2011年04月23日

地行で河童を思う

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 今朝は起きたらどんよりとした曇り空。でも雨は降っていない。福岡は昨日から天気が下り坂で、前線が通過するのに伴って荒れ模様になるという予報だった。昨夜は風も強くて雨の音が聞こえていたから、夜のうちにまとまった雨が降ったのだろう。

 前線の通過で冷たい空気が入って来ているらしく、ひんやりとしているうえ、風がたいそう強い。そうはいっても4月も下旬に入ったので、寒いというほどではない。桜が咲いて以降、一時的に気温の低い日もあったが、一気に春めいてコートとは完全におさらばした。散歩には良い季節になったというわけだ。願わくばこの気候が入梅までは続いて欲しい。

 完全に雨が上がったどうか分からなかったので暫し迷ったが、いざとなれば乾燥機にかけようと洗濯を始める。後で天気予報を見ると明日は雨マークが付いているから、結局明日に洗濯を回すという選択肢はなかったわけだ。

 そうこうしているうちに空が明るくなり、時折日が差すようになった。これで何とか洗濯物を外に干せるわけだ。そう思っていたら昼頃になって一転にわかに空が掻き曇り、ざっと雨が降る。すんでのところで洗濯物を濡らすところだった。冷たい空気が入って来ているせいか、晴れ間が覗くことがあっても、天気は不安定らしい。

 その後も雲が広がる中を遅めのスタートで短めの散歩に出掛ける。またもや一降りあるかもしれないので、西新あたりまで歩いて本屋でも冷やかして帰ろうかという程度の行程である。散歩の起点は地下鉄空港線「唐人町駅」の黒門橋交差点とする。

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 交差点から黒門川通りを北に上がって行く。前にも書いたが、ここの道路の下には黒門川が暗渠となって流れている。元は海の一部だったのを、黒田長政が福岡城を築城する際に埋立てて作った人工の川である。黒門橋の交差点の南からは暗渠が外に現れ、そのまま大濠公園に注いでいるのが分かるが、黒門川通りを歩いていても川があるとは全く気付かない。歩道沿いには、申し訳程度に人工の小川が作ってあり、かつての黒門川の面影を今に伝えようとしている。

 江戸時代には、この黒門川で福岡城内と城外とが分けられていた。いわば境界線の川であり、そこに黒門橋が架けられ、城内に向かう入り口に黒門が設けられた。黒門から唐津に向かって唐津街道が延びていたわけで、それは今の唐人町商店街がある場所だと伝えられている。

 当時は黒門川沿いには松並木があって「松土手」と呼ばれていたらしい。現在歩道脇に植えられている街路樹のいくつかは松であるが、これはおそらく松土手をイメージしてのことだろう。そうでなければ街路樹に松は植えない。手入れが大変だし、害虫にやられる心配もある。わざわざ植えてあるというのは意味のあることなのだが、おそらくここを通る人のほとんどは、その意味に気付いていないのではないか。

 黒門川通り沿いに唐人町商店街から少し北に歩くと、通りに面して「当仁小学校」がある。この漢字で「とうじん」と読むのかと思ったら「とうにん」が正解らしい。門の脇のアルファベット表示がそうなっていた。唐人町に当仁小学校というのは不思議な名前の組合せだが、理由はよく分からない。

 そもそも唐人町という名前はどこから来たのだろうか。中華街があるわけでもないので奇妙な感じがする。定説はないらしいが、元寇に由来があるという説が比較的面白い。

 鎌倉時代に「文永の役(ぶんえいのえき)」、「弘安の役(こうあんのえき)」と二度の蒙古襲来があったわけだが、攻めて来たのはモンゴル軍と、既にモンゴルの属国に成り果てていた高麗の軍の混成軍団であった。壱岐・対馬で住民を残虐な方法で皆殺しにしたモンゴル軍に対して、日本の武士団は情け容赦がなく、捕虜は取らずに皆殺しにしたが、昔交流のあった高麗軍の捕虜だけは殺さずに浜辺に住まわせたという。この高麗人が住んだ居留地が唐人町というわけである。

 さて、当仁小学校前には先ほどの小川が注ぐ小さな池が設けられており、かわいらしい河童のモニュメントがある。

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 脇に説明板があり、「せせらぎがっぱ」と命名されているらしい。モデルとなったのは、お隣の地行地区に伝わる「河童の松物語」の河童だという。

 福岡市内には河童にまつわる話が多いが、地行にも河童が主人公の昔話がある。説明板に紹介されているが、この東隣の伊崎に住んでいた酒好きの漁師嘉兵衛と、同じく酒好きの河童の話である。酒を飲みながら漁をしていた嘉兵衛にいたずらをした河童が懲らしめられ、松の木に縛り付けられたというストーリーで、人と河童が共存する世界の平和な物語である。ただ、話からすると主人公の河童は海にいたことになり、ちょっと珍しいなぁと思う。元々河童は川に棲む妖怪だ。

 私は妖怪について詳しいわけではないが、河童は川辺の水死者が変化した存在と考えられている。海で亡くなった者は河童ではなく舟幽霊になる。夜の海に現れて「ひしゃくをくれ」と船に取りつく亡霊である。言われるがままにひしゃくを貸すと、こちらの船に水を汲み入れ沈められてしまうので、船乗りは底を抜いたひしゃくを船に備えていたという。

 しかしこの北九州では、壇ノ浦の合戦で亡くなった平家の武者の魂が姿を変えたのが河童だという言い伝えがあるとも聞く。それなら海の河童でもおかしくないというわけか。それにしても、嘉兵衛さんの酒を掠め取ったのが平家の武者の霊というのは、何ともミスマッチで面白い。挙句に松の木にくくりつけられたのでは平家の面目丸つぶれだろう(笑)。

 そんなことを考えながら、黒門川通りとよかトピア通りとの交差点で西に曲がり、今度はよかトピア通り沿いに進む。暫く行くと「菰川(こもがわ)」に差し掛かるが、川を渡った先が地行地区である。

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 よかトピア通り沿いに植えられたイチョウの若葉が美しい。天気の方は次第に下り坂になり、パラリと雨が舞ったように感じたが、曇り空に新緑が映えて鮮やかだ。それにしても風はやむことなく吹いている。今日は一日こんな感じなんだろうか。

 黒門川通り沿いにあった福岡市設置の史跡案内板では、地行の河童の物語はこの辺りの話として解説してある。河童をくくりつけた松など、今残っているはずもないし、そもそも架空の昔話だ(笑)。具体的な地点などどうでもよいのかもしれない。

 でも有名な話なのだから、舞台となった地行地区のどこかに河童の像でも作って、「河童の松物語」のストーリーとともに展示すれば、それなりに人気スポットになる気もする。地元の人ほど観光資源に気付いていないものらしい。

 河童の像といえば、昨年暮れに室見川の上流を散策したときに「河原橋」の欄干に河童のモニュメントがあったのを紹介したことがあった。橋のたもとの解説板には、昔その辺りに河童がたくさん棲んでいたという伝説をもとにしたデザインだと説明されていた。

 河原橋の河童はこんな河童だった。

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 何ともユーモラスで、付近ののどかな景観と妙に合っていた。妖怪変化の類は、科学の発達していない昔にあっては人々の恐怖の対象で、河童も人を水に引き込み、肛門を抜いて殺すとされていた。そのわりには昔話で河童は人と相撲を取ったり、何かの競争をしたりして、共存して生きている。そのうえ、人間に負かされてあやまったり、善行を働いたりする不思議な存在だ。

 東京の浅草近くに合羽橋という調理道具などを専門に扱う問屋街があるが、ここにも河童の伝説があり、問屋街の一角に河童の像が飾られている。

 江戸時代に川の氾濫に悩まされていたこの地区で、私財を投げ打って住民のために河川整備を行った商人「合羽屋喜八」に対し、付近に棲んでいた河童が夜ごと手助けして工事を完成させたという言い伝えがあり、合羽橋のマスコットは今でも河童ということになっている。これなどは河童が善行を施した典型だろう。

 そうそう、もう一つ福岡で河童の話を紹介したことがあった。姪浜の旧唐津街道沿いにある「住吉神社」を訪ねたときだ。この河童は漁師にいたずらしたといった類ではなく、日本神話にからんで登場する神話時代の河童だ。

 日本神話の国産み・神産みの話に出て来る「イザナギ(伊弉諾)」が、黄泉の国を脱出し現世に逃げ帰ったときに、黄泉のケガレを落とすために「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」で禊を行うのだが、この禊の場所を探すに当たり道案内をしたのが河童だという伝説があり、その河童を住吉神社が祀っている。神話時代に河童がいて、神様の道案内をしたという発想が何とも面白い。人が生まれる前に河童ありきということか。

 その住吉神社に祀られている河童の像がこれだ。

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 どの河童もユーモラスで子供に親しまれやすいイメージになっているが、私が訪ねた先だけでも福岡市内に三つも河童の話が伝わっているのだから、昔から河童と博多っ子は親しい存在だったということだろう(笑)。

 史跡のようなものは残っていないが、福岡の中心部の大名地区にも河童の伝説がある。これは中央区が開設するサイトで「鷹取養巴と手を切り取られたカッパ」の話として紹介されている。

 大名1-2丁目界隈に屋敷を構えていた福岡藩医鷹取家に伝わる話で、夜の厠に出ていたずらをした河童が手を切り取られ、手を返してくれと、藩医の「鷹取養巴(たかとりようは)」に頼みに来る話である。河童は切れた手をつなぐ秘法を教える代わりに手を返してもらい、養巴は傷薬の製法を教わるというストーリーになっている。ちなみに、何代目かの鷹取養巴は、幕末に尊皇攘夷を唱えて月形洗蔵らとともに捕らえられ、桝木屋刑場で斬首されている。

 おそらくは探せばほかに河童の話が色々あるのだろうが、福岡に限らず北九州全域にわたって河童の伝説は多いようだ。私が見た中では、福岡市から南東に行った「田主丸町(たぬしまるまち)」が河童伝説のメッカのようだ。理由はよく分からぬが、近くに筑後川が流れているからだろうか。この町はたくさんの河童伝説を抱えているせいか、JRの駅自体が河童の顔をデザインして出来ている。福岡なんかとは気合の入り方が違うようだ。

 さて、空模様を気にしながら暫く行くと、今度は「樋井川(ひいがわ)」を渡る「百道浜橋(ももちはまばし)」に差し掛かる。このブログに何度か書いたが、現在歩いているよかトピア通りは、昔海岸沿いの浜辺だった。いたずらをした河童を縛り付けた松があったのは、この海沿いの松林の一角ということだろう。

 当時をしのぶ碑が百道浜橋のたもとにある。

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 何も知らない人が見たら、ビックリするような記念碑だ。おまけに、海水浴場だった頃の写真まで飾られている。この辺りが埋め立てられたのはいつ頃だろうか。ここで子供の頃に海水浴をした記憶のある人が今何歳くらいなのか知らないが、時の流れにつれていつか忘れ去られる場所なんだろうなぁ。

 昔の海岸線を西にたどり、次の西新通りの交差点で南に曲がる。この交差点に以前紹介した「磯野公園(いそのこうえん)」がある。「サザエさん発案の地」というヤツである。

 サザエさんの作者の長谷川町子は佐賀県の出身だが、小さい頃に父親の仕事の都合で福岡市に引っ越して来た。ところが父親が亡くなり、一家は叔父を頼って一旦東京に移り住む。このとき長谷川町子は「のらくろ」で有名な漫画家の「田河水泡」に弟子入りしている。その後、昭和19年に再び一家は福岡市に戻ってくる。そして福岡での新しい家があったのが西新であり、家の裏が百道浜だった。当時は先ほどの場所も立派な海水浴場だったのだろう。

 彼女は妹と浜辺を散歩しながらサザエさんの構想を練る。そして昭和21年に福岡の地元紙「夕刊フクニチ」に連載を開始したのが漫画「サザエさん」である。登場人物が全て海にちなんだ名前になっているのは、この百道の浜辺を散歩しながら構想を練っていたがゆえである。

 「サザエさんうちあけ話」という長谷川町子の自伝エッセイに載っているその下りが、磯野公園に石版の形で転載されている。

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 私がここまで歩いて来た道を、まだ浜辺だった時代に長谷川町子も歩いたわけだ。1km先に海岸線が移った現在では波の音すら聞こえないが、この散歩道があの国民的漫画を生んだ場所だというのは何とも感慨深い。

 さて、ここまでくれば西新まではあと少しである。西南学院大学や修猷館高校を横目で見ながら南に5-600mほど下って西新地区に出る。この西南学院大学の構内を元寇防塁が通っているので、鎌倉時代の海岸線は更に内陸寄りだったということだろうか。

 以前にも立ち寄ったが、地下鉄空港線西新駅の脇に「西新緑地」という小さな公園がある。ここに右翼の巨頭「頭山満(とうやまみつる)」の碑があることはそのとき紹介した。石碑の後ろにそびえる楠の大木は、頭山自身が生家の庭に植えたものをここに移植したと、早良区のサイトに解説がある。頭山の生家は、通りをはさんだ向かい側にあったとされる。

 この緑地にはもう一つ大きな石碑がある。「筒井條之助記念碑」である。

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 こんな立派な石碑が建っているわりには、この筒井條之助という人は一般に知られていない。地元早良区の開設するサイトによれば、西日本新聞社の前身である「九州日報社」の記者らしく、大正時代に西新が福岡市に編入されるのに尽力したようなことが書かれている。驚くべきことだが、この石碑の字を書いているのは「五・一五事件」で暗殺された犬養毅首相だ。

 頭山満の石碑の脇に新聞記者の碑が立ち、犬養毅が筆を取っているのは何とも不思議に思われるだろうが、両者の関係が分かればなるほどと思う。頭山満は母方の実家頭山家に養子に出た身で、元の姓は筒井である。そして、筒井條之助は頭山の甥にして娘婿という関係になる。更に、頭山満と犬養毅は真の盟友として親しく交わった仲だ。謎が解けてみればな〜んだということになるが、二つの石碑の関係を知っている人は意外に少ないのではないか。

 さて、頭山の生家だった場所に建つ「プラリバ」でのんびりと本を物色する。自分の生家がこんな建物に変わってしまって、頭山満は草葉の陰でどう思っているのだろうか。

 その後、明治通り沿いを東に歩き、スタート地点の唐人町を目指す。明治通りも街路樹の新緑が鮮やかだ。散歩を始めてからずっと曇り空だったが、ようやく雲の間から陽の差す空模様となった。もう少し前からこうだったら、散歩も気持ち良かったろうに・・・。まぁ雨が降らなかったことだけで良しとせねばなるまい。

 明治通り沿いには、貝原益軒・東軒夫妻が眠る「金龍寺(きんりゅうじ)」や、「漢委奴国王」の金印発見で有名な福岡藩西学問所甘棠館館長亀井南冥の墓がある「浄満寺(じょうまんじ)」などがある。これらは既に紹介したから、今まで写真を載せたことがない「平野神社(ひらのじんじゃ)」に立ち寄ろう。

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 ここに祀られているのは、いわゆる神ではなく「平野国臣(ひらのくにおみ)」という幕末の福岡藩士である。平野国臣は福岡藩の勤王派で、家老の加藤司書を筆頭に、藩士の月形洗蔵、中村円太らと、幕府を倒し尊皇攘夷を推し進めようとした。

 勤王派の動きに神経を尖らせた幕府は、当時の福岡藩主「黒田長溥(くろだながひろ)」を責め、勤王派を取り締まらせた。これにより主要メンバーを含めて百数十名が捕らえられ、加藤司書は切腹、月形らは桝木屋刑場で処刑された。これを「乙丑の変(いっちゅうのへん)」と呼んでいる。しかし、平野国臣はこれに連座したわけではなく、その前に脱藩して同行の士と共に但馬生野で倒幕のために挙兵し、捕らえられて京都の六角獄で処刑された。

 平野神社が建つのは、この平野国臣の生家があった場所である。過激な言動と奇妙な格好で有名だったというが、神社が出来るほど慕われていたということだろうか。ちなみに、西公園にある光雲神社参道を少し下ったところにも「平野二郎国臣像」という銅像が建っている。

 そういえば、平野神社の近くには、東方会総裁で衆議院議員だった「中野正剛(なかのせいごう)」の銅像もある。これもなかなか立派で目立つ存在だ。中野正剛は西公園の南側にある荒戸地区の生まれで修猷館中学に学んだ。戦時中、東條英機首相に反発して痛烈に批判、憲兵隊によって逮捕され、後に割腹自殺している。

 福岡には熱い志の人が多いんだなぁ。

 ようやく晴れ始めた中を歩きながら、この天気が明日も続いてくれればと思うが、天気予報によれば明日はもう下り坂らしい。下手すれば家でお籠もりの週末となるのだろうか。

posted by OhBoy at 23:27| 日記