昨日は外出もままならなかったから、今日は出掛けようと考え、行き先はあっさりと太宰府方面に決めた。昨日、本で読んだことが記憶から薄れぬうちに行った方が、臨場感があって良かろうという判断である。
まずは政庁のあった大宰府の方から攻めることとし、西鉄大牟田線の二日市で降りる。特急なら天神の西鉄駅からわずか12分である。この駅から太宰府天満宮まで行く太宰府線が出ているが、今日は、色々見学しながら大宰府線終点まで歩き通そうという目論見である。
大宰府政庁跡の最寄り駅は一つ手前の都府楼前駅だが、大宰府政庁の中心道路だった朱雀大路を南側から上がって政庁に行ってみようという趣向である。まずは二日市駅を降りて、線路沿いに北上する。
二日市自体は名前の通り、古く市場が立ったところで農業地帯であった。万葉集に山上憶良の「貧窮問答歌」があるが、憶良は筑前守で、ほとんどの名歌はこの地で生み出されている。当時大宰府にいたのが、同じく万葉歌人の大伴旅人で、憶良は旅人の館に招かれて歌を詠んだりしている。貧窮問答歌にある農民たちがどの辺りの人々だったのかは知らないが、もしかしたら大宰府政庁近くの情景だったのかもしれない。
今ではすっかり住宅地で、福岡市内へも通勤距離範囲である。憶良が見たらビックリするだろうなぁと思いながら、線路沿いをのんびりと歩く。

政庁跡へ南側から行こうとするのにはもう一つ理由があって、菅原道真が幽閉されていた「大宰府南館跡」を見ようと思ってのことである。その場所は、現在の住所で言うと太宰府市朱雀六丁目にあり、「榎社」という神社になっている。ここはかなり分かりにくく、観光ガイドマップなどではお勧めの場所として紹介されていない。こういうところを探し当てていくのが、気ままな散歩の醍醐味である。
この地が神社になっているのは、道真の祟りに恐れをなして大宰大弐だった藤原惟憲(ふじわらこれのり)が「浄妙院」を建てたためだ。現在は太宰府天満宮がこの社を管理しているらしい。ちなみに今の名前は、境内に大きな榎の木があったので付いたニックネームのようなものと伝えられている。

この境内には、道真を刺客からかくまった近隣の農家の老婆もあわせて祀られている。「浄妙尼」というのがその人で、「もろ尼御前」とも呼ばれていたらしい。だが、農家の婆さんがどういう経緯で尼になったのかは不明。下がその祠で「浄妙尼社」という額が掛かっている。

榎社から更に北上して御笠川を渡る。その手前の交差点の名前がズバリ「朱雀大路」。ここから一直線に大宰府政庁跡まで大通りが伸びる。如何にも「西都」の名前にふさわしい造りである。
現在の朱雀大路は御笠川の南で大きく西に蛇行して国道505号線となっているが、昔の都市計画上は、先ほど降りた西鉄二日市駅辺りまで大宰府の碁盤の目状道路が続いていたはずである。ただ、道真が幽閉されていた南館(現在の榎社)辺りは周囲が農家だったので、政庁といえども施設はほとんどなかったのが実態だったろう。
下の写真は、朱雀大路交差点から大宰府政庁跡方向を撮ったもの。朱塗りの橋が「朱雀大橋」で、下を流れる川が「御笠川」である。

朱雀大路を通って大宰府政庁跡に到着である。といっても、ここには何もない。碑と礎石があるくらいだが、礎石は長い時代の流れの中で、随分と掘り起こして持ち出されたと伝えられている。
何もなくて観光地として味気ないと言えばそれまでだが、見通しのよい広大な野原なので、私はのんびり一周散歩しているだけで十分気持ち良かった。

建物跡のやや後方に碑が3つ立つ。記された文面は異なり、中央の碑には「都督府古址」と刻まれている。両横の碑は読みづらいが、共に「大宰府」の表記になっている。

大宰府政庁は、941年の「藤原純友の乱」で焼亡したことが確認されている。藤原純友は元々朝廷側の人間で瀬戸内海の海賊討伐に当たっていたが、ミイラ取りがミイラになったようなもので、気が付けば伊予の日振島を根城にする海賊の頭となっていた。純友の襲撃範囲はかなり広く、大宰府と追捕使の兵が、純友軍と戦い敗れたのは同年10月のことである。
その後再建されたものの、戦国時代に再び消失したはずだ。何より戦乱の地となったはずだから。現在残っている礎石は、再建時のものという。更にその下には古い遺構があるはずだが、そこまでの発掘は行われていないと聞く。

大宰府政庁周辺には沢山の役所の建物が建っていた。「政所」「蔵司」など18の施設が記録にあるが、一部の遺構は今も残って保存されている。

下の写真は、大宰府学校院跡。学校院は、九州における官僚養成機関で、博士を教官として政治、算術、文章、医術などを学ぶ場だったようだ。教科書には中国の「五経」「三史」が用いられ、記録では約200人の学生がいたという。所定期間内に必要科目を履修し、試験に合格すれば役人として採用された。

さて、ここらあたりで大宰府政庁と関連機関の遺構を離れて、東へと歩く。ガイドブックのお勧めで、大通りから外れて山沿いの裏道を歩く。実にのんびりとした光景が広がる。

近くに観世音寺があるので立ち寄る。なかなか興味深い寺である。解説書の類では、天平時代に天智天皇が母の斉明天皇の冥福を祈って建てた勅願時で、1200年以上の歴史があるとされている。ただ、これは「続日本紀」にそう書かれているだけで、寺の縁起そのものは伝わっていない。調査では、それよりもはるかに古いという説もある。
どうしてこんなところにそんな趣旨の寺社があるかというと、斉明天皇は、唐・新羅連合軍に滅ぼされそうになった百済を助けるために、女帝ながら筑紫の朝倉宮(福岡市の南東約40km)に出陣して来ていたのである。だが、その朝倉宮で亡くなる。ちなみにその後の日本国・百済連合軍と唐・新羅連合軍の戦いが昨日ブログに書いた「白村江の戦い」で、我が国は完敗した挙句、唐・新羅連合軍の猛追を恐れて、政庁を現在の福岡市沿岸部から先ほどの大宰府政庁跡まで移したわけだ。
そういう経緯で、息子の天智天皇(=大化の改新の中大兄皇子)がここに寺を建てて母の冥福を祈ったのだが、福岡辺りの寺社を見ていると、天皇家にまつわるものがかなり多い。それに何回も天皇や皇族がこの近辺に来ているが、古代の日本でそんな簡単に来られたのかね。どうも不思議だ。
古代史家の中には、それは畿内の天皇家の話ではなく、本来中国から正統な王朝として認められていた九州の王家の歴史を、大和朝廷が自分たちの正史を作る際に勝手に書き換えたという人もいる。こっちで色々見て回っていると、「あるいはそうかも」と思うときがある。

この寺には、かつて五重塔が東西に二基建っていたことが確認されている。現在では礎石に当たる部分が残るだけで、下の写真がそれである。さすがに天皇家の肝煎りだけあって、創建当時は相当大規模なお寺だったわけだ。

この寺には、他にも見るべき歴史的遺産がある。一つは、日本最古の梵鐘である。正確な鋳造年は不明だが、京都にある妙心寺の鐘と同じ工房で鋳造された兄弟鐘と推定されている。妙心寺が出来たのは1342年なので、観世音寺の方がはるかに古い。そして、鐘の銘文から、工房があったのはこの観世音寺の近くということも分かっている。どうしてそこで作られた古い鐘が、何百年も後に建てられた妙心寺にあるのかは謎だ。妙心寺の言い伝えでは、売られていた鐘を買ったということらしいが、じゃあその鐘は元々どこにあったのだろうか。

境内にパラパラといた見学者は、この古臭い鐘をちらりと見ただけで行ってしまったが、一応「国宝」です(爆)。
さて、もう一つの歴史的遺産は、この寺に設けられた戒壇院である。戒壇院というのは、出家した者が正式に僧侶や尼になるために戒律を授ける場所で、この施設がないと誰も僧侶になれない。そのためには建物を建てただけではダメで、戒律を授ける戒律師が必要となる。
仏教が伝来した奈良時代に、日本から唐に留学した僧たちは、日本に来て戒律を授けてくれる僧を求め、高名な戒律師に来日を頼む。それに応じて苦難の末に来日し、九州にたどり着いたその足でこの戒律院で初めて戒律を施したのが、あの有名な鑑真である(!)。つまり、この戒律院の開祖は鑑真であり、鑑真の戒律を国内で初めて受けたのは、この戒壇院に集まった出家者たちだった。鑑真はその後平城京に向かい、東大寺に戒壇院を設ける。

観世音寺の戒壇院は「日本三戒壇」の一つとされ、「中央戒壇(東大寺)」、「東戒壇(下野薬師寺)」に対し「西戒壇」と呼ばれた。いずれも鑑真が開いたものだが、設置された順番では観世音寺の戒壇院が一番古いことになる。但し、今では戒壇院だけ観世音寺から独立した宗教法人になっており、福岡市の聖福寺の末寺となっている。
なお、この境内には鑑真が中国より持ち込んだ菩提樹が植えられている。下の写真がそれである。

さて、観世音寺も戒壇院も見たので、ここから太宰府天満宮に向かうことにする。観世音寺から東に少し行くと、西鉄大宰府線の五条駅がある。太宰府天満宮はここから一駅だが、あえて歩いていくことにする。
五条の交差点を北に折れると、あとは道に沿って歩けば、それが太宰府天満宮参道につながる。一駅分といってもそう骨の折れる距離ではない。気候も良いし気温も低めで気持ちいい。やがて太宰府天満宮参道に至る。

今日は平日とあってあまり参拝客もいないが、天満宮に近付くと次第に人は増える。ところが、人々の近くに行くと誰も日本語を喋っていないことに気付いた。どうも語感から、韓国語や中国語のようだ。こんなところにまでアジアからの観光客が来ていることに驚く。そういわれてみれば、参道のみやげ物屋や食べ物屋にハングル語表示の案内がある。日本も着々と国際都市になりつつあるらしい。
一気に天満宮には行かず、参道突き当たりの「延寿王院」を見る。ここはかつて天満宮の宿坊であったが、残念ながら、今は天満宮を司る西高辻家の住まいなので中には入れない。しかしわざわざ覗いたのは、この建物が幕末の動乱の一つの舞台になっているからだ。

尊王攘夷運動の中で、1863年に公武合体派による宮中政変があり、尊王攘夷派だった公卿の三条実美ら7人の公家が失脚し、京都を追放され長州藩へと落ち延びた。世に言う「七卿落ち」である。彼らが流れ流れて最後に滞在したのが、この延寿王院である。途中、7人のうち一人は死亡、もう一人は行方不明になり、ここに来たときには5人になっていた。彼らは1865年から3年間、つまり明治維新までこの屋敷に住んだ。
その間、三条実美には、西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬、中岡慎太郎のほか、伊藤博文、江藤新平らも会いに来ている。また変わったところでは、福岡の女流歌人で幕末の志士を助けた野村望東尼も訪ねて来たらしい。
さて、最後の締めくくりに、太宰府天満宮に参って今日の散歩はおしまい。

太宰府天満宮のシンボルの一つ「飛梅」が下の写真。菅原道真が大宰府へ左遷されたおり、京の館の庭で「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」の句を詠むと、道真を慕って京の梅が一夜にして太宰府に飛来したという伝説がもとになっている。

もう一つ忘れてはいけないシンボルの牛。昨日のブログに記したように、この埋葬の地を教えてくれたのは牛である。

今日は気候が良かったのでスイスイと歩けた。寄り道しながら西鉄太宰府線の最初から最後までを歩き通したので、けっこう距離はかせいだはずだ。本日も良い散歩だった。