2011年06月26日

狼花

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 今朝は起きたら曇り空で、窓から覗いてみると地面も乾いている。昨日の夕方に激しい雷雨に見舞われたが、その後は降っていないということだろうか。でも、西の空はかなり暗く、厚めの雨雲が待機しているように見える。

 インターネットに接続し天気予報を見てみると、本日は一日雨で、台風による大きな雨雲が長崎県の沿岸部にかかっている。これが刻々と福岡に近づいているみたいで、今日から明日にかけて大きく天気が崩れるらしい。雷・強風・波浪の各注意報が福岡に出ていて、そういえば妙に生暖かい風が不規則に吹いている。

 昨日から台風襲来のニュースで散々脅されていたが、私は悪いシナリオと良いシナリオの両方を頭に描いていた。

 悪いシナリオは、ニュースで言っていた通りに台風による激しい雨が降り、一日部屋に閉じ込められるというものである。一方、良いシナリオというのは、前評判ほどにはたいしたことはなく、昨日に引き続き、夕立の心配をしながらもちょっと散歩に出掛けられるという展開だ。台風というのは、進路もスピードも予想に反することが多く、一旦コースを外れると、一気に天気は回復する。秋の台風一過の秋晴れがいい例だ。

 でも現状を見ると悪い方のシナリオが優勢らしく、更に運が悪いことに、天気の崩れはこれから明日にかけて本格化するということだ。要するに、待っていても事態は悪化するばかりで、天気の好転は望めないというわけだ。

 そうこうしているうちにどんどん風が強くなり、窓を開けていると室内の物が飛ばされるほどの強風が吹き始めた。時折風のうなりも聞こえるような勢いで、堪らずに窓を閉める。どうやら福岡地方も台風の強風域に入ったらしく、フェリーも欠航が相次いでいるようだ。この強風下では、雨が降り始めても傘は差せない。雨はたまにパラパラと降る程度だが、天気がもつのを信じて外出し、本格的に雨に降られたらひとたまりもなかろう。

 かくして本日はさっさと読書に徹する覚悟を決めた。今日は大沢在昌の「狼花」を読む。いわずと知れた新宿鮫シリーズの第9冊目、600ページ以上ある長編だ。

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 私は、大沢在昌の名前は前から知っていたが、本は読んだことがなかった。最初に新宿鮫シリーズに接したのは小説ではなく映画で、真田広之主演の「眠らない街 新宿鮫」を、映画館ではなくテレビで見た。そのときはそんなに面白いとは思わなかったのだが、友人が原作は面白いというので読んでみたのが、本シリーズとの最初の出会いである。

 主人公の鮫島警部の特異なキャラクターに惹かれて、その後もコツコツと読み続けているが、新宿鮫シリーズ以外の大沢作品は全く読んでいない。何故だろうと思うのだが、自分でも分からない。

 私がずっと読んでいるシリーズというのは、他にもいくつかある。パトリシア・コーンウェルが書く検屍官ケイ・スカーペッタのシリーズがそうだし、もう終わってしまったが、R.D.ウィングフィールドによるフロスト警部シリーズも一生懸命読んだ。日本物では新宿鮫のほか、夢枕獏による陰陽師シリーズも読み続けている。そういえば、夢枕獏作品も、陰陽師シリーズ以外に読んだことがない。これも何故なのか、自分のことながら不思議である。

 さて新宿鮫シリーズだが、これは新宿警察署に勤務する鮫島警部を主人公とする警察小説で、ジャンルとしてはハードボイルドということになるのだろうか。

 新宿鮫シリーズの特徴は、主人公の鮫島が警察という組織からのけ者にされ、単独捜査を旨とする特異な存在として活躍するところだろうか。普通の警察小説というのは、上司や部下、同僚といった組合せによる組織捜査に重点が置かれ、様々なキャラクターがぶつかり合い協力しながら話が進む。私が愛読していたフロスト警部シリーズなどが好例で、そうした警察官同士の係わり合いがストーリーを豊かなものにし、話の展開に一役買うことになる。しかし、新宿鮫シリーズの鮫島は、一緒に捜査に携わる同僚がいない中で、単独捜査に徹して事件に立ち向かう。

 彼の立場の特異性は、警察組織に入ってからの複雑な事情によるものだ。そもそも鮫島は警察庁入庁のキャリア官僚であったが、自殺した同期入庁の友人から、公安内部の重大な秘密を遺書として託され、それを提出することを拒んだため、組織から睨まれることになる。

 上司たちから危険視された鮫島は、入庁時の階級である警部のまま新宿警察署に転勤させられるが、秘密を握ったままかたくなに意地を通す鮫島を、組織としても持て余してしまう。周囲の者も警察幹部に睨まれている鮫島には近寄らず、かくして彼は新宿署内でも孤立し、単独捜査を余儀なくされる。

 そんな鮫島の理解者も警察内部にはいて、同時に新宿のやくざからも一目置かれる存在になる。正義感が強く、長いものに巻かれない彼は様々な場面で衝突を繰り返しつつ、難事件に挑戦し、危険を冒しながら解決していく。

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 このシリーズは、組織の中の個人というものを伏流的なテーマにしつつ、新しい時流の中で起こる犯罪を取り上げている。今回読んだ「狼花」は、盗品を取引する裏マーケットの存在をメインにして、そこに、以前にも本シリーズに登場した謎の人物「仙田」が絡む。

 鮫島が組織のアウトローであるのと同じく、仙田もまた世界を股にかけた犯罪者でありながら、暴力団などとは一線を画した孤独な存在だ。過去の作品で彼は鮫島と接触し、犯罪者でありながら鮫島を助けたりした経緯はあるが、彼が何者で、どういう過去を持っているのかは謎に包まれたままだった。今回の「狼花」では、そんな彼と鮫島とが真っ向から対決し、仙田の正体も明らかになる。仙田もまた鮫島と同じく、組織対個人の問題を抱えた存在だったのだ。

 そしてもう一人、また別の立場から本作で鮫島の前に立ちはだかる人物がいる。鮫島とは同期入庁の警察キャリア官僚の香田である。香田は以前から本シリーズに何度も出て来て鮫島と対立して来たが、同時に鮫島を助けたこともあった。しかし、香田の立ち位置は見事なまでに警察という組織の権化であり、組織維持を最優先にエリート街道を歩んで来た。それゆえ、組織のことを考えずに自分の正義を貫こうとする鮫島を露骨に蔑んでいる。

 今回の作品では、香田の組織維持の熱い思いが、常識から逸脱した方向に向かう。外国人犯罪を撲滅するために暴力団と手を組むという奇策に走るのだ。そして最終的に、組織を思う心が自らを滅ばしてしまうのである。

 誰しも社会に出て組織の中で働き、上下関係で生じるいさかい、仕事と個人の価値観の対立などを経験すると、組織対個人の関係に様々な思いを抱くことになる。日本のサラリーマンは、バブル崩壊前の右肩上がりの時代には、そうした不満や疑問を心の奥底に封じ込め、経済的な豊かさを求めて歯を食いしばって頑張った。そして組織はそんな従業員に給料で報いて、将来にわたるサラリーマン人生を保証した。

 しかし、バブル崩壊とともに起こった日本株式会社の衰退により、組織がそこで働く個人を守る力が弱まり、組織と個人の絆はもろくなった。己を殺して組織に忠誠を誓った挙句が突然の解雇だったりして、かつてのサラリーマンの生き方や意識にも変化が生まれている。組織への絶対服従の時代は終わったのだろう。

 この物語に登場する香田の行動は、バブル崩壊で潰れ行く会社の中で、組織維持のために不正にまで手を染めて自らを滅ばした、幾多の会社の幹部の姿を髣髴とさせる。組織が自分の拠りどころであったかつての企業戦士の時代は遠い過去のものになり、時代の変わり目に多くの犠牲者が生まれた。

 組織の論理と個人の信条の対立があったときには自分の信条を優先するという鮫島の特異な立場を背景にしたこのシリーズは、そういう意味で新しい魅力を放ち始めているのかもしれない。彼のような生き方は、かつてのサラリーマン社会では組織からはみ出したアウトローであったし、それゆえ小説の中にしか存在しない架空の人間像だった。でも今の時代、彼がヒーローとして称えられる余地は、別の意味で広がっているように思う。

 自分の信念と組織の目的が離れ始めた時にどちらを取るのか。かつてのサラリーマンは組織の目的のために己を殺したが、さて、組織が個人を守らなくなった今の時代にはどうなんだろうか。


posted by OhBoy at 23:14| 日記

2011年06月25日

筥崎宮再訪

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 今日は暑さで目が覚めた。外では真夏の日差しが照りつけていて、早朝なのに温度は確実に30℃近くあるという感じだ。脱水症状みたいな状態で起き上がり、全ての窓を開けるが、心地良い風などこれっぽっちも入って来ない。

 今週はずっと蒸し暑かった。夏の蒸し暑さというのはこんなものだったかと思い知らせてくれるような、辟易とする暑さだった。梅雨だから仕方ないが、これをクーラーなしでしのぐのは容易なことではない。節電の趣旨は分かっているが、精神論や気合だけでどうにかなるものではないと確信する。この暑さが続けば、節電対策など吹き飛ぶんじゃないかとすら思う。

 さすがにたまりかねて週の半ばに扇風機を出した。クーラーは最後の砦としてつけずにおこう。少しは節電に協力しようという精神論である。これでもまだ夏の入り口なのだから、本番の7、8月になればどうなることだろう。汗かきの私としては戦々恐々といったところだが、いっそ思いっ切り汗をかけば、新陳代謝にもメタボ予防にもいいかもしれない(笑)。

 本日の天気予報を見ると、意外なことに午後の降水確率が40%、そして明日も一日雨と出ている。台風が近づいているらしい。今日のところは梅雨前線の活発化による雨というより、夕立なんじゃないかと思う。今週何度か夕立があって突然激しい雨に見舞われた。これだけ蒸し暑ければ、さもありなんという気がする。

 毎度のことながら、午前中は洗濯とクリーニングに徹する。午後の夕立を避けるためには、早い時間帯に干し始めるに限る。この気温なら、午後一番には乾くに違いない。そう考えて朝食を食べる前に洗濯を始め、終わったらすぐに干しにかかる。そしてアイロン掛けだが、さすがにこの気温でアイロンを掛けると汗が出る。半袖ワイシャツだと一枚当たりの手間はさほどではないが、続けてやっているとポタポタと汗が垂れるほどになった。これだけのことで、いい運動になった気がする。

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 このところ週末になると天気が崩れて家にこもり切りの日が続いたので、今日あたりは散歩に出掛けたい。かといって午後には雨が降るといっているから、野ざらしの道を延々と歩くようなコースは避けた方が無難だろう。雨ならまだ傘があればしのげるが、夕立の激しい雨だと傘なんか役に立たない。色々考えて、久し振りに「筥崎宮(はこざきぐう)」でも訪ねようかと思い立つ。

 地下鉄貝塚線の「箱崎宮前駅」は、あの長い参道の中間地点にある。雨が降れば筥崎宮で雨宿りも出来るし、ちょっと行けば地下鉄の駅に入れる。空模様に不安がある中では恰好の散歩場所だろう。

 そう考え付くと、午後の雨をなるべく避けるため、早めに昼ご飯を食べて出掛けることにする。本日はざるソバだ。もうとても熱いものを食べる気にならない。朝食の時もコーヒーはアイスにした。熱いお茶もいらないし、部屋着も半袖短パンだ。この恰好で仕事をすれば涼しかろうが、どう見てもスーパークールビズを超えた恰好だ。でも、ホントに猛暑が来たら、これぐらいのことをしないと、節電は不可能かもしれない。今週の蒸し暑さでつくづくそう思った。

 出掛ける頃には雲が空一面に広がり、たまに日が差す程度まで天気が崩れていた。しかし湿度は高く蒸し暑い。夕立にはおあつらえ向きの空模様だ。まず間違いなくどこかの時点で雷雨になると確信を強くする。問題はいつ頃から雷が鳴り出すかだ。

 地下鉄に乗って箱崎宮前駅に到着。神社の名前は「筥崎宮」で駅の名前は「箱崎宮」と漢字が異なっているため、ガイドブックで神社自体が「箱崎宮」と紹介されているのを見掛けることがあるが、正しくは「筥崎」だ。ただ、ガイドブックにどう書いていようと、ここに足を運ぶ観光客はさほどいまい。

 まずは参道を北に向かい、海岸近くまで行く。

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 福岡近辺の古い神社によく見られるように、筥崎宮の入り口は海から始まっている。あいにく本日は門が閉まっていて浜辺まで行けないが、以前写真に見える鳥居まで行ったことがある。このエリアは筥崎宮が管理しているが、自由に出入りさせていないのは、鳥居の前の砂浜が神聖な場所とされているからだろう。

 ここの砂は「お汐井(おしおい)」といって、身を清めるのに使われる。昔は「てぼ」という名の竹かごにお汐井を入れ、家の玄関に吊るしておいて、お清めの塩のように身体に振りかけていたという。7月に福岡で行われる博多祇園山笠で、山笠を舁く男衆にも、このお汐井を振り掛けるのが慣わしのようだ。

 この浜の東側には「箱崎漁港」がある。周辺は倉庫群なのでこんなところに漁港があるとは一瞬思えないのだが、実際福岡市の沿岸部にはいくつもの漁港がある。福岡市内に出回る豊富な魚介類をこうした漁港が支えてくれているのだろう。それにしても、人口で京都市を抜いた巨大都市に漁師さんがたくさん住んでいるというのは、何とも意外な話ではないか。そんな都市って他にあるのだろうか。

 さて、ここから参道を通って筥崎宮に向かう。参道は浜辺の鳥居から延々1kmあり、車が入って来れないので散歩するにはちょうどいい。途中に立派な灯篭あり、鳥居あり、ついでに道路も何本か横切っており、先ほど来た地下鉄の駅まである。とにかくこの参道の立派さが筥崎宮の威厳を如実に示している気がする。

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 地下鉄の駅を通り過ぎて更に南に向かう。筥崎宮の手前まで来たところで、参道脇にある「恵光院(えこういん)」にちょっと立ち寄ることにする。小さなお寺だが、ここには、千利休が豊臣秀吉や博多の豪商たちを招いて茶会を開いたという「燈籠堂(とうろうどう)」という建物が残っている。お寺自体は福岡藩二代藩主黒田忠之が後に建立したもので、お寺よりも燈籠堂の方が歴史は古い。

 織田信長の死後、全国の平定を目指していた豊臣秀吉は、当時の九州の実力者島津氏を討伐し九州を平定した帰りに、福岡の筥崎宮に滞在している。そのとき博多の豪商「神屋宗湛(かみやそうたん)」と親交を深め、宗湛は焦土と化した博多の町を秀吉に見せ、復興を願い出る。これが元になり博多の商人町の復興が始まった。このときの縦横に街路を張り巡らせた区画整理が「太閤町割り」と呼ばれるものである。

 筥崎宮滞在時に秀吉は、同行していた千利休に何度か茶会を開かせている。以前、九州大学医学部構内にある「利休釜掛の松」をご紹介したことがあったが、あれは「千代の松原」と呼ばれた海岸沿いの松林で行われた「野点(のだて)」の場所である。一方こちらは、筥崎宮で行われた茶会であり、今に残る「燈籠堂」で茶会が開かれたと伝えられる。ちなみにこの燈籠堂は当時筥崎宮内にあったが、明治政府により出された神仏分離令で今の場所に移されたようだ。

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 神屋宗湛が残した日記によれば、ここで茶会が開かれたのは6月14日のことで、青松葉の壁に苫葺き屋根の二畳半ほどの茶室で利休自らがお手前をしたらしい。そして18日には、海岸沿いの松林で、利休が松の枝に雲龍の小釜を吊るし、松葉をかき集めて湯を沸かし野点を行っている。その場所がここから少し南西に行った九州大学医学部構内というわけだ。

 千利休も縁を感じてか、筥崎宮に灯篭を寄進していて、今でも境内に残っている。そんなわけで、筥崎宮は千利休ゆかりの地の一つになっており、毎年5月に裏千家の献茶会が開かれると聞く。

 さて、恵光院を出れば筥崎宮は目の前だ。

 この神社は八幡様を祀っているが、八幡様というのは応神天皇のことである。古い皇室のしきたりで、出産の際に膜や胎盤などの胞衣(えな)を円筒状の箱である「筥」に入れて地中に埋め、目印にその上に木を植えるという儀式があった。応神天皇出産のケースでも同じように筥が埋められ、その上に松を植えた。それを祀っているのがこの神社というわけで、名前に「筥」が使われている。

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 この巨大な建造物は、筥崎宮を紹介するガイドブックでよく目にするが、神社本堂ではなく「楼門」である。そして、手前にある赤い柵の中の松が、応神天皇出産時の胞衣を埋めた上に植えられた松で、「筥松(はこまつ)」という。由来から言えば、この筥松のある場所こそが、神社にとっての聖地ということになる。

 本堂ではなく楼門ばかりがガイドブックに載っているのは、普通の時は楼門の中に入れないからである。本日も、お参りする人は楼門のところで拝んでいる。門内が一般公開されたときでも、内部は撮影禁止なので本堂など内部の写真を見ることはめったにない。

 この前ここに来たのは昨年9月のことで、ちょうど「放生会(ほうじょうや)」という筥崎宮の秋の大祭をやっている最中だった。放生会は、千年以上続く由緒あるお祭りで、武神である八幡大神のお告げにより、合戦で亡くなった人々の霊を弔うために始まったものだ。このお祭りの時には、先ほどの神聖な浜辺も楼門内も一般に公開されており、私も本堂まで入って内部を見学した。けっこう狭いのだが、様々な飾り物があり、一見の価値はある。

 この楼門は国指定の重要文化財になっているが、掲げられている扁額が特に有名だ。「敵國降伏」とあるが、これは元寇の際に亀山上皇が戦勝祈願したことが由来になっている。現在の扁額は、かつてこの辺りを領地としていた小早川隆景の書だが、オリジナルは亀山上皇が寄進したものである。

 亀山上皇寄進の扁額は神宝として別に保管されているが、書自体は亀山上皇のものではなく、醍醐天皇のものと伝えられている。醍醐天皇は平安時代の天皇だが、彼の命で今の筥崎宮が建立されたという関係にある。

 筥崎宮は武神である八幡様を祀っているうえ、その八幡様たる応神天皇の出生に直接関わる神社なだけに、古くから武士や軍人の尊敬を集め続けた。二度にわたって元寇の際に吹いた神風はこの神社の霊験によるものだとされているし、モンゴル軍が上陸して博多の街で地上戦になった「文永の役(ぶんえいのえき)」の際も、この神社から白装束の武人が出て来てモンゴル軍を蹴散らしたという伝説が残されている。

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 この前来たときにはあまり紹介しなかったが、そんな経緯から境内には、武人・軍人にちなんだ遺物が残されている。この石碑は、日露戦争の日本海海戦で名を上げた東郷平八郎の書である。

 どうしてこんなところに東郷元帥の書があるかというと、実は日本海海戦は福岡の沖合いで行われているからである。当時日本の連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊を破ったあと福岡港に立ち寄り、東郷元帥は筥崎宮に参って感謝の祈りを捧げている。また、東郷元帥の死後、東京渋谷と並んで、福岡県の津屋崎(現福間市)に東郷神社が建てられている。

 津屋崎には行ったことがないが、東郷公園に日本海海戦記念碑が建っているという。NHKが年末に放映している「坂の上の雲」はいよいよ日本海海戦だと思うが、対馬の辺りで「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の電文が打たれたなんて、何とも感慨深い。

 でも福岡の人って、NHKの「坂の上の雲」放映を機に津屋崎や筥崎宮を売り出してブームを起こそうなんて、これっぽっちも思っていないんだろうなぁ。そういう人たちなんだよな、博多っ子っていうのは・・・。そういう計算高くないところが私は好きなのだが、それゆえ観光資源はあっても観光客を集められない宿命にあるんだと思う。

 前回来たときに紹介しなかったといえば、この境内の大楠の木もそうである。

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 実に堂々とした迫力ある大楠で、見る者を圧倒する巨大さだ。樹齢800年と伝えられ、この神社の歴史の古さを偲ばせるに充分な威圧感がある。

 ただ、この大楠、どういういわれの木かというのが分からない。単に「大楠」という表示と樹齢が記されているだけで、それ以上の解説はない。いわれなどなく、単に長生きした楠ということだろうか。

 800年前というと鎌倉時代で、幕府が北条家に乗っ取られた頃だ。最初の元寇である文永の役が1274年で、その時博多の街は火の海となりこの近辺も焼け落ちたはずだから、この楠は焼け跡に植えられたということだろうか。それとも戦火を免れて生き延びたということか。

 まぁそんなふうに色々想像は出来るものの、実際のところは分からない。でも、この木が植えられた頃のことに思いを馳せるのは、色々夢があって面白かろう。せめて、植えられた当時はこんな時代だったと解説でも付ければいいのになぁと思う。

 元寇の話が出たついでにもう一つ紹介しておくと、この大楠の前に、蒙古軍船に使われていた「碇石(いかりいし)」が展示されている。これは元寇の際に博多湾にやって来た蒙古の軍船に装備されていた碇の一部である。

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 この石をそのまま船から吊るして停泊したのではなく、碇の一部品として重石代わりに使っていたようだ。福岡の近海からは、この種の石が海底から十数本引き揚げられている。従って、蒙古の碇石が展示されているのはここだけではない。

 筥崎宮境内に展示されているのは、博多港の中央波止場付近から引き揚げられた6本の碇石のうちの2本で、石材は朝鮮半島の全羅南道長興南方にある天冠山で取れる物らしい。ここには蒙古軍の造船場があったと伝えられている。

 それにしても、今日は境内は静かだし、参道もほとんど人が歩いていない。前回放生会で来たときには、参道にはものすごい数の夜店が並び、押すな押すなの大盛況だった。合戦で亡くなった人々の霊を弔うという秋の大祭の趣旨からして、もっと静かな祭りをイメージしていたがとんでもない勘違いで、あまりの人の波に辟易した思い出だけが残っている。今日は普段の静かな筥崎宮が見られて、来て良かったなぁと思う。

 さて、せっかくここまで来たのだから神社の周囲も歩いてみようと、黒田長政が建立したと伝えられる「一の鳥居」の前の道路を北東側に折れて、近所の商店街を覗いてみる。

 この道路は今は何の変哲もない地味な道だが、かつては大名行列も通った旧唐津街道である。箱崎は江戸時代の宿場町の一つで、御茶屋などもあったというから、筥崎宮の神徳も手伝って、かなり栄えたのではなかろうか。

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 こちらとしては、唐津街道の面影を伝える古風な街並みでもないかと期待しながら歩き始めたのだが、今やすっかり近代的な様相になっていて、マンションと商店が混在し、上空を電線がのたくる、味気ない通りが続いていた。

 それでも時折、小さなお堂や路地に面した昔風の商店など、かつての風情が一部に残っていて目を楽しませてくれる。気の向くまま、九州大学の工学部キャンパス辺りまで進む。

 とそのとき、遠くで雷の音がした。ふと見上げると、少し離れた上空に真っ暗な雲が湧き出ている。典型的な入道雲で、あれが迫ってくるとどしゃ降りの雷雨になるだろう。まだ少し時間はありそうなので、北西側の道にも分け入り、路地裏を歩く。昔ながらの家だろうなぁと思われる建物が一部に残っていて、丁寧に探せば味わい深い一角も見つかるかもしれない。

 そうこうしているうちに風が出て来た。積乱雲がもたらす風で、一旦降り出すと大荒れになりそうな気配がする。そろそろ戻ろうと地下鉄の駅のある方に向けて歩く。風は益々強まり、雨がポツポツとし出す。そして再び雷の音。

 やがて小降りのうちに駅にたどり着く。傘は差さずとも何とかなる程度の雨だ。屋根の付いた入り口から先ほどの入道雲のあった方角を見やると、真っ黒な雲がそこまで迫り、稲妻が雲間から光るのが見える。続けて大きな雷の音。稲光を眺めているうちに風が益々強まり、傘を差しづらいほどになる。もうこうなると散歩どころではない。まもなく滝のような雨が降り出すだろう。典型的な夕立だ。

 仕方なく地下鉄の改札口に向けて階段を下りる。もう少し遅くなってから夕立になると思っていたがあてが外れた。そこそこ歩いたが、ここまで遠征して来たにしては散策が不十分だったなと思う。もう少し足を延ばしたかったなぁ。

 梅雨時は仕方ない。明日も天気は悪そうだし、我慢の週末ということだろうか。いつか晴れた日に捲土重来を期したいものだ。
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2011年06月19日

雨読の日

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 今日は曇り空の朝で、幸い雨は降っていない。ただ、どんよりと垂れ込めた雲を見ていると、いつ雨が振り出してもおかしくない空模様である。

 パソコンを立ち上げてインターネットでニュースを拾い読みしながら天気予報も見る。九州の中央部に東西に梅雨前線がかかっていて、福岡市はかろうじて厚い雨雲から外れているが、県の南部は雨が降っているようだ。更に南になると、熊本以南は激しい雨に見舞われているらしく、大雨警報やら洪水警報が出ている地域がたくさんある。

 福岡市内もこのまま一日安泰というわけではなく、昼にかけて雨が降るらしい。そして夜中に大雨になると出ている。昨日も午後一番を中心に雨脚が強まったので、同じような天気なのだろう。昨日天神まで歩いてけっこう濡れたことを考えると、散歩に出掛けるのにも慎重にならざるを得ない。まぁ今後の空模様を見ながらどうするか考えることにしよう。

 午前中は細々とした雑務で時間が過ぎた。一つ一つはたいしたことでなくとも、まとめてやると時間が掛かる。日頃いちいちやるのが面倒なので後でまとめてやろうと溜め込んでいる日常の雑務というのがある。出掛けるかどうか迷うような休日の空き時間は、そうした滞貨一掃にはもってこいの時間だ。

 そうこうしているうちに雨が降り出す。悪い方向に向かっては、天気予報は良く当たる(笑)。昼前にはしっかりした雨になって、外出する気力は急速に萎えた。

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 昼食を終えると読書でもするかということになったが、じっくりと長編を読む意欲は湧かず、お茶を飲みながらエッセイか短編集でも拾い読みしたい気分だ。しかし、手持ちの在庫にその類の本はなかったので、再び「青空文庫」に接続する。以前にも紹介したが、青空文庫はインターネットに開設されたネット図書館である。

 まずはエッセイでもと、芥川龍之介の「或阿呆の一生」と「侏儒の言葉」を読む。この2冊は、高校時代に二読三読した覚えがある。芥川のような天才肌の作家が最後に行き着いた終着地点という意味で、彼の人生に対する直接の言葉が書かれているこの2冊に興味を覚えたのだ。

 天才と狂気は紙一重と言われるが、芥川龍之介は確かにそのはざまにいた人だと思う。母親は彼の生後7ヶ月にして精神を病み、龍之介は母方の実家に引き取られ育てられる。小さな頃から頭が良く、一高には成績優秀ゆえ無試験で入学が許可された。東京帝大では、難関中の難関と言われる英文科に進む。夏目漱石の門下に入り、古典を題材にした多くの短編小説を世に出して名を馳せた。しかし、神経衰弱と不眠に悩まされ、致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。35歳の夏だった。

 「或阿呆の一生」は自殺の年に書かれた彼の人生の軌跡であり「侏儒の言葉」は自殺の4年前から自殺の年まで書き続けられたエッセイである。

 本というのは、人生を重ね経験を積むに従って、以前読んだ時とまた違った見え方をすることがある。彼の言葉をつむいだ「侏儒の言葉」は、今さら読み直すと、はっとするほど的確に人生の真実を見抜いている。例えば「地獄」という項目がある。少し長いが全文を引用しよう。


「人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児(ちょうカタル)の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に堕(お)ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟(とっさ)の間に餓鬼道の飯も掠(かす)め得るであろう。況(いわん)や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさえすれば格別跋渉(ばっしょう)の苦しみを感じないようになってしまう筈(はず)である。」


 社会人となって様々な仕事や人間関係に関わってきた人なら、この文章に何度もうなづくはずだ。確かに、人生には確たる予見というものがない。良いことばかりではないが、悪いことばかりでもない。しかし、そうした様々なことはランダムに現れ、悪い事がずっと続くこともあれば、これでもかという幸運に恵まれ続けることもある。しかも、条件が同じであっても前回と全く違った結果になることもあり、全く予測がつかない。言い換えれば、人生は安定しないデコボコ道のようなもので、だからこそ人々は安定を求める。人生に対しても、世の中に対してもだ。

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 さて、芥川龍之介のあとは、これまた高校時代に好きだった中島敦を読む。文庫本だけでは収録されている作品が少ないので、図書館で全集を借りて読んだ覚えがある。

 中島敦との最初の出会いは国語の教科書だった。「山月記」がまるごと収録されていて、その難解な文体に級友たちは辟易していたが、私は逆に漢詩が好きだったので、中島敦の漢文体にはけっこう惹かれた。ちなみに中島敦の祖父は漢学塾を経営し、父親は漢文の教師だった。

 教科書に載っていた「山月記」のほか「李陵」が有名で、私はこの短編で、有名な「史記」の著者である「司馬遷」の悲劇の経緯を知った。だが、最も好きな一編はと言われれば「名人伝」を挙げたい。

 弓の名手を題材にした「名人伝」は何とも不思議な話だ。中国の故事を多く載せた「列子」から題材を取ったと伝えられるが、列子にはこのほか、「杞憂」や「朝三暮四」の元になった話が収録されており、これ自体読めば面白いのかもしれない。

 趙の邯鄲に住む「紀昌(きしょう)」という若者が主人公で、天下第一の弓の名人になろうと志を立て、様々な修行を自らに課していく過程を描いている。その奇妙な修行の数々も面白いのだが、話のクライマックスは、当代きっての弓矢の名手にして師でもある「飛衛(ひえい)」と互角の実力になった後の話である。

 飛衛は紀昌に、自分たちの技など児戯に等しいと言わざるを得ない究極の弓の名手の存在を語る。「甘蠅(かんよう)」と呼ばれる老人がその人で、霍山の山頂に隠棲していると聞く。

 どうしても弓を極めたい紀昌は、苦労して霍山に登り、甘蠅と対面する。相手は柔和な目をしたよぼよぼの老人で、腰は曲がり髭を引きずりながら歩いている。紀昌は老人の前で矢をつがえて空に放ち、一矢で五羽の鳥をうち落とす。老人は穏やかに笑いながら、それは「射之射」であり「不射之射」の域に達していないと言う。老人は紀昌を断崖絶壁の上にせり出す石のところに連れて行き、そこに登ってもう一度同じように矢を放てと命じた。しかし紀昌が石の上に立つと足元はグラリと揺れ、恐怖のあまり震えて石の上に伏してしまう。

 老人は笑って紀昌をどかすと、同じ石の上に乗って、何も持たずに矢をつがえるまねをして空に向かって弓を引く。たちまち鳥が落ちて来た。紀昌はそこで芸道の深淵を覗き見、「不射之射」を知る。

 究極の弓の名人を語るこの話は、意外な結末で締めくくられる。9年にわたる山頂での修行の後に邯鄲に戻って来た紀昌は、何故か愚鈍な顔つきになり、一切弓矢を取らない人になっていた。名人の技を見たいという周囲の期待をよそに、紀昌は一度も弓を引かず年老いていき、晩年には、弓そのものの用途も忘れてこの世を去る。

 ある物事の道を究めるというのはどういうことなのかを、この小説は問い掛けている。我々は時として、何かの分野で腕を上げ、そのエリアでは一流になったかのように錯覚することがある。また、世の中を見渡せば達人を自称する人がたくさんいる。だが、それがどれだけ道を極めていることになるのか、実際のところは分からない。自ら得意になったり、名人の域に達したと自負する人を見たりしたとき、私はふと甘蠅老師の穏やかな笑顔を思い出すのである。

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 夕方遅くになってふと窓の外を見ると、雨は止んでいた。天気予報を見るとつかの間の休息らしく、深夜になって再び本降りの雨になるようだ。古典を読んで人生について考えるにはお似合いの天気だったかも知れぬ。芥川龍之介が自殺した日も雨だったと聞く。


「わたしはどんなに愛していた女とでも一時間以上話しているのは退窟だった。」(芥川龍之介「侏儒の言葉」)


 天才に生まれつくというのは、必ずしも幸福なことではないのだろう。切れ過ぎる頭脳と見え過ぎる目を持った彼には、人生と世の中は居心地の良い場所ではなかったはずだ。


「あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである。」(芥川龍之介「侏儒の言葉」)

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2011年06月18日

雨の中の散歩

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 今朝起きて窓の外を見ると、地面が濡れて霧雨が降っている。今日は一日雨が降ったり止んだりの天気らしい。しかし幸い、先週末や週央みたいな激しい雨はなさそうだ。

 それにしてもよく降った。土砂降りの雨の日もあったし、九州南部では一部の地域で避難勧告まで出されたらしい。東日本大震災が起きるまではたびたびニュースに登場していた霧島連山の新燃岳噴火は、ニュースにこそ出なくなったものの、その後も活動を続けており、雨が降ると土石流や泥流が発生する危険性が高まると聞いた。福岡市内ではそういった類の危機感はないが、以前に博多駅周辺の街区が、氾濫した三笠川の水で大規模に浸水し、人が亡くなる惨事があったので、あまり安穏ともしておられない。

 ところで、福岡に来て意外だったのは、この街は渇水の心配があるということだ。毎年梅雨の末期に梅雨前線が北に抜けていく際、九州北部が激しい雨に見舞われ、山間部で土砂崩れなどが起きるというニュースをたびたび耳にするので、梅雨時に降雨量が足りなくなるなんて思ってもみなかった。

 実は入梅前の福岡では、この夏、水が足りなくなるのではなんて話題がそこここで聞かれていた。水源地の水位がかなり下がっているらしいという噂も聞いた。意外に思って尋ねたら、福岡は水源の取り方に問題があるなんて、したり顔で解説してくれる人までいた。でも今回の大雨で、さすがにもう水不足の心配はあるまい。仮に、これだけ降っても水不足の心配があるなんて話になったら、それこそ水源の位置に大いなる問題があるのだろう。

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 さて、空模様から言えば、本日も家にこもって読書となるはずだが、どっこい今日は天神まで行かなくてはならない用がある。仕方ないので、空模様と相談しながら出掛けることにする。いわば不本意な散歩だ。

 午前中は洗濯とアイロンがけに費やす。洗った物を外に干すわけにもいかないので、3週連続で乾燥機の登場となる。こういう天気に見舞われ続けると、乾燥機が如何に偉大な存在かが分かる。

 ワイシャツは半袖なので、アイロンがけも比較的簡単だ。最近の気温は低めなので、長袖でも問題ないし、現に長袖のワイシャツの人を多数見掛けるが、アイロンをかけなければならないことを考えると、ついつい半袖のワイシャツを選んでしまう。更に言えば、いっそアイロンがけをしなくてもいいポロシャツの方がどれだけ楽かとも思う。如何に面倒臭くない生活を心掛けるかというのが、私の単身生活道であり、そんなことだから生活能力がないと言われるのだろう。

 そうこうしているうちに昼になり、スパゲティーなんぞゆでて手早く昼ご飯を食べると、傘を持って出掛けることにした。雨は、どしゃ降りとまではいかないが、しっかりした量降っている。こんな日に、歩いて天神まで出掛ける人なんて、めったにおるまい。

 天神まで歩くなると、明治通りを真ん中にして、北の港沿いのコースか、南のけやき通りコースか、はたまた大濠公園と福岡城址を突き抜けたあと明治通り沿いを歩く平凡なコースの中から選ぶことになるが、雨も降っていることだし、最短となる大濠公園・福岡城址から明治通りに抜けるコースを選ぶことにする。このコースは最近ご無沙汰していることもあるし、ちょうどいい。

 毎度お馴染みの大濠公園からスタートする。

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 当たり前のことながら、雨の大濠公園を散歩する人はあまりいない。ジョギングする人も自転車に乗る人もたまに見掛ける程度で、休日の大濠公園としては異例の静けさだ。いつもは賑わう児童公園も、人っ子一人いない。人が少ないせいか、天気が良ければ群を成して餌をねだっている水鳥もまばらだ。

 公園入り口から東向きに池の周辺を回り、舞鶴公園に抜ける。お花見の時期にはたくさんの人で賑わった芝生広場も、傘を差して歩く人が一人二人遠くに見える程度で、ほぼ無人である。しとしと雨が降る中を、ゆっくりと一人歩く。雨に洗われた芝生の緑が美しい。こんな散歩も変わっていて面白いかもしれない。

 普通はこのまま名島門から福岡城址側に抜けるのだが、今日は芝生広場の中を歩いて北側の道を取り、「潮見櫓(しおみやぐら)」の脇を通って、平和台陸上競技場の北側へ出ようと考えた。このコースは初めて通る道だ。

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 潮見櫓のある場所は福岡城址の北端に当たり、お堀に面している。位置的には石垣の上なので、お堀を見下ろす形になる。潮見櫓は、明治通りからよく見えて、福岡城址のシンボル的存在だ。

 元々福岡城は50近くの櫓を備えていたというが、現存するのはわずか4、5ではなかろうか。潮見櫓は福岡県指定文化財になっているが、元々この場所にあったのではないらしい。どうして場所が変わったかというと、廃藩置県後、黒田家が城を出て行って、浜の町に別邸を構えた際、櫓を解体してそこに移築してしまったのだ。やがて昭和になって櫓を城に戻した際、元の場所ではなくここに移されたという。

 この潮見櫓についてはもう一つおまけの話があって、実はこれは元々福岡城に置かれていた潮見櫓ではないらしい(笑)。平成になってから調査した結果、別の櫓が誤って潮見櫓と伝えられ残っているようだ。だとすればこの櫓、元は何櫓だったのだろうか。

 そんないわくつきの櫓を横目で見ながら通りを渡り、平和台陸上競技場へ向かう。次第に雨脚が強くなって来たが、競技場では黙々と練習に励む選手がいる。何とも立派なことだ。

 この競技場の敷地の片隅には、こんな記念碑がある。

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 これは明治時代に旧陸軍の歩兵第24連隊がこの場所に駐留していたことを示す碑である。この歩兵連隊は、日清戦争や日露戦争にも出動した由緒ある部隊のようだが、明治35年にこの地で原因不明の爆発事故に巻き込まれている。

 あるとき、火の気のない櫓の一つが突然爆発し、近くにいた兵士が死亡したのだ。一般人が立入りを禁止されていた駐屯地内での出来事なので原因は詳しく分からないが、歩兵連隊が駐留する前に何らかの事情で持ち込まれた火薬類が櫓の地下にあり、自然発火したのではないかと言われている。といっても、それは推理の一つに過ぎず、真相は謎に包まれたままだ。

 この辺りは、江戸時代には城があり、明治時代には歩兵連隊の駐屯地があって、何かと戦いのイメージがつきまとっていたが、戦後になり、そうしたイメージを一掃しようと「平和台」の名前が付いたと聞く。従って、競技場の名前も平和台なら、隣にあった球場の名前も平和台となった。この辺り一帯をまとめて、平和台総合運動場と言っていたようだ。平和な場所だったからではなく、平和でない場所だったから、願いを込めてそうした名前になったわけだ。

 さて、その競技場の北側に、一般人も走れるようにコースを切った歩道があるが、今日は誰も歩いていない。その脇からは眼下にお堀が見えるはずだが、木が鬱蒼と茂っていて、枝の間からわずかに明治通りが見下ろせる程度で、眺望はきかない。せっかくお堀の上に来ているのに、ちょっとがっかりだ。

 暫し歩くと、巨大な岩に彫り付けられた万葉歌碑がある。

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 今よりは
 秋づきぬらし あしひきの
 山松かげに ひぐらし鳴きぬ

 天平年間に新羅の国に派遣される予定で大和を旅立った使節の一行が、ようやく筑紫の館に着いた時に詠んだ歌で、故郷に残してきた家族を思い嘆いたという内容だ。傍らの解説板によれば、一行は、秋になれば故郷に帰って来るからと家族に言い残して出て来たのに、秋になっても新羅に渡れず、やっと筑紫の館に着いたところだという状況らしい。

 ここに出て来る筑紫の館というのは、当時大和朝廷がこの場所に設置していた外交施設で、今で言えば出入国管理事務所のような機能を持っていたという。日本書紀では「筑紫館(つくしのむろつみ)」という名前で登場し、唐などから来た使節を迎える受入れ施設であると同時に、日本から大陸に渡る際の出発地でもあった。

 やがて遣唐使が送られる時代になると筑紫館は「鴻臚館(こうろかん)」と呼ばれるようになるが、機能はほぼ同じで、この場所から山上憶良や阿倍仲麻呂、吉備真備らが唐に渡った。

 ちょうどこうして歩いている場所が鴻臚館のあったところで、下の写真の草地に当時の建物の遺跡が眠っている。

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 ちなみに、この柵の中が昔の平和台球場である。古代の外交施設として場所が特定され、遺跡が発見されているのは全国でもここだけなので、実はもの凄く価値のある遺跡の上で野球をしていたわけだ(笑)。

 向こうに見える建物は、鴻臚館の発掘現場を保存した展示場で、無料で見学させてくれる。ボランティアのガイドさんもいて、親切に解説してくれるので、貴重でお得な観光ポイントだと思うが、ほとんど宣伝していないせいか、いつ行ってもガラガラだ。修学旅行の学生諸君は、太宰府天満宮に行ってお参りするよりも、ここで古代史を勉強した方がよっぽど学問が成就すると思うんだが、みんな神頼み優先なんだよなぁ(笑)。

 さて、ここで公園は終わってしまうので、この先は明治通り沿いを歩くしかない。平和台の交差点に下りて、歩道を進む。最初はそうでもなかったが、赤坂の駅を過ぎる辺りから人が多くなり、お互いに傘を差しているのですれ違うのに苦労する。前を歩いている人が多少遅くとも追い越しにくいし、ホントに雨の日というのは歩いていてストレスが溜まる。

 数百メートル歩いたところでうんざりして来て、西鉄グランドホテル脇を折れて、新天町の商店街に入る。ここはアーケードになっていて、この先天神まで濡れることなく歩ける。しかし、そう考えるのは私だけではなく、これといって売りのない商店街にもかかわらず(笑)、けっこうな人ごみである。

 西鉄の福岡天神駅のところまで行き、そこから地下街に潜る。これで暫し雨から開放される。ところで、この地下道の一角に壁が石垣のようになっているエリアがあるのをご存知だろうか。

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 ここは8番街の「石積みの広場」と呼ばれている場所だ。ここを通る人は単なる装飾と思っているだろうが、おっとどっこいそういうわけではなく、実際にここに石垣があったので、こうした内装を施してあると聞く。

 江戸時代の福岡城のお堀はかなり広大で、今の大濠公園ももっと大きく、おまけにお堀は東側に長く伸び、今の那珂川まで達していたようだ。従って、天神地区も堀で南北に二分されていたわけで、その名残がここということになる。つまり江戸時代にはこのエリアは水の中だったわけだ。

 元々は堀に沿って石垣は組まれていなかったが、大雨で土手が崩れたため石垣を築くことになり、工事は肥前の佐賀藩が引き受けたとされている。従って、出来た堀は「肥前堀」と呼ばれた。

 黒田藩の石垣建築を何故佐賀藩が引き受けたかには裏話がある。

 関ヶ原の戦いで、佐賀藩の鍋島家は西軍について石田三成に味方をした。お蔭で徳川方の意向でお家取り潰しの危機に見舞われ、慌てた鍋島家は、黒田如水を頼って取り成しを依頼する。さすがに戦国時代屈指の軍師だった黒田如水は巧みに家康に取り入り、佐賀藩は何とかお家安泰を得る。その恩義に報いるため佐賀藩が堀の工事を引き受けたと伝えられている。

 天神地下街の装飾一つにも歴史があるわけだが、きっと福岡の人はそんなこと知らんのだろうなぁ(笑)。

 さて、用を済ませた後、どうせ来たのだからと、地下道を散歩することにした。渡辺通りの下を南北に走る地下道は約600mある。ここは2列の地下道が平行して走っているので、これを往復するだけで1.2km歩くことになる。2往復すると2.4km。雨の日には絶好の散歩道だが、如何せん人が多いので、自分のペースでは歩けない。自然とノロノロと歩くことになり、どういうわけだか疲れるし、ストレスも溜まる。

 2週歩いて帰ろうと思ったが、1週でうんざりしてきてやめてしまった。先ほどの傘差してこんでいる歩道を歩くのと同じく、やはり人ごみで散歩というのは無理がある。

 帰路はさっきとほぼ同じ道をたどったが、雨が激しくなったので公園内を歩くのはあきらめて、明治通りの歩道を歩いた。私の好きなお堀端の土の道が水浸しになっているのを見て、来たのと同じ道を歩くと悲惨な目に遭いそうだと踏んだのだ。

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 出て来るときには何とかなるだろうをたかをくくって歩き出したが、雨は次第に激しさを増し、どしゃ降りの一歩手前みたいな状況になる。靴もズボンも濡れて少々気持ち悪いので、早く家に着かないかと自然と急ぎ足になる。思えば無謀な散歩だったかもしれぬ。

 こういう目に遭うと、雨の日に出掛けるのが億劫になる。明日も雨模様なら家にこもっているかな。まぁ梅雨だから仕方ないのだが、たまには週末晴れて欲しいものだ。

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2011年06月12日

フランキー・マシーンの冬

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 今日は朝から雨。しかも、本格的な雨だ。昨日の天気予報では、昼頃を中心に本降りになるということだったが、午前中から既に本降り状態だ(笑)。部屋の中にいても雨の音がハッキリ聞こえる程度のドシャ降りの時間帯もあり、パソコンを立ち上げて天気情報を見ると、福岡地方に大雨・雷注意報が出ている。雷の音は聞こえないが、まぁ散歩に出ている場合でないことは確かだ。

 出掛けるをあきらめたところで、午前中は掃除に時間を費やす。掃除機をかけるのは1ヶ月ぶりだろうか。一人暮らしで、客も来ない生活をしていると、これくらいのペースでも支障はない。平日は昼間締めっ放しで誰もいないから、部屋の隅にほこりがたまる程度だ。

 子供の頃「掃除は天気のいい日にするものだ」という「常識」を聞かされた覚えがあるが、大人になってそれにどんな根拠があるのか疑うようになった。おそらく、掃除の時には家の窓を開け放つから、雨の日にやると雨水が入って来て大変だという、昔の家の構造に由来するものではないかと思う。あとは、湿気を室内に入れないための配慮だろうか。

 しかし今の家の構造だと、ベランダなどが広めに取ってあるため、窓を開けたからといって、必ずしも雨水が吹き込んで来るわけではないし、湿気は窓を閉め切っていても玄関の開け閉めや換気の折などに入って来てしまう。逆に、完全密封状態だと家の中の空気が淀んで健康に良くないから、湿気付きであっても多少空気の入れ替えは必要なのじゃなかろうか。そうして考えると、雨の日の掃除は決してタブーではないと思ってしまう。

 掃除にまつわる「常識」として、もう一つかねてから疑問に思っているのが、年末の大掃除である。年も押し迫った厳冬の中で、家の内外を大々的に掃除する意味は、単に新年を清らかに迎えたいという精神的なものでしかない。家の外も含めて徹底的に掃除するのだとしたら、好適期は真冬ではなく、過ごしやすく空気もそこそこ乾燥している秋か春だろう。

 にもかかわらず、子供の頃に教わった「年末には大掃除」という呪縛に囚われて、みんな寒風吹きすさぶ中で震えながら掃除をする。人は結局、経済合理性だけでは生きていけない存在なのだろう。

 掃除ネタついでにもう一つ。それは掃除機にまつわるものだ。

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 私は前任者から譲ってもらった掃除機を使っているのだが、これは今ある掃除機と同じ構造だ。もちろん、機能面でもっと進化した掃除機はいくらでもあろうが、モーターの付いた本体があって、そこからホースが延びて、先端に機能てんこ盛りの吸引器具が装備されている点では同じである。一部に、本体と吸引部分が一体化したデザインの掃除機も売り出されているが、主流は、この「本体+ホース+吸引器具」のはずだ。

 このスタイルの掃除機は、一箇所を掃除するのにはそう困らないが、あちこち引き回すのはたいそう面倒だ。本体部分が、ホースの動きに合わせて一緒に付いて来てくれない。まるで、言うことを聞かない散歩中の犬のように、足を踏ん張ってご主人様の後を追うことに抵抗を示す。もっと滑らか、かつ軽やかに動いてくれないものか。

 更に言えば、身長の高い私から見ると、吸引器具の持ち手が低めに付いている。従って、ちょっと前かがみになって掃除機を操ることになる。この姿勢を続けるとじわりと腰が痛くなる。おまけに、きちんと後を付いて来てくれない本体部分に業を煮やして、左手で本体部分をぶら下げて、右手で低い位置の取っ手を持って掃除機を操って部屋のあちこちを移動していると、余計に腰にこたえる。私の持病となりつつある腰痛の原因の一端は、この掃除にあるのじゃないかとすら、最近思うのだ。

 掃除機の進化というのは、もっぱら吸引力や清掃力の向上に費やされて来た。まぁ掃除をする器具だから、そこは問題ない。しかし、これを人間が扱い、板の間だけでなく絨毯敷きの部屋や、曲がった廊下などを縦横無尽に突き進まなければならないことが、あまり考慮されていない気がする。

 日本の電化製品は機能面では世界に観たるものがあるが、人間工学的に考えて、人が扱いやすく、苦労せずして使えるという面には、あまり重きが置かれていないように思う。言い換えれば、使って楽しい洗濯機や、思わず掃除したくなる掃除機なんてコンセプトは、いまだかつて開発ポリシーの中に入れられて来なかったのではないか。

 「ルンバ」というロボット掃除機がある。聞かれた方も多いだろう。部屋の形状を記憶して、勝手に掃除をしてくれる小型掃除機だ。忙しい人や掃除が面倒な人向けに売り出されているのかもしれないが、そうでなくとも何やら面白い存在だ。人間様が操らずとも、自分の意思で勝手に掃除をしてくれるロボットが家の中にいるというのは、何とも不思議で夢がある。機能面以外のプラスαが加わった製品のような気がする。

 米国のアップル社が、「iPod」や「iPhone」「iPad」などで次々にヒットを飛ばして世界を席巻中だが、技術的には日本のお家芸的世界で、作ろうと思えば作れないことはない製品と聞く。だが、作らなかった。技術はあって機能向上には熱心だったが、そんな面白い企画を思いつかなかったのだ。今の日本経済の低迷は、そういう夢のある企画力の欠如に起因するところが大きいと思う。生活を楽しむ、人生を楽しむ、そのための何かを考えて売るという面が、何とも弱いのだ。

 今のアップル社の快進撃は、1997年にスティーブ・ジョブズが帰って来てから始まった。彼が当時、低迷を続けるアップル社の製品群を見て言ったセリフは有名だ。「セクシーじゃない」 その一言で既存製品は一掃され、アップル社の新たな進軍が始まる。結果は見ての通りだ。

 日本の電化製品も全く同じ。そうセクシーじゃない。ことに掃除機においてはだ。

 まぁ私のような生活能力のない者が、掃除機談義をするのは噴飯ものだろうから、この辺りで止めておくが、ホント真面目に考えた方がいいと思うよ、メーカーさん。人生を楽しまない者に、人を楽します製品は作れない。真面目な堅物が考えつくものなんて、ヒットはしてもホームランは出ない。

 さて、掃除も終わったところで、雨の日恒例の読書の時間といこう。昨日は青空文庫で名作鑑賞だったが、今日は本来のミステリー分野にどっぷりと浸ることにする。手に取ったのは、ドン・ウィンズロウの「フランキー・マシーンの冬」である。

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 ドン・ウィンズロウは、入院中に書いた小説で注目を集め、今や確固たる地位を有するミステリー作家だが、元は政府系の調査官や探偵をやっていたと聞く。日本では「ストリート・キッズ」で注目を集め、「犬の力」で本格的にブレークしたといったところだろうか。「フランキー・マシーンの冬」は、その後日本に紹介された小説で、文庫本で上下二巻、600ページ超の長編だ。

 本当は、「ストリート・キッズ」、「犬の力」と読んでから、この本に取り掛かった方がいいのだろうが、背表紙にあった解説に惹かれて、まずはこの本から読むことにした。

 主人公は「フランキー・マシーン」の渾名を持つマフィアの凄腕殺し屋。しかし、既に60歳を過ぎて現役を引退しており、故郷のサンディエゴで釣り餌店やらリネン・レンタル業、不動産仲介など複数のまっとうなビジネスをこなしながら、質素に暮らしている。彼なりの流儀で筋を立ててかたぎの生活を貫き、みんなから好かれて、つつましいが幸せな日々を送る。そんな彼の日常が冒頭数十ページに渡って丁寧に描写されているが、それが実にいい。

 凄腕の殺し屋なんて、たいていマフィアの抗争の中で命を落として天寿を全うしないものだという先入観があったから、生きて老後を過ごすという設定が何とも新鮮だった。最初にこの小説に惹かれた理由がそれだ。

 更に、そんな男が巨万の富を築いて優雅に暮らしているのではなく、釣り餌店をやりながらサーフィンもし、離婚した妻との間に出来た大学生の娘とたまに会うのを楽しみにしているという生活臭のあるディテールも気が利いている。そして、60歳代にして女性関係もしっかり築いていて、別れた後でも元の妻の家に出入りしつつ、同時に恋人もいてデートを楽しむ。そうした暮らし向きが、簡潔な文章で味わい深く綴られている。

 そして、ある夜に昔のボスの息子が彼の家を訪ねてくるところから、話は一気に暗転し、彼は再び戦場に駆り立てられる。不意打ちを食らったフランキー・マシーンが、かつての凄腕を存分に見せつけながら一気に現役時代さながらに反撃を開始していく展開が巧みな筆致で語られる。

 彼がいったい誰から狙われているのか、そしてその理由は何かを自問自答する中で、彼の生い立ちが語られ、現役時代の日々が明らかになっていく。全てが血なまぐさい闘争場面ではなく、古き良き時代のギャングたちの日常生活が綴られていて、ある意味、郷愁を誘うような部分もある。現実のマフィアの生態がどんなものか私は知らないが、かつてのマフィアとはこんなものだったかもしれないなと思わせるものがある。

 現役を引退した後の生活というものを、私自身あまり考えたこともないが、自分流のスタイルに徹した幸せな生き方というのが、老後にもあるんだなと実感させられる小説だった。フランキー・マシーンのマフィア時代の友人、相棒が次々に命を落としていく中で、彼が生きながらえて平和な余生を送れたのも、おそらく分をわきまえ自らを自制していく、彼なりの人生の流儀があったからだろうと気付かされる。何より、無分別に金儲けに走らず、野心と欲望を抑えたストイックな人間像がいい。

 一流のプロフェッショナルの生き様を描いた小説を、久し振りに読んだ気がする。こうした小説で以前に読んで印象に残ったものに、スティーヴン・ハンターの「極大射程」がある。あとは随分昔に読んだものだが、ロバート・ラドラムの「暗殺者」もいい。どの主人公も、しぶといまでの強さと、人間的な血の通う温かさを持っている。

 さて、こうして読書に明け暮れるのもいいが、来週辺りはそろそろ散歩に出掛けたいものだ。梅雨のさなかだから天気は思うに任せぬところがあるが、とにかく幸運を祈ろう。

posted by OhBoy at 23:05| 日記

2011年06月11日

雨の日に青空文庫

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 昨夜は激しい雨音で、何度か夜中に目が覚めた。夕方から随分と降っていたが、どうやらそれは前奏みたいなものだったらしい。今朝はさすがに小降りになっていたが、朝ご飯を食べ終わって暫くすると、再び雨脚が強まり出す。下手をすればこの土日は家に釘付けだ。

 この感覚、以前にもあったなぁと思ったら、5月の終わりの週末がちょうどこんな感じだった。土日とも雨にたたられて読書して過ごしたんだった。あのときは梅雨ではなかったが、季節外れの台風が来ていた。昨日からの天気予報を見る限り、この週末も同じ運命をたどるおそれがある。

 取りあえず朝から洗濯をする。乾燥機があるからこそ、こうして天気を気兼ねせず洗濯ができるのであって、乾燥機なしのまま週末に雨に降られると、単身生活者は困ってしまう。平日にいくら天気が良くても、朝洗濯物を干して仕事に出掛けるのは不安がある。突然雨が降ったら取り込めないままずぶ濡れになるだろうし、風が吹いて洗濯物が飛ばされても、夜帰って来て真っ暗な中を探しに行けない。懐中電灯持って路地をウロウロしていたら、ご近所から警察に通報されかねない(笑)。

 洗濯物を乾燥機にかけてから、ワイシャツをアイロンがけする。今週から半袖シャツにしているので、その分手間が省ける。ワイシャツのアイロンがけはけっこう適当にやっているのだが、それでも何枚かかけると、袖のあるなしで費やす時間はハッキリ変わるものだ。

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 その後パソコンを立ち上げてメールをチェックし、ついでにニュースサイトをはしごする。私は新聞を取っていないものだから、週末はインターネットが頼りだ。テレビのニュースは定時にしかやらないし、時間が短いのでトピック的な話題しか取り上げられない。その分インターネットのニュースは、世界中の全分野を網羅しているので、興味のあるものを選んで短時間で効率よく見ていけ、たいそう便利だ。テレビニュースは受け身だが、インターネットのニュースは能動的だと思う。

 そうこうしているうちに昼になる。雨は上がり、心なしか空が明るい。もしかしてこのまま午後は天気が良くなるのではないかという期待が湧く。昼の天気予報を見ると、梅雨前線が少し南に下がったらしく九州南部は激しい雨が降っている様子だ。ただ、福岡の天気は午後から雨マークになっており、この曇り空は雨雲のつかの間の休息といったところかもしれない。

 食材は昨晩のうちに買って来てあるので、買い物に出掛ける必要はない。昼飯はそばを作ることにする。温かいそばにしたのだが、そろそろざるそばでもいいのかもしれないと、作ってから思う。後悔先に立たずというヤツだ。

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 食事が終わっても雨は降り出さず、相変わらず空は明るめなので、どうしたものかと判断に迷いつつ、パソコンを立ち上げて天気予報を確かめる。以前、こうした雨の合間に散歩に出掛けて、15分ほど歩いたところで猛烈な風雨に見舞われ、泣く泣く戻って来たことがあった。雨の合間の天気は実にたやすく崩れることを、そのとき思い知ったのだ。

 もう暫く様子を見るかと思いながら、久し振りにインターネットで「青空文庫」に接続する。聞いたことのない人も多いかもしれないが、青空文庫はインターネット上にある電子図書館で、著作権の切れた小説やエッセイなどの文学作品を読むことが出来る。

 「青空文庫」 http://www.aozora.gr.jp/index.html

 ボランティア諸氏の長年の努力により、膨大な数の本がアップされていて、ちょっと読み始めると時間がたつのを忘れる。著作権切れの作品が主体なので、最近刊行された本はもちろん掲載されてないのだが、例えば、夏目漱石や芥川龍之介、森鴎外、太宰治などの文豪、北原白秋、中原中也などの詩人、尾崎放哉、種田山頭火などの俳人といった、教科書に登場した昔懐かしい作家の作品に出会える。他にはわずかだが、紫式部の源氏物語現代語訳や鴨長明の方丈記などの古典作品、オー・ヘンリー、ロマン・ロランなどの外国作家の作品もある。

 青空文庫は1997年にスタートしたサイトで、以前は物珍しさも手伝ってけっこう訪問していたのだが、最近はとんとご無沙汰している。それが何故突然接続したかというと、掲載作品数が1万点を超えたというニュースが、朝方見ていたニュースサイトにあったからだ。へぇ〜と思って久し振りに接続したら、懐かしさのあまり、ついつい読み始めてしまった。

 このサイトに来てよく読むのは、高校生の頃に愛読していたような作品とか、買ってまで読もうとはしない評論やエッセイなどだ。いずれも時代の評価を潜り抜けて来た作品だけに、社会人になってから改めて読み直してみると、高校生の頃に読んだのとはまた違った感動がある。

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 今回は、高校生の頃よく読んだ芥川龍之介と中島敦の作品に目を通したあと、ちょいとロマン・ロランのジャン・クリストフを拾い読みする。これはかなり長い小説なのだが、大学生の時に全巻買って読んだ覚えがある。ベートーヴェンをモデルにした作品で、ロマン・ロランはこれでノーベル文学賞を受賞した。確かこんな場面があったなぁと思って探したが、見つからず断念。でもさすがに今では、これを最初から通読する元気はないな。

 その後は種田山頭火の「草木塔」を読む。山頭火は、尾崎放哉と並ぶ自由律俳句の代表的存在で、出家して各地を旅して句を残した。山頭火を一人の人間として見れば、充分人間失格と言える破滅型の人物だが(笑)、彼が旅の途中に詠んだ句には、何故か惹かれるものが多い。

 私は天気が良ければ週末に色々なところを散歩しているが、郊外の自然の中を歩いていると、ふいに山頭火の句が思い浮かぶことがある。彼もこんなふうに一人で自然の中をあてどなく歩いていたのかなと思う。彼の句の中に共鳴するものがあるとすれば、その行乞流転の旅の中で彼が見たものと、私が散歩の途中で感じることとが、どこかしら重なり合っているのだろうか。


  落ちかかる月を観てゐるに一人

  まつすぐな道でさみしい

  また見ることもない山が遠ざかる

  うしろすがたのしぐれてゆくか


 いずれも草木塔に収録されている句だが、これらの句を読むと、山頭火が鄙びた土の道を歩いている姿がふっと心に浮かぶのである。そして週末の散歩の中で、私もまた同じような鄙びた道を選んで歩いている。仕事を捨て、家族を捨て、何もかも捨てて自由の身になった山頭火は、何にも縛られずあてどなく旅をして、自然を見、句を詠んだ。彼のような境地に達することは決してなかろうが、無心に歩き、曇りのない目で自然を見たいという願望は私にもある。


  山あれば山を観る
  雨の日は雨を聴く
  春夏秋冬
  あしたもよろし
  ゆふべもよろし


 久し振りに草木塔を読んで、少し外を歩きたくなった。夕方になっても雨は降り出さないので、傘を持って出掛けることにする。

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 山頭火を気取って自然の中を歩こうとすればかなり遠出をしなければならないので、海辺に出ることにした。百道浜の方に行くか福浜の方に行くか迷ったが、福浜の方が人がいないだろうと考えて、福浜緑地を目指す。

 少しひんやりとして、昨日とは空気が違う。現在福岡は梅雨前線の北側になっているので、大陸から冷たい空気が入って来ているのだろう。福浜団地の中を通って、道路脇の遊歩道に入り、高速下のゲートを通って浜辺に出る。

 私を出迎えてくれたのは三匹の野良猫だけで、浜辺に人はいない。いつもならちらほらと浜辺を歩く人を見掛けるが、こんな天気の中をわざわざ散歩する人なんていないんだろう。

 雨が上がっているので、遠くにうっすらと志賀島が見える。雲は低く垂れ込め、島の上辺にかかっている。風があるせいか、波に少々勢いがあり、海の色もどんよりとくすんでいる。初夏なのに、風景自体が少し寂しげだ。

 誰もいないと思って波打ち際まで来ると、大きな水鳥が慌てて飛び立つ。打ち寄せられた物の中に餌でも見つけたのだろうか。彼が飛び立った辺りを見ると、大きな流木が濡れて横たわっていた。

 沖を見やりながら、波打ち際を暫し歩く。こんな海岸を僧衣姿の山頭火が歩いていた姿を想像する。彼のような破滅型の放浪俳人が、多くの人から今なお愛される理由はいったい何だろう。

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 そうこうしているうちに空が次第に暗くなって来たので、再び雨が降り出す前に家路を急ぐことにする。ゲートのところで猫たちにお別れの挨拶をする。彼らもまた、帰る家も家族もなく、無一物で浜辺を放浪する身だ。時折浜辺を訪れた人間たちに餌を貰ったりするのだろうが、それもまた、施しを受けながら流転の旅を続けた山頭火と同じだ。唯一の違いは、山頭火が自然と向き合いその美しさを愛でたのに対して、猫たちはその自然の一部だということだろう。


 けふもいちにち風をあるいてきた

 わがままきままな旅の雨にはぬれてゆく


 さて、明日の天気はどうなることだろう。少しの間でも雨が上がって散歩が出来ればいいのだが・・・。

posted by OhBoy at 23:22| 日記

2011年06月05日

スーパークールビズ

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 会議で今週後半はずっと東京にいて、今夜福岡に戻って来た。幸い雨には降られなかったが、今日、山口県を含む九州北部が梅雨入りしたと気象庁より発表があった。北九州だけポツリと取り残されていたから、梅雨に入るのも時間の問題とは覚悟していたが、いざそう宣言されると、気分的に滅入るなぁ。

 東京では水・木と気温が低めで、背広を着ていてもおかしくはなかったのだが、金曜は少々気温が高くて汗をかき、今日はもっと蒸し暑かった。いや、クールビズでも問題はなかったのだが、あるセッションだけ背広が必要だったので着て帰ったのである。

 既にニュースで盛んに宣伝されているが、今年の夏は節電を徹底する観点から、ゴールデンウィーク明けから前倒しでクールビズが進められている。クールビズ自体は既に2005年から環境省が中心になって行っているが、今年は一段と進化を遂げて「スーパークールビズ」というのが流行らしい。どんなものかとネットで見ていると、ポロシャツありアロハあり、パンツはジーンズやハーフパンツもOKらしい。かなりゆるい服装コードだ。

 5月の終わりにユニクロが、スーパークールビズの着こなし方法を提案するための発表会を東京都内で開いた。その模様をニュースで見て、これが通用するかどうかは業界によるだろうなぁと思った。接客業だと相当難しかろう。外部の人に会わない内勤の人なら問題なかろうが、そういう人は既にかなりラフなスタイルで勤務しているのではないか。

 そうは言いつつ、私は背広至上主義者ではなく、ラフな恰好の方が好きだ。汗かきだからというのもあるが、背広にネクタイというスタイルが、明らかに日本の気候に合っていないにもかかわらず長らく強制されて来たことへの反発もある。

 背広にネクタイというスタイルは、欧米のような、夏でも乾燥していてカラッとした気候の下で着る服装だ。ヨーロッパなど、標準装備だと自動車にクーラーがついていないという国も多いらしい。日本とはまるで環境が異なる国なのだ。

 服装というのは、気候風土に合わせてその地域ごとに過ごしやすく選べばいいので、何でもありがたがって西洋の真似をすればいいというものではない。背広にネクタイというスタイルは、日本のような高温多湿の地域で着るべきものではない。にもかかわらず長らくそうしたスタイルが続いたのは、明治時代の西洋に追いつけ追い越せの気風がそのまますたれずに今日まで続いて来たからだろう。如何にも日本らしい舶来趣味の残滓なのだ。

 日本人の多くは気付いていないが、日本という国は、欧米の人から見ればれっきとした不健康地の一つである。それゆえ、健康管理のための特別休暇を日本駐在員に与えている国もあると聞く。そんな不快指数の高い国の、しかも最も不快な夏のさなかに、背広にネクタイという恰好を意地で通すなんて、愚の骨頂じゃないかと私は思っている(笑)。まぁ西洋コンプレックスゆえに我慢して着て来たんだろうが、思えば何とも哀れで悲しい話だ。

 同じように高温多湿の東南アジアの国では、背広以外に正式な民族服というのを定めている。フィリピンでは「バロン・タガログ」という刺繍入りの白いシャツがあり、インドネシアでは「バティック」というろうけつ染めの布で作られたシャツがある。どちらも、上着なしでそのシャツさえ着ていれば、正式な場にも出られるというルールだと聞く。お蔭で日本から行った駐在員諸氏は、必ずその種の服を買い揃えているらしい。その地の気候に合っていて快適だからだ。

 日本には残念ながら、そういった民族の知恵ともいうべき正装がない。本来はゆかたがそれに当たるのだろうが、明治になってそんな日本文化を捨てて、無理に西洋の服装で通した。元々気候風土が異なる場所で着られている服だから、日本の夏にはまるで合わない。お蔭で夏場には汗だくになりながら意地で着通した。まるで我慢大会だ。クールビズのない時代には、みんなよく我慢していたと思う。

 私の記憶では、クールビズを環境省が提唱した時には、ネクタイ業界がこぞって反対した。夏の間ネクタイなしでいいとなれば、ネクタイの売上げが激減して困るという理由だった。私はけっこうその主張に怒りを覚えたものだ。自分の商売のために、世の中のサラリーマンがどれだけ不快な夏を過ごすことになるのか、知っての上での行動だからだ。それ以来、ネクタイもネクタイ業界も嫌いになった(笑)。

 かつては、夏にサラリーマンが背広にネクタイで過ごさなければならないから、電車内や飲食店、オフィスなどは冷房を強くしなければならなかったのであり、女性は冷え性対策で困っていたわけだ。言うなれば、西洋の真似をするために国民みんなが犠牲になって我慢していた。そんなことをずっと長い間やって来て、いったい何のご利益があったというのか。外回りしている人は汗だくになって背広をひと夏でダメにし、夏バテで健康に支障まで出ていた。そんな現状を知っての上でのネクタイ業界の姿勢には、ホントに腹が立ったよ。

 さて、そうはいっても長らくサラリーマンをやっていると、スーパークールビズのように急激にラフな方向に行くのにも抵抗がある。上に書いたように、東南アジアの国でも「暑けりゃラフな恰好でいい」とは言っていない。その国の気候にあった国民向けの簡易な正装を定めているわけだ。アロハやハーフパンツでもOKというのとは、質が違う対応だ。

 スーパークールビズもいいけれど、日本らしいセンスの、気候に合った正装をこの際定めればいいんじゃないのか。何と言っても先進国なんだから、ドンドン服装のコードが乱れるばかりじゃあ、体面が保てなくなるんじゃないかと心配だ。日本からフィリピンやインドネシアに赴任した駐在員諸氏がバロン・タガログやバティックのシャツを買い求めるように、日本に来た外国の駐在員の方々が、如何にも日本らしいじゃないかと一着買ってみたくなるような夏の正装を作るのが、本来の正しい在り方のように思える。

 沖縄には「かりゆし」という半袖開襟シャツがあるが、あれだって昭和の時代に沖縄の人が考案し県をあげて育てた正装だ。本土だって頑張れば出来るんじゃなかろうか。


posted by OhBoy at 23:29| 日記