2011年02月06日

崇福寺と九州大学

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 今日も昨日に引き続き、おだやかな日和で散歩には申し分ない天候だ。雲は多めながら、雨の心配はないらしい。せっかくの天気だからと、少々足を伸ばして、福岡の東区辺りまで出掛ける。

 東区というエリアは、福岡市の中心部である天神やJR博多駅からは北に位置する。じゃあ天神やJR博多駅の南側は西区かというとそういうわけではなく、こちらは南区という。どうもこの辺りが位置関係をつかみにくい要因だ。

 私の場合、東区に足を伸ばす機会がなかなかない。ここには福岡県庁や九州大学病院、筥崎宮など、それなりに重要な施設があるのだが、どうも最近はご無沙汰である。最初に福岡に来た頃、探検方々、方生会の筥崎宮に行ったついでに、東公園、濡衣塚と回ったことがあるが、もしかしたらそれ以来かな・・・。

 本日のスタート地点は地下鉄箱崎線「千代県庁口駅」である。そうそう、東区は箱崎線沿線なので、それもなかなか来ない原因なのだ。どこかに行くついでに寄るということがない。箱崎線は終点の貝塚駅で西鉄貝塚線に接続していて、そのまま進むと香椎方面に行くので、住まいがそちら側だったら、もっと頻繁にこの辺りに散策に来ているのかもしれない。

 さて、本日の第一目的地は「崇福寺(そうふくじ)」である。

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 まず山門が立派だ。これは、旧福岡城本丸表御門を移築したもので、福岡県指定の有形文化財になっている。そんな門が何故この寺にあるかというと、ここが福岡藩主だった黒田家の菩提寺だからだ。

 ところで余談だが、この写真の左手に見える家は一般の民家ではなく、参拝客のために線香や蝋燭を売る店なのだが、ここに絵馬が売っている。寺に絵馬というのは妙な組合せだが、これは敷地内にある「旭地蔵尊(あさひじぞうそん)」というお地蔵様に願掛けするための絵馬なのである。

 実は、福岡の人々に親しまれているのは、黒田家菩提寺である崇福寺ではなく、この旭地蔵尊だと聞いたことがある。縁日には大変な賑わいだそうで、願い事をする人が耐えないという。

 で、この絵馬なのだが、私はこんな絵馬初めて見た。さすがに買うわけでもないのに店頭で写真を撮るのも悪いから具体的にお見せは出来ないが、願い事をする人ごとに祈る姿が描かれた絵馬なのだ。男の子が祈っている絵柄もあれば女の子のもある。お兄さんもお姉さんも、おじさんもおばさんもある。そのうえ、その絵というのが昭和30年代の子供向け絵本みたいなヘタウマ絵で、私なりにものすごいインパクトがあった。行く機会があったら、是非見て欲しい。一見の価値ありだ。

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 お寺の中に歴代の黒田藩主の墓があるのだが、このエリアは残念ながら立ち入り禁止になっている。何故かはよく分からないが、案内板まであって、特別に「藤水門」なんて門まであって、福岡市指定史跡なんて解説版まであって、それで立ち入り禁止である。まるでわけが分からんが、門の脇から覗くことが出来るので、撮影したのが上の写真である。

 普通、旧藩主というのは地元で慕われているもので、歴代藩主の墓というのは参拝の対象になりやすいものだ。黒田家といえば、軍師として名高い「黒田如水(黒田官兵衛)」をはじめとして歴史に名を残す名家なのに、何か閉鎖しなければならないいわれでもあるのだろうか。

 せっかく黒田如水の墓を見ようと思って来たのに残念だ。何故私が黒田如水の墓を見たかったかというと、黒田如水は「ドン・シメオン」という洗礼名を持つキリシタンだからだ。キリスト教徒が禅寺に祀られているというのも妙な話だが、キリシタンだとどんな墓なのか興味がある。息子の初代藩主長政とは墓石の形状が違うのか、十字架の一つでも刻んであるのか、そんな辺りを観察したかったのである。

 ちなみに、ここには黒田如水・長政親子をはじめ歴代藩主の墓があるが、2代藩主忠之、3代藩主光之、8代藩主治高の墓は、ここではなく祇園の東長寺にある。これまた不思議な話だ。

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 ところで、このお寺は元からこの場所にあったわけではない。最初に崇福寺が建てられたのは1240年のことで、場所は太宰府だった。創建したのは禅僧の「湛慧(たんえ)」だが、開堂は湛慧の依頼で、鎌倉時代に「聖一国師(しょういちこくし)」の名で親しまれた臨済宗の僧「円爾(えんに)」が行った。円爾は宋から帰国後、博多で「承天寺(じょうてんじ)」を開山し、上洛して「東福寺(とうふくじ)」を開いた。

 承天寺は前に訪ねたことがあり、敷地内にある「饂飩・蕎麦発祥之地(うどん・そばはっしょうのち)」や「御饅頭所(おまんじゅうどころ)」を紹介した。聖一国師は宋で製粉に関する技術を学び、羊羹の前身となった「羹」や、饅頭の元になった「饅」、またうどんやそばの原点である「麺」を日本に伝えたことでも有名だ。

 さて、太宰府に創建された崇福寺だが、その後、戦国時代に九州統一を目指す島津氏の軍勢が、対立する大友氏の家臣「高橋紹運(たかはししょううん)」の岩屋城を攻撃した際に焼け落ちてしまった。

 やがて豊臣秀吉によって九州が平定され、福岡藩初代藩主となった黒田長政が入城した際、京都の大徳寺住持だった「春屋宗園(しゅんおくそうえん)」が崇福寺再興を依頼し、現在の場所に寺が移された。大宰府は遠くて不便だというのが、この地に再興された理由らしい。その後は黒田氏の菩提寺として庇護を受けることになる。

 ところで、冒頭にも触れたが、この黒田家菩提寺の敷地内に地蔵尊がある。それが「旭地蔵尊(あさひじぞうそん)」である。

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 地蔵尊というがなかなか立派で、これだけで一つのお寺くらいある。そして傍らには延々と続く無数の小さな仏像が・・・。何やら独特の雰囲気がある場所だ。しかも山門入ってすぐ左手に大きな面積を取っており、駐車場もついていて、人がたくさん参拝している。これにはちょっと驚いた。何と言っても、参堂にこの地蔵尊用の絵馬を売る店が二軒もあるのだから、人気のほどが分かろうというものだ。

 黒田長政によって移された崇福寺の中に、どうしてこんな立派な地蔵尊なんかが出来たかだが、これがなかなか面白い。もともと、太宰府において崇福寺と旭地蔵尊はセットだったのである。

 旭地蔵尊に祀られているのはもちろんお地蔵様だが、このお地蔵様のいわれは、崇福寺を創建した禅僧の湛慧の亡くなった場所に菩提を弔うために建てられたものだ。しかも、湛慧が亡くなったのは、太宰府の山の中に掘られた横穴の中だったらしい。

 湛慧は横穴の中で読経にふける晩年を過ごしていたようで、ある日の朝、読経の声が途絶えたのに気付いた村人が見に行くと、座ったまま息絶えていたという。その菩提を弔って建てられたのがこのお地蔵様で、「旭」は湛慧の亡くなったのが夜明けだったから付いた名前のようだ。

 自分が亡くなった後供養してくれた者の願いをかなえてやるという遺言を湛慧が残していたものだから、この地蔵尊を拝めば願い事がかなえられるというので人気があり、お百度参りのメッカとも聞いた。お百度参りなんていうから、昭和の時代にそんな風習があったのだろうと勝手に思っていたが、行ってみると実際に裸足でお百度を踏んでいる人が複数いて、ビックリした。今でもやっているんですね。

 さて、黒田家墓所は立ち入り禁止で見られなかったが、ここにはもう一つ有名な墓所がある。それが「玄洋社墓地」だ。

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 「玄洋社(げんようしゃ)」のことは 今年の初めに福岡城址から赤坂にかけて散歩した際に書いた。旧士族のよる自由民権運動を受け継いだ政治団体で、欧米列強の侵略主義的な動きを強く意識して、天皇を中心とした強兵国家を築き、アジア各国の独立を支援すべきという立場に立っていた。それゆえ、後に続く右翼運動の源流とされている。

 玄洋社は「頭山満(とうやまみつる)」ら旧福岡藩士によって福岡市内に作られたが、やがて軍部や政財界に強い影響力を持つようになり、日清戦争から第二次世界大戦まで日本の対外戦略に深く関わったと言われている。故に戦後、GHQはその存在を問題視し、狂気的な集団として強制的に解散させた。

 玄洋社墓地には、総帥の頭山満のほか、大隈重信爆殺未遂事件を起こした「来島恒喜(くるしまつねき)」ら玄洋社の錚々たる社員の墓が並ぶ。こんなところをうろついていたら、右翼と間違えられそうだが、この墓地にはけっこうすごい人も参拝に来たことがある。清朝が倒れた後中華民国の臨時大総統に就任した「孫文(そんぶん)」である。

 孫文は中国清朝末期の政治家で、清朝を倒し共和制国家を築くこととなった「辛亥革命(しんがいかくめい)」を指導したが、親日家で何度か来日している。また、清朝の軍閥「袁世凱(えんせいがい)」に追われた際には一旦日本に亡命をしている。玄洋社や筑豊地方の炭鉱経営者たちが孫文を経済的に支援したと伝えられ、孫文も恩義に感じていたらしい。

 辛亥革命の後に中華民国臨時大総統に就任すると、来日時に福岡にも立ち寄り、崇福寺を訪れ玄洋社員の墓参りを行った。孫文といえば、現在の中華人民共和国においても近代革命の先人として称えられている人物だが、そんな革命家を右翼の源流と言われる玄洋社が支援していたというのはなかなか興味深い話だ。

 さて、崇福寺には他に「名島城(なじまじょう)」から移築した「唐門(からもん)」もあるが、これをちらりと見て九州大学構内へ向かうこととしよう。

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 「名島城って何だ?」ということになるが、これは黒田家が福岡に入る前にこの地を治めていた小早川家の城で、ここから更に北に行った海辺にあった。小早川は、福岡が海に面した土地だったゆえ水軍を重視した守りを念頭に、海に突き出る形で城を築いたが、新たに入城した黒田長政は城下町の形成を重視して、城を内陸に置くことにした。

 長政は福岡城築城のため名島城を解体し、石垣もろとも今の福岡城の建材に使った。お蔭で名島城は何も残っておらず、わずかにこの唐門と、福岡城址に残る「名島門」に面影を留めるだけである。

 さて、見るべきものを見たので、崇福寺を出て前の道を北東に進む。今度はお隣の九州大学を訪ねようという趣向だ。

 崇福寺や九州大学のある通りは片側一車線の狭い道なのだが、由緒は正しく、これが旧唐津街道である。今では、下を地下鉄が通る立派な幹線道路が平行して走っているが、昔はここを大名行列が通ったわけだ。

 以前何度か書いたと思うが、九州大学は元々いくつかのキャンパスに分かれた分散体制になっていたため、これを福岡市の西にある糸島半島の「伊都(いと)キャンパス」に集約すべく、2005年から移転が行われている。但し、大学病院と医学部・薬学部・歯学部のある「馬出(まいだし)キャンパス」については、市民の便宜を考慮してこの地に残すことになっている。

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 馬出キャンパスは元々福岡県立病院のあった場所で、九州に帝国大学を作ることになった際、熊本や長崎と争った挙句に、福岡県立病院を母体に作ることに落ち着いたという経緯がある。従って、いくつかある九州大学キャンパスの中でもここが一番古く、いわば九州大学発祥の地ということになる。

 ナンバースクールとしての旧制高校があったのは熊本で、当時の九州の中心は熊本だったはずだ。また、江戸時代からの伝統で医学の盛んだったのは長崎である。両方とも、帝国大学を置くのにふさわしい場所だと思うが、よく福岡が射止めたなと感心する。

 何はともあれ、最初にこの馬出キャンパスに設立されたのは、九州帝国大学ではなく、京都帝国大学の分校である。理由は建設資金が足りなかったからとも聞く(笑)。誘致しておいて何だという話だ。

 福岡医科大学としてスタートした九州帝国大学の母体は、やがて古河財閥からの援助を得られることになり、福岡県も後押しする形で、ようやく九州帝国大学が設立された。九州帝国大学設立が議会で可決されてから10年後のことである。

 ところで、キャンパスの名前になっている「馬出」というのは、元々城などの防御施設に設けられた馬の出入り口だが、ここがどうしてこんな地名なのかはよく分からない。一説には、豊臣秀吉の九州征伐の際にこの地区に陣が作られ、軍馬を置いていたからだなんて言われるが、詳細は定かではない。

 さて、九州大学に立ち寄ったのは、この構内に見所があるからで、それは豊臣秀吉ゆかりの場所である。それがこれだ。

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 これは「利休釜掛の松」と呼ばれており、ここで利休がお茶会を開いたとされている。

 記録によると、当時の九州の実力者島津氏を討伐し九州を平定した豊臣秀吉は、帰り際に福岡の筥崎宮に滞在し博多の豪商「神屋宗湛(かみやそうたん)」と親交を深めている。宗湛は織田信長と知己を通じており、秀吉とも親しかった。また当時九州を我が物にしようと北進していた島津氏とは対立関係にあったから、秀吉の九州征伐時には経済面も含めて秀吉軍を支援した。純粋な商人というより政商だったわけだ。

 このとき宗湛は焦土と化した博多の町を秀吉に見せ、復興を願い出る。これが元になり博多の商人町の復興が始まった。このときの縦横に街路を張り巡らせた区画整理が「太閤町割り」と呼ばれるものである。

 さて、筥崎宮に滞在していた秀吉は、宗湛らを呼んで「千代の松原」と呼ばれた海岸沿いの松林で茶会を開いた。このとき茶をたてたのは、秀吉に同行していた千利休である。その場所が今、九州大学構内に残っているというわけだ。つまりここは当時、白砂青松の海岸だったことになる。

 釜掛松の由来というのは、千利休が千代の松原の松に鎖を掛けて雲龍の小釜を吊るし、白砂の上に散らばる松葉をかきあつめて湯を沸かしたことにある。いわゆる「野点(のだて)」であるが、湯を沸かすのに松葉を燃やした際、煙となって立ち上る芳香が茶会に風情を添えたということで千利休が感じ入り、秀吉が滞在していた筥崎宮に燈籠を寄進している。茶史に残る有名な野点だったらしい。

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 ところで、この利休釜掛の松だが、興味を覚えて行ってみようと思われる方にあらかじめ申し上げておく。九州大学キャンパス内は大学病院があって一般人の出入りは自由で、かつ構内の各所に丁寧な地図が掲げてあるが、利休釜掛の松の案内は一切ない(!)。従って、具体的な場所は自分で探すしかない。あらかじめおおまかな場所の見当をつけてから出掛けることをお勧めする。

 準備もなくいきなり行って広いキャンパス内をウロウロするのは大変だ。私のような散歩好きならそれもまた楽しいが、これだけを目当てに来たとしたら浮かばれない。

 さて、今日は見所も多かったし、久し振りに散歩らしい散歩をした気がするなぁ。来週の週末もこんな天気ならいいのだが・・・。冬の日本海側は天候が定まらないからなぁ。何はともあれ、今日はいい散歩であった。

posted by OhBoy at 23:15| 日記