2011年06月11日

雨の日に青空文庫

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 昨夜は激しい雨音で、何度か夜中に目が覚めた。夕方から随分と降っていたが、どうやらそれは前奏みたいなものだったらしい。今朝はさすがに小降りになっていたが、朝ご飯を食べ終わって暫くすると、再び雨脚が強まり出す。下手をすればこの土日は家に釘付けだ。

 この感覚、以前にもあったなぁと思ったら、5月の終わりの週末がちょうどこんな感じだった。土日とも雨にたたられて読書して過ごしたんだった。あのときは梅雨ではなかったが、季節外れの台風が来ていた。昨日からの天気予報を見る限り、この週末も同じ運命をたどるおそれがある。

 取りあえず朝から洗濯をする。乾燥機があるからこそ、こうして天気を気兼ねせず洗濯ができるのであって、乾燥機なしのまま週末に雨に降られると、単身生活者は困ってしまう。平日にいくら天気が良くても、朝洗濯物を干して仕事に出掛けるのは不安がある。突然雨が降ったら取り込めないままずぶ濡れになるだろうし、風が吹いて洗濯物が飛ばされても、夜帰って来て真っ暗な中を探しに行けない。懐中電灯持って路地をウロウロしていたら、ご近所から警察に通報されかねない(笑)。

 洗濯物を乾燥機にかけてから、ワイシャツをアイロンがけする。今週から半袖シャツにしているので、その分手間が省ける。ワイシャツのアイロンがけはけっこう適当にやっているのだが、それでも何枚かかけると、袖のあるなしで費やす時間はハッキリ変わるものだ。

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 その後パソコンを立ち上げてメールをチェックし、ついでにニュースサイトをはしごする。私は新聞を取っていないものだから、週末はインターネットが頼りだ。テレビのニュースは定時にしかやらないし、時間が短いのでトピック的な話題しか取り上げられない。その分インターネットのニュースは、世界中の全分野を網羅しているので、興味のあるものを選んで短時間で効率よく見ていけ、たいそう便利だ。テレビニュースは受け身だが、インターネットのニュースは能動的だと思う。

 そうこうしているうちに昼になる。雨は上がり、心なしか空が明るい。もしかしてこのまま午後は天気が良くなるのではないかという期待が湧く。昼の天気予報を見ると、梅雨前線が少し南に下がったらしく九州南部は激しい雨が降っている様子だ。ただ、福岡の天気は午後から雨マークになっており、この曇り空は雨雲のつかの間の休息といったところかもしれない。

 食材は昨晩のうちに買って来てあるので、買い物に出掛ける必要はない。昼飯はそばを作ることにする。温かいそばにしたのだが、そろそろざるそばでもいいのかもしれないと、作ってから思う。後悔先に立たずというヤツだ。

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 食事が終わっても雨は降り出さず、相変わらず空は明るめなので、どうしたものかと判断に迷いつつ、パソコンを立ち上げて天気予報を確かめる。以前、こうした雨の合間に散歩に出掛けて、15分ほど歩いたところで猛烈な風雨に見舞われ、泣く泣く戻って来たことがあった。雨の合間の天気は実にたやすく崩れることを、そのとき思い知ったのだ。

 もう暫く様子を見るかと思いながら、久し振りにインターネットで「青空文庫」に接続する。聞いたことのない人も多いかもしれないが、青空文庫はインターネット上にある電子図書館で、著作権の切れた小説やエッセイなどの文学作品を読むことが出来る。

 「青空文庫」 http://www.aozora.gr.jp/index.html

 ボランティア諸氏の長年の努力により、膨大な数の本がアップされていて、ちょっと読み始めると時間がたつのを忘れる。著作権切れの作品が主体なので、最近刊行された本はもちろん掲載されてないのだが、例えば、夏目漱石や芥川龍之介、森鴎外、太宰治などの文豪、北原白秋、中原中也などの詩人、尾崎放哉、種田山頭火などの俳人といった、教科書に登場した昔懐かしい作家の作品に出会える。他にはわずかだが、紫式部の源氏物語現代語訳や鴨長明の方丈記などの古典作品、オー・ヘンリー、ロマン・ロランなどの外国作家の作品もある。

 青空文庫は1997年にスタートしたサイトで、以前は物珍しさも手伝ってけっこう訪問していたのだが、最近はとんとご無沙汰している。それが何故突然接続したかというと、掲載作品数が1万点を超えたというニュースが、朝方見ていたニュースサイトにあったからだ。へぇ〜と思って久し振りに接続したら、懐かしさのあまり、ついつい読み始めてしまった。

 このサイトに来てよく読むのは、高校生の頃に愛読していたような作品とか、買ってまで読もうとはしない評論やエッセイなどだ。いずれも時代の評価を潜り抜けて来た作品だけに、社会人になってから改めて読み直してみると、高校生の頃に読んだのとはまた違った感動がある。

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 今回は、高校生の頃よく読んだ芥川龍之介と中島敦の作品に目を通したあと、ちょいとロマン・ロランのジャン・クリストフを拾い読みする。これはかなり長い小説なのだが、大学生の時に全巻買って読んだ覚えがある。ベートーヴェンをモデルにした作品で、ロマン・ロランはこれでノーベル文学賞を受賞した。確かこんな場面があったなぁと思って探したが、見つからず断念。でもさすがに今では、これを最初から通読する元気はないな。

 その後は種田山頭火の「草木塔」を読む。山頭火は、尾崎放哉と並ぶ自由律俳句の代表的存在で、出家して各地を旅して句を残した。山頭火を一人の人間として見れば、充分人間失格と言える破滅型の人物だが(笑)、彼が旅の途中に詠んだ句には、何故か惹かれるものが多い。

 私は天気が良ければ週末に色々なところを散歩しているが、郊外の自然の中を歩いていると、ふいに山頭火の句が思い浮かぶことがある。彼もこんなふうに一人で自然の中をあてどなく歩いていたのかなと思う。彼の句の中に共鳴するものがあるとすれば、その行乞流転の旅の中で彼が見たものと、私が散歩の途中で感じることとが、どこかしら重なり合っているのだろうか。


  落ちかかる月を観てゐるに一人

  まつすぐな道でさみしい

  また見ることもない山が遠ざかる

  うしろすがたのしぐれてゆくか


 いずれも草木塔に収録されている句だが、これらの句を読むと、山頭火が鄙びた土の道を歩いている姿がふっと心に浮かぶのである。そして週末の散歩の中で、私もまた同じような鄙びた道を選んで歩いている。仕事を捨て、家族を捨て、何もかも捨てて自由の身になった山頭火は、何にも縛られずあてどなく旅をして、自然を見、句を詠んだ。彼のような境地に達することは決してなかろうが、無心に歩き、曇りのない目で自然を見たいという願望は私にもある。


  山あれば山を観る
  雨の日は雨を聴く
  春夏秋冬
  あしたもよろし
  ゆふべもよろし


 久し振りに草木塔を読んで、少し外を歩きたくなった。夕方になっても雨は降り出さないので、傘を持って出掛けることにする。

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 山頭火を気取って自然の中を歩こうとすればかなり遠出をしなければならないので、海辺に出ることにした。百道浜の方に行くか福浜の方に行くか迷ったが、福浜の方が人がいないだろうと考えて、福浜緑地を目指す。

 少しひんやりとして、昨日とは空気が違う。現在福岡は梅雨前線の北側になっているので、大陸から冷たい空気が入って来ているのだろう。福浜団地の中を通って、道路脇の遊歩道に入り、高速下のゲートを通って浜辺に出る。

 私を出迎えてくれたのは三匹の野良猫だけで、浜辺に人はいない。いつもならちらほらと浜辺を歩く人を見掛けるが、こんな天気の中をわざわざ散歩する人なんていないんだろう。

 雨が上がっているので、遠くにうっすらと志賀島が見える。雲は低く垂れ込め、島の上辺にかかっている。風があるせいか、波に少々勢いがあり、海の色もどんよりとくすんでいる。初夏なのに、風景自体が少し寂しげだ。

 誰もいないと思って波打ち際まで来ると、大きな水鳥が慌てて飛び立つ。打ち寄せられた物の中に餌でも見つけたのだろうか。彼が飛び立った辺りを見ると、大きな流木が濡れて横たわっていた。

 沖を見やりながら、波打ち際を暫し歩く。こんな海岸を僧衣姿の山頭火が歩いていた姿を想像する。彼のような破滅型の放浪俳人が、多くの人から今なお愛される理由はいったい何だろう。

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 そうこうしているうちに空が次第に暗くなって来たので、再び雨が降り出す前に家路を急ぐことにする。ゲートのところで猫たちにお別れの挨拶をする。彼らもまた、帰る家も家族もなく、無一物で浜辺を放浪する身だ。時折浜辺を訪れた人間たちに餌を貰ったりするのだろうが、それもまた、施しを受けながら流転の旅を続けた山頭火と同じだ。唯一の違いは、山頭火が自然と向き合いその美しさを愛でたのに対して、猫たちはその自然の一部だということだろう。


 けふもいちにち風をあるいてきた

 わがままきままな旅の雨にはぬれてゆく


 さて、明日の天気はどうなることだろう。少しの間でも雨が上がって散歩が出来ればいいのだが・・・。

posted by OhBoy at 23:22| 日記