1/3が飢え死にしたと伝えられている。この犠牲者を弔う地蔵は福岡市内のあちこちにあり、南公園にも飢人地蔵が残っている。

 この筑紫女学園のお地蔵さんも、もしかしたら近隣の路上で死んだ餓死者を弔うためのものではなかったかという話である。筑紫女学園が仏教系の学校なので、さすがに取り壊したり移転したり出来なかったんだろうなぁ。で、こんな不思議な形で残っているわけだ。

 お地蔵さんを見た後はけやき通りに戻って、天神に向けて東へと歩く。天神が近くなるにつれて、歩道を行く人の数がどんどん増える。警固交差点を過ぎて少し行くと、道路の北側が大名地区で、南側が今泉地区となる。いずれも、若者向けのおしゃれな店舗がひしめくエリアで、東京で言うと、渋谷、原宿から青山辺りといった感じになるのだろうか。

 ほどなく天神に到着する。あちこちで用を済ませた後、このまま帰るのももったいないので、今日は天神の心霊スポットを訪ねてみることにする。といっても2箇所だけなんだが・・・。

 まずは「天神中央公園」である。こんな平和な公園に心霊スポットなんかあるのかと言われそうだが、いわくつきの場所がある。それがここだ。

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 不思議なモニュメントの後ろに小さな墓石が無造作に転がっていて何とも不気味だが、これは「福岡藩刑場跡」の碑である。ここに刑場が設けられたのは、川が横にあって血を洗い流すのに便利な場所だったからと言われている。現在はすぐ脇を薬院新川が流れ、そのちょっと先で那珂川に合流している。

 ここではたくさんの罪人が処刑されたのだろうが、怪異譚の主人公は江戸時代に黒田藩に関係した一人の僧侶である。名を「空誉(くうよ)」という。

 空誉は元々播州の人で「黒田官兵衛」の渾名で知られる戦国最強の軍師「黒田如水」の信任厚く、如水に付き従い、最終的に息子の「黒田長政」が福岡の地を与えられると、如水と共にここに移って来た。そして寺を与えられ寺領二百石の身分となる。

 そんな空誉が処刑されたのは黒田藩二代目藩主「黒田忠之」の治世だが、罪名は諸説あって判然としない。逆に罪が判然としない辺りが、汚名による処刑だったのではないかという疑念を湧かせる。いずれにせよ空誉は、この処刑場で釜に入れられ、斬られた背中に溶けた鉛を流し込まれて惨殺された。そしてその遺体は、葬られることなく捨てられた。偉大な黒田如水の信任厚かった高僧に対して、あまりにむごい仕打ちである。

 明治時代になってこの地には県庁や議事堂など県の施設が建てられたが、その一角にあった知事公舎で、昭和の初めに僧侶の幽霊が出るとの噂が広がった。当時の知事だった「大塚惟精(おおつかいせい)」も夢枕で僧侶に立たれた一人で、調べたところ、空誉の霊ではないかということになった。騒ぎを収めるため、空誉が処刑されたとおぼしき場所に小さな祠を建てて供養したという。それがこの福岡藩刑場跡碑というわけだ。

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 今では傍らを薬院新川が流れ、緑に囲まれた平和な場所なのだが、江戸時代にそんな凄惨な話があったとは驚かされる。ちなみに県庁と議会は昭和50年代に東区の東公園隣に移転し、知事公舎は中央区の平尾の近くに移り、ここは公園として整備された。その公園の写真が、冒頭に掲げたものである。正面の人工の山のように見える建物は「アクロス福岡」というシンフォニーホールや国際会議場が入る複合施設である。

 公園内は今日もたくさんの人が散歩したり日向ぼっこしたりしているが、天神地区と中州地区を結ぶこの公園でそんな怪談話があったなんて、行き来する人のほとんどは知らないんだろうなぁ。一番驚いたのは、ホームレスがこの福岡藩刑場跡碑のすぐ横にビニールシートで仮住まいを作っているということだ。夜寝ていて何か異変が起きないか、思わず訊きそうになったよ(笑)。

 さて、もう一つの心霊スポットに行こう。場所は、ここから北西方向に500mばかり行ったところにある「安国寺(あんこくじ)」である。

 安国寺は全国にたくさんあるが、福岡のものは元は豊前、今の小倉にあったと伝えられている。それを初代藩主黒田長政が、 住持だった「天翁全補(てんおうぜんぽ)」のために移したのが、この福岡の安国寺である。 一度焼失しているが、二代目藩主忠之が再興した。

 ここには「飴買い幽霊」の伝説と、その母子の墓がある。

 江戸時代にこの寺の近くにあった飴屋で、丑三つ時に表戸を叩く音がする。主人が出てみると、若い女が飴をくれという。そして、それが毎晩続く。不審に思った主人はある夜、女の後をつけてみたところ、女は安国寺に入って行った。主人が寺の中で女を捜すと、新しい卒塔婆が立っている辺りで地中から赤ん坊の泣き声がする。驚いて寺の住持と墓を掘り返してみると、女性の遺骸の傍らに赤ん坊がいて泣いている。おそらく母親が葬られた後に生まれたのであろう。

 さては腹をすかす我が子を不憫に思った母親が幽霊となって、子に与える飴を買いに来ていたのかと悟ったが、墓から救い出された赤ん坊もまもなく亡くなったと伝えられる。

 この親子のことは安国寺の記録にも残っており、「岩松院殿禅室妙悦大姉」と彫られた母親の墓が建っていて、その横にしがみつくように立っている「童女」の墓が、赤ん坊のものらしい。

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 こうして見ると何とも哀れを誘う墓石だと思う。寺の記録だと母子がここに葬られたのは延宝7年、西暦で言えば1679年のことである。

 ところで、この飴買い幽霊の話、多くの人が一度は聞いたことがあると思う。実は、細部に微妙な差はあるが、この種の話は全国にたくさんあるようだ。中には落語になっているものもある。「幽霊飴」がそれである。

 昔は土葬だったので、死んだ妊婦を埋葬した後で、死後出産の形で赤ん坊が棺桶の中で生まれたという事例があったようだ。ただ、母親が既に死んでいるため赤ん坊も死産だと考えるのが普通だろう。しかし、全国に伝わる話の中には、赤ん坊はやがて成長して高僧になったというものがいくつもあるようだ。

 あと、福岡には当の飴屋はもうないが、京都には幽霊が買い求めたという飴が今でも売られている。私は大学時代京都にいた時にこの話を聞いたのだが、「幽霊子育飴」というのがそれだ。一軒だけなく京都市内にいくつか店舗がある。ちなみに、落語の「幽霊飴」の舞台は東山にある高台寺であり、これは落語らしく「こうだいじ(子(が)大事)」としゃれるためである。この近くにも当然、幽霊飴を売る店がある(笑)。

 さて、そろそろ帰路につくことにする。安国寺から北に進路を取り、中央卸売市場の前を通って長浜ラーメン街に抜ける道を歩くことにする。この道の名前が何なのか知らないのだが、歩道が広く人通りも少ないので、けっこう使っている道である。長浜まで行くと、市場脇から博多漁港に出て海岸沿いを歩く。「かもめ広場」に抜ける道だ。ここも静かでお気に入りの散歩道である。

 今日はたいした距離は稼げなかったが、明日も天気が良かったら、長めの散歩に出掛けるかな。さて、どこに行こう。それを考えるのも休日の楽しみだ。

posted by OhBoy at 23:10| 日記