2010年09月23日

晴耕雨読

 今日は秋分の日。「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるが、ちょうど太平洋高気圧と大陸の高気圧が日本列島辺りでぶつかりあったらしく、昨夜から風雨が激しく、風の音に何度か夜中に目が覚めた。「秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」は、三十六歌仙の一人藤原敏行の歌だが、全くその通りの天気である。

 こんな空模様の日にはのんびり散歩というわけにはいかないから、家にこもって読書でもする。「晴耕雨読」である。

 今日読んでいたのは太宰府にまつわる書物何冊かである。できればこの週末辺りにでも太宰府周辺に散策に行きたいなと考えていたので、観光ガイド代わりにパラパラと目を通してみた。だが、この地域は歴史上の謎も含めて様々なエピソードがあり、消化し切れないほどだ。散策に行った折にこのブログに書いてもよいのだが、あまりの分量なので、前書き的に概略だけ記しておこう。予告編みたいなものだ(笑)。

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■ 太宰府、大宰府、都督府

 まず地図で見ると、太宰府には二通りの字があることに気付く。「太宰府」と「大宰府」である。間違い探しみたいだが、先頭の漢字が違う。「太」と「大」と書き分けられている。

 太宰府という字が当てられているのは、市の名前である「太宰府市」と学問の神様菅原道真で有名な「太宰府天満宮」、いわゆる天神さん本社(笑)である。他方、大宰府の字が当てられているのは、かつて「西都」とも「大君遠朝廷(おおきみのとおのみかど)」とも呼ばれた古代の政庁「大宰府政庁跡」と附設する学問所「大宰府学校院跡」である。二つはどう違って、どういうふうに使い分けられているのだろうか。

 実はその答えはあまり定かではない(笑)。時代によって変わったという説もあるし、役所関係の呼称は「大」の方の「大宰府」を使うという解説もある。後者の説は、古代の日本の官職名に「大宰」(広域を管轄する地方長官)があり、その人がいる官公庁ということで「大宰府」を使ったという説明である。だが、日本の古代の文献でも両方の字が混ざり合っていて時代の変遷云々は当たっていないし、「太宰」の字も古代中国の周の時代にあった最高位の官職名ということで、古代史家の間で色々議論があるようだ。

 もう一つ、「大宰府政庁跡」に行く最寄り駅の名前は「都府楼前駅」である。この「都府楼」というのはいったい何で、「大宰府」とは何が違うのか。都府楼という言葉は、菅原道真がこの太宰府で作った詩の中にも出て来るのだが、「都督府の建物」という意味らしい。では「都督府」とは何かということになるが、これは日本書紀や古代中国の記録に表れる大宰府政庁の名前である。けれど、この「都督」という言葉の使い方にも古代史家の間で議論があるようだ。

■ 邪馬台国論争

 上に記した論争は、邪馬台国がどこにあったかを巡る例の「邪馬台国論争」や、天皇家や大和朝廷の出自に関する古代史論争とも微妙に結びついている。

 邪馬台国論争は言うまでもなく、古代中国の正史である「三国志」の「魏志倭人伝」にある邪馬台国は九州にあったのか、近畿にあったのかという論争である。これがどう大和朝廷や天皇家に関連してくるかというと、邪馬台国の女王「卑弥呼」は、日本書紀では「神功皇后」だと解釈されているからだ。

 日本書紀というのは、日本における最古の正史であるが、皇室を中心とした大和朝廷の歴史上の正統性を示すという、政治的国家事業として編纂されたものであり、支配者にとって都合よく歴史の書き換えが行われていると見るのが素直だろう。その立場から言えば、皇室を中心とする大和朝廷は古代から日本の統一的支配者でなければならないわけで、他に正統な国王がいては都合が悪い。

 魏志倭人伝によれば、卑弥呼は中国魏王朝に倭王として認められている。神功皇后は3世紀頃の人で、魏志倭人伝も3世紀頃の書なのである。仮に、神功皇后以外に卑弥呼がいたなら、日本書紀の政治的前提が崩れてしまうわけだ。

 日本書紀における神功皇后は、妊娠したまま朝鮮半島に出兵して新羅、高句麗、百済を征伐したという「三韓征伐」の立役者である。帰国して九州の地で出産し、それが後の応神天皇だという話は、以前このブログに書いた。出産の際、膜や胎盤などの胞衣(えな)を「筥」に入れてこの地に埋めたのが、福岡市にある「筥崎宮」だという話である。

 あまりこの種の論争に深く立ち入るつもりはないが、大宰府政庁に関してちょっと書いておくと、大宰府政庁を表すもう一つの名称「都督府」の「都督」とは、古代中国の正史に登場する官位の名前である。

 古代中国の正史では「倭の五王」と記される王が5代にわたって古代の日本を治めていたことになっている。このうちの二人は、中国側から官位を授かっているが、これが都督なのである。ではこの官位はいったい何かというと、軍を統括する司令官を指していた。こう書くと役人の官位みたいだが、同じ称号は、高句麗、百済など朝鮮半島諸国の王に対しても与えられている。つまり倭の王と中国が認めた者に与えられたのが都督の称号なのである。

 もう一つ書いておくと、魏志倭人伝に記されている邪馬台国までの道のりで、「末廬国(まつらこく)」や「伊都国(いとこく)」「奴国(なこく)」というのが出て来るが、これらは全て福岡近辺というのが定説となっている。そこまで詳しく書かれている以上、邪馬台国もその近隣だったろうという推理が成り立つ。邪馬台国九州説の一つの論拠である。

 末廬国は日本に来る際に最初に上陸する地とされているが、これは、この前イカを食べに行った呼子のある東松浦半島辺りらしい。そう言われてみれば、あそこにあった田島神社の歴史が、奈良時代以前まで遡るのもうなずける。また、伊都国はその東側にある糸島半島辺りで、ここに大陸からの訪問者を受け入れる古代の外交施設があったとされている。そして奴国はこの福岡市である。倭の奴国の王が後漢の光武帝に朝貢したことは記録に残っており、光武帝より送られた「漢委奴國王」の金印は志賀島で発見され、国宝として福岡市博物館に展示されている。

 つまり、邪馬台国は太宰府辺りにあって、倭の五王もそこにいた。卑弥呼はその末裔であり、だから太宰府に都督の名前が残っているというのが、一部の古代史家の唱えている説である。ちなみに都督の名が残る土地は、日本の中ではここしかない。この中国から認められていた正統派の王家は、やがて別の出自である大和朝廷に滅ぼされたというストーリーになる。

■ 大宰府政庁

 大宰府政庁にまつわる古代史論争は横に置いておいて、定説としてほぼ確定している大宝律令以降の大宰府の話をしよう。大宰府政庁はアジア諸国との玄関口として大和朝廷が重要視した役所であり、一つの建物というより小規模な都として威容を誇っていたということが分かっている。

 大宰府政庁から南に伸びる道は「朱雀大路」と呼ばれていた。これは今でも交差点の名前に残っているようだ。そして、平安京と同じように碁盤の目状の町が形成されていた。その規模は東西方向に約2.6km、南北方向に約2.4kmで、その中に寺社、学校、各種の役所の建物があったとされる。つまり一つの官公庁というより、京の都の縮尺版なのである。

 役割としては、九州地方の統括のほか、アジア諸国との玄関口として、大和朝廷の外交、貿易、軍事拠点といったいくつもの役割を担っており、単なる地方統治のための出先機関といったものではなかったと伝えられている。「西都」や「遠の朝廷」と呼ばれるゆえんである。

 定説では、大宰府の機能は元々、福岡市の海岸沿いにあった「那津(なのつ)」に作られた施設が担っていたが、朝鮮半島の「白村江の戦い」で、倭国・百済連合軍が唐・新羅連合軍に完敗したため、慌てて施設を今の位置に移したらしい。勝った勢いで唐・新羅連合軍が海を渡ってやって来たら、海岸線の施設ではひとたまりもないと恐れたからだ。それだけでは足りなくて、現在の大宰府政庁の手前に1km以上にわたる巨大な防塁を築いた。幅は100m弱、高さ10mというから、防塁というよりも丘である。そして、その海岸側に、これまた巨大な堀を作った。この施設の名が「水城(みずき)」で、今でもその一部が残っているし、地名にもなっている。

 ちなみに、以前の海岸線の施設は「鴻臚館(こうろかん)」としてその後も残り、出入国管理事務所のような役割を果たした。一旦海外からの訪問者を鴻臚館で迎え入れてから、安全を確認して大宰府政庁に移したという話は、前回のブログで書いた。

■ 菅原道真大宰府左遷

 菅原道真の左遷は有名な話で、たいていの人が知っている。道真が右大臣から大宰権帥に飛ばされたのは、西暦901年のことで、「昌泰の変」と呼ばれている。命じたのは醍醐天皇で、その背後には藤原氏のドン藤原時平がいたというのが定説だ。

 道真の出た菅原家は学者の系譜である。藤原家の一族が権勢を振るう時代にあって、元々高位を得られる見込みのなかった出自である。ところが光孝天皇から宇多天皇に代わる際に藤原氏と天皇家の間で揉め事が起きた。この問題解決に一役買ったのが、時の讃岐の守であった道真である。

 この時の功績を高く買ったのが宇多天皇で、地方官として一生を終えると思われていた道真は、蔵人頭として京に戻る。その後も異例の出世を重ね、宇多天皇の右腕とも言える活躍をする。それを快く思わなかったのは藤原氏で、道真が学問の出来る人材を登用しようという動きを見せたものだから、血縁関係重視の藤原氏は警戒感を高めた。

 宇多天皇が上皇に退いて醍醐天皇が皇位につくと、時の藤原氏の中心人物である時平は、道真排斥に動く。道真の娘が斉世親王に嫁いでいることをネタに「道真は醍醐天皇を皇位から引きずり下ろして斉世親王を皇位に就けようとしている」というストーリーをでっち上げ、醍醐天皇に吹き込む。その種の謀略は藤原家の得意とするところなので(笑)、リアリティーはある。

 この左遷により、道真はおろか親族全員が左遷させる。京の要職に就いていた子供たちも地方に流され、おまけに、道真の娘が嫁いでいた斉世親王までが出家させられている。これで菅原家の一族はおろか、出自にかかわらず学問により身を立てるという新しい官吏登用の流れも断ち切られる。藤原家恐るべしである。さすがに謀略家の血筋は伊達ではない。

■ 大宰府の道真

 左遷というが、道真の境遇はそれ以下で、罪人同様であったと伝えられている。大宰権帥は右大臣からすれば格下だが、地方長官代行であり、しかも大宰府は並みの地方庁ではない。京に戻る前に道真が就いていた讃岐の守よりも、官位は大宰権帥の方が上である。

 しかし、藤原氏は道真を徹底的に潰すために、大宰権帥は形だけの位とし、仕事はさせずにギリギリ生きられるくらいに遇しておけという指示を出していた。お蔭で道真は、大宰府政庁ではなく大宰府の南部にあった南館という廃屋に事実上幽閉される。南館は雨漏りがし隙間風の吹くあばら家状態で、周囲は貧しい農村である。食べることは出来たものの、贅沢とは程遠い生活をしていたと伝えられる。

 そんな生きる屍のような道真のところに、藤原時平は刺客を放つ。ホントに性根の腐った家柄だよ、藤原家ってヤツは。命を狙われていると気付いた道真は、近くの農家に助けを求める。道真をかくまってくれたのは老婆で、臼の中に道真を隠して刺客を退けたという。この老婆とはそれを機に親しくなり、老婆が時々届けてくれる自家製の餅を食べるのを、道真は楽しみにしていたという。

 道真はいつか濡れぎぬが晴れて京へ帰ることを願っていたが、願いはかなわず、幽閉状態のまま大宰府南館で病のため死去する。道真の死を知って、老婆は道真好物の餅を作り、梅の枝を添えて供えたという。これが太宰府天満宮参道にある梅が枝餅の謂れである。

■ 太宰府天満宮の成り立ち

 亡くなった道真の遺骸は、大宰府の鬼門方向にある宝満山近辺の寺社に送られる予定だった。これは珍しいことで、地方で亡くなった高官は京に送られて埋葬されるのが慣わしであったようだ。だが、道真は自分が死んだらこの地に埋葬してくれという遺言を残していたらしい。あれ程京に戻ることを願っていたのに、何とも不思議な話である。

 道真と共に大宰府に下ってきたわずかの供人が、遺骸を牛車に乗せて進んでいたところ、途中の四堂という地で牛が止まる。従者が牛を動かそうとするがどうにも動かない。途方に暮れた供人だが、これは道真自身が「ここに葬ってくれ」と言っているのではないかと解釈し、その地に埋葬したあと小さな墓を建てる。

 現在の太宰府天満宮は、この道真の墓の上に建っている。そして、この埋葬の地を知らせた牛が、太宰府天満宮のシンボルになっているわけだ。あぁ、だから天神さんには牛の像があるんだと納得。

■ 道真の祟り

 道真と言えば祟りで有名である。ここまでの話を読めば、そりゃあ祟るよなぁと思う。ただ、道真の祟り方は超弩級で、道真を大宰府に追いやった関係者はことごとく死んでいる。

 道真が亡くなった903年から、京の都では様々な災厄が起きている。旱魃、水害、更には疫病と、あらゆる災厄が次々と襲う。しかもそれが長く続く。長くというのは、1年や2年のことではない。何と30年以上も続いている。

 道真を陥れた張本人の藤原の時平も、道真左遷を取り消そうという動きを邪魔をした藤原菅根も、道真の死後すぐに亡くなった。時平はわずか39歳の若死にだった。道真左遷の詔書を出した醍醐天皇も病気がちとなり、追い討ちをかけるように、醍醐天皇と藤原時平の妹の間に生まれた皇太子保明親王も21歳で亡くなる。一連の祟りの中でも最も有名なのは、内裏の清涼殿で開かれた旱魃対策の話し合いの場に雷が落ち、出席した公卿にたくさんの死傷者が出た事件だ。醍醐天皇は直後に病に臥し、ほどなく退位し1週間後に亡くなった。

 道真の怒りを静めようと、北野天満宮が造営され、左遷の詔書は破棄されて死後に昇進までさせた。かくして道真は天神様として畏れられ、かつ学問の神様として敬われもするようになった。

 大宰府は先に書いたように、京の都の縮小版のような町だが、それは町の造りだけではなく習俗においてもそうである。京都の宮中行事のいくつかは、大宰府においても執り行われた。正月に天皇の前で詩文を作り詠ずる内宴や、庭園の流水に杯を流しながら歌人が歌を読む曲水の宴、七夕の夜に行われる乞巧奠、秋の菊をめでる残菊の宴などが催された。

 しかし、それらの行事は政庁としての大宰府で行われたのではなく、太宰府天満宮の行事として執り行われた。天皇がいないところでの宮中行事の中心は、官僚である大宰府の役人ではなく、神である菅原道真であった。

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 こうして見てくると、太宰府という土地は色々と因縁めいた場所だ。仮に、大和朝廷に滅ぼされた本当の日本の古代王朝がここにあったとすれば、正統派の王族の血脈が封じられた場所ということになる。菅原道真もまた同じで、血縁やコネではなく己が実力で右大臣まで登り詰めたのを、陰謀によってここに閉じ込められ不遇のうちに孤独死した。

 まぁそんな暗い歴史を背負った場所と心得て、近辺を歩いてみることにするか。

posted by OhBoy at 23:21| 日記