2011年07月06日

さよなら福岡

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 突然のことではあるが、急遽東京に戻って来いとの命令が来て、このたび福岡を去ることになった。もう少しこちらにいるだろうという予想だったのだが、1年も経たずして福岡を離れることになる。辞令一本で東へ西ヘ。サラリーマン稼業というのはこういうものだ。

 単身赴任となると何かと不自由なことが多いので、東京に帰ることが決まると喜ぶ人が多いのだろうが、住みやすい街であったぶん、少々後ろ髪を引かれるところがあるのは事実だ。

 生活能力もない身で初めての単身生活を見知らぬ土地で送ることになり、来た当初はどうなることやらと心配もしたが、地元の人は皆さん、明るく開放的で温かく迎えてくれた。仕事で出会って親切にして頂いた方々には、いくら感謝してもし足りないくらいだ。お蔭で楽しい一年を過ごすことが出来た。

 東京の家族や実家の両親に対して、週末便りのつもりで書き出したブログだったが、結局散歩と読書の日記になってしまった。まぁ実際のところ、それぐらいしかしなかったのだが、福岡のあちこちを歩いて回ったのは実に楽しい思い出だ。東京でもたいてい週末は散歩に出掛けていたが、こちらの方が歩きがいのあるコースが多かった。あちこち見て回って、本当に良い街だと思った。

 もう一度この街に赴任して暮らすことはないと思う。そういう意味で、まさに一期一会の滞在だったが、他にも可能性のあった様々な転勤先候補の中で、偶然にせよ福岡に来ることが出来て良かったと思っている。

 最後に残念だったのが、博多祇園山笠で舁き山笠が市内を疾走するところが見られなかったことだ。「博多手一本」で福岡単身生活を締めたいところだが、それもかなわぬ夢となった。


「別るるや 夢一筋の 天の川」(夏目漱石)


 福岡の皆さん、さようなら、そしてありがとう

posted by OhBoy at 23:35| 日記

2011年07月03日

飾り山笠探訪

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 今日は起きたらどんよりとした曇り空。昨日と同じような天気だが、今日の方が心なしか空が明るい。パソコンを立ち上げてインターネットに接続し、ニュースを見がてら天気予報をチェックすると、昼にかけて雨との予報だ。

 何はともあれ、午前中は掃除にいそしむ。掃除機かけに始まって、風呂とトイレを掃除した後、珍しく窓拭きをする。実は、ずっと窓を拭いていなかったので、最近は雨が降っているかどうかを部屋の中から確認できないほどになっていた。薄汚れた窓から外を眺めてもう止んだろうと階下に下り、外に出た途端まだ小雨が降っていたりすると、ガックリ来て傘を取りに上がることになる。梅雨になる前にやっておけば良かったと悔やんでいたので、ベランダに出てせっせと窓を拭いた。ピカピカにはならなかったが、まぁこんなもんか(笑)。

 今日は色々用があるので、昨日のようにのんびりと山笠見物に出掛けていられない。所用で午後に外出したついでに、Yahooドームまで足を伸ばす。実はこんなところにも飾り山笠があるのだ。


■福岡ドームの13番飾り山笠

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 表が「鷹昇快進撃(たかのぼるかいしんげき)」で、見送りは「奮戦箙の梅(ふんせんえびらのうめ)」である。

 「鷹昇快進撃」については、説明の必要はなかろう。場所柄から言って、これが表に来ないと始まらない。ご存知、福岡ソフトバンクホークスの快進撃を題材にしている。大阪の南海ホークスに始まって、ダイエーホークス、ソフトバンクホークスと名前は変わって来たが、今や福岡になくてはならないチームとなった。交流戦優勝で勢いをつけて、このまま一気に駆け抜けたい若鷹軍団だが、さてどうなるだろう。

 「奮戦箙の梅」は、源平の戦いの中でも名高い「一の谷の合戦」を題材にしている。福原と須磨で行われた戦いで、源義経がわずか70騎を率いて背後から平家の陣を衝いた「鵯越の逆落とし」で有名である。この山笠で描かれているのはその場面ではなく、源氏方の「梶原景季(かじわらかげすえ)」が箙(矢を入れる筒)に梅の花の枝を挿して「梶原の二度駆け」と呼ばれる奮戦をした様子を描いている。


 さてここで、昨日帰り際に、天神に立ち寄って見学した飾り山笠の紹介もしておこう。天神地区は博多の外なので流とは関係ない。従って、飾り山笠のみが展示してある。

 まずは地下鉄空港線の天神駅近くから見始めて、南に下りていったので、その順番で紹介する。


■新天町の9番飾り山笠

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 新天町は、天神から延びる地上の商店街である。アーケードがあって雨でも気にせず買い物が出来る。ここの一角に飾り山笠が飾られているが、これはちょっと観光客には分かりにくい場所かもしれない。

 表が「疾風迅雷六文銭(しっぷうじんらいろくもんせん)」で、見送りは「アニメ美食屋トリコ」である。

 「疾風迅雷六文銭」は、昨日見た櫛田神社の番外飾り山笠「智将疾風関ヶ原(ちしょうしっぷうせきがはら)」と同じく、真田幸村を題材にしている。六文銭は真田家の家紋だ。幸村の名を後世に知らしめた最大の活躍場面は大坂夏の陣で、このときわずか50騎を率いて徳川家康の本陣まで攻め込み、旗本勢を蹴散らして徳川家康に切腹を覚悟させたと言われている。後一歩のところで反撃に遭い、その後四王寺近くで討たれる。

 「アニメ美食屋トリコ」が何なのかは、私全く知りません(笑)。よってコメント不能。


■ソラリアの17番飾り山笠

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 ソラリアプラザの1階の吹き抜けに飾られている。ここも、ちょっと観光客には分かりにくいかな。いっそのこと、横の警固公園に飾れば目立つのにと思う。でもスポンサーはあくまでもソラリアだから、公共空間には置かないんだろうなぁ。

 表が「怪力相撲日田殿(かいりきすもうひたどん)」で、見送りは「勇者ライオンズ」である。どちらもスポーツものだ。

 「怪力相撲日田殿」は、大分県日田市出身と伝えられる伝説の力士「大蔵永季」を題材にしたもので、その渾名が「日田殿」らしい。角界では有名な存在と聞くが、私は寡聞にして知らぬ。平安時代の力士なので、多分に神格化されているのだと思う。現在の相撲は八百長問題以降ふるわないが、何とか立ち直って欲しいものだ。

 「勇者ライオンズ」は、かつて地元球団だった西鉄ライオンズを題材にしている。戦後すぐに誕生して、高度成長期に大活躍した有名球団だが、黒い霧事件で失速し、やがて西武に買収され福岡から去ってしまう。西鉄ライオンズ全盛期に福岡市民が足しげく応援に通ったのが福岡城址にある旧平和台球場だ。今球場跡に行くと「夏草や兵どもが夢の跡」という感じがする。


■天神一丁目の11番飾り山笠

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 もう一つ天神の繁華街にある飾り山笠は、大丸横の「エルガーラ・パサージュ広場」に鎮座ましましている。その様子が、このページの冒頭の写真だ。広場全体が巨大なアーケードに覆われているので、雨が降っても問題なく見学が出来る。でも、アーケードの端から外を覗くと、かなり本格的に雨が降っていた。

 表が「季長元寇之武勲(すえながげんこうのぶくん)」で、見送りは「尊氏多々良浜誉(たかうじたたらはまのほまれ)」である。

 「季長元寇之武勲」は、元寇時に活躍した肥後の御家人「竹崎季長(たけさきすえなが)」に題材を取ったものだ。蒙古軍の上陸を許した文永の役の際、博多の街で一番駆けの武功を立てたにもかかわらず恩賞がなかった季長は、自費で鎌倉まで赴き幕府に直訴する。そのかいあって肥後の海東郷の地頭に任じられた。彼の活躍ぶりを描いた「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」が有名だ。

 「尊氏多々良浜誉」は、福岡市東区を流れる多々良川で、一旦九州に敗走した足利尊氏と、肥後の菊池一族を中心とした九州の御家人連合軍が激突した時の合戦を題材にしている。足利軍の十倍の兵力を擁する菊池軍は当初戦いを有利に進めるが、裏切り者も出て最後は足利尊氏が勝利した。これにより九州の御家人を味方につけた足利軍は体勢を整えて再び上洛し、湊川の戦いで楠木正成を破ることとなる。


 実は、渡辺通り沿いに南下し、住吉通りとの交差点まで行くともう一つ飾り山笠が見られたのだが、雨が本降りになったので諦めた。あそこまで地下道がつながっていたら行くのになぁと、少々残念だった。

 これで昨日・今日と合わせて合計10の飾り山笠を見たことになる。残りは4つだが、各地区にポツポツと散らばっているため、まとめて見に行くのは無理だ。機会があれば一つずつ見ることにしよう。


posted by OhBoy at 23:29| 日記

2011年07月02日

博多祇園山笠始まる

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 今日は起きたらどんよりとした曇り空。しかも湿度がかなり高くて、扇風機なしではいられない蒸し暑さだ。いつ雨が降ってもおかしくなさそうな雲行きだったので、本日の洗濯物は乾燥機に直行することになった。仮に雨が降らなくとも、この湿気だと乾きは遅そうだ。

 6月末に九州南部は梅雨明けしたと発表されたが、福岡はまだのようで、来週あたり天気が再び崩れると言っている。終わりそうで終わらない梅雨。しかし、節電が叫ばれる中で本格的な猛暑が来ても良いかとなると、何とも痛し痒しの話だなぁ。

 「7月になったら博多の街は山笠一色ですから」と地元の人に言われていたが、確かに地元のニュースにはその種の話題が多くなった。博多祇園山笠が大好きな地元の人のことを「山笠のぼせ」と言うらしい。まぁどんなお祭りにも、地元に熱烈なフリークはいるものだ。

 博多祇園山笠は、博多の総鎮守である「櫛田神社(くしだじんじゃ)」のお祭りで、毎年7月前半に行われる。かれこれ700年以上の歴史があり、国の重要無形民俗文化財に指定されていると聞く。全国的にも有名な夏祭りの一つだろう。

 この季節には全国各地で夏祭りが行われるが、由来は様々である。今回の東日本大震災で被害を受けた東北地方では、「青森ねぶた祭」「秋田竿燈まつり」「仙台七夕まつり」が三大祭りとされているようだが、青森ねぶた祭は坂上田村麻呂の蝦夷征討時のお囃子が起源らしいし、秋田竿燈まつりや仙台七夕まつりは七夕行事そのものだ。一方、京都の祇園祭も夏祭りの代表格だが、こちらは平安時代に疫病がはやった際の祈祷が始まりとされている。ちょっと挙げただけでも起源は多種多様だが、博多祇園山笠は京都の祇園祭と同じく、疫病退散の厄払いに由来があるらしい。

 以前訪れたことがある博多の「承天寺(じょうてんじ)」の開祖に「円爾(えんに)」という僧侶がいる。鎌倉時代の人だが、「聖一国師(しょういちこくし)」という名前の方が地元では有名かもしれない。この僧侶は、博多に疫病が流行した際、疫病退散を祈願して、町衆が担いだ施餓鬼棚に乗って祈祷水をまいて回ったらしいのだが、これが博多祇園山笠の始まりという説が有力だ。従って、博多祇園山笠は櫛田神社のお祭りだが、承天寺に行くと「山笠發祥之地」の石碑があるし、各山笠は承天寺に立ち寄るコースを取る。神仏混合時代のちょっと面白い話だと思う。

 さて、本来の博多祇園山笠は、「流(ながれ)」と呼ばれる博多の各町が飾りを付けた山笠を担いで練り歩くものだったようだが、流同士のいさかいが元で、担いで歩くのではなく、担いで走るようになり、山笠も飾りを付けた巨大なものと、実際に担いで走る小ぶりなものとに分かれたようだ。前者の飾り付きの豪勢な山笠を「飾り山笠」と言い、担いで走るための後者のものを「舁き山笠」と言う。「舁(か)く」というのは、時代劇に出て来る「駕籠かき」と同じく、担いで歩いたり走ったりする行為を指している。

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 上の写真が実際の舁き山笠だが、これが市内を回るのはまだ先のことだ。ただ飾り山笠の方は、博多祇園山笠の開始初日である7月1日、つまり昨日からそれぞれ所定の場所に飾られたようなので、本日はそれを見に行こうと思い立って家を出た。歩き出した途端にパラパラと小雨が降って来る。まぁこの空模様では仕方ない。

 飾り山笠は、全て博多人形師が手掛けていて、見た目あでやかで美しいものだ。そのうえ巨大で、商店街に飾ってあると、上がアーケードの天井につきそうになっている。

 博多祇園山笠に参加して「舁き山笠」を出している流、つまり町会は計7つある。「西流(にしながれ)」「千代流(ちよながれ)」「恵比須流(えびすながれ)」「土居流(どいながれ)」「大黒流(だいこくながれ)」「東流(ひがしながれ)」「中洲流(なかすながれ)」だが、実は展示される飾り山笠は14ある。飾り山笠を出している母体と、「舁き山笠」を出している流とは、重なっている部分もあるが、別の場合もあるようだ。このあたりはよく分からないが、飾り山笠にかかる費用の問題が絡んでいるのだろうか。

 雨模様の中を一度に14の飾り山笠を見に行くのは大変なので、本日のところはアーケードや屋内など、天気を気にしなくても良い中洲から川端にかけての飾り山笠を見るに留める。まずは、地下鉄空港線の中洲川端駅で降りて、中洲側に出る。中洲流の飾り山笠から見学スタートだ。


■中洲流の7番山笠

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 中洲流は、飾り山笠と舁き山笠の両方を出している。飾り山笠には、表と裏と両方博多人形が飾られている。裏の方は「見送り」と言うらしい。上の写真で言えば、左側が表、右側が見送りとなる。一見しただけでは前後の見分けがつかない。前後両方とも美しい飾付けだ。

 この山笠の場合、表が「攻防千早城(こうぼうちはやじょう)」で、見送りが「老公妙案救天下(ろうこうみょうあんてんかをすくう)」である。

 「攻防千早城」は、楠正成を主人公にしたもので、後醍醐天皇に味方して鎌倉幕府軍と戦った正成が、大阪南部にあった千早城に僅かの兵とともに篭城し、幕府軍相手に英知の限りを尽くして奮戦したエピソードが題材になっている。こうした飾りごとの解説は、それぞれの山笠のところに付けられていて、どの人形が誰を指しているかも説明してある。なかなか親切な設えだ。

 「老公妙案救天下」の老公というのは、ご存知水戸のご老公「水戸黄門」のことである。助さん、格さん、八兵衛と天下漫遊の旅を続けたのはテレビの中だけらしいが、これだけ有名なご隠居も他におるまい。

 この飾り山笠は、歓楽街中洲の中に飾られているが、福岡市外から訪ねて来た観光客にはちと場所が分かりにくいのではなかろうか。お蔭で見物客はまばらであった。


■博多リバレインの10番飾り山笠

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 表が「博多乃豪商(はかたのごうしょう)」で、見送りが「天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)」となる。

 「博多乃豪商」は、島井宗室、神屋宗湛ら博多にゆかりの豪商を主役にしたものだ。博多リバレインは複合ショッピング施設なので、巨万の富を築いた商売の天才にあやかろうということだろう。確かに、豪商にあやかりたくなるくらい売上げが振るわないという噂を聞いたことがある。天神地区だけでなく、JR博多シティーという強敵まで現れて、そのうえ原発騒ぎで海外からの訪問者が減ったとなれば、神頼みしたくなるのも人情というものだろう。

 もう一つの「天璋院篤姫」は、博多リバレインにある「博多座」で7月公演として国仲涼子主演で天璋院篤姫をやっているので、その宣伝を兼ねてのことだろう。

 博多リバレインは、いわゆる流ではないので、飾り山笠のみで舁き山笠は出していない。

 さてここからは、リバレインのお向かいにある川端商店街のアーケード内を進む。この先暫く雨の心配は要らない。


■川端中央街の16番飾り山笠

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 表が「戦国の女江(せんごくのおんなごう)」で、見送りが「ドラえもん」である。

 「戦国の女江」は現在NHKの大河ドラマでやっているが、私は途中から見なくなってしまった。少女マンガを実写でやっていると割り切ればそう問題はないのかもしれないが(笑)、これがあのNHKの大河ドラマかと構えて見ると、やってられないわという感じになって、見続ける意欲を失ってしまう。まぁでも新たなファンを増やすという意味では、たまにはこんな大河ドラマもいいのかもしれない。

 「ドラえもん」は、もはや説明する必要もなかろう。こりゃ絶対子供に受けるよ。実際この山笠の前の「子供人口密度」は高かった。

 川端中央街も流ではないので、飾り山笠のみで舁き山笠は出していない。

 商店街を櫛田神社に向けて下って行くと、もう一つ山笠が飾られている。


■上川端通の8番飾り山笠

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 表が「京一条戻橋(きょういちじょうもどりばし)」で、見送りが「秀吉賤ヶ岳合戦(ひでよししずがたけのかっせん)」である。

 「京一条戻橋」は、平安時代の武将「渡辺綱(わたなべのつな)」が、京都の一条戻り橋で美女に化けた鬼の腕を切り落とした逸話を題材にしている。渡辺綱は、丹波の大江山に棲む酒呑童子を退治したことでも有名で、切り落とした鬼の腕を、当の鬼が女性に化けて取り戻しに来るという構成は同じである。そんな話を聞くと架空の人物のようだが、実在の人である。ちなみに、東松浦半島に名を残す九州の水軍松浦党は、渡辺綱の遠い子孫にあたる。

 一方「秀吉賤ヶ岳合戦」は、信長の死後に覇権を争った羽柴秀吉と柴田勝家が賤ヶ岳で行った決戦を描いている。そういえば、この賤ヶ岳合戦は、NHK大河ドラマの「江〜姫たちの戦国〜」にも出て来たな。

 上川端通も、いわゆる流ではないので、飾り山笠のみで舁き山笠は出していないが、何とこの飾り山笠は、舁き山笠と同様に人が担いで曳き回すらしい。唯一の「舁き飾り山笠」である。こんな巨大なものが、実際に動くのだろうか。ちょっとビックリした。


■櫛田神社の番外飾り山笠

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 川端商店街が途切れたところに櫛田神社がある。ご存知、博多祇園山笠の中心である。

 飾り山笠は7月1日から2週間だけ福岡市内各所に飾られるが、祭りの主催者となる櫛田神社境内には、年間を通じて飾り山笠が展示されている。今回、新しいものに変わったようなので覗いてみた。

 お祭りの期間に入ったので、境内には露店が並び、「追い山笠」を見るための桟敷席も設えられている。各流の舁き山笠が、7月15日午前4時59分に櫛田神社に集まり、一番山笠が博多祝い唄を歌ったあと、博多の街に繰り出す。博多祇園山笠は「追い山笠」と呼ばれるこのクライマックスに向けて積み上げられていくが、それに参加するためには桟敷席で見るしかない。ちなみに、今年の桟敷席のチケットは何と13分で完売したらしい。

 番外飾り山笠の表は「智将疾風関ヶ原(ちしょうしっぷうせきがはら)」で、見送りは「神話天之岩戸譚(しんわあまのいわとたん)」である。

 「智将疾風関ヶ原」の智将とは、真田昌幸・幸村親子のことを指すらしい。関ヶ原から大坂冬の陣・夏の陣と、知略と果敢な攻めで徳川方を苦しめた真田軍の活躍を題材にしている。

 「神話天之岩戸譚」は誰でも知っている神話の一節を題材にしたものだ。天岩戸伝説は、太陽神である天照大神が岩屋の中に隠れて世界が真っ暗になったという話で想像できるように、皆既日食を元にした伝説だというのが一般的な解釈である。でも、その岩屋跡というのが宮崎県の高千穂町に残っていて、「天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)」というのが建っている。私は行ったことがないが、この神社のご神体は、文字通り天岩戸という洞窟である。


■キャナルシティ博多の15番飾り山笠

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 櫛田神社の脇からキャナルシティに入る。今回の飾り山笠の中で一番見てみたかったのがこれである。いや飾り山笠の出来の問題ではなく、あの近未来的なキャナルシティのど真ん中に、古式ゆかしい飾り山笠がドーンと立っている姿を見てみたかったのである。その様子は、このページの冒頭の写真でご紹介した。何とも圧巻である。

 表が「流星光底逸長蛇(りゅうせいこうていにちょうだをいっす)」で、見送りは「武勲桃太郎(ぶくんももたろう)」である。

 「流星光底逸長蛇」は川中島の戦いにおける武田信玄と上杉謙信の一騎打ちを描いたものだ。川中島では都合4回戦いが行われたが、一騎打ちは4回目の合戦の際にあったと「甲陽軍鑑」には書かれている。上杉謙信は「鞭声粛々夜河を渡る」で有名な隠密渡河で武田軍の近くに忍び寄り、朝霧が晴れると車懸りの陣で武田軍を襲う。虚を衝かれた武田軍の本陣が手薄になった時に、上杉謙信が単身乗り込んで武田信玄を襲い、馬上から三太刀斬りつけたが、信玄は軍配をもってこれを凌いだと伝えられる。

 「武勲桃太郎」は説明の必要もなかろう。桃太郎が犬、猿、雉を連れて鬼ヶ島に鬼退治に行った時の活躍を描いている。

 このあたりで本格的に雨が降り出す。予想していたことではあるが、雷を伴った夕立でないのが幸いだ。来た道を戻り、中洲川端駅から地下鉄に乗り、今度は天神駅で降りる。ここにも飾り山笠が集まっているが、全て屋内展示なので空模様を気にする必要がない。

 長くなったのでこのあたりで一旦筆を置き、天神地区の山笠は明日紹介することにしよう。今日はたくさんの飾り山笠を見て、福岡の人々がこの祭りにかける意気込みの一端に触れた思いがする。「山笠のぼせ」の気持ちも少しは分かった気がするなぁ。


posted by OhBoy at 23:40| 日記

2011年06月26日

狼花

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 今朝は起きたら曇り空で、窓から覗いてみると地面も乾いている。昨日の夕方に激しい雷雨に見舞われたが、その後は降っていないということだろうか。でも、西の空はかなり暗く、厚めの雨雲が待機しているように見える。

 インターネットに接続し天気予報を見てみると、本日は一日雨で、台風による大きな雨雲が長崎県の沿岸部にかかっている。これが刻々と福岡に近づいているみたいで、今日から明日にかけて大きく天気が崩れるらしい。雷・強風・波浪の各注意報が福岡に出ていて、そういえば妙に生暖かい風が不規則に吹いている。

 昨日から台風襲来のニュースで散々脅されていたが、私は悪いシナリオと良いシナリオの両方を頭に描いていた。

 悪いシナリオは、ニュースで言っていた通りに台風による激しい雨が降り、一日部屋に閉じ込められるというものである。一方、良いシナリオというのは、前評判ほどにはたいしたことはなく、昨日に引き続き、夕立の心配をしながらもちょっと散歩に出掛けられるという展開だ。台風というのは、進路もスピードも予想に反することが多く、一旦コースを外れると、一気に天気は回復する。秋の台風一過の秋晴れがいい例だ。

 でも現状を見ると悪い方のシナリオが優勢らしく、更に運が悪いことに、天気の崩れはこれから明日にかけて本格化するということだ。要するに、待っていても事態は悪化するばかりで、天気の好転は望めないというわけだ。

 そうこうしているうちにどんどん風が強くなり、窓を開けていると室内の物が飛ばされるほどの強風が吹き始めた。時折風のうなりも聞こえるような勢いで、堪らずに窓を閉める。どうやら福岡地方も台風の強風域に入ったらしく、フェリーも欠航が相次いでいるようだ。この強風下では、雨が降り始めても傘は差せない。雨はたまにパラパラと降る程度だが、天気がもつのを信じて外出し、本格的に雨に降られたらひとたまりもなかろう。

 かくして本日はさっさと読書に徹する覚悟を決めた。今日は大沢在昌の「狼花」を読む。いわずと知れた新宿鮫シリーズの第9冊目、600ページ以上ある長編だ。

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 私は、大沢在昌の名前は前から知っていたが、本は読んだことがなかった。最初に新宿鮫シリーズに接したのは小説ではなく映画で、真田広之主演の「眠らない街 新宿鮫」を、映画館ではなくテレビで見た。そのときはそんなに面白いとは思わなかったのだが、友人が原作は面白いというので読んでみたのが、本シリーズとの最初の出会いである。

 主人公の鮫島警部の特異なキャラクターに惹かれて、その後もコツコツと読み続けているが、新宿鮫シリーズ以外の大沢作品は全く読んでいない。何故だろうと思うのだが、自分でも分からない。

 私がずっと読んでいるシリーズというのは、他にもいくつかある。パトリシア・コーンウェルが書く検屍官ケイ・スカーペッタのシリーズがそうだし、もう終わってしまったが、R.D.ウィングフィールドによるフロスト警部シリーズも一生懸命読んだ。日本物では新宿鮫のほか、夢枕獏による陰陽師シリーズも読み続けている。そういえば、夢枕獏作品も、陰陽師シリーズ以外に読んだことがない。これも何故なのか、自分のことながら不思議である。

 さて新宿鮫シリーズだが、これは新宿警察署に勤務する鮫島警部を主人公とする警察小説で、ジャンルとしてはハードボイルドということになるのだろうか。

 新宿鮫シリーズの特徴は、主人公の鮫島が警察という組織からのけ者にされ、単独捜査を旨とする特異な存在として活躍するところだろうか。普通の警察小説というのは、上司や部下、同僚といった組合せによる組織捜査に重点が置かれ、様々なキャラクターがぶつかり合い協力しながら話が進む。私が愛読していたフロスト警部シリーズなどが好例で、そうした警察官同士の係わり合いがストーリーを豊かなものにし、話の展開に一役買うことになる。しかし、新宿鮫シリーズの鮫島は、一緒に捜査に携わる同僚がいない中で、単独捜査に徹して事件に立ち向かう。

 彼の立場の特異性は、警察組織に入ってからの複雑な事情によるものだ。そもそも鮫島は警察庁入庁のキャリア官僚であったが、自殺した同期入庁の友人から、公安内部の重大な秘密を遺書として託され、それを提出することを拒んだため、組織から睨まれることになる。

 上司たちから危険視された鮫島は、入庁時の階級である警部のまま新宿警察署に転勤させられるが、秘密を握ったままかたくなに意地を通す鮫島を、組織としても持て余してしまう。周囲の者も警察幹部に睨まれている鮫島には近寄らず、かくして彼は新宿署内でも孤立し、単独捜査を余儀なくされる。

 そんな鮫島の理解者も警察内部にはいて、同時に新宿のやくざからも一目置かれる存在になる。正義感が強く、長いものに巻かれない彼は様々な場面で衝突を繰り返しつつ、難事件に挑戦し、危険を冒しながら解決していく。

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 このシリーズは、組織の中の個人というものを伏流的なテーマにしつつ、新しい時流の中で起こる犯罪を取り上げている。今回読んだ「狼花」は、盗品を取引する裏マーケットの存在をメインにして、そこに、以前にも本シリーズに登場した謎の人物「仙田」が絡む。

 鮫島が組織のアウトローであるのと同じく、仙田もまた世界を股にかけた犯罪者でありながら、暴力団などとは一線を画した孤独な存在だ。過去の作品で彼は鮫島と接触し、犯罪者でありながら鮫島を助けたりした経緯はあるが、彼が何者で、どういう過去を持っているのかは謎に包まれたままだった。今回の「狼花」では、そんな彼と鮫島とが真っ向から対決し、仙田の正体も明らかになる。仙田もまた鮫島と同じく、組織対個人の問題を抱えた存在だったのだ。

 そしてもう一人、また別の立場から本作で鮫島の前に立ちはだかる人物がいる。鮫島とは同期入庁の警察キャリア官僚の香田である。香田は以前から本シリーズに何度も出て来て鮫島と対立して来たが、同時に鮫島を助けたこともあった。しかし、香田の立ち位置は見事なまでに警察という組織の権化であり、組織維持を最優先にエリート街道を歩んで来た。それゆえ、組織のことを考えずに自分の正義を貫こうとする鮫島を露骨に蔑んでいる。

 今回の作品では、香田の組織維持の熱い思いが、常識から逸脱した方向に向かう。外国人犯罪を撲滅するために暴力団と手を組むという奇策に走るのだ。そして最終的に、組織を思う心が自らを滅ばしてしまうのである。

 誰しも社会に出て組織の中で働き、上下関係で生じるいさかい、仕事と個人の価値観の対立などを経験すると、組織対個人の関係に様々な思いを抱くことになる。日本のサラリーマンは、バブル崩壊前の右肩上がりの時代には、そうした不満や疑問を心の奥底に封じ込め、経済的な豊かさを求めて歯を食いしばって頑張った。そして組織はそんな従業員に給料で報いて、将来にわたるサラリーマン人生を保証した。

 しかし、バブル崩壊とともに起こった日本株式会社の衰退により、組織がそこで働く個人を守る力が弱まり、組織と個人の絆はもろくなった。己を殺して組織に忠誠を誓った挙句が突然の解雇だったりして、かつてのサラリーマンの生き方や意識にも変化が生まれている。組織への絶対服従の時代は終わったのだろう。

 この物語に登場する香田の行動は、バブル崩壊で潰れ行く会社の中で、組織維持のために不正にまで手を染めて自らを滅ばした、幾多の会社の幹部の姿を髣髴とさせる。組織が自分の拠りどころであったかつての企業戦士の時代は遠い過去のものになり、時代の変わり目に多くの犠牲者が生まれた。

 組織の論理と個人の信条の対立があったときには自分の信条を優先するという鮫島の特異な立場を背景にしたこのシリーズは、そういう意味で新しい魅力を放ち始めているのかもしれない。彼のような生き方は、かつてのサラリーマン社会では組織からはみ出したアウトローであったし、それゆえ小説の中にしか存在しない架空の人間像だった。でも今の時代、彼がヒーローとして称えられる余地は、別の意味で広がっているように思う。

 自分の信念と組織の目的が離れ始めた時にどちらを取るのか。かつてのサラリーマンは組織の目的のために己を殺したが、さて、組織が個人を守らなくなった今の時代にはどうなんだろうか。


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2011年06月25日

筥崎宮再訪

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 今日は暑さで目が覚めた。外では真夏の日差しが照りつけていて、早朝なのに温度は確実に30℃近くあるという感じだ。脱水症状みたいな状態で起き上がり、全ての窓を開けるが、心地良い風などこれっぽっちも入って来ない。

 今週はずっと蒸し暑かった。夏の蒸し暑さというのはこんなものだったかと思い知らせてくれるような、辟易とする暑さだった。梅雨だから仕方ないが、これをクーラーなしでしのぐのは容易なことではない。節電の趣旨は分かっているが、精神論や気合だけでどうにかなるものではないと確信する。この暑さが続けば、節電対策など吹き飛ぶんじゃないかとすら思う。

 さすがにたまりかねて週の半ばに扇風機を出した。クーラーは最後の砦としてつけずにおこう。少しは節電に協力しようという精神論である。これでもまだ夏の入り口なのだから、本番の7、8月になればどうなることだろう。汗かきの私としては戦々恐々といったところだが、いっそ思いっ切り汗をかけば、新陳代謝にもメタボ予防にもいいかもしれない(笑)。

 本日の天気予報を見ると、意外なことに午後の降水確率が40%、そして明日も一日雨と出ている。台風が近づいているらしい。今日のところは梅雨前線の活発化による雨というより、夕立なんじゃないかと思う。今週何度か夕立があって突然激しい雨に見舞われた。これだけ蒸し暑ければ、さもありなんという気がする。

 毎度のことながら、午前中は洗濯とクリーニングに徹する。午後の夕立を避けるためには、早い時間帯に干し始めるに限る。この気温なら、午後一番には乾くに違いない。そう考えて朝食を食べる前に洗濯を始め、終わったらすぐに干しにかかる。そしてアイロン掛けだが、さすがにこの気温でアイロンを掛けると汗が出る。半袖ワイシャツだと一枚当たりの手間はさほどではないが、続けてやっているとポタポタと汗が垂れるほどになった。これだけのことで、いい運動になった気がする。

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 このところ週末になると天気が崩れて家にこもり切りの日が続いたので、今日あたりは散歩に出掛けたい。かといって午後には雨が降るといっているから、野ざらしの道を延々と歩くようなコースは避けた方が無難だろう。雨ならまだ傘があればしのげるが、夕立の激しい雨だと傘なんか役に立たない。色々考えて、久し振りに「筥崎宮(はこざきぐう)」でも訪ねようかと思い立つ。

 地下鉄貝塚線の「箱崎宮前駅」は、あの長い参道の中間地点にある。雨が降れば筥崎宮で雨宿りも出来るし、ちょっと行けば地下鉄の駅に入れる。空模様に不安がある中では恰好の散歩場所だろう。

 そう考え付くと、午後の雨をなるべく避けるため、早めに昼ご飯を食べて出掛けることにする。本日はざるソバだ。もうとても熱いものを食べる気にならない。朝食の時もコーヒーはアイスにした。熱いお茶もいらないし、部屋着も半袖短パンだ。この恰好で仕事をすれば涼しかろうが、どう見てもスーパークールビズを超えた恰好だ。でも、ホントに猛暑が来たら、これぐらいのことをしないと、節電は不可能かもしれない。今週の蒸し暑さでつくづくそう思った。

 出掛ける頃には雲が空一面に広がり、たまに日が差す程度まで天気が崩れていた。しかし湿度は高く蒸し暑い。夕立にはおあつらえ向きの空模様だ。まず間違いなくどこかの時点で雷雨になると確信を強くする。問題はいつ頃から雷が鳴り出すかだ。

 地下鉄に乗って箱崎宮前駅に到着。神社の名前は「筥崎宮」で駅の名前は「箱崎宮」と漢字が異なっているため、ガイドブックで神社自体が「箱崎宮」と紹介されているのを見掛けることがあるが、正しくは「筥崎」だ。ただ、ガイドブックにどう書いていようと、ここに足を運ぶ観光客はさほどいまい。

 まずは参道を北に向かい、海岸近くまで行く。

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 福岡近辺の古い神社によく見られるように、筥崎宮の入り口は海から始まっている。あいにく本日は門が閉まっていて浜辺まで行けないが、以前写真に見える鳥居まで行ったことがある。このエリアは筥崎宮が管理しているが、自由に出入りさせていないのは、鳥居の前の砂浜が神聖な場所とされているからだろう。

 ここの砂は「お汐井(おしおい)」といって、身を清めるのに使われる。昔は「てぼ」という名の竹かごにお汐井を入れ、家の玄関に吊るしておいて、お清めの塩のように身体に振りかけていたという。7月に福岡で行われる博多祇園山笠で、山笠を舁く男衆にも、このお汐井を振り掛けるのが慣わしのようだ。

 この浜の東側には「箱崎漁港」がある。周辺は倉庫群なのでこんなところに漁港があるとは一瞬思えないのだが、実際福岡市の沿岸部にはいくつもの漁港がある。福岡市内に出回る豊富な魚介類をこうした漁港が支えてくれているのだろう。それにしても、人口で京都市を抜いた巨大都市に漁師さんがたくさん住んでいるというのは、何とも意外な話ではないか。そんな都市って他にあるのだろうか。

 さて、ここから参道を通って筥崎宮に向かう。参道は浜辺の鳥居から延々1kmあり、車が入って来れないので散歩するにはちょうどいい。途中に立派な灯篭あり、鳥居あり、ついでに道路も何本か横切っており、先ほど来た地下鉄の駅まである。とにかくこの参道の立派さが筥崎宮の威厳を如実に示している気がする。

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 地下鉄の駅を通り過ぎて更に南に向かう。筥崎宮の手前まで来たところで、参道脇にある「恵光院(えこういん)」にちょっと立ち寄ることにする。小さなお寺だが、ここには、千利休が豊臣秀吉や博多の豪商たちを招いて茶会を開いたという「燈籠堂(とうろうどう)」という建物が残っている。お寺自体は福岡藩二代藩主黒田忠之が後に建立したもので、お寺よりも燈籠堂の方が歴史は古い。

 織田信長の死後、全国の平定を目指していた豊臣秀吉は、当時の九州の実力者島津氏を討伐し九州を平定した帰りに、福岡の筥崎宮に滞在している。そのとき博多の豪商「神屋宗湛(かみやそうたん)」と親交を深め、宗湛は焦土と化した博多の町を秀吉に見せ、復興を願い出る。これが元になり博多の商人町の復興が始まった。このときの縦横に街路を張り巡らせた区画整理が「太閤町割り」と呼ばれるものである。

 筥崎宮滞在時に秀吉は、同行していた千利休に何度か茶会を開かせている。以前、九州大学医学部構内にある「利休釜掛の松」をご紹介したことがあったが、あれは「千代の松原」と呼ばれた海岸沿いの松林で行われた「野点(のだて)」の場所である。一方こちらは、筥崎宮で行われた茶会であり、今に残る「燈籠堂」で茶会が開かれたと伝えられる。ちなみにこの燈籠堂は当時筥崎宮内にあったが、明治政府により出された神仏分離令で今の場所に移されたようだ。

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 神屋宗湛が残した日記によれば、ここで茶会が開かれたのは6月14日のことで、青松葉の壁に苫葺き屋根の二畳半ほどの茶室で利休自らがお手前をしたらしい。そして18日には、海岸沿いの松林で、利休が松の枝に雲龍の小釜を吊るし、松葉をかき集めて湯を沸かし野点を行っている。その場所がここから少し南西に行った九州大学医学部構内というわけだ。

 千利休も縁を感じてか、筥崎宮に灯篭を寄進していて、今でも境内に残っている。そんなわけで、筥崎宮は千利休ゆかりの地の一つになっており、毎年5月に裏千家の献茶会が開かれると聞く。

 さて、恵光院を出れば筥崎宮は目の前だ。

 この神社は八幡様を祀っているが、八幡様というのは応神天皇のことである。古い皇室のしきたりで、出産の際に膜や胎盤などの胞衣(えな)を円筒状の箱である「筥」に入れて地中に埋め、目印にその上に木を植えるという儀式があった。応神天皇出産のケースでも同じように筥が埋められ、その上に松を植えた。それを祀っているのがこの神社というわけで、名前に「筥」が使われている。

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 この巨大な建造物は、筥崎宮を紹介するガイドブックでよく目にするが、神社本堂ではなく「楼門」である。そして、手前にある赤い柵の中の松が、応神天皇出産時の胞衣を埋めた上に植えられた松で、「筥松(はこまつ)」という。由来から言えば、この筥松のある場所こそが、神社にとっての聖地ということになる。

 本堂ではなく楼門ばかりがガイドブックに載っているのは、普通の時は楼門の中に入れないからである。本日も、お参りする人は楼門のところで拝んでいる。門内が一般公開されたときでも、内部は撮影禁止なので本堂など内部の写真を見ることはめったにない。

 この前ここに来たのは昨年9月のことで、ちょうど「放生会(ほうじょうや)」という筥崎宮の秋の大祭をやっている最中だった。放生会は、千年以上続く由緒あるお祭りで、武神である八幡大神のお告げにより、合戦で亡くなった人々の霊を弔うために始まったものだ。このお祭りの時には、先ほどの神聖な浜辺も楼門内も一般に公開されており、私も本堂まで入って内部を見学した。けっこう狭いのだが、様々な飾り物があり、一見の価値はある。

 この楼門は国指定の重要文化財になっているが、掲げられている扁額が特に有名だ。「敵國降伏」とあるが、これは元寇の際に亀山上皇が戦勝祈願したことが由来になっている。現在の扁額は、かつてこの辺りを領地としていた小早川隆景の書だが、オリジナルは亀山上皇が寄進したものである。

 亀山上皇寄進の扁額は神宝として別に保管されているが、書自体は亀山上皇のものではなく、醍醐天皇のものと伝えられている。醍醐天皇は平安時代の天皇だが、彼の命で今の筥崎宮が建立されたという関係にある。

 筥崎宮は武神である八幡様を祀っているうえ、その八幡様たる応神天皇の出生に直接関わる神社なだけに、古くから武士や軍人の尊敬を集め続けた。二度にわたって元寇の際に吹いた神風はこの神社の霊験によるものだとされているし、モンゴル軍が上陸して博多の街で地上戦になった「文永の役(ぶんえいのえき)」の際も、この神社から白装束の武人が出て来てモンゴル軍を蹴散らしたという伝説が残されている。

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 この前来たときにはあまり紹介しなかったが、そんな経緯から境内には、武人・軍人にちなんだ遺物が残されている。この石碑は、日露戦争の日本海海戦で名を上げた東郷平八郎の書である。

 どうしてこんなところに東郷元帥の書があるかというと、実は日本海海戦は福岡の沖合いで行われているからである。当時日本の連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊を破ったあと福岡港に立ち寄り、東郷元帥は筥崎宮に参って感謝の祈りを捧げている。また、東郷元帥の死後、東京渋谷と並んで、福岡県の津屋崎(現福間市)に東郷神社が建てられている。

 津屋崎には行ったことがないが、東郷公園に日本海海戦記念碑が建っているという。NHKが年末に放映している「坂の上の雲」はいよいよ日本海海戦だと思うが、対馬の辺りで「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の電文が打たれたなんて、何とも感慨深い。

 でも福岡の人って、NHKの「坂の上の雲」放映を機に津屋崎や筥崎宮を売り出してブームを起こそうなんて、これっぽっちも思っていないんだろうなぁ。そういう人たちなんだよな、博多っ子っていうのは・・・。そういう計算高くないところが私は好きなのだが、それゆえ観光資源はあっても観光客を集められない宿命にあるんだと思う。

 前回来たときに紹介しなかったといえば、この境内の大楠の木もそうである。

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 実に堂々とした迫力ある大楠で、見る者を圧倒する巨大さだ。樹齢800年と伝えられ、この神社の歴史の古さを偲ばせるに充分な威圧感がある。

 ただ、この大楠、どういういわれの木かというのが分からない。単に「大楠」という表示と樹齢が記されているだけで、それ以上の解説はない。いわれなどなく、単に長生きした楠ということだろうか。

 800年前というと鎌倉時代で、幕府が北条家に乗っ取られた頃だ。最初の元寇である文永の役が1274年で、その時博多の街は火の海となりこの近辺も焼け落ちたはずだから、この楠は焼け跡に植えられたということだろうか。それとも戦火を免れて生き延びたということか。

 まぁそんなふうに色々想像は出来るものの、実際のところは分からない。でも、この木が植えられた頃のことに思いを馳せるのは、色々夢があって面白かろう。せめて、植えられた当時はこんな時代だったと解説でも付ければいいのになぁと思う。

 元寇の話が出たついでにもう一つ紹介しておくと、この大楠の前に、蒙古軍船に使われていた「碇石(いかりいし)」が展示されている。これは元寇の際に博多湾にやって来た蒙古の軍船に装備されていた碇の一部である。

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 この石をそのまま船から吊るして停泊したのではなく、碇の一部品として重石代わりに使っていたようだ。福岡の近海からは、この種の石が海底から十数本引き揚げられている。従って、蒙古の碇石が展示されているのはここだけではない。

 筥崎宮境内に展示されているのは、博多港の中央波止場付近から引き揚げられた6本の碇石のうちの2本で、石材は朝鮮半島の全羅南道長興南方にある天冠山で取れる物らしい。ここには蒙古軍の造船場があったと伝えられている。

 それにしても、今日は境内は静かだし、参道もほとんど人が歩いていない。前回放生会で来たときには、参道にはものすごい数の夜店が並び、押すな押すなの大盛況だった。合戦で亡くなった人々の霊を弔うという秋の大祭の趣旨からして、もっと静かな祭りをイメージしていたがとんでもない勘違いで、あまりの人の波に辟易した思い出だけが残っている。今日は普段の静かな筥崎宮が見られて、来て良かったなぁと思う。

 さて、せっかくここまで来たのだから神社の周囲も歩いてみようと、黒田長政が建立したと伝えられる「一の鳥居」の前の道路を北東側に折れて、近所の商店街を覗いてみる。

 この道路は今は何の変哲もない地味な道だが、かつては大名行列も通った旧唐津街道である。箱崎は江戸時代の宿場町の一つで、御茶屋などもあったというから、筥崎宮の神徳も手伝って、かなり栄えたのではなかろうか。

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 こちらとしては、唐津街道の面影を伝える古風な街並みでもないかと期待しながら歩き始めたのだが、今やすっかり近代的な様相になっていて、マンションと商店が混在し、上空を電線がのたくる、味気ない通りが続いていた。

 それでも時折、小さなお堂や路地に面した昔風の商店など、かつての風情が一部に残っていて目を楽しませてくれる。気の向くまま、九州大学の工学部キャンパス辺りまで進む。

 とそのとき、遠くで雷の音がした。ふと見上げると、少し離れた上空に真っ暗な雲が湧き出ている。典型的な入道雲で、あれが迫ってくるとどしゃ降りの雷雨になるだろう。まだ少し時間はありそうなので、北西側の道にも分け入り、路地裏を歩く。昔ながらの家だろうなぁと思われる建物が一部に残っていて、丁寧に探せば味わい深い一角も見つかるかもしれない。

 そうこうしているうちに風が出て来た。積乱雲がもたらす風で、一旦降り出すと大荒れになりそうな気配がする。そろそろ戻ろうと地下鉄の駅のある方に向けて歩く。風は益々強まり、雨がポツポツとし出す。そして再び雷の音。

 やがて小降りのうちに駅にたどり着く。傘は差さずとも何とかなる程度の雨だ。屋根の付いた入り口から先ほどの入道雲のあった方角を見やると、真っ黒な雲がそこまで迫り、稲妻が雲間から光るのが見える。続けて大きな雷の音。稲光を眺めているうちに風が益々強まり、傘を差しづらいほどになる。もうこうなると散歩どころではない。まもなく滝のような雨が降り出すだろう。典型的な夕立だ。

 仕方なく地下鉄の改札口に向けて階段を下りる。もう少し遅くなってから夕立になると思っていたがあてが外れた。そこそこ歩いたが、ここまで遠征して来たにしては散策が不十分だったなと思う。もう少し足を延ばしたかったなぁ。

 梅雨時は仕方ない。明日も天気は悪そうだし、我慢の週末ということだろうか。いつか晴れた日に捲土重来を期したいものだ。
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2011年06月19日

雨読の日

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 今日は曇り空の朝で、幸い雨は降っていない。ただ、どんよりと垂れ込めた雲を見ていると、いつ雨が振り出してもおかしくない空模様である。

 パソコンを立ち上げてインターネットでニュースを拾い読みしながら天気予報も見る。九州の中央部に東西に梅雨前線がかかっていて、福岡市はかろうじて厚い雨雲から外れているが、県の南部は雨が降っているようだ。更に南になると、熊本以南は激しい雨に見舞われているらしく、大雨警報やら洪水警報が出ている地域がたくさんある。

 福岡市内もこのまま一日安泰というわけではなく、昼にかけて雨が降るらしい。そして夜中に大雨になると出ている。昨日も午後一番を中心に雨脚が強まったので、同じような天気なのだろう。昨日天神まで歩いてけっこう濡れたことを考えると、散歩に出掛けるのにも慎重にならざるを得ない。まぁ今後の空模様を見ながらどうするか考えることにしよう。

 午前中は細々とした雑務で時間が過ぎた。一つ一つはたいしたことでなくとも、まとめてやると時間が掛かる。日頃いちいちやるのが面倒なので後でまとめてやろうと溜め込んでいる日常の雑務というのがある。出掛けるかどうか迷うような休日の空き時間は、そうした滞貨一掃にはもってこいの時間だ。

 そうこうしているうちに雨が降り出す。悪い方向に向かっては、天気予報は良く当たる(笑)。昼前にはしっかりした雨になって、外出する気力は急速に萎えた。

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 昼食を終えると読書でもするかということになったが、じっくりと長編を読む意欲は湧かず、お茶を飲みながらエッセイか短編集でも拾い読みしたい気分だ。しかし、手持ちの在庫にその類の本はなかったので、再び「青空文庫」に接続する。以前にも紹介したが、青空文庫はインターネットに開設されたネット図書館である。

 まずはエッセイでもと、芥川龍之介の「或阿呆の一生」と「侏儒の言葉」を読む。この2冊は、高校時代に二読三読した覚えがある。芥川のような天才肌の作家が最後に行き着いた終着地点という意味で、彼の人生に対する直接の言葉が書かれているこの2冊に興味を覚えたのだ。

 天才と狂気は紙一重と言われるが、芥川龍之介は確かにそのはざまにいた人だと思う。母親は彼の生後7ヶ月にして精神を病み、龍之介は母方の実家に引き取られ育てられる。小さな頃から頭が良く、一高には成績優秀ゆえ無試験で入学が許可された。東京帝大では、難関中の難関と言われる英文科に進む。夏目漱石の門下に入り、古典を題材にした多くの短編小説を世に出して名を馳せた。しかし、神経衰弱と不眠に悩まされ、致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。35歳の夏だった。

 「或阿呆の一生」は自殺の年に書かれた彼の人生の軌跡であり「侏儒の言葉」は自殺の4年前から自殺の年まで書き続けられたエッセイである。

 本というのは、人生を重ね経験を積むに従って、以前読んだ時とまた違った見え方をすることがある。彼の言葉をつむいだ「侏儒の言葉」は、今さら読み直すと、はっとするほど的確に人生の真実を見抜いている。例えば「地獄」という項目がある。少し長いが全文を引用しよう。


「人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児(ちょうカタル)の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に堕(お)ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟(とっさ)の間に餓鬼道の飯も掠(かす)め得るであろう。況(いわん)や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさえすれば格別跋渉(ばっしょう)の苦しみを感じないようになってしまう筈(はず)である。」


 社会人となって様々な仕事や人間関係に関わってきた人なら、この文章に何度もうなづくはずだ。確かに、人生には確たる予見というものがない。良いことばかりではないが、悪いことばかりでもない。しかし、そうした様々なことはランダムに現れ、悪い事がずっと続くこともあれば、これでもかという幸運に恵まれ続けることもある。しかも、条件が同じであっても前回と全く違った結果になることもあり、全く予測がつかない。言い換えれば、人生は安定しないデコボコ道のようなもので、だからこそ人々は安定を求める。人生に対しても、世の中に対してもだ。

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 さて、芥川龍之介のあとは、これまた高校時代に好きだった中島敦を読む。文庫本だけでは収録されている作品が少ないので、図書館で全集を借りて読んだ覚えがある。

 中島敦との最初の出会いは国語の教科書だった。「山月記」がまるごと収録されていて、その難解な文体に級友たちは辟易していたが、私は逆に漢詩が好きだったので、中島敦の漢文体にはけっこう惹かれた。ちなみに中島敦の祖父は漢学塾を経営し、父親は漢文の教師だった。

 教科書に載っていた「山月記」のほか「李陵」が有名で、私はこの短編で、有名な「史記」の著者である「司馬遷」の悲劇の経緯を知った。だが、最も好きな一編はと言われれば「名人伝」を挙げたい。

 弓の名手を題材にした「名人伝」は何とも不思議な話だ。中国の故事を多く載せた「列子」から題材を取ったと伝えられるが、列子にはこのほか、「杞憂」や「朝三暮四」の元になった話が収録されており、これ自体読めば面白いのかもしれない。

 趙の邯鄲に住む「紀昌(きしょう)」という若者が主人公で、天下第一の弓の名人になろうと志を立て、様々な修行を自らに課していく過程を描いている。その奇妙な修行の数々も面白いのだが、話のクライマックスは、当代きっての弓矢の名手にして師でもある「飛衛(ひえい)」と互角の実力になった後の話である。

 飛衛は紀昌に、自分たちの技など児戯に等しいと言わざるを得ない究極の弓の名手の存在を語る。「甘蠅(かんよう)」と呼ばれる老人がその人で、霍山の山頂に隠棲していると聞く。

 どうしても弓を極めたい紀昌は、苦労して霍山に登り、甘蠅と対面する。相手は柔和な目をしたよぼよぼの老人で、腰は曲がり髭を引きずりながら歩いている。紀昌は老人の前で矢をつがえて空に放ち、一矢で五羽の鳥をうち落とす。老人は穏やかに笑いながら、それは「射之射」であり「不射之射」の域に達していないと言う。老人は紀昌を断崖絶壁の上にせり出す石のところに連れて行き、そこに登ってもう一度同じように矢を放てと命じた。しかし紀昌が石の上に立つと足元はグラリと揺れ、恐怖のあまり震えて石の上に伏してしまう。

 老人は笑って紀昌をどかすと、同じ石の上に乗って、何も持たずに矢をつがえるまねをして空に向かって弓を引く。たちまち鳥が落ちて来た。紀昌はそこで芸道の深淵を覗き見、「不射之射」を知る。

 究極の弓の名人を語るこの話は、意外な結末で締めくくられる。9年にわたる山頂での修行の後に邯鄲に戻って来た紀昌は、何故か愚鈍な顔つきになり、一切弓矢を取らない人になっていた。名人の技を見たいという周囲の期待をよそに、紀昌は一度も弓を引かず年老いていき、晩年には、弓そのものの用途も忘れてこの世を去る。

 ある物事の道を究めるというのはどういうことなのかを、この小説は問い掛けている。我々は時として、何かの分野で腕を上げ、そのエリアでは一流になったかのように錯覚することがある。また、世の中を見渡せば達人を自称する人がたくさんいる。だが、それがどれだけ道を極めていることになるのか、実際のところは分からない。自ら得意になったり、名人の域に達したと自負する人を見たりしたとき、私はふと甘蠅老師の穏やかな笑顔を思い出すのである。

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 夕方遅くになってふと窓の外を見ると、雨は止んでいた。天気予報を見るとつかの間の休息らしく、深夜になって再び本降りの雨になるようだ。古典を読んで人生について考えるにはお似合いの天気だったかも知れぬ。芥川龍之介が自殺した日も雨だったと聞く。


「わたしはどんなに愛していた女とでも一時間以上話しているのは退窟だった。」(芥川龍之介「侏儒の言葉」)


 天才に生まれつくというのは、必ずしも幸福なことではないのだろう。切れ過ぎる頭脳と見え過ぎる目を持った彼には、人生と世の中は居心地の良い場所ではなかったはずだ。


「あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである。」(芥川龍之介「侏儒の言葉」)

posted by OhBoy at 23:14| 日記

2011年06月18日

雨の中の散歩

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 今朝起きて窓の外を見ると、地面が濡れて霧雨が降っている。今日は一日雨が降ったり止んだりの天気らしい。しかし幸い、先週末や週央みたいな激しい雨はなさそうだ。

 それにしてもよく降った。土砂降りの雨の日もあったし、九州南部では一部の地域で避難勧告まで出されたらしい。東日本大震災が起きるまではたびたびニュースに登場していた霧島連山の新燃岳噴火は、ニュースにこそ出なくなったものの、その後も活動を続けており、雨が降ると土石流や泥流が発生する危険性が高まると聞いた。福岡市内ではそういった類の危機感はないが、以前に博多駅周辺の街区が、氾濫した三笠川の水で大規模に浸水し、人が亡くなる惨事があったので、あまり安穏ともしておられない。

 ところで、福岡に来て意外だったのは、この街は渇水の心配があるということだ。毎年梅雨の末期に梅雨前線が北に抜けていく際、九州北部が激しい雨に見舞われ、山間部で土砂崩れなどが起きるというニュースをたびたび耳にするので、梅雨時に降雨量が足りなくなるなんて思ってもみなかった。

 実は入梅前の福岡では、この夏、水が足りなくなるのではなんて話題がそこここで聞かれていた。水源地の水位がかなり下がっているらしいという噂も聞いた。意外に思って尋ねたら、福岡は水源の取り方に問題があるなんて、したり顔で解説してくれる人までいた。でも今回の大雨で、さすがにもう水不足の心配はあるまい。仮に、これだけ降っても水不足の心配があるなんて話になったら、それこそ水源の位置に大いなる問題があるのだろう。

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 さて、空模様から言えば、本日も家にこもって読書となるはずだが、どっこい今日は天神まで行かなくてはならない用がある。仕方ないので、空模様と相談しながら出掛けることにする。いわば不本意な散歩だ。

 午前中は洗濯とアイロンがけに費やす。洗った物を外に干すわけにもいかないので、3週連続で乾燥機の登場となる。こういう天気に見舞われ続けると、乾燥機が如何に偉大な存在かが分かる。

 ワイシャツは半袖なので、アイロンがけも比較的簡単だ。最近の気温は低めなので、長袖でも問題ないし、現に長袖のワイシャツの人を多数見掛けるが、アイロンをかけなければならないことを考えると、ついつい半袖のワイシャツを選んでしまう。更に言えば、いっそアイロンがけをしなくてもいいポロシャツの方がどれだけ楽かとも思う。如何に面倒臭くない生活を心掛けるかというのが、私の単身生活道であり、そんなことだから生活能力がないと言われるのだろう。

 そうこうしているうちに昼になり、スパゲティーなんぞゆでて手早く昼ご飯を食べると、傘を持って出掛けることにした。雨は、どしゃ降りとまではいかないが、しっかりした量降っている。こんな日に、歩いて天神まで出掛ける人なんて、めったにおるまい。

 天神まで歩くなると、明治通りを真ん中にして、北の港沿いのコースか、南のけやき通りコースか、はたまた大濠公園と福岡城址を突き抜けたあと明治通り沿いを歩く平凡なコースの中から選ぶことになるが、雨も降っていることだし、最短となる大濠公園・福岡城址から明治通りに抜けるコースを選ぶことにする。このコースは最近ご無沙汰していることもあるし、ちょうどいい。

 毎度お馴染みの大濠公園からスタートする。

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 当たり前のことながら、雨の大濠公園を散歩する人はあまりいない。ジョギングする人も自転車に乗る人もたまに見掛ける程度で、休日の大濠公園としては異例の静けさだ。いつもは賑わう児童公園も、人っ子一人いない。人が少ないせいか、天気が良ければ群を成して餌をねだっている水鳥もまばらだ。

 公園入り口から東向きに池の周辺を回り、舞鶴公園に抜ける。お花見の時期にはたくさんの人で賑わった芝生広場も、傘を差して歩く人が一人二人遠くに見える程度で、ほぼ無人である。しとしと雨が降る中を、ゆっくりと一人歩く。雨に洗われた芝生の緑が美しい。こんな散歩も変わっていて面白いかもしれない。

 普通はこのまま名島門から福岡城址側に抜けるのだが、今日は芝生広場の中を歩いて北側の道を取り、「潮見櫓(しおみやぐら)」の脇を通って、平和台陸上競技場の北側へ出ようと考えた。このコースは初めて通る道だ。

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 潮見櫓のある場所は福岡城址の北端に当たり、お堀に面している。位置的には石垣の上なので、お堀を見下ろす形になる。潮見櫓は、明治通りからよく見えて、福岡城址のシンボル的存在だ。

 元々福岡城は50近くの櫓を備えていたというが、現存するのはわずか4、5ではなかろうか。潮見櫓は福岡県指定文化財になっているが、元々この場所にあったのではないらしい。どうして場所が変わったかというと、廃藩置県後、黒田家が城を出て行って、浜の町に別邸を構えた際、櫓を解体してそこに移築してしまったのだ。やがて昭和になって櫓を城に戻した際、元の場所ではなくここに移されたという。

 この潮見櫓についてはもう一つおまけの話があって、実はこれは元々福岡城に置かれていた潮見櫓ではないらしい(笑)。平成になってから調査した結果、別の櫓が誤って潮見櫓と伝えられ残っているようだ。だとすればこの櫓、元は何櫓だったのだろうか。

 そんないわくつきの櫓を横目で見ながら通りを渡り、平和台陸上競技場へ向かう。次第に雨脚が強くなって来たが、競技場では黙々と練習に励む選手がいる。何とも立派なことだ。

 この競技場の敷地の片隅には、こんな記念碑がある。

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 これは明治時代に旧陸軍の歩兵第24連隊がこの場所に駐留していたことを示す碑である。この歩兵連隊は、日清戦争や日露戦争にも出動した由緒ある部隊のようだが、明治35年にこの地で原因不明の爆発事故に巻き込まれている。

 あるとき、火の気のない櫓の一つが突然爆発し、近くにいた兵士が死亡したのだ。一般人が立入りを禁止されていた駐屯地内での出来事なので原因は詳しく分からないが、歩兵連隊が駐留する前に何らかの事情で持ち込まれた火薬類が櫓の地下にあり、自然発火したのではないかと言われている。といっても、それは推理の一つに過ぎず、真相は謎に包まれたままだ。

 この辺りは、江戸時代には城があり、明治時代には歩兵連隊の駐屯地があって、何かと戦いのイメージがつきまとっていたが、戦後になり、そうしたイメージを一掃しようと「平和台」の名前が付いたと聞く。従って、競技場の名前も平和台なら、隣にあった球場の名前も平和台となった。この辺り一帯をまとめて、平和台総合運動場と言っていたようだ。平和な場所だったからではなく、平和でない場所だったから、願いを込めてそうした名前になったわけだ。

 さて、その競技場の北側に、一般人も走れるようにコースを切った歩道があるが、今日は誰も歩いていない。その脇からは眼下にお堀が見えるはずだが、木が鬱蒼と茂っていて、枝の間からわずかに明治通りが見下ろせる程度で、眺望はきかない。せっかくお堀の上に来ているのに、ちょっとがっかりだ。

 暫し歩くと、巨大な岩に彫り付けられた万葉歌碑がある。

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 今よりは
 秋づきぬらし あしひきの
 山松かげに ひぐらし鳴きぬ

 天平年間に新羅の国に派遣される予定で大和を旅立った使節の一行が、ようやく筑紫の館に着いた時に詠んだ歌で、故郷に残してきた家族を思い嘆いたという内容だ。傍らの解説板によれば、一行は、秋になれば故郷に帰って来るからと家族に言い残して出て来たのに、秋になっても新羅に渡れず、やっと筑紫の館に着いたところだという状況らしい。

 ここに出て来る筑紫の館というのは、当時大和朝廷がこの場所に設置していた外交施設で、今で言えば出入国管理事務所のような機能を持っていたという。日本書紀では「筑紫館(つくしのむろつみ)」という名前で登場し、唐などから来た使節を迎える受入れ施設であると同時に、日本から大陸に渡る際の出発地でもあった。

 やがて遣唐使が送られる時代になると筑紫館は「鴻臚館(こうろかん)」と呼ばれるようになるが、機能はほぼ同じで、この場所から山上憶良や阿倍仲麻呂、吉備真備らが唐に渡った。

 ちょうどこうして歩いている場所が鴻臚館のあったところで、下の写真の草地に当時の建物の遺跡が眠っている。

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 ちなみに、この柵の中が昔の平和台球場である。古代の外交施設として場所が特定され、遺跡が発見されているのは全国でもここだけなので、実はもの凄く価値のある遺跡の上で野球をしていたわけだ(笑)。

 向こうに見える建物は、鴻臚館の発掘現場を保存した展示場で、無料で見学させてくれる。ボランティアのガイドさんもいて、親切に解説してくれるので、貴重でお得な観光ポイントだと思うが、ほとんど宣伝していないせいか、いつ行ってもガラガラだ。修学旅行の学生諸君は、太宰府天満宮に行ってお参りするよりも、ここで古代史を勉強した方がよっぽど学問が成就すると思うんだが、みんな神頼み優先なんだよなぁ(笑)。

 さて、ここで公園は終わってしまうので、この先は明治通り沿いを歩くしかない。平和台の交差点に下りて、歩道を進む。最初はそうでもなかったが、赤坂の駅を過ぎる辺りから人が多くなり、お互いに傘を差しているのですれ違うのに苦労する。前を歩いている人が多少遅くとも追い越しにくいし、ホントに雨の日というのは歩いていてストレスが溜まる。

 数百メートル歩いたところでうんざりして来て、西鉄グランドホテル脇を折れて、新天町の商店街に入る。ここはアーケードになっていて、この先天神まで濡れることなく歩ける。しかし、そう考えるのは私だけではなく、これといって売りのない商店街にもかかわらず(笑)、けっこうな人ごみである。

 西鉄の福岡天神駅のところまで行き、そこから地下街に潜る。これで暫し雨から開放される。ところで、この地下道の一角に壁が石垣のようになっているエリアがあるのをご存知だろうか。

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 ここは8番街の「石積みの広場」と呼ばれている場所だ。ここを通る人は単なる装飾と思っているだろうが、おっとどっこいそういうわけではなく、実際にここに石垣があったので、こうした内装を施してあると聞く。

 江戸時代の福岡城のお堀はかなり広大で、今の大濠公園ももっと大きく、おまけにお堀は東側に長く伸び、今の那珂川まで達していたようだ。従って、天神地区も堀で南北に二分されていたわけで、その名残がここということになる。つまり江戸時代にはこのエリアは水の中だったわけだ。

 元々は堀に沿って石垣は組まれていなかったが、大雨で土手が崩れたため石垣を築くことになり、工事は肥前の佐賀藩が引き受けたとされている。従って、出来た堀は「肥前堀」と呼ばれた。

 黒田藩の石垣建築を何故佐賀藩が引き受けたかには裏話がある。

 関ヶ原の戦いで、佐賀藩の鍋島家は西軍について石田三成に味方をした。お蔭で徳川方の意向でお家取り潰しの危機に見舞われ、慌てた鍋島家は、黒田如水を頼って取り成しを依頼する。さすがに戦国時代屈指の軍師だった黒田如水は巧みに家康に取り入り、佐賀藩は何とかお家安泰を得る。その恩義に報いるため佐賀藩が堀の工事を引き受けたと伝えられている。

 天神地下街の装飾一つにも歴史があるわけだが、きっと福岡の人はそんなこと知らんのだろうなぁ(笑)。

 さて、用を済ませた後、どうせ来たのだからと、地下道を散歩することにした。渡辺通りの下を南北に走る地下道は約600mある。ここは2列の地下道が平行して走っているので、これを往復するだけで1.2km歩くことになる。2往復すると2.4km。雨の日には絶好の散歩道だが、如何せん人が多いので、自分のペースでは歩けない。自然とノロノロと歩くことになり、どういうわけだか疲れるし、ストレスも溜まる。

 2週歩いて帰ろうと思ったが、1週でうんざりしてきてやめてしまった。先ほどの傘差してこんでいる歩道を歩くのと同じく、やはり人ごみで散歩というのは無理がある。

 帰路はさっきとほぼ同じ道をたどったが、雨が激しくなったので公園内を歩くのはあきらめて、明治通りの歩道を歩いた。私の好きなお堀端の土の道が水浸しになっているのを見て、来たのと同じ道を歩くと悲惨な目に遭いそうだと踏んだのだ。

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 出て来るときには何とかなるだろうをたかをくくって歩き出したが、雨は次第に激しさを増し、どしゃ降りの一歩手前みたいな状況になる。靴もズボンも濡れて少々気持ち悪いので、早く家に着かないかと自然と急ぎ足になる。思えば無謀な散歩だったかもしれぬ。

 こういう目に遭うと、雨の日に出掛けるのが億劫になる。明日も雨模様なら家にこもっているかな。まぁ梅雨だから仕方ないのだが、たまには週末晴れて欲しいものだ。

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2011年06月12日

フランキー・マシーンの冬

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 今日は朝から雨。しかも、本格的な雨だ。昨日の天気予報では、昼頃を中心に本降りになるということだったが、午前中から既に本降り状態だ(笑)。部屋の中にいても雨の音がハッキリ聞こえる程度のドシャ降りの時間帯もあり、パソコンを立ち上げて天気情報を見ると、福岡地方に大雨・雷注意報が出ている。雷の音は聞こえないが、まぁ散歩に出ている場合でないことは確かだ。

 出掛けるをあきらめたところで、午前中は掃除に時間を費やす。掃除機をかけるのは1ヶ月ぶりだろうか。一人暮らしで、客も来ない生活をしていると、これくらいのペースでも支障はない。平日は昼間締めっ放しで誰もいないから、部屋の隅にほこりがたまる程度だ。

 子供の頃「掃除は天気のいい日にするものだ」という「常識」を聞かされた覚えがあるが、大人になってそれにどんな根拠があるのか疑うようになった。おそらく、掃除の時には家の窓を開け放つから、雨の日にやると雨水が入って来て大変だという、昔の家の構造に由来するものではないかと思う。あとは、湿気を室内に入れないための配慮だろうか。

 しかし今の家の構造だと、ベランダなどが広めに取ってあるため、窓を開けたからといって、必ずしも雨水が吹き込んで来るわけではないし、湿気は窓を閉め切っていても玄関の開け閉めや換気の折などに入って来てしまう。逆に、完全密封状態だと家の中の空気が淀んで健康に良くないから、湿気付きであっても多少空気の入れ替えは必要なのじゃなかろうか。そうして考えると、雨の日の掃除は決してタブーではないと思ってしまう。

 掃除にまつわる「常識」として、もう一つかねてから疑問に思っているのが、年末の大掃除である。年も押し迫った厳冬の中で、家の内外を大々的に掃除する意味は、単に新年を清らかに迎えたいという精神的なものでしかない。家の外も含めて徹底的に掃除するのだとしたら、好適期は真冬ではなく、過ごしやすく空気もそこそこ乾燥している秋か春だろう。

 にもかかわらず、子供の頃に教わった「年末には大掃除」という呪縛に囚われて、みんな寒風吹きすさぶ中で震えながら掃除をする。人は結局、経済合理性だけでは生きていけない存在なのだろう。

 掃除ネタついでにもう一つ。それは掃除機にまつわるものだ。

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 私は前任者から譲ってもらった掃除機を使っているのだが、これは今ある掃除機と同じ構造だ。もちろん、機能面でもっと進化した掃除機はいくらでもあろうが、モーターの付いた本体があって、そこからホースが延びて、先端に機能てんこ盛りの吸引器具が装備されている点では同じである。一部に、本体と吸引部分が一体化したデザインの掃除機も売り出されているが、主流は、この「本体+ホース+吸引器具」のはずだ。

 このスタイルの掃除機は、一箇所を掃除するのにはそう困らないが、あちこち引き回すのはたいそう面倒だ。本体部分が、ホースの動きに合わせて一緒に付いて来てくれない。まるで、言うことを聞かない散歩中の犬のように、足を踏ん張ってご主人様の後を追うことに抵抗を示す。もっと滑らか、かつ軽やかに動いてくれないものか。

 更に言えば、身長の高い私から見ると、吸引器具の持ち手が低めに付いている。従って、ちょっと前かがみになって掃除機を操ることになる。この姿勢を続けるとじわりと腰が痛くなる。おまけに、きちんと後を付いて来てくれない本体部分に業を煮やして、左手で本体部分をぶら下げて、右手で低い位置の取っ手を持って掃除機を操って部屋のあちこちを移動していると、余計に腰にこたえる。私の持病となりつつある腰痛の原因の一端は、この掃除にあるのじゃないかとすら、最近思うのだ。

 掃除機の進化というのは、もっぱら吸引力や清掃力の向上に費やされて来た。まぁ掃除をする器具だから、そこは問題ない。しかし、これを人間が扱い、板の間だけでなく絨毯敷きの部屋や、曲がった廊下などを縦横無尽に突き進まなければならないことが、あまり考慮されていない気がする。

 日本の電化製品は機能面では世界に観たるものがあるが、人間工学的に考えて、人が扱いやすく、苦労せずして使えるという面には、あまり重きが置かれていないように思う。言い換えれば、使って楽しい洗濯機や、思わず掃除したくなる掃除機なんてコンセプトは、いまだかつて開発ポリシーの中に入れられて来なかったのではないか。

 「ルンバ」というロボット掃除機がある。聞かれた方も多いだろう。部屋の形状を記憶して、勝手に掃除をしてくれる小型掃除機だ。忙しい人や掃除が面倒な人向けに売り出されているのかもしれないが、そうでなくとも何やら面白い存在だ。人間様が操らずとも、自分の意思で勝手に掃除をしてくれるロボットが家の中にいるというのは、何とも不思議で夢がある。機能面以外のプラスαが加わった製品のような気がする。

 米国のアップル社が、「iPod」や「iPhone」「iPad」などで次々にヒットを飛ばして世界を席巻中だが、技術的には日本のお家芸的世界で、作ろうと思えば作れないことはない製品と聞く。だが、作らなかった。技術はあって機能向上には熱心だったが、そんな面白い企画を思いつかなかったのだ。今の日本経済の低迷は、そういう夢のある企画力の欠如に起因するところが大きいと思う。生活を楽しむ、人生を楽しむ、そのための何かを考えて売るという面が、何とも弱いのだ。

 今のアップル社の快進撃は、1997年にスティーブ・ジョブズが帰って来てから始まった。彼が当時、低迷を続けるアップル社の製品群を見て言ったセリフは有名だ。「セクシーじゃない」 その一言で既存製品は一掃され、アップル社の新たな進軍が始まる。結果は見ての通りだ。

 日本の電化製品も全く同じ。そうセクシーじゃない。ことに掃除機においてはだ。

 まぁ私のような生活能力のない者が、掃除機談義をするのは噴飯ものだろうから、この辺りで止めておくが、ホント真面目に考えた方がいいと思うよ、メーカーさん。人生を楽しまない者に、人を楽します製品は作れない。真面目な堅物が考えつくものなんて、ヒットはしてもホームランは出ない。

 さて、掃除も終わったところで、雨の日恒例の読書の時間といこう。昨日は青空文庫で名作鑑賞だったが、今日は本来のミステリー分野にどっぷりと浸ることにする。手に取ったのは、ドン・ウィンズロウの「フランキー・マシーンの冬」である。

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 ドン・ウィンズロウは、入院中に書いた小説で注目を集め、今や確固たる地位を有するミステリー作家だが、元は政府系の調査官や探偵をやっていたと聞く。日本では「ストリート・キッズ」で注目を集め、「犬の力」で本格的にブレークしたといったところだろうか。「フランキー・マシーンの冬」は、その後日本に紹介された小説で、文庫本で上下二巻、600ページ超の長編だ。

 本当は、「ストリート・キッズ」、「犬の力」と読んでから、この本に取り掛かった方がいいのだろうが、背表紙にあった解説に惹かれて、まずはこの本から読むことにした。

 主人公は「フランキー・マシーン」の渾名を持つマフィアの凄腕殺し屋。しかし、既に60歳を過ぎて現役を引退しており、故郷のサンディエゴで釣り餌店やらリネン・レンタル業、不動産仲介など複数のまっとうなビジネスをこなしながら、質素に暮らしている。彼なりの流儀で筋を立ててかたぎの生活を貫き、みんなから好かれて、つつましいが幸せな日々を送る。そんな彼の日常が冒頭数十ページに渡って丁寧に描写されているが、それが実にいい。

 凄腕の殺し屋なんて、たいていマフィアの抗争の中で命を落として天寿を全うしないものだという先入観があったから、生きて老後を過ごすという設定が何とも新鮮だった。最初にこの小説に惹かれた理由がそれだ。

 更に、そんな男が巨万の富を築いて優雅に暮らしているのではなく、釣り餌店をやりながらサーフィンもし、離婚した妻との間に出来た大学生の娘とたまに会うのを楽しみにしているという生活臭のあるディテールも気が利いている。そして、60歳代にして女性関係もしっかり築いていて、別れた後でも元の妻の家に出入りしつつ、同時に恋人もいてデートを楽しむ。そうした暮らし向きが、簡潔な文章で味わい深く綴られている。

 そして、ある夜に昔のボスの息子が彼の家を訪ねてくるところから、話は一気に暗転し、彼は再び戦場に駆り立てられる。不意打ちを食らったフランキー・マシーンが、かつての凄腕を存分に見せつけながら一気に現役時代さながらに反撃を開始していく展開が巧みな筆致で語られる。

 彼がいったい誰から狙われているのか、そしてその理由は何かを自問自答する中で、彼の生い立ちが語られ、現役時代の日々が明らかになっていく。全てが血なまぐさい闘争場面ではなく、古き良き時代のギャングたちの日常生活が綴られていて、ある意味、郷愁を誘うような部分もある。現実のマフィアの生態がどんなものか私は知らないが、かつてのマフィアとはこんなものだったかもしれないなと思わせるものがある。

 現役を引退した後の生活というものを、私自身あまり考えたこともないが、自分流のスタイルに徹した幸せな生き方というのが、老後にもあるんだなと実感させられる小説だった。フランキー・マシーンのマフィア時代の友人、相棒が次々に命を落としていく中で、彼が生きながらえて平和な余生を送れたのも、おそらく分をわきまえ自らを自制していく、彼なりの人生の流儀があったからだろうと気付かされる。何より、無分別に金儲けに走らず、野心と欲望を抑えたストイックな人間像がいい。

 一流のプロフェッショナルの生き様を描いた小説を、久し振りに読んだ気がする。こうした小説で以前に読んで印象に残ったものに、スティーヴン・ハンターの「極大射程」がある。あとは随分昔に読んだものだが、ロバート・ラドラムの「暗殺者」もいい。どの主人公も、しぶといまでの強さと、人間的な血の通う温かさを持っている。

 さて、こうして読書に明け暮れるのもいいが、来週辺りはそろそろ散歩に出掛けたいものだ。梅雨のさなかだから天気は思うに任せぬところがあるが、とにかく幸運を祈ろう。

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2011年06月11日

雨の日に青空文庫

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 昨夜は激しい雨音で、何度か夜中に目が覚めた。夕方から随分と降っていたが、どうやらそれは前奏みたいなものだったらしい。今朝はさすがに小降りになっていたが、朝ご飯を食べ終わって暫くすると、再び雨脚が強まり出す。下手をすればこの土日は家に釘付けだ。

 この感覚、以前にもあったなぁと思ったら、5月の終わりの週末がちょうどこんな感じだった。土日とも雨にたたられて読書して過ごしたんだった。あのときは梅雨ではなかったが、季節外れの台風が来ていた。昨日からの天気予報を見る限り、この週末も同じ運命をたどるおそれがある。

 取りあえず朝から洗濯をする。乾燥機があるからこそ、こうして天気を気兼ねせず洗濯ができるのであって、乾燥機なしのまま週末に雨に降られると、単身生活者は困ってしまう。平日にいくら天気が良くても、朝洗濯物を干して仕事に出掛けるのは不安がある。突然雨が降ったら取り込めないままずぶ濡れになるだろうし、風が吹いて洗濯物が飛ばされても、夜帰って来て真っ暗な中を探しに行けない。懐中電灯持って路地をウロウロしていたら、ご近所から警察に通報されかねない(笑)。

 洗濯物を乾燥機にかけてから、ワイシャツをアイロンがけする。今週から半袖シャツにしているので、その分手間が省ける。ワイシャツのアイロンがけはけっこう適当にやっているのだが、それでも何枚かかけると、袖のあるなしで費やす時間はハッキリ変わるものだ。

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 その後パソコンを立ち上げてメールをチェックし、ついでにニュースサイトをはしごする。私は新聞を取っていないものだから、週末はインターネットが頼りだ。テレビのニュースは定時にしかやらないし、時間が短いのでトピック的な話題しか取り上げられない。その分インターネットのニュースは、世界中の全分野を網羅しているので、興味のあるものを選んで短時間で効率よく見ていけ、たいそう便利だ。テレビニュースは受け身だが、インターネットのニュースは能動的だと思う。

 そうこうしているうちに昼になる。雨は上がり、心なしか空が明るい。もしかしてこのまま午後は天気が良くなるのではないかという期待が湧く。昼の天気予報を見ると、梅雨前線が少し南に下がったらしく九州南部は激しい雨が降っている様子だ。ただ、福岡の天気は午後から雨マークになっており、この曇り空は雨雲のつかの間の休息といったところかもしれない。

 食材は昨晩のうちに買って来てあるので、買い物に出掛ける必要はない。昼飯はそばを作ることにする。温かいそばにしたのだが、そろそろざるそばでもいいのかもしれないと、作ってから思う。後悔先に立たずというヤツだ。

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 食事が終わっても雨は降り出さず、相変わらず空は明るめなので、どうしたものかと判断に迷いつつ、パソコンを立ち上げて天気予報を確かめる。以前、こうした雨の合間に散歩に出掛けて、15分ほど歩いたところで猛烈な風雨に見舞われ、泣く泣く戻って来たことがあった。雨の合間の天気は実にたやすく崩れることを、そのとき思い知ったのだ。

 もう暫く様子を見るかと思いながら、久し振りにインターネットで「青空文庫」に接続する。聞いたことのない人も多いかもしれないが、青空文庫はインターネット上にある電子図書館で、著作権の切れた小説やエッセイなどの文学作品を読むことが出来る。

 「青空文庫」 http://www.aozora.gr.jp/index.html

 ボランティア諸氏の長年の努力により、膨大な数の本がアップされていて、ちょっと読み始めると時間がたつのを忘れる。著作権切れの作品が主体なので、最近刊行された本はもちろん掲載されてないのだが、例えば、夏目漱石や芥川龍之介、森鴎外、太宰治などの文豪、北原白秋、中原中也などの詩人、尾崎放哉、種田山頭火などの俳人といった、教科書に登場した昔懐かしい作家の作品に出会える。他にはわずかだが、紫式部の源氏物語現代語訳や鴨長明の方丈記などの古典作品、オー・ヘンリー、ロマン・ロランなどの外国作家の作品もある。

 青空文庫は1997年にスタートしたサイトで、以前は物珍しさも手伝ってけっこう訪問していたのだが、最近はとんとご無沙汰している。それが何故突然接続したかというと、掲載作品数が1万点を超えたというニュースが、朝方見ていたニュースサイトにあったからだ。へぇ〜と思って久し振りに接続したら、懐かしさのあまり、ついつい読み始めてしまった。

 このサイトに来てよく読むのは、高校生の頃に愛読していたような作品とか、買ってまで読もうとはしない評論やエッセイなどだ。いずれも時代の評価を潜り抜けて来た作品だけに、社会人になってから改めて読み直してみると、高校生の頃に読んだのとはまた違った感動がある。

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 今回は、高校生の頃よく読んだ芥川龍之介と中島敦の作品に目を通したあと、ちょいとロマン・ロランのジャン・クリストフを拾い読みする。これはかなり長い小説なのだが、大学生の時に全巻買って読んだ覚えがある。ベートーヴェンをモデルにした作品で、ロマン・ロランはこれでノーベル文学賞を受賞した。確かこんな場面があったなぁと思って探したが、見つからず断念。でもさすがに今では、これを最初から通読する元気はないな。

 その後は種田山頭火の「草木塔」を読む。山頭火は、尾崎放哉と並ぶ自由律俳句の代表的存在で、出家して各地を旅して句を残した。山頭火を一人の人間として見れば、充分人間失格と言える破滅型の人物だが(笑)、彼が旅の途中に詠んだ句には、何故か惹かれるものが多い。

 私は天気が良ければ週末に色々なところを散歩しているが、郊外の自然の中を歩いていると、ふいに山頭火の句が思い浮かぶことがある。彼もこんなふうに一人で自然の中をあてどなく歩いていたのかなと思う。彼の句の中に共鳴するものがあるとすれば、その行乞流転の旅の中で彼が見たものと、私が散歩の途中で感じることとが、どこかしら重なり合っているのだろうか。


  落ちかかる月を観てゐるに一人

  まつすぐな道でさみしい

  また見ることもない山が遠ざかる

  うしろすがたのしぐれてゆくか


 いずれも草木塔に収録されている句だが、これらの句を読むと、山頭火が鄙びた土の道を歩いている姿がふっと心に浮かぶのである。そして週末の散歩の中で、私もまた同じような鄙びた道を選んで歩いている。仕事を捨て、家族を捨て、何もかも捨てて自由の身になった山頭火は、何にも縛られずあてどなく旅をして、自然を見、句を詠んだ。彼のような境地に達することは決してなかろうが、無心に歩き、曇りのない目で自然を見たいという願望は私にもある。


  山あれば山を観る
  雨の日は雨を聴く
  春夏秋冬
  あしたもよろし
  ゆふべもよろし


 久し振りに草木塔を読んで、少し外を歩きたくなった。夕方になっても雨は降り出さないので、傘を持って出掛けることにする。

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 山頭火を気取って自然の中を歩こうとすればかなり遠出をしなければならないので、海辺に出ることにした。百道浜の方に行くか福浜の方に行くか迷ったが、福浜の方が人がいないだろうと考えて、福浜緑地を目指す。

 少しひんやりとして、昨日とは空気が違う。現在福岡は梅雨前線の北側になっているので、大陸から冷たい空気が入って来ているのだろう。福浜団地の中を通って、道路脇の遊歩道に入り、高速下のゲートを通って浜辺に出る。

 私を出迎えてくれたのは三匹の野良猫だけで、浜辺に人はいない。いつもならちらほらと浜辺を歩く人を見掛けるが、こんな天気の中をわざわざ散歩する人なんていないんだろう。

 雨が上がっているので、遠くにうっすらと志賀島が見える。雲は低く垂れ込め、島の上辺にかかっている。風があるせいか、波に少々勢いがあり、海の色もどんよりとくすんでいる。初夏なのに、風景自体が少し寂しげだ。

 誰もいないと思って波打ち際まで来ると、大きな水鳥が慌てて飛び立つ。打ち寄せられた物の中に餌でも見つけたのだろうか。彼が飛び立った辺りを見ると、大きな流木が濡れて横たわっていた。

 沖を見やりながら、波打ち際を暫し歩く。こんな海岸を僧衣姿の山頭火が歩いていた姿を想像する。彼のような破滅型の放浪俳人が、多くの人から今なお愛される理由はいったい何だろう。

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 そうこうしているうちに空が次第に暗くなって来たので、再び雨が降り出す前に家路を急ぐことにする。ゲートのところで猫たちにお別れの挨拶をする。彼らもまた、帰る家も家族もなく、無一物で浜辺を放浪する身だ。時折浜辺を訪れた人間たちに餌を貰ったりするのだろうが、それもまた、施しを受けながら流転の旅を続けた山頭火と同じだ。唯一の違いは、山頭火が自然と向き合いその美しさを愛でたのに対して、猫たちはその自然の一部だということだろう。


 けふもいちにち風をあるいてきた

 わがままきままな旅の雨にはぬれてゆく


 さて、明日の天気はどうなることだろう。少しの間でも雨が上がって散歩が出来ればいいのだが・・・。

posted by OhBoy at 23:22| 日記

2011年06月05日

スーパークールビズ

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 会議で今週後半はずっと東京にいて、今夜福岡に戻って来た。幸い雨には降られなかったが、今日、山口県を含む九州北部が梅雨入りしたと気象庁より発表があった。北九州だけポツリと取り残されていたから、梅雨に入るのも時間の問題とは覚悟していたが、いざそう宣言されると、気分的に滅入るなぁ。

 東京では水・木と気温が低めで、背広を着ていてもおかしくはなかったのだが、金曜は少々気温が高くて汗をかき、今日はもっと蒸し暑かった。いや、クールビズでも問題はなかったのだが、あるセッションだけ背広が必要だったので着て帰ったのである。

 既にニュースで盛んに宣伝されているが、今年の夏は節電を徹底する観点から、ゴールデンウィーク明けから前倒しでクールビズが進められている。クールビズ自体は既に2005年から環境省が中心になって行っているが、今年は一段と進化を遂げて「スーパークールビズ」というのが流行らしい。どんなものかとネットで見ていると、ポロシャツありアロハあり、パンツはジーンズやハーフパンツもOKらしい。かなりゆるい服装コードだ。

 5月の終わりにユニクロが、スーパークールビズの着こなし方法を提案するための発表会を東京都内で開いた。その模様をニュースで見て、これが通用するかどうかは業界によるだろうなぁと思った。接客業だと相当難しかろう。外部の人に会わない内勤の人なら問題なかろうが、そういう人は既にかなりラフなスタイルで勤務しているのではないか。

 そうは言いつつ、私は背広至上主義者ではなく、ラフな恰好の方が好きだ。汗かきだからというのもあるが、背広にネクタイというスタイルが、明らかに日本の気候に合っていないにもかかわらず長らく強制されて来たことへの反発もある。

 背広にネクタイというスタイルは、欧米のような、夏でも乾燥していてカラッとした気候の下で着る服装だ。ヨーロッパなど、標準装備だと自動車にクーラーがついていないという国も多いらしい。日本とはまるで環境が異なる国なのだ。

 服装というのは、気候風土に合わせてその地域ごとに過ごしやすく選べばいいので、何でもありがたがって西洋の真似をすればいいというものではない。背広にネクタイというスタイルは、日本のような高温多湿の地域で着るべきものではない。にもかかわらず長らくそうしたスタイルが続いたのは、明治時代の西洋に追いつけ追い越せの気風がそのまますたれずに今日まで続いて来たからだろう。如何にも日本らしい舶来趣味の残滓なのだ。

 日本人の多くは気付いていないが、日本という国は、欧米の人から見ればれっきとした不健康地の一つである。それゆえ、健康管理のための特別休暇を日本駐在員に与えている国もあると聞く。そんな不快指数の高い国の、しかも最も不快な夏のさなかに、背広にネクタイという恰好を意地で通すなんて、愚の骨頂じゃないかと私は思っている(笑)。まぁ西洋コンプレックスゆえに我慢して着て来たんだろうが、思えば何とも哀れで悲しい話だ。

 同じように高温多湿の東南アジアの国では、背広以外に正式な民族服というのを定めている。フィリピンでは「バロン・タガログ」という刺繍入りの白いシャツがあり、インドネシアでは「バティック」というろうけつ染めの布で作られたシャツがある。どちらも、上着なしでそのシャツさえ着ていれば、正式な場にも出られるというルールだと聞く。お蔭で日本から行った駐在員諸氏は、必ずその種の服を買い揃えているらしい。その地の気候に合っていて快適だからだ。

 日本には残念ながら、そういった民族の知恵ともいうべき正装がない。本来はゆかたがそれに当たるのだろうが、明治になってそんな日本文化を捨てて、無理に西洋の服装で通した。元々気候風土が異なる場所で着られている服だから、日本の夏にはまるで合わない。お蔭で夏場には汗だくになりながら意地で着通した。まるで我慢大会だ。クールビズのない時代には、みんなよく我慢していたと思う。

 私の記憶では、クールビズを環境省が提唱した時には、ネクタイ業界がこぞって反対した。夏の間ネクタイなしでいいとなれば、ネクタイの売上げが激減して困るという理由だった。私はけっこうその主張に怒りを覚えたものだ。自分の商売のために、世の中のサラリーマンがどれだけ不快な夏を過ごすことになるのか、知っての上での行動だからだ。それ以来、ネクタイもネクタイ業界も嫌いになった(笑)。

 かつては、夏にサラリーマンが背広にネクタイで過ごさなければならないから、電車内や飲食店、オフィスなどは冷房を強くしなければならなかったのであり、女性は冷え性対策で困っていたわけだ。言うなれば、西洋の真似をするために国民みんなが犠牲になって我慢していた。そんなことをずっと長い間やって来て、いったい何のご利益があったというのか。外回りしている人は汗だくになって背広をひと夏でダメにし、夏バテで健康に支障まで出ていた。そんな現状を知っての上でのネクタイ業界の姿勢には、ホントに腹が立ったよ。

 さて、そうはいっても長らくサラリーマンをやっていると、スーパークールビズのように急激にラフな方向に行くのにも抵抗がある。上に書いたように、東南アジアの国でも「暑けりゃラフな恰好でいい」とは言っていない。その国の気候にあった国民向けの簡易な正装を定めているわけだ。アロハやハーフパンツでもOKというのとは、質が違う対応だ。

 スーパークールビズもいいけれど、日本らしいセンスの、気候に合った正装をこの際定めればいいんじゃないのか。何と言っても先進国なんだから、ドンドン服装のコードが乱れるばかりじゃあ、体面が保てなくなるんじゃないかと心配だ。日本からフィリピンやインドネシアに赴任した駐在員諸氏がバロン・タガログやバティックのシャツを買い求めるように、日本に来た外国の駐在員の方々が、如何にも日本らしいじゃないかと一着買ってみたくなるような夏の正装を作るのが、本来の正しい在り方のように思える。

 沖縄には「かりゆし」という半袖開襟シャツがあるが、あれだって昭和の時代に沖縄の人が考案し県をあげて育てた正装だ。本土だって頑張れば出来るんじゃなかろうか。


posted by OhBoy at 23:29| 日記

2011年05月29日

台風襲来

 今朝は風の音で目が覚めた。戸外でブーンという音が聞こえる。電線が強風にあおられて立てている音だろうか。昨日は雨といっても比較的穏やかだったが、今日は激しい天候だ。起きてカーテンを開けると、窓ガラスに雨が叩きつけられるようにして降っている。こうなると、買い物のための外出すら敬遠したくなる。

 天気予報をつけると、台風2号は九州南部の海域を通過するらしい。昼頃に最接近のようだが、雨風の強さは台風の位置とずれることがあるので、午後に天気が回復するとは限らない。逡巡することなく読書の一日と決めた。

 まだ読んでいない本の中から暫し考えて選んだのは、三津田信三の「山魔(やまんま)の如き嗤う(わらう)もの」である。講談社文庫から文庫版が今月発売されたばかりで、書店で見つけた瞬間に買った本だ。

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 この本は、全国を放浪して怪異譚を収集する小説家「刀城言耶(とうじょうげんや)」を探偵役とするシリーズで、既に講談社文庫から発刊されている「厭魅(まじもの)の如き憑くもの」「首無(くびなし)の如き祟るもの」の2冊は読んだ。今回の「山魔の如き嗤うもの」は、講談社文庫版としては3作目に当たり、単行本として出た際に2009年の「本格ミステリ・ベスト10」一位に輝いた作品である。

 物語の舞台は戦後まもなくの山間の集落で、成人した男子が一人で霊山にお参りする通過儀礼から始まる。話の主人公がその途中で道に迷い、誤って入山を禁止されている忌み山に入り込み、夜になって一軒家にたどり着いて、不思議な山人一家と遭遇する。しかも彼らは、翌朝、密室状態の家から忽然と姿を消してしまう。この手記に興味を持った刀城が赴いた現地で、村に伝わる六地蔵の童唄に見立てて連続殺人が起こるというのが主な筋立てである。

 刀城言耶シリーズは推理小説であり、動機もトリックも仕込まれていて一応合理的なストーリーになっているが、どこかにホラーの要素がきちんとあって、読後感はすっきり合理的に話が片付いたというより、怪異の余韻がしっかりと残る構成になっている。その辺りが、他にもたくさんある土俗風味の推理小説と違うところだろう。

 この作品の中では、忌み山に棲むという山魔の存在が一つの伏流になっているが、それがかつてあった姥捨ての風習と重ねられていたり、山の中をたった一人で歩く原始的恐怖を様々に脚色したりしていて、恐怖のあおり方がうまいなと感心する。

 これをゴウゴウと風がなる薄暗い室内で一人読んでいると、なかなか雰囲気があって宜しい(笑)。怖いのが苦手な人には、一人深夜にこの本を読めといっても敬遠されるかもしれない。いっそ、この本を読んだ後に一人で曇り空の中を登山したりしたら、もっと盛り上がるんじゃなかろうか(笑)。

 最近とんと行かなくなってしまったが、東京にいた頃、たまに電車で埼玉県北部まで出掛けて山登りをしていた。たいていは息子と一緒だったが、一度夏の日に一人で山に登ったことがあった。そのときはいつも行く山ではなく、初めての山を登ったのだが、どういうわけだか登山道に誰もいなかった。これはなかなか珍しいことで、たいていは登る時も下りる時も誰かと出会って挨拶するものだが、この時はたった一人で初めての山道を歩いた。

 私は超自然現象を信じる方ではないが、大自然の中をたった一人歩くというのは、気持ちのいい反面、どこか原始的な恐怖を湧き上がらせる要素がある。山魔が出るというわけではないが(笑)、例えば途中で足を滑らせて崖下に落ちたらどうなるだろうといったような不安が芽生える。山の中では携帯電話の電波が届かないので、他のハイカーに見つけてもらうしかない。もし誰も通り掛らなかったらどうなるのだろう・・・。

 あるいは道に迷って辺りが薄暗くなり、下山口が見つからなかったらどうするのか。おそらくいないと思うが、道の先の笹薮からクマが出て来たらどうするのか。こうしたこともまた原始的な恐怖を呼び起こす不安材料である。

 科学の発達していない昔は、こうした原始的恐怖が妖怪や怪異として形を取って山の中に存在していた。だから、事故の多い山は忌み山として入山を規制されたのだろう。妖怪が出るとか怪異があると言えば、当時は誰も怖がって入山しない。言うなれば、昔の人の知恵だ。

 そんな妖怪変化や怪異譚は、文明社会の到来と共に次第に我々の周りから消えて行った。自然の隅々まで詳細に明らかになって、謎はなくなり、闇も消えた。闇のない社会には妖怪や怪異は身の置き場がない。だから現代の都市伝説と称される怪異譚には、人を怖がらせる要素しかない。人々の生活の知恵や、古来からの言い伝えなどとはキッパリ縁を切った存在なわけだ。

 でも、今回節電が叫ばれるようになって、公共空間の片隅に小さな闇が出来つつある現在、こうした原始的恐怖がもう一度息を吹き返し、山魔のように人々の心に宿るようになるかもしれない。暗がりに行ってはいけないよ、というのは、我々世代が子供の頃に親から言われた警告だった。それだけ暗がりが日常生活の中にあったからだろう。

 さて、来週は会議で東京に出張である。従って、福岡での週末の散歩はお休みということになる。もうそろそろ北九州も梅雨入りだろうから、これから暫くは週末の散歩は難しくなるかもしれない。運動不足にならないようにしないといけないなぁ。

posted by OhBoy at 22:16| 日記

2011年05月28日

雨の週末

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 今日は起きたらしとしと雨が降っていた。昨夜の天気予報では、朝から激しい雨が降るかのように報じていたので、もしかしたら予報が外れて雨が上がったりするのかなと期待して天気予報を見たが、残念ながら終日雨マーク。明日はもっとひどくなりそうな雲行きだったので、散歩は無理かなと諦める。

 この週末は台風2号の影響でかなりの雨になると職場で話題になっていたため、土日に家にこもり切りになってもいいように、昨夜のうちに食料を買い込んで来た。台風に直撃されない限り、傘さえ持って出れば買い物は可能なのだが、本降りになるとさすがに外出が億劫になるからなぁ。

 そういえば今週は、沖縄、九州南部を皮切りに関東・甲信や東海まで梅雨入りした。しかしどういうわけだか、福岡を含む北九州はまだ入梅宣言が出ていない。天気の方はすっかり梅雨の気配で、もう水ガメの心配はいるまいという程に降ったのに、まだ梅雨ではないらしい。何とも不思議な気分だ。

 いずれにせよ、今日も明日も雨だから、いつ洗濯しようと条件は同じだろうと、午前中に洗濯をすることにした。洗ったものは乾燥機に放り込み、ワイシャツをアイロンがけする。雨の週末ともなると、乾燥機というのはまことに便利な文明の利器だ。

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 さて、先週末はブログをさぼってしまったので、これが2週間ぶりの書き込みとなる。先週末はネタがなくて書かなかったのではなく、親戚の方々が福岡まで訪ねて来てくれて、楽しい週末を過ごしていたためだ。

 福岡という街は、一般には観光地と思われておらず、観光客は福岡空港に到着するなり、市内を素通りして太宰府天満宮に行き、その足で次の目的地長崎を目指す、みたいな日程になりがちである。私は週末ごとに市内をあちこち散歩しているが、観光バスに乗った団体さんと出くわした経験はほとんどない。

 福岡で観光名所を推薦してくれと言われたら、いったいどこを挙げればいいのだろう。これはなかなか難問だ。たいていの観光客のお目当ては、福岡での食事でしかない。中洲か長浜辺りの屋台でラーメンというのが定番だろう。目で見て楽しむものと言えば、いったい何があるのだろうか。今回の親戚ご一行様の受け入れに当たっても、これはおおいに頭を悩ました問題だった。

 私が取ったコースは「柳橋連合市場の魚屋見学→櫛田神社とその界隈の博多の街並み→キャナルシティー→長浜→舞鶴公園周辺(鴻臚館跡、福岡城址、大濠公園)→浄水通り界隈(16区での買い物を含む)→天神界隈(水鏡天満宮、親富孝通り含む)」というのが一日目で、二日目は「サザエさん発案の地→福岡市博物館→福岡タワーと百道浜→太宰府天満宮」といったラインアップだった。

 食事は、豚骨ラーメンにもつ鍋、ちゃんぽん・皿うどんに、イカの活き造りを含む海鮮料理といったところで、これにあと水炊きが入れば、福岡の代表的料理は網羅したことになっただろう。ちなみに一口ギョーザはラーメン屋で食べた。

 こうして並べて見ると、観光ポイントとしては太宰府天満宮を除くと少々マイナーで、福岡タワーと博物館は市のシンボルだから多少有名だとしても、他は一般に知られていないスポットじゃなかろうか。お蔭で、たいていの人は福岡と言われても、パッと頭に浮かぶイメージを持っていない。

 博多祇園山笠は有名なお祭りだから、全国的に知られているに違いないと思う人が福岡には多いだろうが、確かに名前は有名だが、山笠そのものがどんな外観なのか意外に知られていない。福岡空港に舁き山が飾られているがそれほど乗降客は見ていないし、インパクトの強い飾り山笠は、櫛田神社に行かないと見ることが出来ない。そして、その櫛田神社が規模の小さな神社だから、観光客が立ち寄らないのである。かくして福岡と言うと、もっぱら中洲の屋台という夜のイメージが主流になるわけだ。

 こういう状況で、何を見せれば福岡のイメージがいいものになるのか、これは意見の分かれるところだろうが、歴史好きというケースを除けば、百道浜界隈の街並みと浜辺がまぁ候補の一つかなという気がする。福岡に人にしてみれば単なる住宅エリアかもしれないが、海辺に面した福岡の開放的な雰囲気がよく出ている区域だという印象がある。

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 福岡の観光談義はそれくらいにして、本日は家にこもって本を読んだ。この前から読み続けているダン・ブラウン著「天使と悪魔」である。上中下と3巻ある長編小説だ。

 著者のダン・ブラウンはアメリカの小説家だが、著作はそう多くない。「ダ・ヴィンチ・コード」を書いた人と言ったら分かるだろうか。ちなみに「天使と悪魔」は「ダ・ヴィンチ・コード」同様、宗教象徴学を専門とするハーバード大学教授のロバート・ラングドンが主人公だが、実は作品の発表年としては、「天使と悪魔」の方が「ダ・ヴィンチ・コード」より先だ。しかし、世界的なベストセラーになったのは「ダ・ヴィンチ・コード」の方で、お蔭で「天使と悪魔」がそのあとになってから注目される形になってしまった。私の場合も「ダ・ヴィンチ・コード」を先に読んで、この作家に興味を持った形だ。

 「ダ・ヴィンチ・コード」同様、歴史的事実を巧みに織り交ぜて話を構成しているが、「天使と悪魔」の方がアップテンポなうえ、核兵器以上の破壊力を持つ反物質や、圧倒的速さの超音速機など、SF的な要素も取り入れられていて、アクション系のサスペンス小説みたいな感じだ。

 ロバート・ラングドンが欧州にある研究所の所長から、研究者の他殺体に残された紋章について問い合わせを受けるところから話が始まる。ラングドンはその紋章が、中世にカトリック教会と対立していた伝説的な秘密結社「イルミナティ」のものと推理する。殺人犯はそこで研究されていた反物質を盗み出し、ローマ教皇選出の真っ最中であるバチカンを破壊すべく反物質を仕掛け、同時に次期教皇として有力視される4人の枢機卿を誘拐し、イルミナティゆかりの場所で1時間ごとに殺していく。ラングドンはバチカン所蔵のガリレオの書物を頼りに殺害場所を推理しながら、盗まれた反物質を発見すべく奮闘する。

 「ダ・ヴィンチ・コード」同様、歴史的な手掛かりをたぐりながら古い史跡を駆け回って推理していく過程がなかなか面白く、我々日本人が知らないキリスト教の裏面史なども垣間見ることが出来る。確かに、中世のローマ教会って宗教団体というより勢力を拡張していく帝国のようだったからなぁ。

 この本の背骨を貫くテーマは、神と科学という対立軸である。かつて人類の上に君臨した神と教会に対し、近代以降人々は科学を崇めるようになった。科学の萌芽期に、神の教えを否定する科学者を徹底的に弾圧した教会と、それに対抗するために秘密結社として集まった中世の科学者たちの対立が、現代のローマに持ち込まれて再び激突するのだが、そのテーマが小説の最後の最後まで続いていく。一見事件が解決したかのように見えた終盤から、更に意外な方向に展開される人間ドラマがなかなか良い。

 私はこの小説を読みながら、福島原発事故を思い出してしまった。小説の後半で前教皇の侍従が科学と宗教の対立についてテレビカメラに向かって長々と演説する下りがあるが、今回の原発事故と重ね合わせると、この部分はうなづくべき箇所が多々ある。そういう意味では考えさせられる部分も多かったなぁ。

 さて、明日もまた雨マークのうえ、更に激しく降るかのような予報だ。再び読書の一日になるのだろうが、次は何を読むかな。

posted by OhBoy at 23:38| 日記

2011年05月15日

鴻巣山へ長距離散歩

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 今日は朝起きたら、昨日に引き続き気持ちの良い晴天。絶好の散歩日和である。昨日は午前中を中心に風が強かったが、今日はそれ程でもない。こういう天気が続いて欲しいなぁと思うような理想的な空模様である。

 思い付いて、午前中フトンを干す。実は以前、風の強い日にフトンを干して、風にあおられてフトンが階下まで落ちて汚れてしまった悲しい事件があった(笑)。その時に、二度とフトンは干すまいと堅く心に誓ったのだが、今日のような理想的な晴天を前にすると、何となく干してみようという気持ちになった。でも、目の届く範囲で、短い時間干すだけにする。失敗から学ばない者は愚者である。

 さて、せっかくの散歩日和なので本日は気合を入れて歩こうと、今まで足を踏み入れていないエリアを目指すことにした。福岡市南部の中央区と南区の境にある「鴻巣山(こうのすやま)」である。行って帰って来ると、軽く10kmは超えるのではないかと思う。私の住んでいる場所から、歩いて鴻巣山に行って帰って来ようという人はまずいないだろう。

 福岡市の南部には南区や城南区があるが、ほとんど足を踏み入れたことがない。住宅地中心であまり目標となるスポットがないほか、道が入り組んでいて分かりにくいからだ。また、バス以外の交通手段がなく、便数や時間の正確さがあまり頼りにならないため、いざとなれば家から歩いていくしかないという問題もある。大きな川でも流れていれば、それに沿って歩くという手もあるが、そういっためぼしいルートもない。

 鴻巣山も以前から知ってはいたが、歩いて行くには少々遠いと敬遠していた。しかし、色々散歩しているうちに南公園くらいまでなら軽く歩けるという自信が付いたため、更にもう一歩踏み出して挑戦してみるかという気分になった次第である。

 スタート地点は、毎度お馴染みの大濠公園とする。今日も昨日と同じく大勢の人で賑わって、何とも平和な休日の風景である。

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 まずは昨日と反対周りで池に沿って南に下り、「大濠1丁目」の交差点を目指して「さつき橋」脇から公園を出る。交差点から「油山観光道路」に沿って南へ歩くルートを取ることにする。

 以前この付近を南下するのに「樋井川(ひいがわ)」沿いの道を歩いたことがあるが、車道と歩道の区別のない道で交通量もそこそこあり歩くのにはやや不向きなため、本日は幹線道路である油山観光道路を使う。こちらはたっぷりとした歩道が付いている。ただ、この通りは自動車道としては便利だろうが、機能一辺倒で街並みは味気ない。おまけに街路樹がないので、直射日光が照りつける。こうしてみると、どっちもどっちかな。

 九州大学の旧六本松キャンパスがある六本松西交差点を渡ろうとしたところで、以前から見ている風景と何かが違うような気がした。どういうわけだか開放的で明るいのである。いったい何がそう感じさせるのだろうと辺りを見渡してはたと気付く。九大旧六本松校舎が取り壊されて、ぽっかりと空間が出来ているのである。

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 ここは旧制福岡高等学校があった場所で、その後は九大の教養部が置かれていたと聞く。2009年に伊都キャンパスに移転したようだが、建物だけはつい最近まで残っていた。けっこう立派なビルがデーンとそびえていて、この辺りのランドマーク的存在だったのではなかろうか。いったいいつ取り壊したのだろう。卒業生が見たら悲しむかな。

 六本松に教養部があった時代にはこの付近には学生街が形成されていたと聞いたことがあるが、今では普通の街並みになっている。今回建物が取り壊されたあとに何が建つのか知らないが、近辺の現況から推察するに高級マンションなんぞが建設されるのではないか。そうなると、ここが学生街だったことを知る人はやがていなくなるんだろうなぁ。

 さて、六本松を通り過ぎて暫く行ったところで「梅光園緑道(ばいこうえんりょくどう)」に入ることにした。この道の方が多少は近道になるし、油山観光道路より散歩に適している。

 梅光園緑道は以前にも通ったことがあるが、車の入ってこない歩行者専用道で、静かな上、木陰もあって歩くにはもってこいだ。単なる歩道ではなく、ところどころ公園みたいなしつらえになっているが、元は筑肥線の線路があった場所だ。

 距離にして1km程度だが、いくつかのエリアごとにテーマが設けられている。北から南に道をたどると、最初に健康遊具のコーナーがあり、その次は松の広場だ。その先のアーチトンネルをくぐると、梅の広場、石の広場、芝生の広場、笹の広場と続き、噴水があって、最後は彫刻の広場となる。

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 現在の筑肥線はJR九州が運行しており、福岡市の西にある姪浜駅から佐賀県唐津市へ向かう路線になっている。だが、元をたどれば私鉄の「北九州鉄道」が博多と伊万里を結ぶために作った路線で、戦前になって国有化された。以前は姪浜ではなく、福岡市の中心部である博多まで線路が通っていたが、地下鉄開業に合わせて昭和58年に姪浜以東の線路が廃止された。その線路跡を緑道にしたのが梅光園緑道というわけだ。

 梅光園緑道を南まで歩き切ると、同じく筑肥線跡地を道路にした「筑肥新道」という幹線道路に出る。この道路をこのまま東にたどると、那珂川を渡り、以前に行った美野島の辺りで北にカーブを切ってJR線に併走する形になって消える。これがかつての筑肥線のルートということだろうか。

 梅光園緑道の終点までは以前来たことがあるが、ここから東に向かってのエリアは、まだ足を踏み入れたことのない場所だ。鴻巣山に行くには、ここから東の方に2km弱行ったところを南に折れるというルートになる。六本松からは、ずっと旧筑肥線線路跡をたどりながら歩いているということになる。

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 筑肥新道は幹線道路なので、平坦な道かと思ったら、微妙に起伏がある。この道路は東西方向に走っているのだが、道の北側が南公園のある「大休山(おおやすみやま)」で、南側にも無線中継塔の立つ丘陵地がある。つまり、広い意味でこの辺り一帯が昔、山地だったんだろう。

 南公園は動物園や植物園があって有名なため誰でも知っているが、その南公園がある山の名前はとなると、意外と福岡の人は知らない。西公園のある荒津山の名前もそうかもしれない。ちなみに、無線中継塔の立つ丘陵地も低い山だが、その名前は地図にも記されていなくて分からない。というか、地図を見る限り、そこが山だということが全く分からず、単なる住宅地のように表示されている。おそらく鴻巣山から西に連なる山なんだろう。

 大休山は、江戸時代に那珂郡や早良郡から福岡城下に入るための峠道があったところで、ここを越える人が峠の頂上で一休みしたので、この名前が付いているともいう。今は道路が整備されていて車ならあっという間に上り下りできるし、歩いて行くにしてもさして難儀ではない。しかし、江戸時代にはなかなか厳しい山だったようだ。おそらく大休山だけでなく、その手前の山も越えて行かなければならなかったからではないか。

 享保の大飢饉の時に、食料の尽きた南部の村々から福岡城下での炊き出しを求めてやって来た人々が、峠を越える辺りで力尽きて次々に餓死したという。当時のそうした犠牲者を弔う地蔵や供養墓が、今でも南公園内の片隅に残っている。

 さて、南公園を少し越えた辺りで筑肥新道を南に折れ、鴻巣山への入り口を探す予定だったが、ここで事件発生。道に迷ってしまったのである。実は交差点の名前を勘違いしていて、誤った道を南下してしまったようだ。だいぶ進んだところで気付いて地図を確かめるが、住宅街の中なので目印となるものがない。おまけに山の斜面にある住宅地なので、すごいアップダウンがある。ちょいと先まで行って様子を見るかなんて気持ちにはならないエリアである。

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 本来なら「平尾霊園」を目指して行き、霊園の奥から鴻巣山に入るのが確実なルートだが、ウォーキングを趣味にしていると、脇道や裏道を通りたいという妙な欲望が湧く。今回は「平尾西口」という入り口から鴻巣山の自然散策道に入るつもりで地図を調べていたのだが、これがなかなか分かりにくい場所にある。

 とにもかくにも自分がどこにいるのかを知らなくてはならない。キョロキョロしていると住宅街の中に緑地を発見した。早速地図を広げて、それがどの緑地か探す。小さな緑地なので地図には名前が出ていないが、道路の交差具合と緑地の位置関係などから、おそらくこの地点だろうと目星を付ける。祈るような気持ちで無人の住宅街を進むと、地図にある次なる緑地が見つかった。どうやら最初の推理は正しかったらしい。これで何とか正しい道を発見できる。

 暫く行くと、自然歩道の入り口を示す小さな案内板を見つけホッとする。この間、20分ほど坂のきつい住宅街の中をウロウロした。アップダウンがなければたいしたことないが、こんな道、よく自動車が上るなぁと思うような急勾配もあって、けっこう消耗した。

 それにしても、散歩の折に腕時計に付けている方位磁石が、こういう場面で役に立つ。以前アウトドアの店で買った本格的なものだが、これと地図のお蔭で、迷子になるたびに窮地を脱して来た。街中、特に入り組んだ住宅街では方位すら怪しくなることがあるから、ウォーキングに方位磁石は必須アイテムだ。

 ほどなく「平尾西口」を見つけるが、実はここからが山登り本番である。と言っても、この登山口の前の道から見ると、既にかなりの高さまで登って来たことが分かるが・・・。

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 「平尾西口」の階段を上がると、いきなり森の中である。これは本格的な山の風景だなぁと感じ入った。落ち葉が厚く敷き詰められ、道がどれなのか分からなかったが、ところどころにある土の階段を目印に、上へと登って行く。やがて山道の分岐のような場所にたどりつき、案内板を見つける。まずは山頂を目指そうと、道を右に折れて山道を上がって行った。

 東京にいた頃は、たまに埼玉県まで山登りに行っていたが、山道の整備状況としては鴻巣山は今イチの観がある。気を付けないと滑るんじゃないかと思う箇所があったり、地盤のゆるい場所に据えられた木道がぐらついていて、油断して踏み出すと足元を取られたりする。おそらくこの道は、なかなか人が来ないんだろう。

 やがて自然歩道を登り切ると、コンクリート道に出た。ここは電波塔に行くための自動車道らしいが、麓にあった門柱は閉じられ鍵がかけられていたので、車が上がって来ることはあるまい。もっとも、門柱の脇から人間は入れるので、この舗装道路を上がってくる人も多いのではないか。ここまでの道を考えると、山道に慣れていない人や、街中を歩くための靴を履いている人にはそちらの方がお薦めかもしれない。

 舗装道路の突き当たりにある電波塔まで行ってみたが、ここも門が閉められて人の気配がない。百道にある福岡タワーが今やメインなので、ここから発せられる電波はないということだろう。それにアナログ放送用らしいので、そのうち取り壊される運命なのではないか。

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 舗装道路と自然歩道の交差している地点まで戻り、自然歩道の先がどうなっているのか窺う。舗装道路からは土の階段がついていて一旦下りるようだが、その先再び上っている気配がある。その先に何があるのか木が邪魔して見えないし案内板の類もないが、登山口にあった地図では展望台があると表示されていたから、一応行ってみることにする。

 自然歩道を下まで降りて見上げると、なるほど登り道の一番上に鉄骨で組んだ物見台のようなものが見える。近づくと、かなりの高さのある展望台で、階段を上るのがちとつらい。でも、てっぺんまで行くと眺めは最高だ。

 鴻巣山は、山といっても100mほどの高さしかない。緑地保全地区に指定されているので、樹木は生えるに任せており、眺望のきくところはないのが実情だ。従って、歩いている限りはずっと森の中というわけである。それで、こんな展望台が据えられたのであろう。

 東側の眺望はあまりきかないが、他はきれいに見える。とりわけ、南側がいい。

 昨年9月末に南公園まで初めて来て、山頂の展望台から福岡市内を見渡した時、南側は鴻巣山から続く丘陵地帯に阻まれて、その向こうの街並みまでは見えなかった。緑に覆われたあの小高い一角は何だろうと思って調べたのが、鴻巣山を知ったきっかけだったが、こうして鴻巣山まで来てみると、油山まで続く福岡市南部が一望できる。遠路はるばる来た甲斐があったというものだ。

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 上の写真は、その油山方向の市街地を見たもので、冒頭の写真が海の方向を見たものである。なお、電波塔の写真もここから撮った。先ほど行った電波塔の真下からでは、木が邪魔になって全景が見えないのである。

 昨年秋に南公園に来て展望台に上った際には、桜坂に来るだけでもかなり遠いという感覚があったから、鴻巣山まで足を伸ばす気力など湧かなかったが、色々歩いているうちに、ここも散歩の射程距離になった。思い返せば何とも感慨深い話だ。

 さて、鴻巣山からの眺望を充分楽しんだところで、自然歩道を引き返し、今度はここの名物であるマテバシイの群落を見ることにする。

 マテバシイは、子供にはドングリの木という方が分かりやすかろう。秋になれば、ドングリ拾いのために子供たちが鴻巣山までやってくるのかもしれない。皆でワイワイ言いながらドングリを探して拾い集めるのは楽しいと思う。私も子供の頃、友達とドングリを拾いに山に行った経験がある。

 ここにどうしてマテバシイの群落があるかだが、元々は木炭用、あるいはそのまま薪用に植えられたようだ。しかし、戦時中にここが軍の演習場に使われて立ち入りが制限されたほか、戦後になると保全地区になってしまい伐採出来なくなったため、放置されたまま大きく育ったと聞く。

 先ほど「平尾西口」から上がって来た場所を通り過ぎて暫く山道を東に進むと、マテバシイの木々が密集している場所に出る。入り口の案内板では「マテバシイの森」と表示されている。なるほどここのマテバシイはなかなか立派なものが多い。

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 そのまま山道を進むと、やがて「平尾霊園」の一角に出る。ここは福岡市が運営する宗教不問の墓地で、園内はかなり広い。いったい自分が霊園のどの辺りにいるのか分からないので、園内を示した地図がないかと探す。区画ごとに番号が付いているので、地図さえあれば居場所が分かる。再び変なところに出て迷子になりたくなかったのである。

 当初の予定では、この霊園の正面ゲートから出て北に進み、筑肥新道に戻ろうという計画である。ほどなく園内案内図を見つけてメイン道路を目指す。緑の中に墓石が並び、丘陵地帯にあるため景色もいい。天気がいいせいか、けっこう人が来ている。ここだと、墓の区画の前まで車で来られるので便利そうだ。山の斜面にあってアップダウンがあるから、入り口から歩けと言われると、お年寄りにはちとしんどいかもしれない。

 メインの道路にはタクシーがけっこう停まっている。ここまで墓参りの人を送って来て、誰か帰りに乗る人を待っているのだろうか。そう言えば、さっき鴻巣山への入り口を探して住宅地をさまよっていたときに気付いたが、あの辺りにもたくさんタクシーが停まっていた。空車表示のままドライバーが車を離れ、ペットボトルを飲んだり、携帯電話をいじったりしていた。恰好の休憩エリアということだろうか。もしかして、この平尾霊園も、そうしたタクシードライバーの休憩エリアなのかもしれないと、ふと思った。

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 さて、一応見るべきものは見たのでここからは帰り道となるが、これがまた遠い。ただ、ここまでのところ、思ったほどには疲れていない。霊園正門から北上して筑肥新道まで戻る。来た道を戻るのではなく、今度は東側から南公園のある大休山の麓を回って行くコースを取ることにする。

 本当は、筑肥新道から裏道を利用してそのまま北に上がれば近道だが、分かりやすい道を行くと南公園のある大休山に一旦登って桜坂側に下りるルートになる。既に山には登ったので、もうアップダウンはけっこうという感じである。山を避けようすると東の麓辺りの裏道を回りこむように歩くことになるが、かなり道が複雑で迷子になりそうだ。

 もう迷うのはけっこうなので、多少距離はかかっても分かりやすい道を歩くことにした。

 ここから一気に帰るとしんどそうなので、筑肥新道に出てすぐのところにある「平尾大池公園」で休む。この公園は名前の通り池があり、全体として親水公園という感じだろうか。道路脇にあって一見落ち着かなさそうだが、道路から下ったところにあるので、公園まで下りてしまえば、のんびりとしてなかなか雰囲気のいい公園だ。

 池の周りに、中に入るなと表示があるが、子供なら絶対入るだろう(笑)。私が池のところに下りて行くときにも、何人かの子供が網とプラスチックの水槽を持って脇道から出て行った。ザリガニかカエルを捕っていたのではないか。何だか、色々な水中生物がいそうな池だ。

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 私は子供の頃に、よく用水路や池にカエルやザリガニを捕まえに出掛けた。学校が終わると、友人と待合わせをして目的の場所に繰り出す。用水路や池の中にはそれこそ子供には想像もつかない種類の生き物がいた。網ですくい取った泥の中に色々な生き物がのたくっていて、今度は何が取れたのか手で探るのが楽しみだった。

 時には水際で蛇に出あったり、ヒルに吸い付かれたりといったこともあったし、誤って靴を濡らしたことも一度や二度ではない。大きな食用ガエルを捕って持ち帰り、怒られたこともあったなぁ。でも、そうやって生き物について学んだのも事実だ。池や用水路は子供にとっての小宇宙だったし、自然について学ぶ場所でもあった。

 そんなことを考えながら池の脇にある石のベンチに座っていたら、根が生えたようになってしまった。やはり長い距離をアップダウン付きで歩き回ったので疲れているのだろう。

 座っているときりがなくなりそうだったので、立ち上がって公園の裏道沿いに東に進む。そこから脇道をたどり、「野村望東尼(のむらもとに)」の山荘をそのまま公園にした「山荘公園」に出る。ここは以前にも訪れたところで、彼女はこの家に幕末の志士たちをかくまったと伝えられている。

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 野村望東尼は幕末の女流歌人である。元々は福岡藩士の娘で、結婚後夫が亡くなり、仏門に入った。尼になってから幕末の志士たちを支援するようになる。特に長州藩の高杉晋作とは懇意だったとされる。山荘に志士たちをかくまったり、密会の場所として提供したりして、それが福岡藩に知られるところとなり、島流しにされた。彼女を助けたのは高杉晋作で、彼の手引きで島を脱出したあと、福岡には戻らず長州で生涯を閉じたという。

 以前この辺りに来た時に思ったが、周辺は品のいい住宅地で歩いていて気持ちがいい。そして、住人相手のショップやレストラン、パン・ケーキ屋なども、ちょいとしゃれた感じの店が多いと思う。和もあれば洋もあり、隠れ家的な店やら個性的な店やらも混じって、天神・大名界隈とは趣を異にした雰囲気のある街並みになっている。

 そんな街並みを楽しみながらのんびりと歩く。浄水通りと交差する辺りは店も多くておしゃれな感じだ。浄水という名前は、かつてあった「平尾浄水場」にちなんで付けられている。

 平尾浄水場は、福岡市に初めて出来た浄水施設のようで、大正時代に造られたと聞く。水源は同時に造られた「曲渕ダム」にあり、そこから送水管を引いて平尾まで水を持って来て浄水したようだ。その後水需要の高まりにより拡張を繰り返したが限界に達し、昭和51年に、油山の麓に出来た「夫婦石浄水場」に役割を譲り閉鎖された。その跡地は現在植物園の敷地の一部になっている。

 浄水通りの交差点からちょいと歩いたところに「カトリック浄水通教会」がある。この辺りの象徴的な建物として有名なようだ。

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 この隣には、アメリカ風の白い木造建築の「福岡司教館」もある。教会の真向かいはミッション系の「福岡雙葉小・中・高校」で、近くには他にもキリスト教会がいくつかあるようだ。浄水通りとの交差点界隈がおしゃれなのも、こういう環境と無縁ではないのかもしれない。

 教会の斜め前には「浄水緑地」と名付けられた傾斜地の公園がある。南公園のある大休山の斜面に作られた緑地保全地区で、昔のこの辺りの雰囲気を窺うことが出来る。せっかくだからと思って上まで登ってみたが、ベンチと遊具が備えられた広場があるだけで、誰もいなかった。

 最後のひと踏ん張りと、教会のある通りを北に向かい、城南線に出たところで西に曲がって桜坂に出る。ここからはもう地図がなくとも歩いて帰れるエリアだ。よく足を運ぶテリトリーまで戻って来た安心感からか、先ほど浄水緑地の上まで登ったのがダメ押しになったのか、足がだるくなって来た。でももう休む必要はなかろう。

 桜坂から北に延びる道をたどり、筑紫女学園の脇の道からショートカットしてけやき通りに出る。ここを西側に曲がり、護国神社を過ぎればスタート地点の大濠公園が目の前だ。

 大濠公園は相変わらずたくさんの人が行き来し賑やかだ。ここをスタートしてから戻って来るまで、4時間弱といったところだろうか。それにしても今日はたっぷり歩いた。鴻巣山への入り口を探してウロウロしたり、山の中を端から端まで歩いたりして、総計15kmはあったような気がするなぁ。おまけにアップダウン付きだ。

 今晩は心地良い疲労でぐっすり眠れそうだ。本日もいい散歩だった。
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2011年05月14日

天神の心霊スポット

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 ちょっとご無沙汰したが、無事に東京から帰って来た。東日本大震災発生以降帰京したことがなかったので、現在の東京がどんな状態か関心があったのだが、至るところ節電対策が施された都市になっていた。駅や空港などの公共スペースで照明が部分的に落としてあるほか、エスカレーターや動く歩道がところどころ停まっていたり、電車の本数が間引かれていたり・・・。照明が落としてある関係で、何となく公共の空間の隅が暗い。開発途上国の公共スペースと雰囲気が似ているなと思った。

 余震が頻繁に起こると聞いていたが、日頃の行いが良いせいか(笑)、私が滞在していた間はわずかに1回揺れただけで済んだ。でも、九州では地震なんてないから、久し振りに体験した揺れであった。

 ゴールデンウィーク辺りからけっこう気温も湿度も上がったものだから、今年初めて半袖で過ごしたりもした。翌日以降は半袖だとちょっとひんやりするかなという天気だったが、今週などは夜も蒸し暑く感じる日があり、季節は一気に夏になったような気分だ。

 さて、今朝は起きたら気持ちのいい青空が広がっていた。風は昨日に引き続き強めだが、これも徐々に収まるだろう。こうなるとちょいと遠くまで足を運びたくなるが、どっこい本日は天神に用があるので遠出は無理だ。

 午前中に洗濯とアイロンがけをしてから、午後に天神まで往復しておしまいという味気ない日程だ。ルーティーンのような日常の中にもちょっとした楽しみを見出すのが人生を粋に過ごす極意というわけで、またもや変則的な道をたどって天神まで行くことにする。

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 取りあえずスタートは大濠公園とした。毎度お馴染みの散歩の起点だが、さすがに5月になって天気もいいと、家族連れなどが繰り出してなかなかの賑わいだ。気温も上がって水が恋しくなる季節だから、ここの公園は絶好の選択肢ということかもしれない。

 池を回る遊歩道の脇に、一部池の水を引き込んで循環させるための小川がある。流れる水はきれいだし小魚が泳いでいたりしてなかなか粋な演出なのだが、この暑さのせいか、早速小さな子供が入って水遊びをしていた。大人のくるぶしのちょっと上程度しか深さがないので、幼児が入っても危なくはない。4月には考えられなかった光景だが、もう初夏なんだなと実感させられた。

 池を半周して南側にある福岡市美術館脇からNHKの前に出て、けやき通りを東にたどる。この前けやき通りを散歩したのは秋の紅葉シーズンで、街路樹がきれいに色付いていた。今は新緑のシーズンで、これまた若葉が美しい。

 このけやきの街路樹と道路沿いの街並みが、どうも原宿の表参道を思い起こさせる。最近めったに行かない表参道だが、独身時代に代々木上原に住んでいて、友人が東郷神社近くにいたものだから、休みの日にちょくちょく出掛けてメシなど一緒に食っていた。今では表参道ヒルズができて、同潤会アパートがあった頃の面影は失われつつあるが、私にとっては懐かしい街である。

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 さて、このままけやき通りを進んでもいいのだが、ちょっと寄り道して「赤坂緑地(あかさかりょくち)」を見てみる。場所はなかなか分かりにくく、地図がないと迷う。

 以前も赤坂のお屋敷街を探訪しようと、表通りから一歩中に踏み入って四苦八苦したが、とにかくこの辺りは細道に入ると厄介だ。今日はあちこち見て歩くつもりはないので、最短距離を目指して護国神社の東側の小道を入る。侵入地点を間違えるとたちまち迷子になること請け合いの地区だ。

 一歩裏道に入るといきなり急な坂があり、登り切ると、また微妙なアンジュレーションがある。この辺りは江戸時代、上級武士が住んでいたエリアであり、今でも高級住宅地のたたずまいである。どの家も「邸宅」といった風情で、駐車場には高級車が並んでいる。地図を見ながら道を進んでいて、「月形洗蔵居宅跡」の碑に行き会う。散歩というのは、こういう偶然の発見が面白い。

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 「月形洗蔵(つきがたせんぞう)」というのは、このブログで何度か紹介したことがあったと思うが、勤王派のリーダー格の一人として有名な幕末の福岡藩士である。

 福岡藩の勤王派は、家老の「加藤司書(かとうししょ)」を筆頭に、藩士の月形洗蔵のほか「中村円太(なかむらえんた)」「平野国臣(ひらのくにおみ)」らを中心とするメンバーで、幕府を倒し尊皇攘夷を推し進めようとした。

 当時の福岡藩主「黒田長溥(くろだながひろ)」は、討幕派ではなかったが尊王派だったため、藩内の勤王派にはやや寛大なところがあり、メンバーは藩内でかなりの勢力を誇っていた。「禁門の変」で京を追放され長州から大宰府へと逃れた三条実美以下七卿の世話をしたり、西郷隆盛や坂本龍馬、桂小五郎といった倒幕の立役者とも親しく交わったほか、薩長同盟成立にも一定の貢献をしたと伝えられている。

 そんな勤王派の動きに神経を尖らせた幕府から、藩主だった長溥は責められ、ついに黒田藩は勤王派制圧に動く。これにより主要メンバーを含めて百数十名が捕らえられ、加藤司書は切腹、月形らは「桝木屋 (ますごや)」という福岡藩の刑場で処刑された。これを「乙丑の変(いっちゅうのへん)」と呼んでいる。

 幕末の動乱に思いを馳せつつ、かつて武家屋敷が並んでいたであろう道を歩いているうちに、何とか当初の目論見通り赤坂緑地に到着した。これがまたきつい登り道の付いた公園で、えっちらと階段を上がって頂上を目指す。

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 どうしてここに来たかったかというと、昔ここが山だった頃の面影を偲べるんじゃないかと思ったからである。そして、大通りから一歩裏道に踏み入って急な坂に行き会った瞬間から、その勘は外れていなかったと思ったし、小高い山のような公園の形状からして、やっぱりこの辺りは山だったんだと実感した。

 かつて赤坂は「赤坂山」という山だったが、黒田長政がこの地を徳川家康から賜って移って来た際、山をならして今の福岡城を建てたため、なくなってしまったと聞く。削った膨大な土は、昔の入り江だった「草香江(くさがえ)」を埋め立ててお堀にするのにでも使われたのだろう。現在赤坂地区の表通りを歩いていても、山の面影など微塵もないが、脇道に分け入ってこんな場所に来てみると、やはりこの辺りは山だったんだなと分かる。

 赤坂緑地の入り口にある案内板を読むと、昔の武家屋敷跡を保存して公園にしたとある。確かに、公園の一部に立派な石垣が残っている。武家屋敷を造成した時の名残だろうか。

 標高は28mということだから、西公園のある荒津山と同じくらいか。頂上まで登ってみたが、木が生い茂っているために眺望はあまりきかない。緑地保全地区だから、樹木はそのまま生えるに任せているのだろう。お蔭でうっそうと茂った樹木で、公園全体に暗い箇所が多い。天気の悪い日だとここも印象が違って見えるのかもしれない。

 さて、探検を終えたあと赤坂緑地を下りて、今度は隣の方にある「筑紫女学園(ちくしじょがくいん)」に寄ってみる。ここは私立の中高一貫校なのだが、学校を見たいわけではない。ここに不思議なお地蔵さんがあるのだ。

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 塀の中に埋め込まれているこのお地蔵さんがそれだが、これはどういう謂れのお地蔵さんかと言われても、実は分からない。ここに学校が建つ前から存在しているそうで、江戸時代に祀られたものではないかという説もある。

 以前、中洲に行った際に、水車橋の近くにある「飢人地蔵(うえにんじぞう)」を紹介したことがあった。享保の大飢饉時の犠牲者を弔う地蔵で、当時西日本一帯でイナゴが大発生して穀物を食い尽くし、加えて干害、疫病なども相次いで発生したため、福岡の人口の1/3が飢え死にしたと伝えられている。この犠牲者を弔う地蔵は福岡市内のあちこちにあり、南公園にも飢人地蔵が残っている。

 この筑紫女学園のお地蔵さんも、もしかしたら近隣の路上で死んだ餓死者を弔うためのものではなかったかという話である。筑紫女学園が仏教系の学校なので、さすがに取り壊したり移転したり出来なかったんだろうなぁ。で、こんな不思議な形で残っているわけだ。

 お地蔵さんを見た後はけやき通りに戻って、天神に向けて東へと歩く。天神が近くなるにつれて、歩道を行く人の数がどんどん増える。警固交差点を過ぎて少し行くと、道路の北側が大名地区で、南側が今泉地区となる。いずれも、若者向けのおしゃれな店舗がひしめくエリアで、東京で言うと、渋谷、原宿から青山辺りといった感じになるのだろうか。

 ほどなく天神に到着する。あちこちで用を済ませた後、このまま帰るのももったいないので、今日は天神の心霊スポットを訪ねてみることにする。といっても2箇所だけなんだが・・・。

 まずは「天神中央公園」である。こんな平和な公園に心霊スポットなんかあるのかと言われそうだが、いわくつきの場所がある。それがここだ。

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 不思議なモニュメントの後ろに小さな墓石が無造作に転がっていて何とも不気味だが、これは「福岡藩刑場跡」の碑である。ここに刑場が設けられたのは、川が横にあって血を洗い流すのに便利な場所だったからと言われている。現在はすぐ脇を薬院新川が流れ、そのちょっと先で那珂川に合流している。

 ここではたくさんの罪人が処刑されたのだろうが、怪異譚の主人公は江戸時代に黒田藩に関係した一人の僧侶である。名を「空誉(くうよ)」という。

 空誉は元々播州の人で「黒田官兵衛」の渾名で知られる戦国最強の軍師「黒田如水」の信任厚く、如水に付き従い、最終的に息子の「黒田長政」が福岡の地を与えられると、如水と共にここに移って来た。そして寺を与えられ寺領二百石の身分となる。

 そんな空誉が処刑されたのは黒田藩二代目藩主「黒田忠之」の治世だが、罪名は諸説あって判然としない。逆に罪が判然としない辺りが、汚名による処刑だったのではないかという疑念を湧かせる。いずれにせよ空誉は、この処刑場で釜に入れられ、斬られた背中に溶けた鉛を流し込まれて惨殺された。そしてその遺体は、葬られることなく捨てられた。偉大な黒田如水の信任厚かった高僧に対して、あまりにむごい仕打ちである。

 明治時代になってこの地には県庁や議事堂など県の施設が建てられたが、その一角にあった知事公舎で、昭和の初めに僧侶の幽霊が出るとの噂が広がった。当時の知事だった「大塚惟精(おおつかいせい)」も夢枕で僧侶に立たれた一人で、調べたところ、空誉の霊ではないかということになった。騒ぎを収めるため、空誉が処刑されたとおぼしき場所に小さな祠を建てて供養したという。それがこの福岡藩刑場跡碑というわけだ。

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 今では傍らを薬院新川が流れ、緑に囲まれた平和な場所なのだが、江戸時代にそんな凄惨な話があったとは驚かされる。ちなみに県庁と議会は昭和50年代に東区の東公園隣に移転し、知事公舎は中央区の平尾の近くに移り、ここは公園として整備された。その公園の写真が、冒頭に掲げたものである。正面の人工の山のように見える建物は「アクロス福岡」というシンフォニーホールや国際会議場が入る複合施設である。

 公園内は今日もたくさんの人が散歩したり日向ぼっこしたりしているが、天神地区と中州地区を結ぶこの公園でそんな怪談話があったなんて、行き来する人のほとんどは知らないんだろうなぁ。一番驚いたのは、ホームレスがこの福岡藩刑場跡碑のすぐ横にビニールシートで仮住まいを作っているということだ。夜寝ていて何か異変が起きないか、思わず訊きそうになったよ(笑)。

 さて、もう一つの心霊スポットに行こう。場所は、ここから北西方向に500mばかり行ったところにある「安国寺(あんこくじ)」である。

 安国寺は全国にたくさんあるが、福岡のものは元は豊前、今の小倉にあったと伝えられている。それを初代藩主黒田長政が、 住持だった「天翁全補(てんおうぜんぽ)」のために移したのが、この福岡の安国寺である。 一度焼失しているが、二代目藩主忠之が再興した。

 ここには「飴買い幽霊」の伝説と、その母子の墓がある。

 江戸時代にこの寺の近くにあった飴屋で、丑三つ時に表戸を叩く音がする。主人が出てみると、若い女が飴をくれという。そして、それが毎晩続く。不審に思った主人はある夜、女の後をつけてみたところ、女は安国寺に入って行った。主人が寺の中で女を捜すと、新しい卒塔婆が立っている辺りで地中から赤ん坊の泣き声がする。驚いて寺の住持と墓を掘り返してみると、女性の遺骸の傍らに赤ん坊がいて泣いている。おそらく母親が葬られた後に生まれたのであろう。

 さては腹をすかす我が子を不憫に思った母親が幽霊となって、子に与える飴を買いに来ていたのかと悟ったが、墓から救い出された赤ん坊もまもなく亡くなったと伝えられる。

 この親子のことは安国寺の記録にも残っており、「岩松院殿禅室妙悦大姉」と彫られた母親の墓が建っていて、その横にしがみつくように立っている「童女」の墓が、赤ん坊のものらしい。

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 こうして見ると何とも哀れを誘う墓石だと思う。寺の記録だと母子がここに葬られたのは延宝7年、西暦で言えば1679年のことである。

 ところで、この飴買い幽霊の話、多くの人が一度は聞いたことがあると思う。実は、細部に微妙な差はあるが、この種の話は全国にたくさんあるようだ。中には落語になっているものもある。「幽霊飴」がそれである。

 昔は土葬だったので、死んだ妊婦を埋葬した後で、死後出産の形で赤ん坊が棺桶の中で生まれたという事例があったようだ。ただ、母親が既に死んでいるため赤ん坊も死産だと考えるのが普通だろう。しかし、全国に伝わる話の中には、赤ん坊はやがて成長して高僧になったというものがいくつもあるようだ。

 あと、福岡には当の飴屋はもうないが、京都には幽霊が買い求めたという飴が今でも売られている。私は大学時代京都にいた時にこの話を聞いたのだが、「幽霊子育飴」というのがそれだ。一軒だけなく京都市内にいくつか店舗がある。ちなみに、落語の「幽霊飴」の舞台は東山にある高台寺であり、これは落語らしく「こうだいじ(子(が)大事)」としゃれるためである。この近くにも当然、幽霊飴を売る店がある(笑)。

 さて、そろそろ帰路につくことにする。安国寺から北に進路を取り、中央卸売市場の前を通って長浜ラーメン街に抜ける道を歩くことにする。この道の名前が何なのか知らないのだが、歩道が広く人通りも少ないので、けっこう使っている道である。長浜まで行くと、市場脇から博多漁港に出て海岸沿いを歩く。「かもめ広場」に抜ける道だ。ここも静かでお気に入りの散歩道である。

 今日はたいした距離は稼げなかったが、明日も天気が良かったら、長めの散歩に出掛けるかな。さて、どこに行こう。それを考えるのも休日の楽しみだ。

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2011年04月24日

読書半分、散歩半分

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 朝起きたら晴れていた。しかし空気は冷たく、相変わらず風が強い。昨日と同じような大気の状態らしい。朝ご飯を食べているうちにどんよりとした曇り空になった。福岡市内の天気予報をネットで見ると、昨日の予報より改善はしているが、昼を中心に雨になると言っている。そのうち空が暗くなるが、雨は降らずに今度は薄日が差す。まことに変わりやすい天気のようで、これだと昨日のように、一転にわかに掻き曇りザッと一雨来てもおかしくはない。

 またもや遠出は諦めて、空模様と相談しながら近場を散歩するしかなかろう。天気予報が警告している昼の雨をやり過ごした辺りで出掛けるかと、午前中は家で過ごす。

 この前から読み始めた三津田信三の「作者不詳」を広げながらソファに寝転ぶ。この本は、作者と同名の三津田信三を主人公にしたシリーズものの一つで、謎解きホラー小説とでも呼べばいいのだろうか。

 主人公が趣味としている散歩の途中で「杏羅町」という古風なたたずまいの町を見つけ、そこにある古本屋で「迷宮草子」という同人誌を手にするところから話はスタートする。迷宮草子には、不思議なペンネームの投稿者たちの短編小説が載っているが、いずれも中途半端に解かれた怪奇推理小説のような内容だ。そして恐るべきことに、各短編の真相を読者自ら発見できなければ、小説中に出て来る怪異現象が自分の身の回りで実際に起きるという異常事態が発生する。

 例えば、第一話の「霧の館」では、小説中に出て来る濃密な霧が、主人公たちの周りに立ち込める。それは、主人公たちにしか見えない霧なのだ。やがて、謎を解き終えると、霧はすぅーと消えていく。各編とも同じように、読後に怪異が現れる。どんな怪異が現れるのかは、実際に起きてからしか分からない。

 その不思議な現象に見舞われた主人公たちは、本を購入した古本屋に行き、店の主人を問い詰め、かつて「迷宮草子」を購入した人たちが次々に行方不明になっていることを知る。そして、その古本屋の主人もまた、主人公たちが目を放した隙に、店内で忽然と姿を消してしまう。最後の短編まで全て謎を解かないことには、自分たちも同じ運命をたどると察した主人公たちは、一編、また一編と読み進め、奇妙な話の背後にある謎を解いていく。

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 この本は、迷宮草子の一編一編に対して推理が行われ、真相にたどり着くと怪異が消えるという構成になっているため、細切れにして読みやすい。それで、暇な折々に少しずつ読んでいたのだが、今日は幸い時間があるので、残りを最後まで一気に読むことにした。

 全編を通して非常に凝った構成になっており、最後の最後まで迷宮草子という本そのものの謎が解けない。予想を覆して話は二転三転し、よく練って書いてあるなぁと感心した。

 私は、ホラー小説を読んで怖いと思うことはほとんどない。怪奇現象とか幽霊とか化け物とか、全て人の創造力が作り出した空想に過ぎないから、化け物が出て来て人が次々に殺されても、しょせんは作り話だと割り切ってしまう。現実には起こり得ない話なのだから、恐怖心は湧かないというわけだ。

 むしろ怖いのは、現実に存在する悪意を持った人間の方で、高齢者を餌食にする詐欺師や、自分勝手な無差別殺人の方がよほど恐怖だ。親切そうな振りをして近づいて来る悪人や、邪悪な心を持った冷血漢の方が、怪異現象よりもよっぽど怖い。それに比べれば幽霊なんて、笑い飛ばせる存在だろう。

 ならば何故、ホラー小説なんか読むのかということになるが、それは謎解きが面白いからだ。逆に言えば、謎解きのない怖がらせるためだけのホラー小説なんぞは読まない。

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 私が好きな京極夏彦の百鬼夜行シリーズで、主人公の「京極堂」こと中禅寺秋彦が事件解決の際に「この世には不思議なことなど何もないのです」という有名なセリフを吐く。まぁこれと同じで、この世で不思議だとされている怪現象の裏には何らかの原因があり、科学的に説明が付くというのが私の考えである。

 よく巷に幽霊屋敷なるものがあり、そこで寝泊りした人には夜中に怪異が起こるなんて話がまことしやかに語られるが、これとても科学的に分析すれば原因は必ずあるはずだ。以前、何かのテレビ番組を見ていたら、この種のお化け屋敷を海外に訪ねて科学分析していた。そして、夜中に幽霊が出るという部屋で計測器を使うと、強力な磁場の乱れがあることが確認されていた。人間も動物だから、地中の磁場の狂いを身体で感じ、それが寝ているときに夢に反映されて幻想を見ているのではないかという解説があった。

 また、霊感が鋭い人は霊を見ることが出来るなんて話もあるが、最新の脳科学では、人間の脳の特定部位に電気刺激を与えると、誰でも、あるはずのない物が見えたり、他の人には聞こえない音が聞こえたりするものらしい。要するに霊感の鋭い人というのは、生まれながらにしてこの脳の特定部位に刺激が伝わりやすい構造になっているのだろう。かくして、霊感の鋭い人が幽霊屋敷に行くと、磁場の狂いが脳の特定部位に刺激を与えて、霊が見えるということになる。逆に、幽霊屋敷に行っても何も感じない人もいるが、これは磁場の感知能力が他の人よりも鈍いということなんじゃなかろうか。

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 さて、三津田信三の「作者不詳」を読み終わったところで、遅まきながら散歩に出掛けることにした。

 どうやら雨は降らなかったようで、昼頃に一瞬降るかなと思うような空模様にはなったものの、やがて空が明るくなり日が差し始めた。こんなことなら早くから出掛ければ良かったのだが、昨日の突然の雨があるから踏み切れなかったのだ。こりゃ完全に天気予報に振り回されたな。

 昨日西新方面に散歩に行った際、街路樹の新緑がきれいだったので、新緑を見に行こうと考え、西公園に足を運ぶことにした。この前桜が咲いたときに行って大賑わいだったが、また元の静かな公園に戻っているだろう。

 歩いて西公園の入り口に行く途中で、学校の校庭に藤の花が咲いているのが見えた。そういえば、八女市黒木町に大きな藤があるという話を聞いたことがある。樹齢600年で天然記念物に指定されているらしい。ちょうど今が見頃ではなかろうか。

 八女というのはお茶の産地として知られているが、女優の黒木瞳さんの出身地でもある。芸名は町の名前から取っているが、彼女の方は「くろき」と発音するのに対して、町名の方は「くろぎ」とにごる。

 さて、西公園の入り口までたどり着くと、参道はすっかり桜の花も散り、新緑が美しくなっていた。ただ、散歩に来ている人やジョギングをする人など、それなりに来園者はある。気候も良くなり、散策にはいい頃合いだからだろうか。

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 桜の季節が終わったというのに、車がひっきりなしに上がってくる。参道を上がってすぐのところにある「光雲神社(てるもじんじゃ)」境内の駐車場にもけっこう車が停まっているし、更に山頂の展望台を目指して坂道を上って行く車もある。そのうえどういうわけだかタクシーが多い。お客を乗せているわけではないし、ここでタクシーを拾おうという人もいないだろうから、運転手が休憩を兼ねてやって来ているのだろうか。

 自動車を気にしながら歩くのも鬱陶しいので、途中から脇道にそれて自然の中を歩く。これで一気に静かになった。西公園には、自動車が走れる一般道が至るところに通っているが、地図にはない遊歩道がその周辺を縫うように整備されている。散策するなら、こちらの方が気持ち良い。

 自然の中を入り組んで通る山道や遊歩道を歩くのは、山登りの醍醐味の一つだ。西公園のある荒津山は標高にして30mくらいで、登るといってもたいしたことはないが、高低差があると景色も変わって楽しい。山の中をグルグル歩けば、それなりにカロリー消費に役立つだろう。

 「さくら谷」はすっかり桜の花も散って葉が出て来ているが、シートを広げてなごむ人も少しはいる。この前来たときは、この辺り一帯は花見客で大変な騒ぎになっていた。ここが再び満席になるのは、また来春のことか。

 その先にある「もみじ谷」まで遊歩道を歩いて行く。もみじの新緑がきれいだろうと思ってのことである。

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 もみじは、秋の紅葉の美しさで知られているが、新緑もまたいい。葉の明るい黄緑色が、如何にも春らしく優雅だ。もみじ谷は、橋や東屋をしつらえ、巨石も随所に配して凝った造りになっている。北に向かって傾斜している構造がいいのだが、シートを広げる平地が少ないという欠点があるせいか、あまり人を見掛けない。今日も誰もおらず、極めて静かでいい雰囲気だ。

 傾斜の途中で暫し立ち止まり、辺りを眺めて新緑を楽しんだ。こういうひとときを身近に過ごせるのは、お金のかかった娯楽にも増して贅沢な時間の過ごし方だと思う。東京では、こんなロケーションで一人新緑を楽しむなんて芸当は到底出来ない。新緑のベストポジションともなれば、天気のいい日には黒山の人だかりで、人ごみに疲れてしまう。おそらく福岡の人は、この贅沢に気付いていないだろうが・・・。

 もみじ谷をそのまま登り、展望台に行って海でも眺めようかと思ったが、先ほどの道中の車の具合から見て、けっこう人がいるだろうと思って敬遠した。せっかく静かに新緑を楽しみ、いい気分になっているときに、喧騒に巻き込まれるのも嫌だ。

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 海を見るなら、このまま西出口に下りて「福浜緑地」に行こうと思い立った。あそこの砂浜なら、ほとんど人はいないだろうから、のんびり散歩できるに違いないという読みである。

 もみじ谷を北向きに上がると、すぐ先に西口に下りる遊歩道が整備されている。ここを下りて、よかトピア通りに出る。この出口の角に「サイゼリア」がポツンとある。東京ではお馴染みのイタリア系カジュアル・レストランだが、福岡に上陸して来たのは最近のことと聞く。現在でも福岡の人はサイゼリアのことをよく知らない。

 福岡でスパゲティーなどを主力にするファミリーレストランというと「ピエトロ」がまず頭に浮かぶのではないか。元は天神にあったスパゲティー専門店だったようだが、サイゼリアと同様、スパゲティー、ピザ、サラダなどを主力にしている。私は東京にいた頃からピエトロのドレッシングを愛用していたから、最初はレストランだと気付かずにいたが、都内のどこだったかで店舗を見掛けてレストランだと知った次第である。

 新参者のサイゼリアがピエトロとどの程度張り合うのか見ものだが、やはりサイゼリアの驚異的安さに取り込まれる人も多い気がする。一度福岡の人をサイゼリアに連れて行ったら、値段の安さにビックリされたことがあった。ピエトロとは明らかに価格帯が違うのである。

 スパゲティーの話はそれくらいにして、浜辺を目指そう。よかトピア通りを渡り高速道路の高架下をくぐると、目の前は砂浜である。

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 目論見通り誰もいない。風は相変わらず強いが、朝に比べて気温がいくぶん高くなったせいか、冷たさは感じない。波打ち際まで出て海を眺める。風が強いため白波が立ち、やや荒れている。

 古代には、ここから大陸に向けて船が出たのだと思うと、何とも感慨深い。当時は命懸けの航海だから、別れを惜しむ人たちが浜辺から手を振ったのだろう。「草枕 旅行く君を荒津まで 送りぞ来ぬる 飽き足らねこそ」という万葉歌碑が西公園の入り口に建っているが、その荒津がこの辺りである。

 福浜緑地の西隣には伊崎漁港がある。正式名称は「福岡市漁業協同組合伊崎支所」というらしいが、毎週土曜日の午後3時から、一般人向けに魚介類の直販をやっていると聞く。これを「伊崎の夕市」といい、かなりの人で賑わうようだ。

 伊崎というのは、元々の地名ではないらしい。ここの漁師たちは、キスが好きだった黒田藩主のために漁をした、いわゆる御膳部漁師だった。黒田長政は、元の領地だった備前の地名にちなんで城のある辺りを「福岡」と名付けたが、同時にキス漁をする御膳部漁師の居留地を、備前の地名にちなんで伊崎と名付けたと伝えられる。

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 今日は、山で新緑を楽しみ、浜辺で春の海を楽しむという贅沢な散歩だった。おまけにほとんど人のいない行程で、静かに自然を堪能できた。天気予報に振り回されて出足が遅れたが、散歩の内容の豊かさで全ては帳消しである。

 さて、来週はいよいよゴールデンウィークとなる。めったに東京に帰らず週末を福岡で過ごしている私だが、ゴールデンウィークは長い休みを確保できそうなので、東京に一旦帰ることにした。正月以来帰京していないので、東日本大震災以降の東京がどうなっているのかをこの目で確かめて来ようと思っている。

 そんなわけで、このブログも暫しのお休みとなる。気が向いたら東京から更新するかもしれないが、あくまでも福岡の日記なのであまり期待しないで欲しい(笑)。

 皆さんも、良いゴールデンウィークを。

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2011年04月23日

地行で河童を思う

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 今朝は起きたらどんよりとした曇り空。でも雨は降っていない。福岡は昨日から天気が下り坂で、前線が通過するのに伴って荒れ模様になるという予報だった。昨夜は風も強くて雨の音が聞こえていたから、夜のうちにまとまった雨が降ったのだろう。

 前線の通過で冷たい空気が入って来ているらしく、ひんやりとしているうえ、風がたいそう強い。そうはいっても4月も下旬に入ったので、寒いというほどではない。桜が咲いて以降、一時的に気温の低い日もあったが、一気に春めいてコートとは完全におさらばした。散歩には良い季節になったというわけだ。願わくばこの気候が入梅までは続いて欲しい。

 完全に雨が上がったどうか分からなかったので暫し迷ったが、いざとなれば乾燥機にかけようと洗濯を始める。後で天気予報を見ると明日は雨マークが付いているから、結局明日に洗濯を回すという選択肢はなかったわけだ。

 そうこうしているうちに空が明るくなり、時折日が差すようになった。これで何とか洗濯物を外に干せるわけだ。そう思っていたら昼頃になって一転にわかに空が掻き曇り、ざっと雨が降る。すんでのところで洗濯物を濡らすところだった。冷たい空気が入って来ているせいか、晴れ間が覗くことがあっても、天気は不安定らしい。

 その後も雲が広がる中を遅めのスタートで短めの散歩に出掛ける。またもや一降りあるかもしれないので、西新あたりまで歩いて本屋でも冷やかして帰ろうかという程度の行程である。散歩の起点は地下鉄空港線「唐人町駅」の黒門橋交差点とする。

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 交差点から黒門川通りを北に上がって行く。前にも書いたが、ここの道路の下には黒門川が暗渠となって流れている。元は海の一部だったのを、黒田長政が福岡城を築城する際に埋立てて作った人工の川である。黒門橋の交差点の南からは暗渠が外に現れ、そのまま大濠公園に注いでいるのが分かるが、黒門川通りを歩いていても川があるとは全く気付かない。歩道沿いには、申し訳程度に人工の小川が作ってあり、かつての黒門川の面影を今に伝えようとしている。

 江戸時代には、この黒門川で福岡城内と城外とが分けられていた。いわば境界線の川であり、そこに黒門橋が架けられ、城内に向かう入り口に黒門が設けられた。黒門から唐津に向かって唐津街道が延びていたわけで、それは今の唐人町商店街がある場所だと伝えられている。

 当時は黒門川沿いには松並木があって「松土手」と呼ばれていたらしい。現在歩道脇に植えられている街路樹のいくつかは松であるが、これはおそらく松土手をイメージしてのことだろう。そうでなければ街路樹に松は植えない。手入れが大変だし、害虫にやられる心配もある。わざわざ植えてあるというのは意味のあることなのだが、おそらくここを通る人のほとんどは、その意味に気付いていないのではないか。

 黒門川通り沿いに唐人町商店街から少し北に歩くと、通りに面して「当仁小学校」がある。この漢字で「とうじん」と読むのかと思ったら「とうにん」が正解らしい。門の脇のアルファベット表示がそうなっていた。唐人町に当仁小学校というのは不思議な名前の組合せだが、理由はよく分からない。

 そもそも唐人町という名前はどこから来たのだろうか。中華街があるわけでもないので奇妙な感じがする。定説はないらしいが、元寇に由来があるという説が比較的面白い。

 鎌倉時代に「文永の役(ぶんえいのえき)」、「弘安の役(こうあんのえき)」と二度の蒙古襲来があったわけだが、攻めて来たのはモンゴル軍と、既にモンゴルの属国に成り果てていた高麗の軍の混成軍団であった。壱岐・対馬で住民を残虐な方法で皆殺しにしたモンゴル軍に対して、日本の武士団は情け容赦がなく、捕虜は取らずに皆殺しにしたが、昔交流のあった高麗軍の捕虜だけは殺さずに浜辺に住まわせたという。この高麗人が住んだ居留地が唐人町というわけである。

 さて、当仁小学校前には先ほどの小川が注ぐ小さな池が設けられており、かわいらしい河童のモニュメントがある。

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 脇に説明板があり、「せせらぎがっぱ」と命名されているらしい。モデルとなったのは、お隣の地行地区に伝わる「河童の松物語」の河童だという。

 福岡市内には河童にまつわる話が多いが、地行にも河童が主人公の昔話がある。説明板に紹介されているが、この東隣の伊崎に住んでいた酒好きの漁師嘉兵衛と、同じく酒好きの河童の話である。酒を飲みながら漁をしていた嘉兵衛にいたずらをした河童が懲らしめられ、松の木に縛り付けられたというストーリーで、人と河童が共存する世界の平和な物語である。ただ、話からすると主人公の河童は海にいたことになり、ちょっと珍しいなぁと思う。元々河童は川に棲む妖怪だ。

 私は妖怪について詳しいわけではないが、河童は川辺の水死者が変化した存在と考えられている。海で亡くなった者は河童ではなく舟幽霊になる。夜の海に現れて「ひしゃくをくれ」と船に取りつく亡霊である。言われるがままにひしゃくを貸すと、こちらの船に水を汲み入れ沈められてしまうので、船乗りは底を抜いたひしゃくを船に備えていたという。

 しかしこの北九州では、壇ノ浦の合戦で亡くなった平家の武者の魂が姿を変えたのが河童だという言い伝えがあるとも聞く。それなら海の河童でもおかしくないというわけか。それにしても、嘉兵衛さんの酒を掠め取ったのが平家の武者の霊というのは、何ともミスマッチで面白い。挙句に松の木にくくりつけられたのでは平家の面目丸つぶれだろう(笑)。

 そんなことを考えながら、黒門川通りとよかトピア通りとの交差点で西に曲がり、今度はよかトピア通り沿いに進む。暫く行くと「菰川(こもがわ)」に差し掛かるが、川を渡った先が地行地区である。

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 よかトピア通り沿いに植えられたイチョウの若葉が美しい。天気の方は次第に下り坂になり、パラリと雨が舞ったように感じたが、曇り空に新緑が映えて鮮やかだ。それにしても風はやむことなく吹いている。今日は一日こんな感じなんだろうか。

 黒門川通り沿いにあった福岡市設置の史跡案内板では、地行の河童の物語はこの辺りの話として解説してある。河童をくくりつけた松など、今残っているはずもないし、そもそも架空の昔話だ(笑)。具体的な地点などどうでもよいのかもしれない。

 でも有名な話なのだから、舞台となった地行地区のどこかに河童の像でも作って、「河童の松物語」のストーリーとともに展示すれば、それなりに人気スポットになる気もする。地元の人ほど観光資源に気付いていないものらしい。

 河童の像といえば、昨年暮れに室見川の上流を散策したときに「河原橋」の欄干に河童のモニュメントがあったのを紹介したことがあった。橋のたもとの解説板には、昔その辺りに河童がたくさん棲んでいたという伝説をもとにしたデザインだと説明されていた。

 河原橋の河童はこんな河童だった。

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 何ともユーモラスで、付近ののどかな景観と妙に合っていた。妖怪変化の類は、科学の発達していない昔にあっては人々の恐怖の対象で、河童も人を水に引き込み、肛門を抜いて殺すとされていた。そのわりには昔話で河童は人と相撲を取ったり、何かの競争をしたりして、共存して生きている。そのうえ、人間に負かされてあやまったり、善行を働いたりする不思議な存在だ。

 東京の浅草近くに合羽橋という調理道具などを専門に扱う問屋街があるが、ここにも河童の伝説があり、問屋街の一角に河童の像が飾られている。

 江戸時代に川の氾濫に悩まされていたこの地区で、私財を投げ打って住民のために河川整備を行った商人「合羽屋喜八」に対し、付近に棲んでいた河童が夜ごと手助けして工事を完成させたという言い伝えがあり、合羽橋のマスコットは今でも河童ということになっている。これなどは河童が善行を施した典型だろう。

 そうそう、もう一つ福岡で河童の話を紹介したことがあった。姪浜の旧唐津街道沿いにある「住吉神社」を訪ねたときだ。この河童は漁師にいたずらしたといった類ではなく、日本神話にからんで登場する神話時代の河童だ。

 日本神話の国産み・神産みの話に出て来る「イザナギ(伊弉諾)」が、黄泉の国を脱出し現世に逃げ帰ったときに、黄泉のケガレを落とすために「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」で禊を行うのだが、この禊の場所を探すに当たり道案内をしたのが河童だという伝説があり、その河童を住吉神社が祀っている。神話時代に河童がいて、神様の道案内をしたという発想が何とも面白い。人が生まれる前に河童ありきということか。

 その住吉神社に祀られている河童の像がこれだ。

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 どの河童もユーモラスで子供に親しまれやすいイメージになっているが、私が訪ねた先だけでも福岡市内に三つも河童の話が伝わっているのだから、昔から河童と博多っ子は親しい存在だったということだろう(笑)。

 史跡のようなものは残っていないが、福岡の中心部の大名地区にも河童の伝説がある。これは中央区が開設するサイトで「鷹取養巴と手を切り取られたカッパ」の話として紹介されている。

 大名1-2丁目界隈に屋敷を構えていた福岡藩医鷹取家に伝わる話で、夜の厠に出ていたずらをした河童が手を切り取られ、手を返してくれと、藩医の「鷹取養巴(たかとりようは)」に頼みに来る話である。河童は切れた手をつなぐ秘法を教える代わりに手を返してもらい、養巴は傷薬の製法を教わるというストーリーになっている。ちなみに、何代目かの鷹取養巴は、幕末に尊皇攘夷を唱えて月形洗蔵らとともに捕らえられ、桝木屋刑場で斬首されている。

 おそらくは探せばほかに河童の話が色々あるのだろうが、福岡に限らず北九州全域にわたって河童の伝説は多いようだ。私が見た中では、福岡市から南東に行った「田主丸町(たぬしまるまち)」が河童伝説のメッカのようだ。理由はよく分からぬが、近くに筑後川が流れているからだろうか。この町はたくさんの河童伝説を抱えているせいか、JRの駅自体が河童の顔をデザインして出来ている。福岡なんかとは気合の入り方が違うようだ。

 さて、空模様を気にしながら暫く行くと、今度は「樋井川(ひいがわ)」を渡る「百道浜橋(ももちはまばし)」に差し掛かる。このブログに何度か書いたが、現在歩いているよかトピア通りは、昔海岸沿いの浜辺だった。いたずらをした河童を縛り付けた松があったのは、この海沿いの松林の一角ということだろう。

 当時をしのぶ碑が百道浜橋のたもとにある。

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 何も知らない人が見たら、ビックリするような記念碑だ。おまけに、海水浴場だった頃の写真まで飾られている。この辺りが埋め立てられたのはいつ頃だろうか。ここで子供の頃に海水浴をした記憶のある人が今何歳くらいなのか知らないが、時の流れにつれていつか忘れ去られる場所なんだろうなぁ。

 昔の海岸線を西にたどり、次の西新通りの交差点で南に曲がる。この交差点に以前紹介した「磯野公園(いそのこうえん)」がある。「サザエさん発案の地」というヤツである。

 サザエさんの作者の長谷川町子は佐賀県の出身だが、小さい頃に父親の仕事の都合で福岡市に引っ越して来た。ところが父親が亡くなり、一家は叔父を頼って一旦東京に移り住む。このとき長谷川町子は「のらくろ」で有名な漫画家の「田河水泡」に弟子入りしている。その後、昭和19年に再び一家は福岡市に戻ってくる。そして福岡での新しい家があったのが西新であり、家の裏が百道浜だった。当時は先ほどの場所も立派な海水浴場だったのだろう。

 彼女は妹と浜辺を散歩しながらサザエさんの構想を練る。そして昭和21年に福岡の地元紙「夕刊フクニチ」に連載を開始したのが漫画「サザエさん」である。登場人物が全て海にちなんだ名前になっているのは、この百道の浜辺を散歩しながら構想を練っていたがゆえである。

 「サザエさんうちあけ話」という長谷川町子の自伝エッセイに載っているその下りが、磯野公園に石版の形で転載されている。

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 私がここまで歩いて来た道を、まだ浜辺だった時代に長谷川町子も歩いたわけだ。1km先に海岸線が移った現在では波の音すら聞こえないが、この散歩道があの国民的漫画を生んだ場所だというのは何とも感慨深い。

 さて、ここまでくれば西新まではあと少しである。西南学院大学や修猷館高校を横目で見ながら南に5-600mほど下って西新地区に出る。この西南学院大学の構内を元寇防塁が通っているので、鎌倉時代の海岸線は更に内陸寄りだったということだろうか。

 以前にも立ち寄ったが、地下鉄空港線西新駅の脇に「西新緑地」という小さな公園がある。ここに右翼の巨頭「頭山満(とうやまみつる)」の碑があることはそのとき紹介した。石碑の後ろにそびえる楠の大木は、頭山自身が生家の庭に植えたものをここに移植したと、早良区のサイトに解説がある。頭山の生家は、通りをはさんだ向かい側にあったとされる。

 この緑地にはもう一つ大きな石碑がある。「筒井條之助記念碑」である。

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 こんな立派な石碑が建っているわりには、この筒井條之助という人は一般に知られていない。地元早良区の開設するサイトによれば、西日本新聞社の前身である「九州日報社」の記者らしく、大正時代に西新が福岡市に編入されるのに尽力したようなことが書かれている。驚くべきことだが、この石碑の字を書いているのは「五・一五事件」で暗殺された犬養毅首相だ。

 頭山満の石碑の脇に新聞記者の碑が立ち、犬養毅が筆を取っているのは何とも不思議に思われるだろうが、両者の関係が分かればなるほどと思う。頭山満は母方の実家頭山家に養子に出た身で、元の姓は筒井である。そして、筒井條之助は頭山の甥にして娘婿という関係になる。更に、頭山満と犬養毅は真の盟友として親しく交わった仲だ。謎が解けてみればな〜んだということになるが、二つの石碑の関係を知っている人は意外に少ないのではないか。

 さて、頭山の生家だった場所に建つ「プラリバ」でのんびりと本を物色する。自分の生家がこんな建物に変わってしまって、頭山満は草葉の陰でどう思っているのだろうか。

 その後、明治通り沿いを東に歩き、スタート地点の唐人町を目指す。明治通りも街路樹の新緑が鮮やかだ。散歩を始めてからずっと曇り空だったが、ようやく雲の間から陽の差す空模様となった。もう少し前からこうだったら、散歩も気持ち良かったろうに・・・。まぁ雨が降らなかったことだけで良しとせねばなるまい。

 明治通り沿いには、貝原益軒・東軒夫妻が眠る「金龍寺(きんりゅうじ)」や、「漢委奴国王」の金印発見で有名な福岡藩西学問所甘棠館館長亀井南冥の墓がある「浄満寺(じょうまんじ)」などがある。これらは既に紹介したから、今まで写真を載せたことがない「平野神社(ひらのじんじゃ)」に立ち寄ろう。

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 ここに祀られているのは、いわゆる神ではなく「平野国臣(ひらのくにおみ)」という幕末の福岡藩士である。平野国臣は福岡藩の勤王派で、家老の加藤司書を筆頭に、藩士の月形洗蔵、中村円太らと、幕府を倒し尊皇攘夷を推し進めようとした。

 勤王派の動きに神経を尖らせた幕府は、当時の福岡藩主「黒田長溥(くろだながひろ)」を責め、勤王派を取り締まらせた。これにより主要メンバーを含めて百数十名が捕らえられ、加藤司書は切腹、月形らは桝木屋刑場で処刑された。これを「乙丑の変(いっちゅうのへん)」と呼んでいる。しかし、平野国臣はこれに連座したわけではなく、その前に脱藩して同行の士と共に但馬生野で倒幕のために挙兵し、捕らえられて京都の六角獄で処刑された。

 平野神社が建つのは、この平野国臣の生家があった場所である。過激な言動と奇妙な格好で有名だったというが、神社が出来るほど慕われていたということだろうか。ちなみに、西公園にある光雲神社参道を少し下ったところにも「平野二郎国臣像」という銅像が建っている。

 そういえば、平野神社の近くには、東方会総裁で衆議院議員だった「中野正剛(なかのせいごう)」の銅像もある。これもなかなか立派で目立つ存在だ。中野正剛は西公園の南側にある荒戸地区の生まれで修猷館中学に学んだ。戦時中、東條英機首相に反発して痛烈に批判、憲兵隊によって逮捕され、後に割腹自殺している。

 福岡には熱い志の人が多いんだなぁ。

 ようやく晴れ始めた中を歩きながら、この天気が明日も続いてくれればと思うが、天気予報によれば明日はもう下り坂らしい。下手すれば家でお籠もりの週末となるのだろうか。

posted by OhBoy at 23:27| 日記

2011年04月17日

名島でありし日の城を偲ぶ

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 今日は天気予報通り、朝から晴れて気持ちのいい天気だ。もっとも雲一つない快晴というわけではなく薄雲が広がっているし、夕方から曇り空となって明日には雨が降り出すと言っている。それでも週末の二日間、何とか雨も降らずに持ちこたえたのは良しとせねばなるまい。

 さて、好天に誘われ少し足を延ばしてみるかと行き先を考えた挙句、以前からたびたびこのブログに登場するものの一度も行ったことがない「名島(なじま)」に出掛けてみるかという結論に達した。

 何度か書いたが、名島はかつて名島城があった場所だ。この城は、黒田家が福岡に入る前にこの地を治めていた小早川家が居城としていた城だが、今では何も残っていない。それゆえ、あまり見に行く気が湧かなかったのだが、まぁ話として触れた以上、一度くらいは行ってみてもいいんじゃないかという気になった。名島周辺は全く行ったことのないエリアだから、ブラブラ歩いてみたら、それなりに面白かろうというわけだ。

 名島は福岡市東区の海岸沿いにあり、もう少し先にいくと香椎という位置関係だ。本日のスタート地点は、地下鉄箱崎線の終点「貝塚駅」。こんなことでもない限りなかなか来ない場所だ。

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 この駅は地下鉄の駅だが地上にある。そして、西鉄貝塚線の始発駅も兼ねている。西鉄貝塚線はこの先香椎方面につながっており、沿線はベッドタウンになっているので平日は通勤用の路線ということになろう。普通こういう形式だと相互乗入れしているものだが、何故か地下鉄貝塚線と西鉄貝塚線はつながっていない。

 改札口を間に挟んで地下鉄の線路の先に西鉄の線路が延びているのに、わざわざ地下鉄の改札口を出て、10mほど先の西鉄の改札口に入って電車を乗り換えなければならない。どう見ても不合理で、よくこのまま放ってあるなぁと逆に感心する。何とも不思議な話だ。

 実は名島まで行くなら、ここで西鉄貝塚線に乗り換えて次の名島駅で降りるという方が早い。ただ、せっかく見知らぬ土地に歩きに来たのだから、一駅手前から色々見ながら歩いて行きたい。

 貝塚駅を出ると目の前が公園になっている。「貝塚公園」というのだが、ちょっと覗いてみる。

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 最初地図でこの公園を見つけたときには、ここに文字通り貝塚でもあるのかと思ったが、実は交通公園と称する子供向けの公園であった(笑)。どうも駅名に惑わされたらしい。

 一見普通の公園に見えるが、中に入ってみると小さな道路が縦横無尽に走っており、横断歩道や信号、標識などがそこらじゅうにある。しかもおもちゃではなく立派な本物ばかりだ。暫くすると、きちんとセンターラインのある道路を、子供たちがゴーカートに乗って走って来る。

 これはいったい何だろうと思って、ゴーカートのやって来る先に行ってみると、どうやら福岡県交通安全協会が主催するゴーカート・コースのようだ。交通ルールを子供たちに教えることを目的にしているようで、掲示板に警察の名前も見える。それで信号やら標識やらが全て本物というわけか。たくさんの子供たちがゴーカートの順番待ちをしていて、大盛況のようだ。

 交通をテーマにする公園だけあって、園内には、寝台列車をつないだ蒸気機関車のほか小型飛行機まで展示されている。これだと男の子は大喜びだろう。天気も良いせいか親子連れでいっぱいだし、駐車場に次々と車が入って来る。眼を見張る豪華な施設はないが、テーマパークとしては、まずまず成功の部類ではないか。

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 ついでだから交通つながりで、この公園の裏手にある貨物ターミナル駅でも覗いてみようと、公園脇の道を海岸方向に向けて歩いた。大通りを越えて真っ直ぐ行くと、突き当りがターミナル駅である。

 このターミナル駅はかなり巨大で、2km近くにわたって構内が続いている。幅も200mくらいはあろうか。高速道路からよく見えるので、この辺りに来る機会があったら、立ち寄ってみたいなと思っていた場所だ。

 福岡県の鉄道貨物の拠点で、ここから全国に向けて貨物列車が出ていると聞く。周囲には運送会社も建ち並び、駅構内には無数のコンテナが置いてある。今日は日曜日だが、休みということはなく、フォークリフトが荷物を運び、コンテナ車を長くつないだ電気機関車が出入りする。

 ターミナル駅沿いに遊歩道が続いており、のんびりと歩けるのだが、如何せん、街路樹が邪魔になって構内があまり見渡せない。もう少し中を覗けるような場所を作れば、鉄道マニアにも人気のスポットになるんじゃないかと思うが、駅の側からすれば、そんなことしても何のメリットもないし、見物客を集めて仕事の邪魔をされたくないのだろう。

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 さて、電車関係はこの辺りにして、いよいよ名島城址を目指すことにしよう。ターミナル駅沿いの遊歩道を北端まで歩くと、東側に折れて唐津街道に出る。唐津街道と言っても現代の唐津街道であって、江戸時代に大名行列が通った唐津街道ではない。だいたいその頃は、この辺りは海だったはずだ(笑)。おそらく、千利休が野点をして感じ入ったという「千代の松原」がこの辺りまで続いていたのだと思う。

 唐津街道を北に暫く進むと、「多々良川(たたらがわ)」に差し掛かる。多々良川は、日本書紀にも登場する福岡県の糟屋郡から発しており、福岡市を経て博多湾に注ぐ。この辺りは最下流域だからかなり広大である。上流に行くとそれなりに趣のある川なのだろうが、下流域は都市部の管理された河川という印象だ。でも、野鳥は多いらしい。

 多々良川周辺は、南北朝時代と戦国時代に合戦の舞台となっている。

 南北朝時代の戦いがあったのは1336年で、一旦九州に敗走した足利尊氏と、肥後の菊池一族を中心とした九州の御家人連合軍が多々良浜で激突したと伝えられている。足利軍の十倍の兵力を擁する菊池軍は当初戦いを有利に進めるが、裏切り者も出て最後は足利尊氏が勝利した。これにより九州の御家人を味方につけた足利軍は体勢を整えて再び上洛し、湊川の戦いで楠木正成を破ることとなる。

 一方、戦国時代の合戦が起きたのは1569年で、北九州東部を支配する戦国大名「大友宗麟」と、中国地方の覇者「毛利元就」が多々良川を挟んで戦った。戦いのきっかけは、昨年秋に訪れた秋月のかつての支配者秋月家にまつわる話なのだが、長くなるのでそのあたりはカットして(笑)、攻防の中心を言うと、大友氏の重要戦略拠点だった「立花山城(たちばなやまじょう)」をめぐるものである。その立花山城があったのは、この多々良川河口から北東に6-7km行った東区の端の立花山の上である。

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 立花山城は鎌倉時代末期に大友氏が築いた城だが、博多が一望できる軍事上の重要拠点だった。多々良川の合戦前の城主は、大友氏の家臣「立花鑑載(たちばなあきとし)」で、この人は元々大友姓を名乗る大友氏庶流の家柄である。

 だが、毛利・秋月連合軍が秋月家の旧所領を奪還すべく九州に攻め入った際、毛利・秋月連合軍有利と見た立花鑑載は、主君大友氏に叛旗を翻し毛利方に寝返ってしまう。慌てた大友勢は立花山城を奪い返し立花鑑載を自害に追いやるが、再び毛利方が巻き返し、城を奪い返した。こうした立花山城をめぐるシーソーゲームの果てに起きたのが、多々良川の合戦である。

 この戦いは長期戦になり、毛利方には後に名島城主となる「小早川隆景(こばやかわたかかげ)」も加わっている。布陣からすれば立花山城を守る毛利軍の方が有利だったが、大友氏は策略を講じて、中国地方の毛利氏の領土の背後から反毛利派に挙兵させ、城を守る部隊を引き揚げざるを得ない状況に追い込んだ。これにより立花山城は再び大友氏の手に戻り、戦いは終結した。

 そんな幾多の戦いがこの地であったとは思えぬくらい多々良川河口は姿を変えてしまった。かつては広大な干潟であったと伝えられる川岸はコンクリートで防御され、辺りには倉庫や団地が建ち並んでいる。「兵どもが夢の跡」といったところだろうか。

 さて、この多々良川に架かる立派な橋は「名島橋」というのだが、3年の工期を経て昭和8年に完成した七連の鉄筋コンクリート製アーチ橋である。最近の機能一辺倒の橋と違って、デザインがなかなか優美だ。さすが戦前の橋という気がする。

 そのうえ、当時のまま残っているにしては橋の幅が広過ぎる。片側三車線の道路に歩道まで付いている。昭和8年の自動車の交通量など微々たるものだったはずだ。

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 橋のたもとに解説板があるが、ここにこれだけの規模の橋を架けた理由は謎に包まれていると記されている。飛行場の代用だったとか、路面電車を通す目的だったなど、諸説あるらしいが、真相は分かっていない。戦時中には空襲から橋を守るために、真っ黒に塗ったと言われている。そのお蔭で、今もこうして残って幹線道路に使われているわけだ。

 名島橋を渡ったあと唐津街道は、先ほど見た貨物ターミナルから延びる貨物線のほか、西鉄貝塚線、JR鹿児島本線など、計3本の線路と平行して走る。そのまま進むと千早地区に入り、その先が香椎となる。そう言えば、松本清張の「点と線」の最初に出て来る香椎潟の心中死体発見は、香椎から名島に歩いて通勤する工場労働者によってなされるのだった。名島と香椎の距離関係は当時そんな感じだったのだろうか。駅にすると二駅分あるのだが・・・。

 ちなみに、千早と聞くと和歌に通じている人ならピンと来るだろうが、「千早(ちはや)ぶる」が「神」の枕詞になっている。千早地区の先に香椎宮があるというは、何ともしゃれた命名だと思う。いったいどういう謂れで千早と付いたのだろうか。

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 さて、今日のところは千早まで行くと行き過ぎになるので、名島橋を渡った先で唐津街道を海岸側に折れる。名島城址はこの多々良川の河口べりにある。

 暫く歩くと名島城址への観光案内板が出ていて、それに沿って進む。運動公園の先で高速道路の下をくぐり、やがて多々良川沿いの道に出る。このまま道なりに歩けば、自然と名島城址まで行けるようだ。

 海岸縁に出ると何だか人が多い。おまけにたくさんの車が路上に駐車されており、警官まで出て駐車違反を取り締まっている。いったい何の騒ぎだろうと思って岸壁の向こうを覗くと、無数の人が干潟となった海岸に群れている。よく見れば潮干狩りだ。こんなところで貝が獲れるとは知らなかった。

 名島城址に近づくにつれて人はどんどん多くなり、車も道にギッシリ停まっている。辺りではシートを広げる人、護岸に座っておにぎりを食べる人、獲ってきた貝を車のクーラーに積み込む人、もう大騒ぎである。どれくらいかけて獲っているのか知らないが、バケツ一杯分くらいの貝を運ぶ人もいる。こりゃなかなかのもんだ。

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 どう見てもきれいな浜辺とは思えないが、ここで獲れる貝はおいしいのだろうか。そういえば昔、東京の葛西臨海公園の人工の渚で潮干狩りをして獲った貝を食べたが、なかなか肉厚で美味ではあった。貝というのは、多少汚い水の方がよく育つということだろうか。

 潮干狩りに来た人たちを掻き分けて、ようやく「名島神社(なじまじんじゃ)」の入り口にたどり着く。鳥居の下にはあふれた車が二台も停まっていて参道を塞いでいる。その脇を通って階段を登り社殿に行くと、境内にも車がギッシリ。もうこの辺りは潮干狩り一色だ(笑)。

 途中の案内板で知ったが、ここは桜の名所でもあるらしい。花見用に区画が仕切ってあり、社務所で整理表を出すと書いてある。なるほど周囲は桜の木ばかりで、既に花の大半は散ってしまっているが、満開のときはきれいだったのだろう。花が散ったら今度は潮干狩り。色々楽しみがあってうらやましい(笑)。

 鳥居の下にあった解説板によれば、名島神社は元々この地にあったわけではなく、小早川隆景の命でここに移されたようだ。それまでは「神宮ヶ峯(じんぐうがみね)」」の山頂にあったとある。それがどこにある山なのかは分からないが、祭神は「宗像三柱姫大神(むなかたみはしらひめおおかみ)」とあるから、宗像市にある宗像大社の末社のようだ。

 現在社殿は改修を計画しているようで、ベニア板で正面が覆われている。最初見たときにはあまりに粗末なたたずまいでビックリしたが、単に板で覆われていただけだった。

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 この神社の裏手の階段を登っていくと、いよいよ本日の最終目的地である名島城址に着く。上がってみると広い公園になっていて、ほとんど人はいない。下界の潮干狩りの喧騒が嘘のような静けさだ(笑)。

 話に聞いていた通り、城の面影を偲ぶ遺構はほとんど何もない。「名島城跡」の石碑が隅に建つほかは、石垣のごく一部と、櫓の礎石の一部が残っている程度だろうか。

 そもそも名島城は、大友氏に叛旗を翻し毛利方に寝返った立花山城城主立花鑑載が、立花山城の出城としてこの地に築いたものだ。その後、九州平定を果たした豊臣秀吉が筑前国を小早川隆景に与えると、毛利氏の下で強力な水軍として名を馳せた隆景は、水軍の活躍できる名島城に目を付け、大改修して居城とした。これにより山城である立花山城は軽視され、逆に名島城の支城に格落ちする。

 ちなみに小早川隆景は、毛利元就の有名な三本の矢の話に出て来る毛利三兄弟の末弟で、単なる一家臣ではない。継嗣が途絶えた小早川家に養子に入るが、父の教え通り毛利家を継いだ兄毛利隆元をよく支えた。

 名島城を拠点とする隆景の考えには秀吉も賛意を示したようで、名島城改修にも手を貸したらしい。そのうえ城内に「「御座所(ござしょ)」を設けて、「文禄・慶長の役」で朝鮮出兵した際には、淀君を伴ないこの城に宿泊したと伝えられている。

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 小早川隆景はやがて隠居し、元の城があった広島県の三原市に引っ込んでしまう。その後を継いで名島城主となったのが、有名な「小早川秀秋(こばやかわひであき)」である。

 ご存知の方も多かろうが、小早川秀秋は隆景の実子ではない。豊臣秀吉の正室「ねね(おね)」の兄の子である。一旦叔父である秀吉の養子となったあと、実子のいなかった小早川隆景の元に養子に入っている。しかし、何かと失敗の多い人だったようで、秀吉の跡目を巡る豊臣秀次の事件に巻き込まれて連座させられたり、朝鮮出兵時の不備を責められ、一旦名島城主を追われたりしている。

 その秀秋が再び名島城主として返り咲くのは秀吉の死後で、ようやく名島に帰ったと思ったら、ほどなく関ヶ原の合戦を迎えることになる。ここで有名な裏切りが起こるわけだ。西軍として石田三成の軍勢に加わった秀秋は、合戦の最中に徳川方に寝返り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった。それまでの西軍やや有利の戦況はこの辺りから崩れ、結局東軍が勝利を物にした。

 この功績により秀秋は岡山藩を与えられ、その代わりに筑前を与えられ入城して来たのが黒田長政ということになる。ちなみに小早川秀秋は、関ヶ原の合戦から2年後に21歳という若さで早世している。

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 新たに入城した黒田長政は城下町の形成を重視して、城を内陸に置くことにした。これが今の福岡城だが、その築城のため長政は名島城を解体し、石垣もろとも持って行ってしまう。また、名島城のみならず立花山城の石垣まで持ち去ったため、立花山城もあわせて廃城となる。名島城は今やほとんど何もないが、立花山城もわずかに石垣の一部と古井戸が残るのみと聞く。

 こうして見ると名島城は、小早川隆景が大改修してから黒田長政によって廃城とされるまで、わずか10年少々しか往事の姿を留めなかった。何とも短命で、まさに幻のように消えてしまった城ということになる。

 意外だったのは、海城と言うからてっきり平地にあるものだとばかり思っていたが、けっこう小高い丘の上にあって、周囲の見晴らしが良いということだ。香椎方向に山がいくつも見えるから、あの中の一つが立花山なのだろうなぁと思って眺めた。すべては遠い昔のことである。

 そういえば、ここから見える千早地区のどこかに、かつて「名島飛行場」というのがあったらしい。戦前の一時期に大阪方面と中国の上海方面に向けて、水上機の定期便が飛んでいたと聞く。今では建物が建ってしまってその痕跡はないらしいが、リンドバーグが世界一周飛行途中に夫人と共に飛来したという記録が残っていると、名島橋のたもとの観光案内版にあった。何気ない土地に、面白い歴史があるものだ。

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 さて、在りし日の名島城を偲んだあとは、再び海岸線まで降りて、今度は「神功皇后(じんぐうこうごう)」の遺構なんぞを眺めることとする。歴史は一気に神代まで遡るわけだ(笑)。

 神功皇后のことは、もう何度もこのブログに登場しているからご存知だろう。「仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)」の妻であり、「応神天皇(おうじんてんのう)」の母ということになる。

 西暦200年頃に仲哀天皇は九州平定のために遠征してきて、この地に「橿日宮(かしひのみや)」を建て、妻の神功皇后と住んだ。ところがある日「海の向こうにある朝鮮半島を与えよう」という神のお告げにそむいて、「そんな土地は山に登っても見えない」と仲哀天皇が答えたものだから、神罰により死んでしまう。悲しんだ妻の神功皇后が、橿日宮に祠を建て天皇を祀ったのが、「香椎宮(かしいぐう)」である。つまり香椎宮は天皇陵であり、古くは「香椎廟」と呼ばれていた。

 ちなみに、この神のお告げを天皇に伝えたのは、シャーマンだった妻の神功皇后であり、そのため日本書紀では、同年代に日本にいたはずの邪馬台国の女王「卑弥呼」は神功皇后だと解釈している。いずれにせよ、かよわき女性ではなかったわけだ。

 夫が果たさなかった神のお告げを実現すべく、神功皇后は妊娠していたにもかかわらず朝鮮半島に出兵し、新羅、高句麗、百済を征伐した。いわゆる「三韓征伐(さんかんせいばつ)」である。凱旋帰国して九州の地で出産し、応神天皇を生んでいる。

 さて、その神功皇后が三韓征伐の折りに乗った軍船の帆柱が、この名島神社の先の海岸に残っているのである。それがこれだ。

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 この柵の中に横たわる茶色い石の柱のようなものが軍船の帆柱で、「名島帆柱石(なじまほばしらいし)」と呼ばれている。「ホントですか?!」ということになるが、本当のわけがない(爆)。そりゃ常識で考えたら分かるだろう。しかし、これは岩ではなく、本当の木なのである。

 帆柱石の解説板によれば、今から3500万年前の「珪化木(けいかぼく)」という樫の一種が化石になったものらしい。香椎宮に伝わる言い伝えでは、神功皇后の軍船の帆柱が化石になったとされているようだが、実際には神功皇后なんかよりも遙かに古い貴重な化石なのである。

 そんなわけで国の天然記念物に指定されているらしいが、こんな剥き出しの状態で波打ち際に放置していていいんだろうか。誰かがいたずらしたら大変なことになると思うが・・・。

 実は神功皇后関係の旧跡はこれだけではない。すぐそばにもう一つ「緑の石」というのがある。

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 石というより岩なのだが、これは三韓征伐から戻った神功皇后が、上陸してここに座り休んだという謂れの石である。その後に神功皇后は応神天皇を生んでいるので、この石に妊婦が祈願すれば安産になると伝えられている。ちなみに、神功皇后が応神天皇を生んだのは、多々良川の上流の糟屋にある「宇瀰(うみ)」という土地だとされている。この地名は今でも糟屋郡宇美町として残っている。

 しかし、以前姪浜に行った際に書いたが、神功皇后が凱旋したのは姪浜のはずである。朝鮮半島に向けて出航したのも姪浜である。ではどうして、ここに神功皇后が座った石があるのか。まぁ突っ込めば色々矛盾が出てくるのが古代史というものだろう。これ以上の詮索は止めておこう。

 さて、一応見るべきほどのものは見たので、そろそろ帰ることにしよう。帰路は多々良川沿いの遊歩道を南に向かって歩き、名島橋まで戻る。海岸から離れると潮干狩りの人々もいなくなり、静かな河畔を一人歩く。

 こうして見ると、あまり期待もしなかったが、いざ来てみると見るべきものは色々あるものだ。散歩の楽しさというのは、こういう小さな発見の連続にあるのだろう。

 さて、来週はどこに行こう。いやその前にまずは天気だ。来週もまた好天に恵まれるよう、今のうちから神功皇后にでもお祈りをしておこう(笑)。
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2011年04月16日

博多漁港経由で天神へ

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 昨夜の天気予報を見て、今日は朝から快晴だとばかり思って目を覚ましたら、何やら外がさほど明るくない。あれっと思ってカーテンを開けると、どんよりとした曇り空。そのうえ風も強く、寒いというわけではないが、やや冷たい北風が吹いている。時折、唸りを上げるような勢いなので、これですっかり桜も散るだろう。

 桜が咲いて以降、気温も上がり気味だったため、すっかり春になったものと思っていたが、今日の天気はやや肩透かしを食らったような気分だ。といっても、コートがいるような寒さではない。

 天気予報を見ても福岡は次第に晴れるということだったので、そのうち太陽も顔を覗かせるだろうと、午前中は洗濯とワイシャツのクリーニングがけについやす。しかし、昼になっても一向に日が差してくる気配はない。下手すればパラパラと小雨でも降りかねない空模様なので、外に出るのがややためらわれる。洗濯物も外に干しておいて大丈夫だろうかと、やや不安になる始末だ。

 ただ、今日は天神まで行かなければならない用事があるので、どのみち午後には出掛けなければならない。地下鉄で行くかと一瞬思ったが、天気予報の降水確率は10-20%なので、散歩も兼ねて歩いて行くことにした。折りたたみ傘を持っていれば何とかなるだろう。もっとも、ベランダに干した洗濯物は不安材料だが・・・。

 今までの天神への経路としては、けやき通り経由で行ったり、昭和通りや明治通り沿いの旧跡などを訪ねながら歩いたりした。同じルートではつまらないので、今日は海沿いを歩くことにする。といっても、歩いたことのない道というわけではないが・・・。

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 まずはテクテク歩いて西公園の東側まで行く。案の定、西公園の桜はかなり散ってしまっている。雨こそ降らなかったが、あの風では仕方あるまい。道路脇には桜の花びらがいっぱい落ちている。

 博多漁港の西端は西公園のある荒津山ということになる。すぐ北側は、荒津の石油中継基地がある場所だ。奈良時代や平安時代に、この辺りから大陸に渡る船が出ていたなんて信じられない現在の光景である。

 本日は、ここから天神のある東に向けて博多漁港沿いを歩こうという趣向である。

 福岡の港というと、貿易港か工業用途の港湾だと最初は思っていた。まさかど真ん中に漁港があるなんて、思いもしなかった。それは福岡市が150万人近くの人口を擁する九州最大の政令指定都市であったからで、漁業というイメージと結びつかなかったのだ。よく考えれば、北九州の工業地帯は福岡ではなく北九州市だということは、昔中学・高校の社会科の授業で習ったはずなんだが・・・。

 博多港全体としては、貿易港としての役割も当然担っていて、もっと東側にある須崎埠頭や中央埠頭、東浜埠頭などで様々な物資の輸出入が行われていると聞く。元々博多と言えば、古代には大陸に向けて開かれた唯一の玄関口で、人も物も、ここを通じて海外と行き来していた。だから、貿易港というのが本来の博多港の姿なのだろう。

 しかし今は、福岡市の中心部あたりの海岸線を占めているのは博多漁港であり、鮮魚を扱う中央卸売市場もこのちょっと先にある。ここの漁港を基地にしている船団がどの程度の水揚げを占めているかは知らないが、鮮魚市場がここにあるということが、市中に日々新鮮な魚が出回るのを支えているわけで、魚好きの私としてはまことにありがたい存在である。

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 さて、博多漁港の一角には「福岡造船」の造船所がある。こんな狭いところで船を造っているなんて、ちょっと意外だ。

 北九州で造船所というと、長崎が真っ先に思い浮かぶ。三菱財閥創業者「岩崎彌太郎(いわさきやたろう)」の弟「岩崎彌之助(いわさきやのすけ)」が官営の「長崎造船局」の払い下げを受けて創設した「長崎造船(三菱重工業長崎造船所)」が有名で、戦艦武蔵はそこで建造された。今でも武蔵を造ったドッグが残っていると聞く。

 福岡漁港にある福岡造船も長崎に造船所を持っているようだが、本社はここ福岡で、造船所も現役で次々と船を造っているようだ。今も大きな船が建造中で、構内には入れないものの、船体は工場の外から見ることが出来る。工場の正門に突き出すように船の船首が見えていて、船の大きさというものを実感できる。

 福岡造船は、船の進水式を一般人に開放して見せてくれるというので有名らしい。この前の進水式は今年の2月21日だったようで、見に行った人に聞くと、けっこうな人数の見物客が来ていたようだ。大きな船なのでゆっくり水に入っていくものかと思ったら、あっという間の出来事だったという。

 福岡造船のサイトにその時の模様が動画でアップされているので見てみたら、たしかにスルスルと滑るように船が水に入っていく。これを間近で見るとなかなか迫力がありそうだ。でもこの狭い湾内であんなふうに勢いよく進水すると、惰性で向こう岸にぶつからないのかと心配になる。

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 福岡造船から南に少し下がり、「かもめ広場」沿いを歩く。ここは私の好きな散歩道で、平日来ないからよく分からないが、休みの日はホントに静かだ。係留されている船を見ながらのんびりと歩く。ほとんどすれ違う人もいない。

 途中に「天空の足湯」という無料の足湯場があるのだが、福岡の人でも意外とこの足湯のことは知らない。話をすると、みんな「そんなのあるんですかぁ」なんて顔をしている。私のように散歩を趣味にしている人間以外、博多漁港なんて歩かないんだろうなぁ。

 今日も足湯はけっこうな人の入りで、皆さん、気持ち良さそうに足を湯につけて、海を眺めている。休日の過ごし方としてはなかなか優雅じゃなかろうか。

 港を散歩していて気付くのは、けっこうカラスやトビの姿が目に付くことだ。逆にカモメはほとんど見掛けない。カラスはどこにでもいるが、トビが何羽か上空をゆっくりと旋回しているのは、魚でも探しているのだろうか。以前、西公園の展望台に上がったときにも、トビが悠然と漁港上空を舞っているのを見た記憶がある。

 長浜地区に入ると海沿いに中央卸売市場があるので、道は一旦南に折れて海から離れ、市場の脇で再び東に曲がって卸売市場前を歩くことになる。市場の西側辺りが有名な長浜のラーメン街だ。昼メシ時をとっくに過ぎているが、何人かの観光客とおぼしき人たちがラーメン屋に入るのを見掛けた。相変わらずの人気らしい。

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 長浜ラーメン発祥の話は、以前ここに来たときのブログで書いたと思うが、そもそもは鮮魚市場に仕入れに来る業者向けのラーメン屋台だったと聞く。それがやがて店舗を構えて一般の人たちも食べに来るようになり、噂が噂を呼んで今では観光客にも人気らしい。観光客が来るには、ちと辺鄙な場所ではあるが・・・。

 市場に出入りする人たちはみんな忙しいから、注文が来たらすぐにラーメンを出さないといけない。それで瞬時に茹で上がる極細めんが使われるようになり、そうなると熱いスープの中ではのびやすいので硬めの茹で上げが指定されるようになったと言われている。たしかに福岡の人は「バリカタ」が好きだ(笑)。

 ちなみに、こうした事情にない久留米辺りの豚骨ラーメンだと、麺をすぐに茹でる必要がないので、普通の太さの麺が使われている。従って、バリカタなんか頼むと麺が硬すぎるきらいがあるらしい。以前、久留米発祥のラーメン屋に行って店長の話を聞いていると、この人は博多っ子がすぐに「バリカタ」と指定するのが嫌いらしく、「うちにはバリカタはない」と突っぱねていると豪語していた。同じ豚骨ラーメンでも、出身地によって譲れぬ流儀があるものらしい。

 そういえば、この長浜ラーメンには元祖争いがあるとも聞いた。どちらが本家本元かで争っているらしい。私にその話をした人は経緯は知らないと言っていたが、そう言われてみれば店の前に「向こうの○○とは関係ない」みたいな張り紙があったりする。ここにもラーメン屋同士のプライドが火花を散らす土壌があるらしい。

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 さて、ラーメン街から少し行くと、中央卸売市場が見えて来る。当然今日はお休みで、周囲は閑散としている。この市場前の歩道は、場所によっては車が充分すれ違えるくらいに広い。どうしてこんなに広く取る必要があったのだろうと不思議に思う。

 この市場は、昔はここになかったとも聞く。もっと東側にあったものをこちらに移転したという話だ。当然ラーメン街も移動して来たのだろう。してみると、昔はラーメン街へのアクセスは簡単だったのかもしれない。でも、その頃は長浜ラーメンとは呼んでいなかったのではないか。だって、市場があった場所は長浜じゃなかったはずだから・・・。

 このまま行くと道は「須崎公園」にぶつかるが、それでは行き過ぎになって天神地区を越えてしまうため、手前の交差点で南に折れる。もうここまで来たら天神はすぐ近くで、あとは道なりに進めば自動的に着く。

 こうして見ると、天神もけっこう近いものだ。交差点で何度も信号待ちをするのが面倒なので、ダイエーから地下にもぐり、ビルの下を通って地下街に出る。土曜日の天神としては、人通りが心なしか少ない気がする。もしかしてこれは、JR博多シティーに客を奪われているからだろうか。こうして見ると、天神の危機感もあながち杞憂ではないような・・・。

 暫しあちこちに行って用事を済ませたあと、帰路はあっさり明治通りを選ぶ。これで途中雨が降っても、ちょっと行けば地下鉄の駅にたどり着ける。

 少し行ったところで、道路沿いに青森・岩手・秋田の三県が共同で出しているアンテナショップを見つける。更にその先に沖縄県のアンテナショップも。そういえば、最近中洲川端に長崎市・佐世保市・雲仙市 の三市が共同経営するアンテナショップが出来たとも聞いた。東京では県や主要都市のアンテナショップが一通りそろっているようだが、東京以外の都市にもそれなりに出店して宣伝しているんだなぁ。

 明治通り沿いの店を見ながら歩いているうちに、福岡城址のお堀端まで来た。

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 桜はほとんど散ってしまったようだが、代わりに八重桜がぼんぼりのようなピンクの花を咲かせており、なかなかきれいだ。花の色が濃いのと葉が一緒に出ているせいで、ソメイヨシノの幻想的な華やかさとはちょっと趣が異なるが、これはこれでいい。

 私の記憶では、この八重桜を塩漬けしたものを使って桜湯を作るはずだ。それ自体おいしいものだとは思わないが、日本人らしい風情があり、正式の祝いの席などにはふさわしい飲み物だと思う。

 もう一つ桜にちなんだ飲食物と言うと、桜餅がある。さっき天神で見ていたら菓子売り場でたくさん売っていた。この季節にふさわしい和菓子の代表作だろう。私は、桜餅をくるんでいる塩漬けの桜の葉があまり好きではなく、葉を剥がしてから食べるという変則的な食べ方をしてしまう。「葉のしょっぱさが餡と合っておいしいのに」と言われるが、どうも苦手だ。負け惜しみ的に言っておくと、葉に含まれる香りの成分は肝臓に悪い影響を与える。もっとも東京における放射能と同じで、いくつか食べた程度では「ただちには影響がない」(笑)。

 さて、お堀端を私の好きな土の散策道に沿って歩いていくと、散った桜の花びらが薄紅色の帯となって水面に漂っていた。この花が咲いていたのはつい1週間前のことで、桜の花の命の短さを思わずにはいられない。

 「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」と書いたのは林芙美子だ。彼女は門司の人だったなぁ。

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 それにしても、そろそろ夕方になるというのに一向に太陽が覗く気配がない。幸い雨は降らなかったが、気温は思ったほど上がらず、寒いねと言っている薄着の通行人とすれ違ったりした。桜が散っても一気に春本番というわけには行かないのだろうか。既に4月も中旬だから、そろそろ汗ばむくらいの日が幾日か混じり始めるはずだけれど・・・。

 天気予報では明日は晴れのち曇と言っている。今度こそ外れずに、朝から快晴となって欲しいものだ。

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2011年04月10日

山王公園から美野島へ

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 今日も朝から天気がいい。週末が二日続きでこんな快晴というのは久し振りな気がする。たいてい一日は晴れるが、もう一日は曇か雨となることが多い。最後の花見の週末ということで、天が配慮してくれたのだろうか。

 さて、花見行脚の最後を締めくくるのにどこに行こうかと昨晩から思案していたのだが、市内の桜の名所ということで残っているのは「南公園」や「紅葉山公園」だろうか。足を伸ばすなら、共に二千本の桜を擁する「海の中道海浜公園」や「油山市民の森」があるが、車を持たない身としては、そこまで行くのが大変だ。

 いっそ、代表的な名所ではなく隠れた花見の穴場でも訪ねたらどうだろうかと思い付いたところで、以前知り合いから聞いた「山王公園」が頭に浮かんだ。場所は博多駅の東側になる。今まで行ったことのないエリアなのでちょうどいい。

 地図で場所を調べて、地下鉄に乗って出掛けた。本日のスタート地点は地下鉄空港線の博多駅、つまりJR博多駅である。そういえば、この前JR博多シティーを見に来たばかりだ。

 先日来た時には、駅の西側を中心にウロウロしたが、今度は逆の東側から散歩をスタートすることになる。駅ではこちらの出口を「筑紫口」と呼んでいる。西側である「博多口」は、如何にも福岡の玄関口といった立派な感じがするが、筑紫口は地味で、まるで裏口のようだ(笑)。

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 山王公園は、筑紫口から南東方向に1kmほど歩いたところにある。本当は、地下鉄でひと駅先の「東比恵駅」まで行った方が近いのだが、散歩の距離を稼ぐため、JR博多駅をスタート地点に選んだ。かといって、駅からの道中が素晴らしい眺めといったことはない。山王公園までずっと味気ないビル街で、しかも地味なオフィス・ビルや雑居ビルばかりが並んでいる。

 このエリアは、地元の人に訊いても、あまり注目されていない地域らしい。「昔は何もなかったところですよ」と皆さん仰るが、何もなかったといっても荒地だったわけではあるまい。じゃあどんな雰囲気の所だったんだと尋ねると、誰もが記憶にないという。人によっては「確か畑だったですよ」なんて言う人までいるが、本当だろうか。いずれにせよ、忘れられていた場所ということだろう。

 実際、駅の東側は車も人も少ない。日曜日ということもあるのだろうが、ガランとしていてゴーストタウンのような静けさだ。途中、百年橋通りという東西に流れる幹線を横切ったときだけ車がビュンビュン走っていたが、南に下りていく通りは静かなものである。

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 道路沿いの街路樹は若葉が出て鮮やかだ。車もめったに通らない道路の、これまた人もほとんど歩いていない歩道をのんびり歩く。なかなか気持ちのいい散歩である。

 百年橋通りを渡ったあと道幅は狭くなり、街並みもそれまでとは変わって来る。道に面した一戸建ても現れ、駐車場で至るところ歯抜けのようになっている。高いビルも見当たらず、鄙びた地方都市の静かな午後といった風情である。

 通りの裏側はどんな感じになってるかと思いちょっと脇道に入って覗いてみると、低層のマンションやアパート、一戸建てがあるほか、倉庫があったり、雑居ビルがあったり、はたまた町工場まであったりして、統一感なく雑然としている。地元の人が「何もない場所だった」というのも何となく分かるような気がする。要するに、街並みの芯になるものがない。これだと確かに記憶に残りにくいなぁと感じた。

 信号で何度か止まるが、車も人もいないので信号機の意味がない。休みの日なら点滅信号で充分だろう。ほどなくして山王公園に着いた。

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 実は、この公園のことを教えてくれた地元の人は「ここの花見はけっこう騒がしいですよ」なんて言っていたから、あまり良いイメージを持たずにやって来たのだが、なかなかどうして、設備の整った立派な公園だ。野球場があるうえ、ラバーシートが張られたジョギングコースも整備されている。トレーニング用の設備もあり、管理事務所も置かれているようだ。運動をする人にはなかなか良い公園だ。ただ、この季節はジョギングなど不可能だろうが・・・。

 桜は探さずとも至るところに植えられている。桜で有名なだけあって、桜の案内板まで設置されている。ソメイヨシノが中心だが他にも何種類かの桜が植えられているようだ。案内板を見ると外周園路のほか、「さくらの丘」と「芝生広場」にたくさんの桜が植えられているらしい。早速ジョギングコースに沿って桜を見に行く。

 まずはさくらの丘だが、桜以上に人がすごい(笑)。知人の言っていた「騒がしい花見」というのがよく分かった。至るところシートが広げられ、子供からお年寄りまで、様々な人が楽しげに歓談している。陽気がいいのでビールが酌み交わされ、隅の方ではバーベキューの煙まで上がっている。これぞ「日本の花見」(爆)といった感じだ。

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 さくらの丘から降りていったところが芝生広場だが、ここにもたくさんの人がシートを広げて賑やかに一杯やっている。遅れてやって来たグループが、飲み物や食べ物が入った大きな袋をぶら下げてあちこち見渡しているが、いい場所は既に満杯の状態だ。

 ここに来るまでに通って来た街並みの静けさと、この公園の賑わいとの間のギャップがすごい。東京の上野公園の花見のようにカラオケセットを持ち込んで歌っている人はいないが、わいわいと話す人の声でたいそう賑やかだ。西公園や舞鶴公園と同じく何軒か屋台が出ているが、公園内ということもあってそれほどたくさんの店はない。

 花の状態は、満開を過ぎて散り始めといった感じで、至るところで花びらがハラハラと舞っている。この花びらの舞う感じが桜のもう一つの見所で、如何にも日本の春という感じがする。中には葉が出始めている木もあり、来週のウィークディのうちに多くの花が散ってしまうだろう。かくしてこれが今年の桜の見納めのような気もする。

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 芝生広場の先にある外周園路にも桜が植えられて、桜のトンネルになっている。ここも木の下ではシートが敷かれ、わいわいがやがやと皆さん、楽しそうに飲み食いしている。いったいどれくらいの人がこの公園に集まっているのか知らないが、飲み物・食べ物持込みとすると車で来ているのだろう。公園に駐車場はないから、どこに車を停めているのやら、ちょっと不思議である。

 ちょうど公園のジョギングコースを一周した辺りで、ポツリと神社があるのを発見した。ここだけ人がいなくて静かな雰囲気だ。せっかくなので立ち寄ってみる。

 神社は「日吉神社」で、愛宕神社同様、全国にたくさん末社のある神社だ。ただ、入り口に掲げられている由来を読むと、創建年代は不明で古くからこの地にあったとか、筥崎宮、住吉神社とともに黒田藩の藩主が正月に詣でる三社の一つだったなどと書いてある。筥崎宮や住吉神社の風格を思い浮かべると、どうも釣り合わない。あまりに敷地が小さく地味なたたずまいで、藩主が参るような神社とは思えないのである。

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 案内板には他にも、この神社が駅の東側にある「比恵(ひえ)」の地名の由来になったとある。もしかしたらこの神社、只者ではないかもしれないなぁと思い始めた。

 この神社は別名「山王社」と言うと案内板にあるから、江戸時代にはこの山王公園自体が神社の敷地だったのではなかろうか。神社の敷地を使って公園を作ったので、敬意を表して山王公園という名前が付いているのでは・・・。

 更に、この近辺の地名は「山王○丁目」だということと、その北側にある比恵地区が日吉神社の系列である「日枝神社(ひえじんじゃ)」に由来することを併せ考えれば、付近一帯が社領だった可能性もある。藩の信仰が厚い神社は田畑を社領として与えられたから、江戸時代には広い敷地を持つ立派な神社だった可能性は充分ある。

 そういえば、今日の花見の候補の一つでもあった藤崎の「紅葉八幡宮」は、黒田藩三代目藩主黒田光之の信仰厚く、その後黒田藩の守護神として崇められ、広大な敷地と社殿、能舞台、随神門、鐘閣などを有していたが、明治時代になり社領を返上し今のようなこじんまりとした神社になっている。この日吉神社も、何らかの事情で敷地を縮小することになったのではないか。

 そう考えると、この山王公園のど真ん中に日吉神社がある理由がよく分かる。なるほど、それなりに謂れのある公園だったのだ。

 ところで、この公園の東側には「御笠川(みかさがわ)」が流れている。御笠川は、太宰府天満宮の北東に位置する宝満山を源とし、大宰府政庁の南側を横切って福岡市博多区を通り海に注いでいる。以前足を運んだ、「濡れ衣を着せる」の語源となった「濡衣塚(ぬれぎぬづか)」は、この川沿いにある。

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 何でもない川のように見えるが、実はこの川、けっこうな暴れ川で、1999年と2003年に豪雨で川の水があふれ、博多駅東側に甚大な被害を及ぼしている。地元の人に聞くと、1999年のときはJR博多駅からこの山王公園辺りまで水浸しになり、多くの場所で膝上くらいまで冠水し、中には1 m近くの深さがあったようだ。一番ひどい被害を受けたのはビルの地下街と地下鉄の駅だったようで、すごい量の水が一気に流れ込んで、亡くなった人もあると聞いた。

 どうも、この駅東側は土地が低いようで、川があふれると水が溜まってしまう構造らしい。そのうえ御笠川は、上・中流で降った大雨が一気に押し寄せやすいため、短い寺簡易水かさが増し、この下流域で氾濫するらしい。なるほどそうなると、駅東側は不人気地ということになるのだろう。

 この御笠川から更に東に数百メートルいくと、福岡空港にぶつかる。ここはもう空港のすぐそばなのである。福岡空港はJR博多駅から地下鉄で二駅先と、市の中心部からすごく近い空港として有名だが、おそらくこんな場所に空港が作れたのは、文字通りこの辺りが昔何もなかったからなのだろう(笑)。

 福岡空港は以前「板付空港」と呼ばれており、松本清張の「点と線」でも板付空港として登場する。元は終戦間際に作られた陸軍の飛行場なのだが、占領下で米軍が「板付基地」として接収したことから、板付空港の名前が付いた。名前の由来は周辺の地名にあり、山王公園から南東に2kmばかり行った辺りの地名が板付である。

 さて、駅の東側は何もないなんて書いたが、弥生時代にはこの辺りに農耕集落があったことが分かっている。その遺跡があるようなので、ちょっと行ってみることにする。

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 この遺跡は福岡県指定史跡になっていて、案内板によれば正式名称は「比恵環溝住居遺跡」というのだそうだ。一辺10mの溝で四角に区切られた中に二つの竪穴があり、弥生時代の住居だったことが分かっている。こうした構造の環溝住居がいくつも集まり、集落を形成していたようだ。

 なかなか興味深い場所なのだが、如何せん、何気ない細道の片隅にあるうえ、道案内が全くないので、たどり着ける人はそうはいないと思う。おまけに、道路側に生垣があって隠れるように存在しており、脇から入るとようやく案内板が見える。これじゃあ、よくよく下調べして来ないと分からないよ。

 私はたまたま見ていた地図に載っていたのでたどり着けたが、それでもすんなりとは来られず、周辺をウロウロした。せっかくの公開遺跡なのだから、もう少し来やすいように案内板でも出したらどうだろうか。

 さて、桜も遺跡も見たことだし、そろそろ帰路につこう。遺跡のある通りを南西に進み、竹下通りにぶつかると北西に折れる。暫く行くと、百年橋通りに突き当たるので、ここを南西に折れ、JRの高架をくぐる。高架の向こう側に「東領公園」という運動公園がある。

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 この小さな写真では見にくいと思うが、ここは鉄道の高架が三重構造になっている。一番上が新幹線で、ちょうど見えるのがこの前全線開業したばかりの九州新幹線の電車である。その下にJRの在来線が上下二段になって走る。ブルーの車両が見えるが、これは博多と大分を結ぶソニックという電車だと思う。SF映画に出てくるような特徴的な形をしていてよく目立つ。

 上下三層あると頻繁に電車が来るので、電車の好きな人にはなかなかいいスポットだと思う(笑)。

 さて、百年橋通りはこの先「那珂川(なかがわ)」を越えるのだが、そこに架かっているのが、通りの名前の由来となる「百年橋」である。どういう意味なのかと調べてみると、明治元年から数えて百年目に当たる1967年に竣工されたため、こういう名前が付いたようだ。なかなか面白い発想である。

 今日のところは百年橋までは行かず、手前で北側に回る。この辺りは「美野島(みのしま)」という地区だ。比較的新しい名前のようで、古くは「蓑島」という字を当てていたらしい。地下鉄が出来る前にJR筑肥線が博多まで通じていた時代には「筑前簑島駅」という駅が近くにあったようだ。

 この美野島が有名なのは、古くからの商店街があるからで「美野島商店街」という名前で親しまれている。土日は休みで店は閉まっているが、どんな雰囲気のところかちょっと覗いてみようと思って立ち寄った。

 商店街は、百年橋通りから入って200mほどのところにある交差点を起点に東西南北に広がっているようだが、どちらかというと東西方向の方が店が多いらしい。

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 肉屋、魚屋、八百屋など昔ながらの個人商店が並ぶ昭和の匂いのする商店街で、日頃どの程度賑わっているのか知らないが、無人の通りを歩くと、時代をタイムスリップしたような気分になる。こういうのが、古き良き博多の街並みということになるのだろうか。

 美野島商店街を北に抜けると、住吉通りにぶつかる。すぐそばに住吉神社があるので、ちょっと立ち寄る。

 住吉神社は以前にも訪れたことがあるし、縁起などはその時にも書いた。創建年代は不詳で少なくとも1800年の歴史はある、日本で一番古い住吉神社である。住吉神社の総本山は大阪の「住吉大社」だが、最初に出来た福岡の住吉神社はやや別格扱いで「住吉本社」とか「日本第一住吉宮」といった別称を持っている。

 ちなみに総本山である大阪の住吉大社とこの福岡の住吉神社、そして下関の住吉神社を合わせた三社が「日本三大住吉」と言われている。

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 以前来たときには本殿が補修中で、工事現場の中を歩いているような感じだったが、ようやく工事は完成したらしく、覆いも取れてすっきりした。朱塗りの柱と白い壁の対比が美しい。

 境内に古い博多の絵図が掲げられていたが、これを見ると住吉神社は海に突き出た形になっている。航海・海上の守護神として崇められていたからだろう。現在は埋め立てられてしまったが、当時の博多湾はもっと内陸まで入り込んでいたようだ。住吉神社のメインの祭神は、「イザナギ(伊弉諾)」が黄泉の国から帰って来て行った禊の最中に産まれた「住吉三神」だが、三神はいずれも「筒男神(つつのおのかみ)」で、この「つつ」に星という意味があるということだ。星を頼りに航海していた時代の名残だろうか。

 その絵図に、先ほど行ったばかりの美野島の旧名である蓑島の文字が見える。当時は島だったらしい。海に浮かぶ島が何百年後かに商店街になるんだから、歴史というのは面白いものだ。

 さて、ここまで来れば博多駅はすぐそばだ。住吉通りを歩いて博多駅の西側、つまりスタート地点とは逆の博多口に着く。JR博多シティーは今日も繁盛しているようで、たくさんの人が駅周辺を行きかっている。西側と東側で、こんなに雰囲気が違うんだなぁと改めて実感した。

 今日は今まで来たことのないエリアが探検できてなかなか有意義だったし、山王公園以外は静かでのんびりと散歩できたのが良かった。今日もいい散歩だった。

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2011年04月09日

愛宕山と室見川散策

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 今朝は起きたら、薄雲が広がってはいるものの、まずまずの快晴。一昨晩からの雨と風はやみ、けっこうな散歩日和となった。毎週の恒例行事である洗濯とワイシャツのアイロンがけを午前中に済ませ、昼ご飯を手早く済ませると早速散歩に出掛けた。

 木曜から降り続いた雨はまとまったものだったし、風の方もなかなか強く、夜にはうなりをあげて吹いていた。実は水・木と出張に行っていて、飛行機で福岡に戻って来たのだが、海上は飛行機の上からでもハッキリ分かるくらいに白波が立っていたし、着陸時にはふらふらと機体が揺れて何とも不気味だった。

 一緒に出張に行った地元の人は「春一番ですかねぇ〜」なんて言っているので、「こちらでも春一番って言うんですか?」と訊いたところ、「春一番の語源は元々壱岐に由来があるんですよ」と言われてしまった。

 春一番は漁師が使っていた言葉で、この季節に吹く強い南風のことだ。対馬や壱岐、五島列島などの漁師たちは、春一番を昔から恐れていたようで、実際に江戸末期、壱岐から漁に出た船団が春一番に遭い50人近くが亡くなったらしい。この慰霊のため、壱岐の郷ノ浦港には「春一番の塔」が建っているという。以前「濡れ衣を着せる」の語源が福岡にあったのを発見して驚いたことがあったが、春一番もこんな身近な場所に語源があったのかとビックリした。

 まぁそんなわけで、強烈な南風とまとまった雨が通過した後だから、桜はあまり期待できないかもしれないと思いながらも、桜の名所「愛宕山(あたごやま)」に出掛けた。本日のスタート地点は、地下鉄空港線「室見駅」だ。

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 室見駅から室見川を渡り、明治通りの「愛宕下」バス停の前にある参道から愛宕山に登ることにする。今まで何度か愛宕山へ登っているが、どういうわけだか脇道を使うことが多く、この正式の参道を上るのは初めてである。まぁここは心臓破りの階段がいきなりそそり立っているから、敬遠したくなる気持ちは誰しもあるだろう。

 神社の階段というものは、最初は何とも思わないのだが、途中からジワジワと大腿辺りにきいてくる。ここの参道は、とりあえず見えている階段を上ると、ちょっと角度を変えて次なる階段がそびえ立つ構造になっており、それを見て一気に脱力する仕掛けである(笑)。さすがに一息では上れず、途中で休んで下界の景色を眺めたあと、残りを上って何とか駐車場に続く坂道へ出た。しかし、神社にたどり着くには更に先の階段を上らないといけない。実にいい運動になった。

 愛宕山の標高は約60mで、さして高くはない。ただ、海に面しているので見晴らしがいい。桜の名所というだけでなく、季節がよければ景色を楽しみに来る人が多いし、夜景を見るのにも絶好のスポットだと聞いた。

 そんな眺めの良いところゆえ、鎌倉時代にはこの山に「鎮西探題(ちんぜいたんだい)」が置かれていた。文永・弘安と二度にわたる元寇の戦いがあった後に、鎌倉幕府が設置した出先機関で、九州の行政・裁判・軍事などを管轄していた。室町時代になると、鎮西探題を踏襲するかたちで、「九州探題(きゅうしゅうたんだい)」という機関が置かれた。しかし、九州の実力者である島津氏・大友氏などはアンチ幕府の立場で、探題職を担っていた渋川氏を襲ってこれを滅ぼし、探題は事実上消滅する。愛宕山のつい先にある姪浜小学校脇に「探題塚(たんだいづか)」があるが、ここが渋川氏最期の地である。

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 愛宕山に植わっている桜の数は二千本と言われている。数だけ聞くと、至るところ桜だらけという印象だが、実際には山が広いので密集して咲いているわけではない。ただ、古木が多いため一本一本の枝振りが見事で、豪華絢爛という感じがする。

 既に散り始めている桜や、葉が出始めている木もあるが、まぁほぼ満開という感じで充分見ごたえがある。しかし、来週になると完全に盛りを過ぎるだろうなぁ。かくして先週と今週、2週末だけの桜見物となりそうだ。

 階段沿いに咲いている桜が多いせいか、シートを広げて花見をしている人はほとんどいない。そのかわり参道には老舗の茶屋があって名物の餅を売っているので、ここで休憩している人が多いようだ。つられて入って餅を食べると、何のためにウォーキングをしているのか分からなくなるので、私は遠慮しておいた。

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 桜の色には様々なものがあるが、ソメイヨシノのうっすらとしたピンクが一番美しく、桜のイメージによく合う。山桜の白い花もいいが、ソメイヨシノの淡いピンクは格別だ。また花びらの形も色々あって、ぼんぼりのように花が密集して咲く桜も見たことがあるが、きれいではあっても、桜という花の持つイメージからすると、ちょっと派手過ぎるかなと思った覚えがある。

 桜は、日本人に様々な感慨を呼び起こす花だ。誰しも桜にまつわる思い出を持っているものだし、忘れがたい桜というものもあるだろう。そうした記憶の中の桜と、目の前にある桜のイメージが重なり合うことが大事で、そうした観点からは、どうしても一般的なソメイヨシノが有利ということになる。

 日本の自然における美というのは、元々淡い色合いのものなのだ。今では、原色の花や色とりどりの葉をつけた植物を公園や庭先で見かけるが、そのほとんどは海外から持ち込まれた外来品種だろう。日本古来の美は、もっと渋く、淡い色をしている。桜の淡いピンクしかり、新緑の黄緑色しかり、紅葉の赤しかりである。

 原色の装飾が氾濫する現代の都市生活にひたっていると、たまに見る自然の地味で淡い色合いが新鮮に見える。原色の顔料が手に入れにくかった昔の日本人は、逆に派手な色合いを好んだのだろうが、原色も長い間見続けていると辟易してくるところがある。

 桜を眺めつつそんなことを考えながら、何とか頑張って山頂にたどり着く。ここには「鷲尾愛宕神社」がある。

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 この神社の紹介は、以前に来たときにもしたと思う。元は「鷲尾神社」と言い、その当時は山の名前も「鷲尾山」だった。「愛宕」が付いたのは、うつけ者で有名な福岡藩二代目藩主黒田忠之のときで、忠之が京都から愛宕権現を迎えたのである。愛宕山という名前に変わったのはこの時だ。

 元々の鷲尾神社は、景行天皇の時代に建てられたと伝えられているが、「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の父親が建てたということは、創建は神話時代の話になる。要するに、記録が分からないくらいに古いということだ。姪浜地区には他にも創建が神代の神社があるから、この神社に限らず地区の歴史が相当古いということだろう。

 景行天皇がどうしてここにやって来て神社を建てたのかと不思議に思われるかもしれないが、日本神話では「熊襲(くまそ)」を制圧して九州を平定するために景行天皇がこの地に遠征してきたという話になっているから辻褄は合う。

 一方、愛宕神社がやって来たのは江戸時代と、比較的新しい話になるが、それでも京都郊外にある総本山の愛宕神社と、徳川家康の命により建てられた東京都港区の愛宕神社と並んで、三大愛宕神社と呼ばれているらしい。愛宕神社なんて全国に数百社あるはずだが、ここの愛宕神社がどうしてそれほど権威があるのかはよく分からない。

 愛宕神社そのものは、元は火にまつわる神様を祀っていて、お参りすると火事に遭わないなんて言われているが、最近はそれが発展して防災の神様ともされている。今のご時勢にピッタリの神社である。

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 神社の境内はそのまま展望台になっていて、四方がよく見える。上の写真は東方向を見たもので、福岡タワーがそびえる百地浜地区である。北側はシーサイドエリアの高級住宅地で、西側にはアウトレットモール「マリノアシティー福岡」の観覧車が見える。ここから眺められる一帯はほとんどが埋立地で、昔はこの愛宕山の周辺は海だったと考えられている。

 以前愛宕山に来たときに、南西側の登り口付近に「蛇岩」と呼ばれる地層が剥き出しの箇所があるのを紹介したことがあった。対立した村の若者同士が夫婦になったため、村人たちから海に投げ込まれ、死して後に蛇となったという伝説の岩だが、実態は海に洗われて出来た侵食地形だとされており、愛宕山の周りは海だったことが分かる。

 私が住んでいるわけじゃないからいいのだが、地震が起きたときにこうした埋立地は大丈夫なんだろうかと心配してしまう。今回の地震で、東京周辺では高級住宅地としてもてはやされていた千葉県の舞浜地区が液状化現象で大変な事態になっているのを見るにつけ、シーサイドエリアの埋立地に警戒感を抱くようになった。そう感じるのは、今や私だけではあるまい。

 さて、愛宕山の桜も堪能したことだし、そろそろ山を降りて今度は室見川の堤防沿いでも歩こうかと考えた。

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 福岡市内を流れるいくつかの川の堤防沿いを歩いてきたが、今までのところではこの室見川の堤防が一番気に入っている。川自体が広々としていて気持ちいいし、何より散策に適した歩道が、両岸ともきれいに整備されている。所々公園もあるし、水はきれいで野鳥も多い。

 せっかく天気もいいのだし、距離を稼ごうと、かなり南の方まで歩くことにした。堤防沿いにはところどころ桜が植えられており、花見客も多い。家族連れがシートを広げて楽しげにくつろいでいる。その脇を選挙カーが通り、明日投票の地方選の候補が最後のお願いを繰り返す。先週も花見の席を回って売り込みをする候補者を見たが、何もここまですることはないだろうと思う。かえって嫌がられるよ。

 堤防沿いを歩いていて珍しいものを見つけた。室見川の初春の風物詩シロウオ漁に使う「やな」である。

 2月の中下旬頃から室見川でシロウオが獲れる。地元の組合が室見川にやなを仕掛け、かごにシロウオを集めて捕獲する。昔ながらの伝統的な漁法が今でも行われている。捕らえられたシロウオは春を呼ぶ珍魚として魚料理の店などに卸されるようだが、室見川沿いに臨時に建てられたプレハブの小屋でも賞味できる。

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 上の写真が室見川に張り巡らされたやなで、この角の辺りにかごを据え付けてシロウオを集めるのだと思う。やなの上には無数のカモメが集まっている。シロウオは人間様が捕るとして、やなに集まった他の魚は自分らで頂いてしまおうという魂胆らしい。実に賢い鳥である。

 シロウオを食べさせる臨時のプレハブ小屋も営業中だったので、通りすがりに中を覗いたが、天気もいいせいかけっこうな人数の客が集まっている。街中の料理屋でシロウオを食べると高いので、ここの小屋で食べると言っていた地元の人がいたが、繁盛している様子を見ると毎年これを楽しみにしている人は大勢いるのだろう。

 実を言うと、私もたまたま天神で飲み会をやったときにシロウオを食べた。突き出しのように店の人が持って来て、ポン酢をかけて食べて下さいと言われた。もちろん生きているから、ポン酢をかけるとピチピチ跳ねる。辺りにポン酢が飛び散る前にツルリと食べるわけだが、生きたままの魚を口に入れるというのはあまり気持ちいいものではない。

 以前にも書いたが、私はシロウオが好物というわけではない。好きな人に言わせると、動くシロウオが喉を通っていく感触がたまらないらしい。そのうえ精力がつくから毎年楽しみにしているなんて言う人もいるが、こちらとしてはあまり積極的に食べたいシロモノではない。

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 桜の花もきれいだが、川沿いの草木に鮮やかな黄緑色の若葉がつき、青空によく映える。4月も中旬となりそろそろ新緑の季節だ。桜のピンクと新緑の黄緑色は、色の組合せとしてお互いを引き立てあう。これからは週末ごとに自然が息づいて来て、散歩の楽しみが増えそうだ。

 ところで、東京の花見自粛はどうなったのだろうか。私は、被災した人が気を悪くするような騒ぎ方は如何かと思うが、日本人が古来から春の訪れを喜び桜の花を愛でた慣習までやめろというのは如何かと思う。そんなふうに全体で自粛すると被災者の人たちが喜ぶのだろうか。いったい誰がそうして欲しいと言ったのだろうか。

 最近、ちょっとした娯楽に関しても「不謹慎だ」と他人の行いを非難する風潮がある。言わんとするところは分からないでもないが、第二次大戦中に何かというと「非国民」とののしって全体に従うよう国民に強要した全体主義の時代を髣髴とさせて、何だか嫌な気分になる。特にマスコミが先頭に立っていきりたっている姿を見ると、戦時中に国民を戦争に駆り立てた新聞社の行いも、こんなことだったんだろうなと思ってしまう。

 そんなことをつらつら考えながら室見橋からスタートした川沿いの散歩は、室見川筑肥橋、室見新橋とドンドン南下して行く。このまま外環室見橋まで歩いて地下鉄七隈線で帰ろうかとも思ったが、さすがに大回りになるのでやめた。結局、小田部大橋まで歩き、橋のたもとのブック・オフに立ち寄ってから、Uターンして帰ることにする。

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 今日の感じから言うと、桜の方は思ったほどには散っていない。この分だとまだ充分花見は楽しめそうなので、明日もどこかに桜を見に行くかな。おそらくこれが今年最後の花見になるだろう。

 今日は天気も良いうえ、たくさん散歩できていい一日だった。願わくば、明日もこんないい散歩日和であるようにと祈りながら、地下鉄室見駅まで歩いた。

posted by OhBoy at 23:17| 日記