2011年06月18日

雨の中の散歩

11061801.jpg

 今朝起きて窓の外を見ると、地面が濡れて霧雨が降っている。今日は一日雨が降ったり止んだりの天気らしい。しかし幸い、先週末や週央みたいな激しい雨はなさそうだ。

 それにしてもよく降った。土砂降りの雨の日もあったし、九州南部では一部の地域で避難勧告まで出されたらしい。東日本大震災が起きるまではたびたびニュースに登場していた霧島連山の新燃岳噴火は、ニュースにこそ出なくなったものの、その後も活動を続けており、雨が降ると土石流や泥流が発生する危険性が高まると聞いた。福岡市内ではそういった類の危機感はないが、以前に博多駅周辺の街区が、氾濫した三笠川の水で大規模に浸水し、人が亡くなる惨事があったので、あまり安穏ともしておられない。

 ところで、福岡に来て意外だったのは、この街は渇水の心配があるということだ。毎年梅雨の末期に梅雨前線が北に抜けていく際、九州北部が激しい雨に見舞われ、山間部で土砂崩れなどが起きるというニュースをたびたび耳にするので、梅雨時に降雨量が足りなくなるなんて思ってもみなかった。

 実は入梅前の福岡では、この夏、水が足りなくなるのではなんて話題がそこここで聞かれていた。水源地の水位がかなり下がっているらしいという噂も聞いた。意外に思って尋ねたら、福岡は水源の取り方に問題があるなんて、したり顔で解説してくれる人までいた。でも今回の大雨で、さすがにもう水不足の心配はあるまい。仮に、これだけ降っても水不足の心配があるなんて話になったら、それこそ水源の位置に大いなる問題があるのだろう。

11061802.jpg

 さて、空模様から言えば、本日も家にこもって読書となるはずだが、どっこい今日は天神まで行かなくてはならない用がある。仕方ないので、空模様と相談しながら出掛けることにする。いわば不本意な散歩だ。

 午前中は洗濯とアイロンがけに費やす。洗った物を外に干すわけにもいかないので、3週連続で乾燥機の登場となる。こういう天気に見舞われ続けると、乾燥機が如何に偉大な存在かが分かる。

 ワイシャツは半袖なので、アイロンがけも比較的簡単だ。最近の気温は低めなので、長袖でも問題ないし、現に長袖のワイシャツの人を多数見掛けるが、アイロンをかけなければならないことを考えると、ついつい半袖のワイシャツを選んでしまう。更に言えば、いっそアイロンがけをしなくてもいいポロシャツの方がどれだけ楽かとも思う。如何に面倒臭くない生活を心掛けるかというのが、私の単身生活道であり、そんなことだから生活能力がないと言われるのだろう。

 そうこうしているうちに昼になり、スパゲティーなんぞゆでて手早く昼ご飯を食べると、傘を持って出掛けることにした。雨は、どしゃ降りとまではいかないが、しっかりした量降っている。こんな日に、歩いて天神まで出掛ける人なんて、めったにおるまい。

 天神まで歩くなると、明治通りを真ん中にして、北の港沿いのコースか、南のけやき通りコースか、はたまた大濠公園と福岡城址を突き抜けたあと明治通り沿いを歩く平凡なコースの中から選ぶことになるが、雨も降っていることだし、最短となる大濠公園・福岡城址から明治通りに抜けるコースを選ぶことにする。このコースは最近ご無沙汰していることもあるし、ちょうどいい。

 毎度お馴染みの大濠公園からスタートする。

11061803.jpg

 当たり前のことながら、雨の大濠公園を散歩する人はあまりいない。ジョギングする人も自転車に乗る人もたまに見掛ける程度で、休日の大濠公園としては異例の静けさだ。いつもは賑わう児童公園も、人っ子一人いない。人が少ないせいか、天気が良ければ群を成して餌をねだっている水鳥もまばらだ。

 公園入り口から東向きに池の周辺を回り、舞鶴公園に抜ける。お花見の時期にはたくさんの人で賑わった芝生広場も、傘を差して歩く人が一人二人遠くに見える程度で、ほぼ無人である。しとしと雨が降る中を、ゆっくりと一人歩く。雨に洗われた芝生の緑が美しい。こんな散歩も変わっていて面白いかもしれない。

 普通はこのまま名島門から福岡城址側に抜けるのだが、今日は芝生広場の中を歩いて北側の道を取り、「潮見櫓(しおみやぐら)」の脇を通って、平和台陸上競技場の北側へ出ようと考えた。このコースは初めて通る道だ。

11061804.jpg

 潮見櫓のある場所は福岡城址の北端に当たり、お堀に面している。位置的には石垣の上なので、お堀を見下ろす形になる。潮見櫓は、明治通りからよく見えて、福岡城址のシンボル的存在だ。

 元々福岡城は50近くの櫓を備えていたというが、現存するのはわずか4、5ではなかろうか。潮見櫓は福岡県指定文化財になっているが、元々この場所にあったのではないらしい。どうして場所が変わったかというと、廃藩置県後、黒田家が城を出て行って、浜の町に別邸を構えた際、櫓を解体してそこに移築してしまったのだ。やがて昭和になって櫓を城に戻した際、元の場所ではなくここに移されたという。

 この潮見櫓についてはもう一つおまけの話があって、実はこれは元々福岡城に置かれていた潮見櫓ではないらしい(笑)。平成になってから調査した結果、別の櫓が誤って潮見櫓と伝えられ残っているようだ。だとすればこの櫓、元は何櫓だったのだろうか。

 そんないわくつきの櫓を横目で見ながら通りを渡り、平和台陸上競技場へ向かう。次第に雨脚が強くなって来たが、競技場では黙々と練習に励む選手がいる。何とも立派なことだ。

 この競技場の敷地の片隅には、こんな記念碑がある。

11061805.jpg

 これは明治時代に旧陸軍の歩兵第24連隊がこの場所に駐留していたことを示す碑である。この歩兵連隊は、日清戦争や日露戦争にも出動した由緒ある部隊のようだが、明治35年にこの地で原因不明の爆発事故に巻き込まれている。

 あるとき、火の気のない櫓の一つが突然爆発し、近くにいた兵士が死亡したのだ。一般人が立入りを禁止されていた駐屯地内での出来事なので原因は詳しく分からないが、歩兵連隊が駐留する前に何らかの事情で持ち込まれた火薬類が櫓の地下にあり、自然発火したのではないかと言われている。といっても、それは推理の一つに過ぎず、真相は謎に包まれたままだ。

 この辺りは、江戸時代には城があり、明治時代には歩兵連隊の駐屯地があって、何かと戦いのイメージがつきまとっていたが、戦後になり、そうしたイメージを一掃しようと「平和台」の名前が付いたと聞く。従って、競技場の名前も平和台なら、隣にあった球場の名前も平和台となった。この辺り一帯をまとめて、平和台総合運動場と言っていたようだ。平和な場所だったからではなく、平和でない場所だったから、願いを込めてそうした名前になったわけだ。

 さて、その競技場の北側に、一般人も走れるようにコースを切った歩道があるが、今日は誰も歩いていない。その脇からは眼下にお堀が見えるはずだが、木が鬱蒼と茂っていて、枝の間からわずかに明治通りが見下ろせる程度で、眺望はきかない。せっかくお堀の上に来ているのに、ちょっとがっかりだ。

 暫し歩くと、巨大な岩に彫り付けられた万葉歌碑がある。

11061806.jpg

 今よりは
 秋づきぬらし あしひきの
 山松かげに ひぐらし鳴きぬ

 天平年間に新羅の国に派遣される予定で大和を旅立った使節の一行が、ようやく筑紫の館に着いた時に詠んだ歌で、故郷に残してきた家族を思い嘆いたという内容だ。傍らの解説板によれば、一行は、秋になれば故郷に帰って来るからと家族に言い残して出て来たのに、秋になっても新羅に渡れず、やっと筑紫の館に着いたところだという状況らしい。

 ここに出て来る筑紫の館というのは、当時大和朝廷がこの場所に設置していた外交施設で、今で言えば出入国管理事務所のような機能を持っていたという。日本書紀では「筑紫館(つくしのむろつみ)」という名前で登場し、唐などから来た使節を迎える受入れ施設であると同時に、日本から大陸に渡る際の出発地でもあった。

 やがて遣唐使が送られる時代になると筑紫館は「鴻臚館(こうろかん)」と呼ばれるようになるが、機能はほぼ同じで、この場所から山上憶良や阿倍仲麻呂、吉備真備らが唐に渡った。

 ちょうどこうして歩いている場所が鴻臚館のあったところで、下の写真の草地に当時の建物の遺跡が眠っている。

11061807.jpg

 ちなみに、この柵の中が昔の平和台球場である。古代の外交施設として場所が特定され、遺跡が発見されているのは全国でもここだけなので、実はもの凄く価値のある遺跡の上で野球をしていたわけだ(笑)。

 向こうに見える建物は、鴻臚館の発掘現場を保存した展示場で、無料で見学させてくれる。ボランティアのガイドさんもいて、親切に解説してくれるので、貴重でお得な観光ポイントだと思うが、ほとんど宣伝していないせいか、いつ行ってもガラガラだ。修学旅行の学生諸君は、太宰府天満宮に行ってお参りするよりも、ここで古代史を勉強した方がよっぽど学問が成就すると思うんだが、みんな神頼み優先なんだよなぁ(笑)。

 さて、ここで公園は終わってしまうので、この先は明治通り沿いを歩くしかない。平和台の交差点に下りて、歩道を進む。最初はそうでもなかったが、赤坂の駅を過ぎる辺りから人が多くなり、お互いに傘を差しているのですれ違うのに苦労する。前を歩いている人が多少遅くとも追い越しにくいし、ホントに雨の日というのは歩いていてストレスが溜まる。

 数百メートル歩いたところでうんざりして来て、西鉄グランドホテル脇を折れて、新天町の商店街に入る。ここはアーケードになっていて、この先天神まで濡れることなく歩ける。しかし、そう考えるのは私だけではなく、これといって売りのない商店街にもかかわらず(笑)、けっこうな人ごみである。

 西鉄の福岡天神駅のところまで行き、そこから地下街に潜る。これで暫し雨から開放される。ところで、この地下道の一角に壁が石垣のようになっているエリアがあるのをご存知だろうか。

11061808.jpg

 ここは8番街の「石積みの広場」と呼ばれている場所だ。ここを通る人は単なる装飾と思っているだろうが、おっとどっこいそういうわけではなく、実際にここに石垣があったので、こうした内装を施してあると聞く。

 江戸時代の福岡城のお堀はかなり広大で、今の大濠公園ももっと大きく、おまけにお堀は東側に長く伸び、今の那珂川まで達していたようだ。従って、天神地区も堀で南北に二分されていたわけで、その名残がここということになる。つまり江戸時代にはこのエリアは水の中だったわけだ。

 元々は堀に沿って石垣は組まれていなかったが、大雨で土手が崩れたため石垣を築くことになり、工事は肥前の佐賀藩が引き受けたとされている。従って、出来た堀は「肥前堀」と呼ばれた。

 黒田藩の石垣建築を何故佐賀藩が引き受けたかには裏話がある。

 関ヶ原の戦いで、佐賀藩の鍋島家は西軍について石田三成に味方をした。お蔭で徳川方の意向でお家取り潰しの危機に見舞われ、慌てた鍋島家は、黒田如水を頼って取り成しを依頼する。さすがに戦国時代屈指の軍師だった黒田如水は巧みに家康に取り入り、佐賀藩は何とかお家安泰を得る。その恩義に報いるため佐賀藩が堀の工事を引き受けたと伝えられている。

 天神地下街の装飾一つにも歴史があるわけだが、きっと福岡の人はそんなこと知らんのだろうなぁ(笑)。

 さて、用を済ませた後、どうせ来たのだからと、地下道を散歩することにした。渡辺通りの下を南北に走る地下道は約600mある。ここは2列の地下道が平行して走っているので、これを往復するだけで1.2km歩くことになる。2往復すると2.4km。雨の日には絶好の散歩道だが、如何せん人が多いので、自分のペースでは歩けない。自然とノロノロと歩くことになり、どういうわけだか疲れるし、ストレスも溜まる。

 2週歩いて帰ろうと思ったが、1週でうんざりしてきてやめてしまった。先ほどの傘差してこんでいる歩道を歩くのと同じく、やはり人ごみで散歩というのは無理がある。

 帰路はさっきとほぼ同じ道をたどったが、雨が激しくなったので公園内を歩くのはあきらめて、明治通りの歩道を歩いた。私の好きなお堀端の土の道が水浸しになっているのを見て、来たのと同じ道を歩くと悲惨な目に遭いそうだと踏んだのだ。

11061809.jpg

 出て来るときには何とかなるだろうをたかをくくって歩き出したが、雨は次第に激しさを増し、どしゃ降りの一歩手前みたいな状況になる。靴もズボンも濡れて少々気持ち悪いので、早く家に着かないかと自然と急ぎ足になる。思えば無謀な散歩だったかもしれぬ。

 こういう目に遭うと、雨の日に出掛けるのが億劫になる。明日も雨模様なら家にこもっているかな。まぁ梅雨だから仕方ないのだが、たまには週末晴れて欲しいものだ。

posted by OhBoy at 23:16| 日記