2011年04月17日

名島でありし日の城を偲ぶ

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 今日は天気予報通り、朝から晴れて気持ちのいい天気だ。もっとも雲一つない快晴というわけではなく薄雲が広がっているし、夕方から曇り空となって明日には雨が降り出すと言っている。それでも週末の二日間、何とか雨も降らずに持ちこたえたのは良しとせねばなるまい。

 さて、好天に誘われ少し足を延ばしてみるかと行き先を考えた挙句、以前からたびたびこのブログに登場するものの一度も行ったことがない「名島(なじま)」に出掛けてみるかという結論に達した。

 何度か書いたが、名島はかつて名島城があった場所だ。この城は、黒田家が福岡に入る前にこの地を治めていた小早川家が居城としていた城だが、今では何も残っていない。それゆえ、あまり見に行く気が湧かなかったのだが、まぁ話として触れた以上、一度くらいは行ってみてもいいんじゃないかという気になった。名島周辺は全く行ったことのないエリアだから、ブラブラ歩いてみたら、それなりに面白かろうというわけだ。

 名島は福岡市東区の海岸沿いにあり、もう少し先にいくと香椎という位置関係だ。本日のスタート地点は、地下鉄箱崎線の終点「貝塚駅」。こんなことでもない限りなかなか来ない場所だ。

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 この駅は地下鉄の駅だが地上にある。そして、西鉄貝塚線の始発駅も兼ねている。西鉄貝塚線はこの先香椎方面につながっており、沿線はベッドタウンになっているので平日は通勤用の路線ということになろう。普通こういう形式だと相互乗入れしているものだが、何故か地下鉄貝塚線と西鉄貝塚線はつながっていない。

 改札口を間に挟んで地下鉄の線路の先に西鉄の線路が延びているのに、わざわざ地下鉄の改札口を出て、10mほど先の西鉄の改札口に入って電車を乗り換えなければならない。どう見ても不合理で、よくこのまま放ってあるなぁと逆に感心する。何とも不思議な話だ。

 実は名島まで行くなら、ここで西鉄貝塚線に乗り換えて次の名島駅で降りるという方が早い。ただ、せっかく見知らぬ土地に歩きに来たのだから、一駅手前から色々見ながら歩いて行きたい。

 貝塚駅を出ると目の前が公園になっている。「貝塚公園」というのだが、ちょっと覗いてみる。

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 最初地図でこの公園を見つけたときには、ここに文字通り貝塚でもあるのかと思ったが、実は交通公園と称する子供向けの公園であった(笑)。どうも駅名に惑わされたらしい。

 一見普通の公園に見えるが、中に入ってみると小さな道路が縦横無尽に走っており、横断歩道や信号、標識などがそこらじゅうにある。しかもおもちゃではなく立派な本物ばかりだ。暫くすると、きちんとセンターラインのある道路を、子供たちがゴーカートに乗って走って来る。

 これはいったい何だろうと思って、ゴーカートのやって来る先に行ってみると、どうやら福岡県交通安全協会が主催するゴーカート・コースのようだ。交通ルールを子供たちに教えることを目的にしているようで、掲示板に警察の名前も見える。それで信号やら標識やらが全て本物というわけか。たくさんの子供たちがゴーカートの順番待ちをしていて、大盛況のようだ。

 交通をテーマにする公園だけあって、園内には、寝台列車をつないだ蒸気機関車のほか小型飛行機まで展示されている。これだと男の子は大喜びだろう。天気も良いせいか親子連れでいっぱいだし、駐車場に次々と車が入って来る。眼を見張る豪華な施設はないが、テーマパークとしては、まずまず成功の部類ではないか。

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 ついでだから交通つながりで、この公園の裏手にある貨物ターミナル駅でも覗いてみようと、公園脇の道を海岸方向に向けて歩いた。大通りを越えて真っ直ぐ行くと、突き当りがターミナル駅である。

 このターミナル駅はかなり巨大で、2km近くにわたって構内が続いている。幅も200mくらいはあろうか。高速道路からよく見えるので、この辺りに来る機会があったら、立ち寄ってみたいなと思っていた場所だ。

 福岡県の鉄道貨物の拠点で、ここから全国に向けて貨物列車が出ていると聞く。周囲には運送会社も建ち並び、駅構内には無数のコンテナが置いてある。今日は日曜日だが、休みということはなく、フォークリフトが荷物を運び、コンテナ車を長くつないだ電気機関車が出入りする。

 ターミナル駅沿いに遊歩道が続いており、のんびりと歩けるのだが、如何せん、街路樹が邪魔になって構内があまり見渡せない。もう少し中を覗けるような場所を作れば、鉄道マニアにも人気のスポットになるんじゃないかと思うが、駅の側からすれば、そんなことしても何のメリットもないし、見物客を集めて仕事の邪魔をされたくないのだろう。

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 さて、電車関係はこの辺りにして、いよいよ名島城址を目指すことにしよう。ターミナル駅沿いの遊歩道を北端まで歩くと、東側に折れて唐津街道に出る。唐津街道と言っても現代の唐津街道であって、江戸時代に大名行列が通った唐津街道ではない。だいたいその頃は、この辺りは海だったはずだ(笑)。おそらく、千利休が野点をして感じ入ったという「千代の松原」がこの辺りまで続いていたのだと思う。

 唐津街道を北に暫く進むと、「多々良川(たたらがわ)」に差し掛かる。多々良川は、日本書紀にも登場する福岡県の糟屋郡から発しており、福岡市を経て博多湾に注ぐ。この辺りは最下流域だからかなり広大である。上流に行くとそれなりに趣のある川なのだろうが、下流域は都市部の管理された河川という印象だ。でも、野鳥は多いらしい。

 多々良川周辺は、南北朝時代と戦国時代に合戦の舞台となっている。

 南北朝時代の戦いがあったのは1336年で、一旦九州に敗走した足利尊氏と、肥後の菊池一族を中心とした九州の御家人連合軍が多々良浜で激突したと伝えられている。足利軍の十倍の兵力を擁する菊池軍は当初戦いを有利に進めるが、裏切り者も出て最後は足利尊氏が勝利した。これにより九州の御家人を味方につけた足利軍は体勢を整えて再び上洛し、湊川の戦いで楠木正成を破ることとなる。

 一方、戦国時代の合戦が起きたのは1569年で、北九州東部を支配する戦国大名「大友宗麟」と、中国地方の覇者「毛利元就」が多々良川を挟んで戦った。戦いのきっかけは、昨年秋に訪れた秋月のかつての支配者秋月家にまつわる話なのだが、長くなるのでそのあたりはカットして(笑)、攻防の中心を言うと、大友氏の重要戦略拠点だった「立花山城(たちばなやまじょう)」をめぐるものである。その立花山城があったのは、この多々良川河口から北東に6-7km行った東区の端の立花山の上である。

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 立花山城は鎌倉時代末期に大友氏が築いた城だが、博多が一望できる軍事上の重要拠点だった。多々良川の合戦前の城主は、大友氏の家臣「立花鑑載(たちばなあきとし)」で、この人は元々大友姓を名乗る大友氏庶流の家柄である。

 だが、毛利・秋月連合軍が秋月家の旧所領を奪還すべく九州に攻め入った際、毛利・秋月連合軍有利と見た立花鑑載は、主君大友氏に叛旗を翻し毛利方に寝返ってしまう。慌てた大友勢は立花山城を奪い返し立花鑑載を自害に追いやるが、再び毛利方が巻き返し、城を奪い返した。こうした立花山城をめぐるシーソーゲームの果てに起きたのが、多々良川の合戦である。

 この戦いは長期戦になり、毛利方には後に名島城主となる「小早川隆景(こばやかわたかかげ)」も加わっている。布陣からすれば立花山城を守る毛利軍の方が有利だったが、大友氏は策略を講じて、中国地方の毛利氏の領土の背後から反毛利派に挙兵させ、城を守る部隊を引き揚げざるを得ない状況に追い込んだ。これにより立花山城は再び大友氏の手に戻り、戦いは終結した。

 そんな幾多の戦いがこの地であったとは思えぬくらい多々良川河口は姿を変えてしまった。かつては広大な干潟であったと伝えられる川岸はコンクリートで防御され、辺りには倉庫や団地が建ち並んでいる。「兵どもが夢の跡」といったところだろうか。

 さて、この多々良川に架かる立派な橋は「名島橋」というのだが、3年の工期を経て昭和8年に完成した七連の鉄筋コンクリート製アーチ橋である。最近の機能一辺倒の橋と違って、デザインがなかなか優美だ。さすが戦前の橋という気がする。

 そのうえ、当時のまま残っているにしては橋の幅が広過ぎる。片側三車線の道路に歩道まで付いている。昭和8年の自動車の交通量など微々たるものだったはずだ。

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 橋のたもとに解説板があるが、ここにこれだけの規模の橋を架けた理由は謎に包まれていると記されている。飛行場の代用だったとか、路面電車を通す目的だったなど、諸説あるらしいが、真相は分かっていない。戦時中には空襲から橋を守るために、真っ黒に塗ったと言われている。そのお蔭で、今もこうして残って幹線道路に使われているわけだ。

 名島橋を渡ったあと唐津街道は、先ほど見た貨物ターミナルから延びる貨物線のほか、西鉄貝塚線、JR鹿児島本線など、計3本の線路と平行して走る。そのまま進むと千早地区に入り、その先が香椎となる。そう言えば、松本清張の「点と線」の最初に出て来る香椎潟の心中死体発見は、香椎から名島に歩いて通勤する工場労働者によってなされるのだった。名島と香椎の距離関係は当時そんな感じだったのだろうか。駅にすると二駅分あるのだが・・・。

 ちなみに、千早と聞くと和歌に通じている人ならピンと来るだろうが、「千早(ちはや)ぶる」が「神」の枕詞になっている。千早地区の先に香椎宮があるというは、何ともしゃれた命名だと思う。いったいどういう謂れで千早と付いたのだろうか。

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 さて、今日のところは千早まで行くと行き過ぎになるので、名島橋を渡った先で唐津街道を海岸側に折れる。名島城址はこの多々良川の河口べりにある。

 暫く歩くと名島城址への観光案内板が出ていて、それに沿って進む。運動公園の先で高速道路の下をくぐり、やがて多々良川沿いの道に出る。このまま道なりに歩けば、自然と名島城址まで行けるようだ。

 海岸縁に出ると何だか人が多い。おまけにたくさんの車が路上に駐車されており、警官まで出て駐車違反を取り締まっている。いったい何の騒ぎだろうと思って岸壁の向こうを覗くと、無数の人が干潟となった海岸に群れている。よく見れば潮干狩りだ。こんなところで貝が獲れるとは知らなかった。

 名島城址に近づくにつれて人はどんどん多くなり、車も道にギッシリ停まっている。辺りではシートを広げる人、護岸に座っておにぎりを食べる人、獲ってきた貝を車のクーラーに積み込む人、もう大騒ぎである。どれくらいかけて獲っているのか知らないが、バケツ一杯分くらいの貝を運ぶ人もいる。こりゃなかなかのもんだ。

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 どう見てもきれいな浜辺とは思えないが、ここで獲れる貝はおいしいのだろうか。そういえば昔、東京の葛西臨海公園の人工の渚で潮干狩りをして獲った貝を食べたが、なかなか肉厚で美味ではあった。貝というのは、多少汚い水の方がよく育つということだろうか。

 潮干狩りに来た人たちを掻き分けて、ようやく「名島神社(なじまじんじゃ)」の入り口にたどり着く。鳥居の下にはあふれた車が二台も停まっていて参道を塞いでいる。その脇を通って階段を登り社殿に行くと、境内にも車がギッシリ。もうこの辺りは潮干狩り一色だ(笑)。

 途中の案内板で知ったが、ここは桜の名所でもあるらしい。花見用に区画が仕切ってあり、社務所で整理表を出すと書いてある。なるほど周囲は桜の木ばかりで、既に花の大半は散ってしまっているが、満開のときはきれいだったのだろう。花が散ったら今度は潮干狩り。色々楽しみがあってうらやましい(笑)。

 鳥居の下にあった解説板によれば、名島神社は元々この地にあったわけではなく、小早川隆景の命でここに移されたようだ。それまでは「神宮ヶ峯(じんぐうがみね)」」の山頂にあったとある。それがどこにある山なのかは分からないが、祭神は「宗像三柱姫大神(むなかたみはしらひめおおかみ)」とあるから、宗像市にある宗像大社の末社のようだ。

 現在社殿は改修を計画しているようで、ベニア板で正面が覆われている。最初見たときにはあまりに粗末なたたずまいでビックリしたが、単に板で覆われていただけだった。

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 この神社の裏手の階段を登っていくと、いよいよ本日の最終目的地である名島城址に着く。上がってみると広い公園になっていて、ほとんど人はいない。下界の潮干狩りの喧騒が嘘のような静けさだ(笑)。

 話に聞いていた通り、城の面影を偲ぶ遺構はほとんど何もない。「名島城跡」の石碑が隅に建つほかは、石垣のごく一部と、櫓の礎石の一部が残っている程度だろうか。

 そもそも名島城は、大友氏に叛旗を翻し毛利方に寝返った立花山城城主立花鑑載が、立花山城の出城としてこの地に築いたものだ。その後、九州平定を果たした豊臣秀吉が筑前国を小早川隆景に与えると、毛利氏の下で強力な水軍として名を馳せた隆景は、水軍の活躍できる名島城に目を付け、大改修して居城とした。これにより山城である立花山城は軽視され、逆に名島城の支城に格落ちする。

 ちなみに小早川隆景は、毛利元就の有名な三本の矢の話に出て来る毛利三兄弟の末弟で、単なる一家臣ではない。継嗣が途絶えた小早川家に養子に入るが、父の教え通り毛利家を継いだ兄毛利隆元をよく支えた。

 名島城を拠点とする隆景の考えには秀吉も賛意を示したようで、名島城改修にも手を貸したらしい。そのうえ城内に「「御座所(ござしょ)」を設けて、「文禄・慶長の役」で朝鮮出兵した際には、淀君を伴ないこの城に宿泊したと伝えられている。

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 小早川隆景はやがて隠居し、元の城があった広島県の三原市に引っ込んでしまう。その後を継いで名島城主となったのが、有名な「小早川秀秋(こばやかわひであき)」である。

 ご存知の方も多かろうが、小早川秀秋は隆景の実子ではない。豊臣秀吉の正室「ねね(おね)」の兄の子である。一旦叔父である秀吉の養子となったあと、実子のいなかった小早川隆景の元に養子に入っている。しかし、何かと失敗の多い人だったようで、秀吉の跡目を巡る豊臣秀次の事件に巻き込まれて連座させられたり、朝鮮出兵時の不備を責められ、一旦名島城主を追われたりしている。

 その秀秋が再び名島城主として返り咲くのは秀吉の死後で、ようやく名島に帰ったと思ったら、ほどなく関ヶ原の合戦を迎えることになる。ここで有名な裏切りが起こるわけだ。西軍として石田三成の軍勢に加わった秀秋は、合戦の最中に徳川方に寝返り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった。それまでの西軍やや有利の戦況はこの辺りから崩れ、結局東軍が勝利を物にした。

 この功績により秀秋は岡山藩を与えられ、その代わりに筑前を与えられ入城して来たのが黒田長政ということになる。ちなみに小早川秀秋は、関ヶ原の合戦から2年後に21歳という若さで早世している。

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 新たに入城した黒田長政は城下町の形成を重視して、城を内陸に置くことにした。これが今の福岡城だが、その築城のため長政は名島城を解体し、石垣もろとも持って行ってしまう。また、名島城のみならず立花山城の石垣まで持ち去ったため、立花山城もあわせて廃城となる。名島城は今やほとんど何もないが、立花山城もわずかに石垣の一部と古井戸が残るのみと聞く。

 こうして見ると名島城は、小早川隆景が大改修してから黒田長政によって廃城とされるまで、わずか10年少々しか往事の姿を留めなかった。何とも短命で、まさに幻のように消えてしまった城ということになる。

 意外だったのは、海城と言うからてっきり平地にあるものだとばかり思っていたが、けっこう小高い丘の上にあって、周囲の見晴らしが良いということだ。香椎方向に山がいくつも見えるから、あの中の一つが立花山なのだろうなぁと思って眺めた。すべては遠い昔のことである。

 そういえば、ここから見える千早地区のどこかに、かつて「名島飛行場」というのがあったらしい。戦前の一時期に大阪方面と中国の上海方面に向けて、水上機の定期便が飛んでいたと聞く。今では建物が建ってしまってその痕跡はないらしいが、リンドバーグが世界一周飛行途中に夫人と共に飛来したという記録が残っていると、名島橋のたもとの観光案内版にあった。何気ない土地に、面白い歴史があるものだ。

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 さて、在りし日の名島城を偲んだあとは、再び海岸線まで降りて、今度は「神功皇后(じんぐうこうごう)」の遺構なんぞを眺めることとする。歴史は一気に神代まで遡るわけだ(笑)。

 神功皇后のことは、もう何度もこのブログに登場しているからご存知だろう。「仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)」の妻であり、「応神天皇(おうじんてんのう)」の母ということになる。

 西暦200年頃に仲哀天皇は九州平定のために遠征してきて、この地に「橿日宮(かしひのみや)」を建て、妻の神功皇后と住んだ。ところがある日「海の向こうにある朝鮮半島を与えよう」という神のお告げにそむいて、「そんな土地は山に登っても見えない」と仲哀天皇が答えたものだから、神罰により死んでしまう。悲しんだ妻の神功皇后が、橿日宮に祠を建て天皇を祀ったのが、「香椎宮(かしいぐう)」である。つまり香椎宮は天皇陵であり、古くは「香椎廟」と呼ばれていた。

 ちなみに、この神のお告げを天皇に伝えたのは、シャーマンだった妻の神功皇后であり、そのため日本書紀では、同年代に日本にいたはずの邪馬台国の女王「卑弥呼」は神功皇后だと解釈している。いずれにせよ、かよわき女性ではなかったわけだ。

 夫が果たさなかった神のお告げを実現すべく、神功皇后は妊娠していたにもかかわらず朝鮮半島に出兵し、新羅、高句麗、百済を征伐した。いわゆる「三韓征伐(さんかんせいばつ)」である。凱旋帰国して九州の地で出産し、応神天皇を生んでいる。

 さて、その神功皇后が三韓征伐の折りに乗った軍船の帆柱が、この名島神社の先の海岸に残っているのである。それがこれだ。

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 この柵の中に横たわる茶色い石の柱のようなものが軍船の帆柱で、「名島帆柱石(なじまほばしらいし)」と呼ばれている。「ホントですか?!」ということになるが、本当のわけがない(爆)。そりゃ常識で考えたら分かるだろう。しかし、これは岩ではなく、本当の木なのである。

 帆柱石の解説板によれば、今から3500万年前の「珪化木(けいかぼく)」という樫の一種が化石になったものらしい。香椎宮に伝わる言い伝えでは、神功皇后の軍船の帆柱が化石になったとされているようだが、実際には神功皇后なんかよりも遙かに古い貴重な化石なのである。

 そんなわけで国の天然記念物に指定されているらしいが、こんな剥き出しの状態で波打ち際に放置していていいんだろうか。誰かがいたずらしたら大変なことになると思うが・・・。

 実は神功皇后関係の旧跡はこれだけではない。すぐそばにもう一つ「緑の石」というのがある。

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 石というより岩なのだが、これは三韓征伐から戻った神功皇后が、上陸してここに座り休んだという謂れの石である。その後に神功皇后は応神天皇を生んでいるので、この石に妊婦が祈願すれば安産になると伝えられている。ちなみに、神功皇后が応神天皇を生んだのは、多々良川の上流の糟屋にある「宇瀰(うみ)」という土地だとされている。この地名は今でも糟屋郡宇美町として残っている。

 しかし、以前姪浜に行った際に書いたが、神功皇后が凱旋したのは姪浜のはずである。朝鮮半島に向けて出航したのも姪浜である。ではどうして、ここに神功皇后が座った石があるのか。まぁ突っ込めば色々矛盾が出てくるのが古代史というものだろう。これ以上の詮索は止めておこう。

 さて、一応見るべきほどのものは見たので、そろそろ帰ることにしよう。帰路は多々良川沿いの遊歩道を南に向かって歩き、名島橋まで戻る。海岸から離れると潮干狩りの人々もいなくなり、静かな河畔を一人歩く。

 こうして見ると、あまり期待もしなかったが、いざ来てみると見るべきものは色々あるものだ。散歩の楽しさというのは、こういう小さな発見の連続にあるのだろう。

 さて、来週はどこに行こう。いやその前にまずは天気だ。来週もまた好天に恵まれるよう、今のうちから神功皇后にでもお祈りをしておこう(笑)。
posted by OhBoy at 23:09| 日記